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2020年7月の2件の記事

2020年7月18日 (土)

堀口大学という学校はない

「佃祭り」の話で女が身投げをしようとしたのは吾妻橋、崩落した永代橋とともに隅田川の橋ですが、同じく隅田川にかかる言問橋という橋の名前は業平の歌がもとになっています。「伊勢物語」にある「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」ですね。優雅なものです。ただ、江戸時代か明治のころ、隅田川近くの団子屋が「言問団子」と名づけたことが元になってつけられた名前だという説もあります。

江戸で和歌といえば、太田道灌ですね。これも「道灌」という落語があります。道灌が、突然の雨に出会って、貧しい家に立ち寄り雨具を借りようとします。若い娘が出てきて山吹の枝を差し出すので、怒って帰ってしまうのですが、これは「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」の古歌をふまえたもので、「実の」と「蓑」をかけて、「お貸ししたいのですが、蓑の一つもございません」と断ったのだ、という話を聞いた八五郎。いつも傘を借りにくる友達を、この歌で追い返してやろうと、待ち構えているとちょうど雨が降ってきます。案の定友達がやってくるのですが、今日は傘は持っており、暗くなってきたので提灯を借りにきたと言います。八五郎は、雨具を貸してくれと頼めば提灯を貸すからと、無理やり雨具を借りさせようとします。それじゃあ、ということで応じた友達に、歌を書いてもらった紙を差し出すと、なんだこりゃ、といわれます。「お前は歌道に暗いな」「角が暗いから提灯を借りに来た」というイマイチな落ちです。

道灌については知名度のわりにどういう人物だったかは意外に知られていないようです。関東管領といえば上杉氏で、謙信は山内上杉家の家督を譲られたのですが、道灌は扇谷上杉家の家臣です。今川家の家督争いのときに、義元の父親、龍王丸が幼かったため、その叔父の伊勢新九郎と名乗る人物が調停案を提示し、駐留していた道灌が了承したという話があります。伊勢新九郎とは北条早雲の若い頃の名前ですね。七重八重の歌の話が載っているのは江戸時代の『常山紀談』ですが、後日談があります。 「山吹の花」の失敗に懲りて歌を熱心に学ぶようになった道灌が主君の上杉定正と戦に出て、海沿いの道を通っているときのことです。折から夜中で、あたりは真っ暗です。山が迫った道なのですが、山に近づきすぎると山上から弓を射られるかもしれず、海に近づきすぎると、もし潮が満ちていたら流されてしまいます。様子を見てきた道灌が「潮は干いている」と報告します。「遠くなり近くなるみの浜千鳥鳴く音に潮の満干をぞ知る」という歌を引いて、「千鳥の声が遠く聞こえました」と言うのですね。また、別の日のこと、やはり夜のことで、利根川を渡りたいのですが、真っ暗で浅瀬がわかりません。すると、道灌は「波音のする所を渡れ」と言います。「そこひなき淵やはさわぐ山川の浅き瀬にこそあだ波は立て」という歌を根拠として示します。このあたり、むかし授業で毎年やっていました。

道灌もそうですが、東国の人は歌がうまいというイメージは相当古くからあったようです。万葉集にも「あずま歌」と呼ばれる作品群がありますし、安倍貞任・宗任や源義家は歌の世界でも有名です。六歌仙の一人、小野小町も出羽の出身です。そのせいか「秋田美人」ということばも生まれています。日本海側の県は一つおきに「美人の産地」だという説があるそうですね。秋田がふくまれるなら、あてはまらない県も自動的にわかるわけで失礼な話です。昔は日本海側を「裏日本」と言いました。太平洋側が「表日本」ですね。これも失礼ということで今は使われなくなったようです。ただ山陰という呼び方は残っています。明るい山陽に対して山陰は暗いイメージになってしまいます。新しい呼び方を募集したことがあって、「北陽」などの案も出たそうですが、結局変わらないままです。中国では山の北側を「陰」、南側を「陽」と言うので、この呼び方も仕方のないことかもしれません。これが川なら、北が「陽」、南が「陰」になります。洛陽は洛水、濮陽は濮水の北側にあるわけです。韓信は「淮陰侯」と呼ばれますが、淮水の南を領地とした、ということですね。

「陰」のイメージはよくないのに、なぜか学校の名前には、くさかんむりがついただけでほぼ同意の「蔭」の字が使われることがあります。「松蔭」「樟蔭」「桐蔭」「桜蔭」のように、なぜか「木のかげ」です。安倍さんの母校である成蹊大学も、「桃李もの言わざれども、下おのずから蹊を成す」から来ている名前なので木のイメージですね。これに対して「甲陽」や「北陽」のように「陽」のつく学校名もあります。「甲陽」の「甲」は本来は「甲斐国」で、「甲陽軍艦」とか「甲陽鎮撫隊」というように使われます。「甲山の南」の意味の「甲陽」という地名はそれほど古くはなさそうです。こう見ると、女子校は「陰」、男子校は「陽」となって、「男は陽、女は陰」と考える陰陽二元論につながっておもしろい、と書きかけて、堺の「泉陽高校」を思い出しました。この「陽」は洛陽にあやかったものでしょう。泉州一の町という意味で堺の別名にしたわけで、北や南とは関係がないわけですが、もともと女学校ですから、女子校は「陰」という説にあてはまりません。与謝野晶子や橋田壽賀子、西加奈子、沢口靖子、と錚々たる有名女性を輩出している名門です。

学校名で言うと、学園と学院のちがいは何でしょうね。学園のほうが自由なイメージ、学院は規律あるイメージですかね。学園天国とは言いますが学院天国はなく、学園祭はあるが学院祭はない、という勝手なイメージ…。ちなみに私が思いつく「学園天国」というのは小泉今日子ではなく、もちろんフィンガー5です。これはフィンガーズなのかなあ、単数複数の区別は不要? 大学院は「大・学院」か「大学・院」か、というのも難問。学園はおそらくプラトンのアカデミアの訳で庭園のイメージでしょうが、「学苑」と書くと、服飾学園っぽくなってしまいます。「院」は建物、というより「寺院」のような気がします。日本最初の学校は「綜芸種智院」ですし。寺子屋ということからも学校と寺は結びついています。学校に行くことを「登校」、帰ることを「下校」というのは寺が山の上にあったからですね。ということは、宗教系は「学院」でしょうか。でも、星光学院はあてはまっても、東大寺学園はあてはまりません。帝塚山は「学園」と「学院」の両方があります。「学園」でも「学院」でもない東京女学館というのはおしゃれですね。二松学舎となると、これは反則技でしょうか? 

2020年7月 3日 (金)

ありの実と歯痛

伝説の世界の小栗判官となると、いったんあの世にまで行ってしまいます。「流離」にも、ほどがあります。梅原猛が猿之助劇団のために書いたスーパー歌舞伎『オグリ』はなかなかおもしろかった。歌舞伎は「古くさい」と敬遠されがちですが、『ワンピース』まで取り上げています。奇をてらいすぎ、という観もありますが、もともと「傾き」ですから、何でもあり、だったのでしょう。その意味では原点にもどったとも言えます。わが希劇団も数年前の祝賀会で「サンピース」という劇を上演しました。「海賊王」ではなく「山賊王」になる、という設定なので「サンピース」としたのですが、「サン」が「スリー」であるなら「スリーピーシーズ」なのかなあ。「ワンピース」に対して「ツーピース」と言いますが、「ピース」は複数形なのでしょうか。二人で教える個別、「マントウマン」ではなく「トゥーマン」というのを祝賀会の劇でやったのですが、文法的に言うと「トゥーメン」が正しい。

単数・複数の区別がないので楽かと思いきや、日本語には助数詞というものがあって、これがまた厄介でした。どっちがいいというものではないようです。英語では左から右に書くのに、昔の日本語の横書きは右から左で逆でした。これは横書きではないという人がいます。つまりあれは一字だけの行を縦書きしているのだ、だから右から左なのだ、という考え方で、たしかにそうですね。もちろん、西洋と東洋で逆になるものはほかにもたくさんあります。マッチを擦るとき、日本人は下へ向かって擦るのに対して西洋では手前にひくとか、人を呼ぶとき、日本人はてのひらを下に向けて動かすが、西洋ではてのひらを上に向けて動かすとか。日本人はこういう対比が好きで、西洋人はそうではない、としたらこれまた対比です。

東京VS大阪というバトルも盛り上がります。ただ東京人はこれを話題にすることもそれほど多くないようで、むしろ大阪人のコンプレックスの表れだ、と言う人もいます。ものを買った値段の自慢も、東京が高いもの自慢であるのに対して、大阪人は安く勝ったことを自慢する、というようなのは、もはや「自虐ネタ」に近いかもしれません。大阪は京都VS大阪のバトルでも負けることがよくあります。最近では神戸VS大阪が取り上げられることもあり、やはり大阪はよく負けています。大東京にに対して「大大阪」と言っていた時代もあったのですが。なにしろ東京よりも人口が多かったのですから、東洋一どころか世界一だったのかもしれません。ただ、これも人口の多さが自慢になるか、という意見もありそうです。

ケンミンショーでもやっているように、どこがすぐれているというのではなく、多様性が大事なのでしょうね。あの番組でおもしろいのは、自分たちの文化が全国的だと思っている人が意外に多いということです。下世話なものほど、比較することが少ないので、そう思ってしまうのもやむをえないでしょう。子供の遊びなど、土地ごとに細かいルールがちがいますし、名称も変わります。「ケイドロ」と言う地方もあれば、「ドロケー」と呼ぶところもあり、私のところでは「探偵ごっこ」と呼んでいました。「探偵」と言っても私立探偵ではなく、警察の業務はまさに「探偵」なので、この場合は警察を意味しています。その探偵を決めるのに「イロハ」を使うのですね。「イロハニホヘトチリヌ」と順に指していって、「ヌ」に当たった者が「ぬすっと」、「ルヲワカヨタ」で「タ」に当たった者が「探偵」なので、「探偵ごっこ」という呼び名は妥当です。

昔の子供の遊びって「かごめ」や「通りゃんせ」「花いちもんめ」など、童謡を歌うような、のどかなものがよくありました。ただ、歌詞をよく見ると「のどか」というより「無気味」なものが結構多いようです。「花いちもんめ」など「子とり」です。マザーグースも同様で、洋の東西を問わず、子供は無気味なもの、残酷なものが好きなのでしょう。グリム童話などにも残酷なものが多いようです。「ロンドン橋落ちた」という歌も、橋が落ちたことを歌にしなくてもよいでしょうに。日本でも永代橋が落ちましたが、これは歌にはなっていないようです。落語にはなっていますが、ストーリーは「粗忽長屋」のバリエーションです。船がひっくり返った事件も「佃祭り」という噺に出てきます。志ん生や前の三遊亭金馬もやっていましたが、私は春風亭柳朝の淡々とした語りが好きです。

小間物問屋の次郎兵衛という人が「暮六つの最終の渡し船に乗って帰る」と言って、佃島で開かれる祭りに出かけます。祭りもすんで船に乗ろうとすると、見知らぬ女に袖を引かれ、揉めているうちに船は出発してしまいます。女が言うには、「三年前、奉公先の金をなくして橋から身を投げようとしていたところ、見知らぬ旦那から五両のお金を恵まれて命が助かった。」それが次郎兵衛さんだったのですね。お礼をしたいと家に招かれます。料理をご馳走になっていると、急に外が騒がしくなります。聞けば、先ほどの船が客の乗せすぎで沈んでしまい、全員溺れ死んだとのこと。三年前に女を助けていなければ、そのまま船に乗って死んでいたわけです。無事に帰宅した次郎兵衛さん、みんなが喜んでいる中、与太郎は「身投げをしようとしている女にお金をあげればよいことが起こる」と思って、家財道具を売り払って工面したお金をもって、毎日橋のあたりをうろうろしています。とうとう、袂に重そうなものをつめた女が川に向かって手を合わせているのに出くわします。与太郎は大喜びで女をつかまえ、「お金をやるから身投げはよしなさい」と言うと、女は、身投げではなく、歯が痛いので神様にお願いしていたと言います。「袂に石がはいっているじゃないか」「これは、お供え物の梨だよ」

この落ちがわかりにくい。江戸時代、歯医者さんらしき人はいたようですが、治療費が高くて、なかなか通うことができなかったようです。そこで、やはり神様だのみになります。九頭龍大神をまつっている戸隠神社で、歯を患った者が三年間、梨を絶って参拝したら治った、という言い伝えがありました。江戸の人々は信州の戸隠神社に行くことができないので、梨の実に自分の名前を書いて、神社のある戸隠山の方を向いて祈り、梨の実を川へ流したのだそうな。ふつうはこういう説明を話のまくらとしてしゃべってくれるので、落ちもなるほど、と思えるのですね。

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