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2019年8月25日 (日)

あっと驚くタメゴロー

日本の戦艦は旧国名をつけましたが、巡洋艦は山や川の名をつけていました。空母では「鶴」「鳳」「龍」を使って大きなイメージを表しています。戦闘機は、ゼロ戦は別格として「隼」「飛燕」のような鳥の名を使うのは当然でしょう。「雷電」「紫電」のような「カミナリ系」もあります。「紫電」は改良型の「紫電改」も有名です。潜水艦は目立ってはだめなので、あえて名前をつけなかったのでしょうか。大きさによって伊号・呂号・波号と名づけ、「伊400」のように番号で呼んでいたようですが、あまりにもさびしすぎです。

外国では「サンタマリア号」とか「クイーン・エリザベス」「エカチェリーナ2世」「ジャンヌ・ダルク」のように人名をつけることもよくあります。船は女性名詞なので、女性の名前になることが多いのですね。「プリンス・オブ・ウェールズ」なんてのもありますが…。船を人になぞらえることで、より愛着を感じられるのでしょうが、日本でも「~丸」とするのは同じような意識かもしれません。もっとも「丸」は、「おまる」と関係があると言う人もいます。悪運を払うためにわざと不吉な名前、ひどい名前をつけるという風習はたしかに世界中にあります。子供の名前に「丸」もつけたのも、その意味がありそうです。そういういわれが忘れられると、「なんとか丸」は、いかにも愛称という感じがします。刀でも、「鬼丸国綱」とか「数珠丸」「膝丸」「石切丸」のように「丸」がつくものがたくさんあります。犬の名前にも「丸」がつけられることがありました。枕草子には「翁丸」という犬が出てきます。最近も和風の名前が流行のようで、「茶々丸」とか「力丸」「菊丸」と名付けられている犬がいます。

聖徳太子のペットの犬の名前も「雪丸」だそうですが、本来は「ゆきまろ」と読むのでしょうか。王寺町のマスコットキャラクターにもなっています。聖徳太子が飼っていただけあって、雪丸もただ者ではありません。人間と話をしたり、お経を唱えたりできたそうな。自分の死期を悟って、達磨寺という寺に葬ってほしいと聖徳太子にうったえたということです。達磨寺というのは、聖徳太子が片岡山を通りかかったときに、飢えと寒さで死にかけている異人と出会ったという伝説から生まれた寺です。太子はその異人に食物や衣服を与えましたが、異人はそのかいもなく死んでしまいます。あわれに思った太子は遺体を丁重に葬りました。後日、墓を見に行ったところ、遺体は消えており、棺の上には太子が与えた衣服がたたまれて残っていました。人々はその異人を達磨の化身と信じ、その地に建てた寺が達磨寺だということになっています。

雪丸が実在したのなら、聖徳太子も実在したのでしょうか。「うまやどの皇子」は実在したが、「聖徳太子」は抽象概念だ、と言う人もいます。たしかに名前からして抽象的です。梅原猛説によると、こういう聖なる名前、「徳」の字をおくられた天皇は非業の死を遂げているそうで、「崇徳」「安徳」はたしかにあてはまります。怨霊を鎮めるために、そういう名をおくったというのですが、それなら「仁徳」は、というつっこみが入りそうです。ただ、「太子」という称号は変と言えば変で、他に「太子」と呼ばれている人はいないのではないでしょうか。「太子」は「皇太子」ということなので、そう呼ばれる人が他にもあってしかるべきなのに、そうではないのですね。

モンゴルのフビライ(これも今は「クビライ」になっているみたいです)はフビライ汗と呼ばれることもあり、この「汗」は一種の称号で、ジンギス汗以来のものだと言います。ところが、フビライは「汗」なしで呼ぶことのほうが多いぐらいなのに、「ジンギス汗」は「ジンギス」とは呼ばれません。これはなぜでしょうか? 「源義経」つまり「ゲンギケイ」の変化で「ジンギスカン」になったから「ジンギス」とだけ呼ぶのはおかしいのだと言って、義経ジンギスカン説を補強する証拠だとする人もいますが、どんなものやら。

梅原猛の「聖徳太子怨霊説」や「柿本人麻呂溺死説」などはなかなか説得力がありました。前者は、法隆寺が太子の造ったものではなく、その死後に鎮魂のために造られたとする説で、『隠された十字架』という本は500ページ近くある分厚いものですが、推理小説を読むようにおもしろい。人麻呂の話は『水底の歌』という本です。人麻呂の正体は柿本佐留として史書に残っている人で、猿丸太夫のことだとか。和気清麻呂が称徳天皇の怒りを買い、別部穢麻呂と改名させられて流罪になったように、人麻呂つまり人丸が猿丸と改名させられて流罪になったのだ、という説です。これも「あっと驚くタメゴロー(もはや知る人はほぼいない)」的な推理でグイグイ読ませます。

梅原さんは歴史学者ではなく哲学者なので、史料に基づいた推論というより、直感を大切にしているようです。そのせいか、専門の学者には無視されたらしく、その説はいまだに認められていないのではないでしょうか。何回か触れた古田武彦は、『邪馬台国はなかった』から「九州王朝」説に発展し、大和朝廷によって神話が盗まれた、というスケールの大きい話になっていきます。さらには、日本と倭は別の国だったという驚天動地の展開になります。この人の立場は残された史料を先入観なしに素直に読むというもので、かなり論理的だと思うのですが、出てきた結論はあまりにも大胆すぎて、やはり学会からは無視されたようです。

古田説によると、博多湾の志賀島で発見された「漢委奴国王」という金印は、漢が倭奴国の王に与えたもので、この倭奴国が倭国になりました。邪馬台国は邪馬一国であり、博多湾岸あたりにありました。いわゆる「倭の五王」も大和朝廷の天皇ではなく、九州王朝の王であり、五王に関する記述が記紀にないのは、そのせいだと言うのですね。大和朝廷の天皇に比定しようとして、いろいろ無理をしても、うまくあてはまらないのは当然です。高句麗が戦った相手も北九州の倭国です。「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」という国書を送ったのは聖徳太子ということになっているが、じつはそのあたり矛盾だらけ、というのは有名な話です。

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