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2020年6月の1件の記事

2020年6月15日 (月)

おどろおどろしい話の続き

かなり間があきましたが、前回のつづき。清水寺の話をしていました。ほかにも京都には、名前からして「おどろおどろしい」ところが多くて、「化野念仏寺」とか「帷子ノ辻」なんて、いかにも、という感じです。さりげない名前でも由来はちょっと怖いというものもあります。むかしは、死んだ人の遺骸をそのまま放置するような風葬が行われていたらしく、それを隠すために覆った布が「衣笠」で、それが地名になったとか。「千本通」も、船岡山に葬るための道に千本の卒塔婆を建てたのが始まりだとか。「西院」も、それより西は魔界と考えられ、三途の川の河原、つまり賽の河原というところから付いた名前だそうです。

「六道の辻」なんて名前もあります。「六道」とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの世界のことです。「六道の辻」とは、あの世とこの世の境界ということでしょうか。蓮台野、化野と並ぶ三大墓地の一つが鳥辺野で、その入口にあたるのが「六道の辻」です。鳥辺野への道筋にあるのが六道珍皇寺。この寺は小野篁が地獄に通ったという井戸が残っていることで有名です。小野篁の変人ぶりについては前にも書いたような気がするのでカットしますが…。小野妹子の子孫で、小野小町や小野道風の先祖ですね。

百鬼夜行を見た貴族がいます。もちろん、「百鬼夜行の政界」というような比喩的な意味ではなく、もろもろの化け物が夜中に列をなして出歩くという文字通りのものです。小野篁がある貴族といっしょにいたとき、篁は百鬼夜行を発見します。その貴族の着物に経文が縫い込まれていることを知っていた篁はあえてその貴族を百鬼夜行に会わせます。経文の力で百鬼夜行は退けられますが、そのあと、篁はにこにこしながら「謹んでお会わせいたしました」と言ったという、ひどい話が『江談抄』という本に載っています。

『大鏡』には、藤原道長の祖父の師輔がある場所で、乗っていた牛車をいきなり止めさせてお経を唱えるという話が書かれています。その場にいる者は、みんな意味不明で不思議がっていましたが、後に、師輔が「あのときは百鬼夜行に出会ったのだ」と告白する、という話です。ほんとに見たんかいなー、とも思いますが…。有名どころでは、やはり安倍晴明ですね。晴明が若い頃、師匠の賀茂忠行とともに表に出ていたときに、忠行より先に鬼を発見します。報告を受けた忠行は鬼を退けるのですが、このことで忠行は晴明の才能を見ぬき、すべての術を授けたという話。

安倍泰成は晴明の子孫で、玉藻の前の正体を泰山府君の法で見破ったということになっています。この玉藻の前のモデルは美福門院藤原得子とも言われますが、正体は九尾の狐なんですね。紂王の后、妲己として殷を滅ぼすのですが、太公望呂尚によって、正体を見破られます。その後、天竺に渡り、斑足太子の妃、華陽夫人として再登場します。ここでは耆婆という人物に見破られるのですが、なんとまた中国に戻るのですね。周の幽王のときの褒姒も、実は九尾の狐だったということになっています。それ以来、周の力は弱まり、春秋戦国時代に突入していきます。ところが、ずっと時代がたって、吉備真備の乗る遣唐使船に同乗し、日本にやってくるのですね。

国を滅ぼすような美人を「傾国の美女」と言いますが、文字通り国を傾けたわけです。ただ、中国の四大美人というのは、楊貴妃・西施・王昭君・貂蝉ということになっています。世界三大美人は、この楊貴妃にエジプトのクレオパトラ、そしてなぜか日本の小野小町がはいっています。ということは、世界三大美人と言い出したのは日本人なのでしょう。日本人は「三大なんとか」とまとめるのが好きですから。では、日本の三大美人は、と言うと、小野小町、藤原道綱母、衣通姫ですね。

それに対して美男子は、というと業平ぐらいで、「三大」にはなりません。朝廷の正式の歴史書である日本後紀に「容貌きらきらし」と書かれているぐらいなので、相当な美男子だったのでしょう。もっとも当時の基準ですから、今つれてきたらどうなのかわかりませんが。兄の行平は美男だったのですかね。地名となぜか鍋に名を残しているだけです。兄弟の父親は阿保親王と言います。頭が弱かったわけではなく、この名前は地名が元になっているのかもしれません。「阿保」という土地に住んでいたのでしょうか。墓のあったあたりの地名は「親王塚」として残っています。

業平が仕えていた「惟喬の皇子」は紀氏の妃が生んだ皇子なので古代からの名門だった紀氏の期待を担っていました。業平は妻が紀氏だった関係で、「惟喬推し」でした。イケメンを生かして、業平が藤原高子をかっさらっていくのも、入内を防ぐための策略だったようです。要するに、惟喬の皇子はアンチ藤原氏の象徴だったのですね。結局は政争に敗れ、不遇のうちに亡くなるのですが、この人はなぜか「木地師」の先祖ということになっています。ろくろを使って、椀や盆などを作る職人です。

身分的に低い木地師が自分たちの先祖として天皇家につながる人物を設定したのは納得できるのですが、なぜ惟喬なのか。薄幸の貴公子が零落して山中をさまようイメージなのでしょうか。そうなると「貴種流離譚」として一挙に物語性を帯びてきます。洋の東西を問わず、身分の高い人やその子孫が落ちぶれてさまよう、というストーリーを人々は愛しました。「貴種流離譚」と呼ばれるもので、かぐや姫、ものぐさ太郎、さらには光源氏も「須磨明石」という「ど田舎」にまで流れていきます。

山人たちの伝承の世界では「蜂子皇子」というのもあります。崇峻天皇の皇子ですが、崇峻天皇は蘇我馬子に暗殺されます。皇子は聖徳太子の助力で逃げだし、出羽国までのがれます。三本足の烏に導かれて羽黒山にやってきた皇子は出羽三山を開くことになります。残されている絵では、強烈な顔で描かれていることが多く、たくさんの人の悩みを聞いてやったために、そのような顔になったとか。ひょっとして、この人も大陸から渡ってきた西のほうの人かもしれませんな。

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