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2019年4月28日 (日)

ハットリくんの顔はお面?

話をもとにもどすと、「飯綱使い」は忍者の原型ということになりそうです。で、この「飯綱使い」の本場は信州らしいですね。信州の飯縄神社に起源をもつと言われます。「飯縄」と書いて「いいづな」と読みます。飯縄山には食べられる砂、つまり「飯砂」があるそうで、これが名前の言われになっているということです。飯縄大権現は狐に乗った烏天狗の姿をしており、体か狐のどちらかに蛇が巻きついています。烏天狗は仏法を守護する八部衆のうちの迦楼羅(かるら)天が変化したという説があります。カルラはもともとインド神話に出てくるガルーダという神鳥です。インドネシアのガルーダ航空の名前は、ヴィシュヌ神を乗せて天空を駆け抜けるこの鳥から来ています。火を吐き、竜を食うという、すさまじい鳥です。ガルーダの一族は、人々に恐れられる蛇や竜すなわちナーガ族と戦っているらしい。飯縄大権現に巻きつく蛇はそれを表しているのですね。

この飯縄大権現は戦勝の神として崇拝され、戦国武将に敬われました。上杉謙信の兜で、前立が飯縄権現像になっているものがあります。走っている霊狐に迦楼羅の姿をした飯縄大権現が乗っており、全体は絢爛たる金色です。たぶん金メッキでしょうが…。謙信は何回かあった川中島の合戦に出陣するとき、飯縄山の麓を通り過ぎることがあったようで、飯縄大権現に戦勝を祈ったのでしょう。

で、信州には例の真田家があります。忍者と縁のある家ですね。もともと真田家は飯縄山の近くの小さな土豪です。領土を守るためには、世の中の動きを見ながら、別の土豪と手を結んでは裏切るという繰り返しも必要でした。そうすると、情報収集は生きるか死ぬかにかかわる大きな問題になります。「諜報活動は忍者の基本」と前回書きましたが、ここで忍者が必要になってくるのですね。さらに、幸村の父昌幸は「表裏比興の者」と呼ばれました。奇略奇計の達人、というような意味でしょう。上田城に立てこもった昌幸は徳川方の攻撃を見事に撃退しました。はじめはわずかな兵で、わざと負け、相手が調子に乗って力攻めに出るや、城から一斉射撃を浴びせます。土塁や逆茂木を活用して、徳川方を混乱させたところに、伏兵が背後から襲いかかりました。徳川方は総崩れになって、大敗北を喫したのですが、楠木正成にも通じるようなゲリラ戦法です。大河の『真田丸』でも、このあたりはていねいに描いていました。

平安初期に勅撰詩文集『経国集』の編纂をした滋野貞主という人がいます。この人から始まる一族が信濃国に住み着いたのですが、のちに海野、祢津、望月の三家に分かれます。真田家は海野の流れですが、武田家の家臣として重用された真田家が本家のようになっていったのでしょう。真田幸村の家来の真田十勇士は架空のものですが、その中に海野六郎、根津甚八、望月六郎がいます。望月家はもともと牧場の馬を管理して朝廷に送る仕事をしていたようです。途中の近江国甲賀のあたりで調教をしていた関係で、望月家の一人が、甲賀の土地を賜ったらしい。後に甲賀忍者の筆頭として、「伊賀の服部、甲賀の望月」と言われるようになります。望月家の屋敷跡はいま忍者屋敷になっています。能の観阿弥は伊賀の服部家の出身だと言われます。母は楠木正成の姉妹だったということで、観阿弥は楠木正成の甥にあたります。伊賀甲賀のほかに、信州には戸隠流というのもあります。木曾義仲に仕えた仁科大助から始まると言われますが、戸隠山も山伏の修業の場です。

「忍者」とか「忍び」という呼び方は、イエズス会の「日葡辞書」にも「シノビ」として載っているそうですが、世間的には山田風太郎の忍法帖シリーズや村山知義の『忍びの者』あたりから使われはじめたのでしょうか。『忍びの者』は市川雷蔵主演で映画化されて大ヒットしました。司馬遼太郎も『梟の城』や『風神の門』という忍者小説を書いています。それ以前は「忍術使い」と言っていたのではないかなあ。江戸時代までは、「乱破(らっぱ)」とか「素破(すっぱ)」とか言っていたらしい。「すっぱ」は「水破」「透破」とも書き、「スッパ抜く」ということばの語源です。「草」とか「軒猿」とかいうような言い方も聞いたことがあります。横山光輝の漫画だったかなあ。

北条氏に仕えた忍者としては風魔小太郎が有名ですが、「ふうま」という読み方がいかにもあやしい。「風間」という家来がいたようなので、本来は「かざま」なのかもしれません。相模国の乱破の頭目が代々「風魔小太郎」を名乗ったと言われていますが、何代目かの風魔小太郎は身長が二メートルをこえて、牙があり、鼻が高かったとか。宣教師とともに来たポルトガルかどこかの船乗りだったのかもしれませんなあ。北条氏滅亡後、盗賊になって江戸の町を荒らし回ったという話もあります。下総国の向崎という土地にいた甚内という人物が「関東の盗賊の親分はみんな風魔の残党だ」と幕府に密告して、風魔小太郎はつかまったという記録があります。

この甚内という人物もあやしげで、武田家の重臣である高坂昌信の子だったという説もあります。武田家滅亡後、宮本武蔵の弟子になって修業したのですが、自分の腕前を誇るようになって辻斬りをしたり、追い剥ぎをしたりするので破門され、落ちぶれて盗賊の頭目になったと言います。武田家に仕えた甲斐国透破の頭領という説もあり、そうなるとますます風魔小太郎はライバルになります。密告後、甚内は関東一円の盗賊をまとめあげ、治安を脅かす存在になったため、幕府は甚内を捕縛し、浅草ではりつけにしました。瘧(おこり)、いまのマラリアにかかっていたらしく、死に際に「瘧にかかっていなければ捕まらなかった。瘧で苦しむ者はおれに祈ったら治してやろう」と言い残したとかで、浅草の甚内神社は瘧にご利益のある神様になっています。ちなみに、甚内にはお菊という娘がおり、成長したのち、火付盗賊改めとして甚内を打ち首にした青山播磨守のもとに奉公することになった、という設定のお話が『番町皿屋敷』です。

大泥棒として有名な石川五右衛門は実在の人物のようです。伝説ではもと忍者ということになっていますが、本来の忍者は後世に名を残さないはずです。存在を知られることは仕事の失敗を意味しますから。ところが、柘植の四貫目という忍者は米を四貫食いだめできたとして名前が残っているそうな。

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