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2020年2月の1件の記事

2020年2月22日 (土)

世界はひとつ

前回のタイトルの「アンケラソ」ということばは本文とは関係ないようですが、『青菜』に出てくる「ののしりことば」です。植木屋さんが家にもどってくると、嫁さんに「今時分まで、どこをのたくり歩いてけつかんねん、このアンケラソ!」と言われます。「あんけ」は口を開けていることを表すのでしょうか、「らそ」は意味不明ですが、どうやらうすぼんやりしている人のことを言う悪口らしい。ただ、さすがに日常会話で聞いたことはなく、かろうじて落語の中に残っている古い大阪弁のようです。

『青菜』には九郎判官が登場しましたが、他に有名な判官としては塩谷判官というのがあります。これは「えんやはんがん」と読みます。なぜか「はんがん」なのですね。モデルとなった実在の塩冶高貞は足利尊氏の弟直義から謀反の嫌疑をかけられて自害しています。幕府執事の高師直との確執は実際にはなかったようです。『太平記』では師直が高貞の妻に一目惚れして、吉田兼好にラブレターを書かせて送ったところ、拒絶されて逆切れし、尊氏に讒言したことになっていますが…。この話を利用して、浅野内匠頭を塩冶高貞に仮託したのが『仮名手本忠臣蔵』です。

「説経節」という中世の口承芸能があります。竹を細かく割って作った「ささら」という道具を棒でこすりながら、サラサラ音をたて、それで伴奏をしながら語っていくもので、江戸時代には歌舞伎や浄瑠璃にとってかわられ、途絶えてしまいます。その演目の中でも有名だったのが「さんせう太夫」で、森鴎外が書いたのは完全オリジナルではなく、もともとは説経節です。で、この主人公安寿と厨子王の父親は岩城の判官正氏と言います。鴎外は「陸奥国の掾平正氏」としています。「掾(じょう)」は国司の三等官なので、たしかに「判官」にあたります。

説経節には小栗判官という人も登場します。猿之助のスーパー歌舞伎にもなりました。これも「はんがん」ですね。妻の照手姫の一族に殺された小栗が閻魔大王の情けによってよみがえり、復讐を果たすという、波瀾万丈の物語です。いろいろなバリエーションがありますが、モデルとしては常陸国の小栗氏にそれらしき人物がいるようです。直系ではなさそうですが、その子孫にあたるのが幕末の小栗上野介です。この小栗家の嫡男は代々又一を称することになっています。家康に仕えた先祖が家康の目前に現れた敵を槍で討ち取り、それ以降一番槍の手柄を立てると「又も一番槍か」と言われたことが元になっている、という話は何で読んだのか…やっぱり司馬遼太郎かなあ。テレビでは岸谷五朗が演じたドラマを覚えていますが、何という題名だったか。この人のことを勝海舟はあまり評価していなかったようですが、司馬遼太郎はかなり高い評価を与えていたと思います。

小栗上野介が幕府の金を隠した、という「徳川埋蔵金」がときどき話題になります。赤城山中に埋めた、ということになっているんですね。前に空母の名前について触れましたが、なぜか山の名である赤城が空母の名前になっています。もともと巡洋艦だったものを強引に空母に改装したのですが、名前はそのまま残したとか。加賀とか信濃という空母が国名なのは戦艦の改装だからで、巡洋艦は山の名前からつけたのですね。摩耶という巡洋艦もありました。当然、神戸の摩耶山です。この山の名前は空海由来ですね。摩耶山にある天上寺はもともと孝徳天皇の勅願で建てられたので、それこそ大化の頃にまでさかのぼれますが、空海がこの寺に釈迦の生母である摩耶夫人像を安置したことから、山の名も変わったそうな。

『火垂るの墓』の主人公の父親は巡洋艦摩耶に乗っていたという設定になっていました。原作は相当昔に読んだので、元の小説でもそうだったかはわかりませんが、三宮が舞台だったから神戸の山の名がついた船にしたのでしょうか。JRの三ノ宮駅には機銃掃射の跡が残っていたはずですが、今でもあるのかなあ。近くの岡本あたりを舞台にして印象的だったのは谷崎潤一郎の『細雪』です。太平洋戦争が始まる少し前にあった阪神大水害のことがくわしく書かれており、摂津本山の駅のあたりの描写がリアルでした。この駅も、ちょっと前まではそのころの雰囲気が残っていたのですが、今やすっかり変わってしまいました。あの地下通路はレトロな雰囲気があってよかったのですが。知っている地名、とくにマイナーなものが小説に登場すると、なんとなくうれしくなってきます。以前に野田阪神に住んでいたのですが、そのころ信長公記を読んでいると、野田・福島という地名が登場してきました。三好三人衆との戦いで足利義昭とともに陣を構えたのが私の住んでいたあたりのようです。もともとは浪速八十島と呼ばれたあたりで、閻魔大王の友達、小野篁が遣唐使を断って島流しになったとき詠んだと言われる「わたの原八十島かけてこぎいでぬと人にはつげよあまのつり舟」の舞台になったところでしょう。同じ百人一首の皇嘉門院別当の「難波江の芦のかりねの一夜ゆゑみをつくしてや恋わたるべき」の舞台もこのあたりかもしれません。

野田は藤の名所としても有名で、室町二代将軍足利義詮や秀吉も見に来ています。野田のすぐ近くにある梅田は、昔は「埋田」でした。このあたりは湿地帯だったのですね。でも「埋田」という字面はイメージが悪いので、梅田に変えたのだとか。人名でも浮田を宇喜多にするように、吉字に変えるというのがよくあります。大和から見たら、山のうしろにあるので「山背」と呼ばれた地名を「山城」に変えたのも同様です。国名を吉字に変えたのは淡海三船の進言によるものと言われます。歴史上の人物としてはややマイナーなので、小学校レベルでは習わないのかなあ。「何者?」という感じでしょう。秦河勝にしても「何者?」ですが…。前にも書いたようにローマ人だとしたらおもしろいのだけどなあ。日本がシルクロードの東の端であることを思えば、国際的な交流はあったかもしれません。ガラス器や伎楽面など、インドやさらにその向こうから来ているものもあります。お米を「うるち」と言いますが、古代インドの「リーザ」の転訛したものと言われます。これが西に行くと「ライス」になるのですね。仏様に備える水を「閼伽」と書いて「あか」と読みます。これも当然インドから来たことばでしょう。ところが、これが西の方では「アクア」と言います。世界はつながっているなあ。

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