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2020年10月の2件の記事

2020年10月18日 (日)

明るくなるまで待って

「天勾践を空しうするなかれ時に范蠡なきにしもあらず」の范蠡は越王勾践の謀臣でした。范蠡は呉を滅ぼしたあと、用済みになった自分が勾践に疎んじられることを予見して職を辞します。「狡兎死して走狗烹らる」ということばはこのときのものです。その後、商人として大成功したとも言われます。ところが、日本へ逃げてきたという「トンデモ説」もあります。中国では、倭人は呉の太伯の子孫だと言っていました。長江のほとりにあった呉や越の人が日本にやってきた可能性は十分あります。稲作を伝えたのもそういう人たちかもしれません。范蠡たちがやってきた証拠に「呉」も「越」も日本の地名となって残っているではないかというバカバカしい説です。なるほど広島には「呉」があり、新潟・富山・福井のあたりは「越」です。

ただ、たしかに「呉」は「くれ」と読んで、大陸からやってきた人の祖国とされたことはあるようです。「呉服」という名字の人がたまにいますが、これは「くれは」と読むことがあります。「服部」は衣服をつくる朝廷の部民で「はたおりべ」と言いました。「はたおり」がなまって「はとり」「はっとり」となるわけで、「呉服」は「くれ+は(っとり)」ということでしょう。「くれのはたおりべ」ですね。「くれない」ということばも「呉の藍」がつまったものです。これらの「呉」は「中国」の代名詞として使われているようです。中国を代表する国としては他に「秦」があり、これが「支那」や「チャイナ」の語源になります。また、「漢字」とか「漢方薬」というように、「漢」も中国を意味します。「唐」という大帝国も当然、中国の代名詞ですね。「唐土」と書いて「もろこし」と読むのはちょっと変ですが。それらの国に比べると呉はローカルなのに、中国を代表する国のようになっているのは妙といえば妙です。

秦氏は秦の国と関係があるのかどうかはわかりませんが、渡来系であることはたしかなようです。室町時代の大名である大内氏が半島系であることははっきりしていますが、なんと長宗我部氏は秦氏ですね。講談の難波戦記でも大坂城にこもった武将の名を列挙するところで、長宗我部宮内少輔秦盛親と言っています。名字だけ見れば、蘇我氏の部民のような感じもしますが。朝廷だけでなく豪族の部民も存在しましたから。香宗我部氏というのもいます。長岡のあたりにいたのが長宗我部、香美のあたりにいたのが香宗我部です。土佐には七つの有力国人がいましたが、元親が幼いころには長宗我部は最弱だったようです。

長宗我部氏は四国を統一したあと、信長とトラブルがあったようで、本能寺の変の遠因にもなっているという説があります。元親は光秀の家老、齋藤利三と縁戚関係があり、光秀が信長との間で身動きがとれなくなったという説です。結局はその後、長宗我部氏は秀吉に屈して土佐一国の領土にもどります。さらに関ヶ原で敗れて、家はつぶれ、盛親は京都で寺子屋の師匠をしていました。お家再興を目ざしたのですが、結局かなわず、土佐国は山内一豊の領国になります。しかし、土佐には長宗我部の遺臣が多く、山内家は強引に滅ぼしたり、臣下に組み込んだりします。山内家の本来の家臣とは、上士・下士として差別されます。長宗我部系は下士・郷士になるわけで、坂本竜馬は郷士出身ですね。安岡章太郎の家もそうです。長宗我部の家臣に福留姓の者がいますが、福留功男も土佐出身なので郷士の出かもしれません。

大江健三郎の『万延元年のフットボール』に「チョーソカベ」ということばが出てきます。自分たちを守る「森」に襲ってくる者、という位置づけですが、カタカナ表記をすることで、異世界の妖怪のような雰囲気を漂わせています。大江健三郎は愛媛なので四国統一を目ざす長宗我部元親の軍勢を恐れた人々の記憶に「チョーソカベ」という名前が強く残されたのかもしれません。元寇の際、「蒙古高句麗がやってきた」といって怖れたことから、博多あたりでは、子供が泣き止まないときに「むくりこくりが来るぞ」と脅すようになったと言いますが、それと同じようなものでしょう。

大江健三郎は高橋和巳や倉橋由美子とともに、読んでいないとバカにされる、ということで一昔前の大学生はよく読んでいましたが、なんだかよくわからない文章で閉口しました。ただ、題名のセンスのよさだけは、山本夏彦だったかだれかがほめちぎっていたと思います。『芋むしり仔撃ち』とか『空の怪物アグイー』のように、わけのわからないものもあり、『死者の奢り』や『ピンチランナー調書』『同時代ゲーム』のような、ちょっとかっこよさげなものやら、『洪水は我が魂に及び』や『新しい人よ目覚めよ』のような、それはちょっと気取りすぎやろ、とつっこみたくなるものやら。『新しい人よ目覚めよ』はブレイクの詩を読み続けている「僕」を主人公とする短編連作集です。タイトルもブレイクの詩の引用です。大江健三郎はT・S・エリオットの詩を引用した作品も書いています。エリオットは『キャッツ』の原作者ですね。

「エピグラフ」というものがあります。「エビピラフ」ではありません。書物の巻頭に引用されている短い文ですね。「黙示録より」とか「シェークスピア」とか書いてあります。執筆者の意図の反映、内容の暗示でしょうが、エピグラフはこけおどしであることが多いようで、なくもがなです。あとで読み直しても、無理に書いておく必要もないのになあと思うことがしばしばです。本の最後にときどきある献辞・謝辞も無用ですね。作者にとっては特別の思いがあるのかもしれませんが、そこに書かれている人たちは読者にとっては全く無縁の人であり、作者のひとりよがりにすぎません。映画のエンドロールも、その点近いものがあります。情報としてあってもよいものは出演者の名前ぐらいで、あとはせいぜい監督の名前です。カメラマンとかスタイリストの名前、協賛した団体の名称など、一般の観客にとってはまったく必要ありません。こういうのも入れるべきだというのは西洋の考え方でしょうかね。エンドロールが流れた瞬間、明るくなっていないのに席を立つ人が多いのも当然でしょう。卑怯なのはエンドロール終了後におまけ映像が流れる場合があることです。しかも、それが劇中のあることがらの種明かしとか本当のオチになったりしていて、油断もすきもあったものじゃない。

2020年10月 4日 (日)

呉越同舟

昔はどこの学校にもあった二宮金次郎像はさすがになくなったようです。いかにもこれは時代にそぐわない。今だったら、歩きスマホを奨励するようなものです。戦前には必ずあった遙拝殿は当然なくなりました。御真影、天皇の写真を飾ってあるところですね。さすがに、これはダメでしょう。教育勅語を子供に言わせるところもあって、おおいに騒がれました。明治の頃なら、なんの問題もない内容だったのでしょうが…。これは井上毅の作ったものです。この人は大日本帝国憲法も起草しており、明治日本をつくりあげた一人として、なかなかの人物のようですが、なぜか評価が低いようです。軍人勅諭の作成にも関わっています。東条英機の戦陣訓というのも、その頃はあたりまえのものとして受け入れられたのでしょうか。「生きて虜囚のはずかしめを受けず」は日本人独特の観念のように言われますが、戦国時代の武士は平気で主君を変えていますし、もともと日本人の個性ではなかったような気もします。吉田松陰あたりの「死してのちやむ」のような過激な思想以降のことかもしれません。松陰の考えが昭和の軍人にもつながっていくのですね。

戦時中の「うちてしやまん」なんてことばは、当時の子供たちには理解できたのでしょうか。文語が今より身近な時代ではあったでしょうが。「やんぬるかな」みたいなことばも、文語の知識がなくても、見聞きすることが多いとだんだんわかってくるのでしょう。ちょっと前の子供だったら「ヤンバルクイナ?」と思うかもしれませんが、今の子供はそれも「?」かな。「万事休す」は今でも耳にすることがありそうですが、どうでしょうか。「神のみぞ知る」は「かにの味噌汁」と思ってしまう? そんな寒いだじゃれさえ思いつかない? 皇太子生誕を祝う「ひつぎのみこは生れましぬ」は理解できなかったようです。「あれましぬ」は「あれ、まあ、死ぬ」と思った、というのも「むべなるかな」です。「神ならぬ身の知るよしもなかった」のレベルならなんとかなりそうですね。

「てんこうせんをむなしうするなかれ」は唱歌にも出てくるので、意外に理解できていたかもしれません。児島高徳が実在したかどうかはあやしいそうですが、もとになった越王勾践は実在したでしょう。呉王闔閭を倒したあと、「臥薪」した息子の夫差に会稽において敗れます。そのあと家臣の范蠡の策をいれて二十年間「嘗胆」し、夫差を破ります。後醍醐天皇が島流しにあったときに行在所に忍び込んだ児島高徳が木に彫りつけたのが「てんこうせんを…」で、「ときにはんれいなきにしもあらず」と続きます。後醍醐は「味方する者がいるので安心してください」という意味だと悟ります。勾践がヒーローのように扱われるので、夫差やその父親の闔閭は悪役のイメージがありますが、闔閭はたしかにあくのつよい人物だったようです。なにしろ王位に就くために、従兄弟である先王を暗殺していますから。ただ良い家来を集めることには熱心だったようで、孫武を見いだしたのは闔閭です。いわゆる孫子ですね。呉の孫子と呼ばれた人はもう一人いたようで、孫臏と言います。武の子孫で、後の三国志の呉の孫家の祖です。闔閭のもとには、もう一人、伍子胥という人物もいます。孫武を推挙したのが、この伍子胥です。

伍子胥はもと楚の人です。父と兄と平王に殺されて出奔し、呉に身を寄せます。伍子胥と孫武を得て国力をのばした呉は、楚に侵攻し、都をおとします。そのとき伍子胥は、すでに死んでいた平王の墓をあばき、しかばねを鞭打って父と兄の仇をうちます。「死者にむち打つ」はここから出たことばです。ただ、その仕打ちを親友に非難されます。そのときに言ったことばが「日暮れて道遠し」です。「自分は年を取っているので時間はないのに、やるべきことはたくさんある。焦って非常識な振る舞いをすることもあるし、やり方など気にしておられない」ということでしょう。さて、伍子胥と同じように一族を讒言によって殺された男が、楚から呉に亡命してきます。伍子胥がこの男を推挙するときに、呉王闔閭に「信用できる男か」と問われます。伍子胥は、「同じ病を持つ者は、お互いに憐れみ合います。彼も私同様、楚に恨みを持つ者です。信頼できないわけがありません」と答えました。「同病相憐れむ」の由来ですね。

その後、闔閭の後を継いだ夫差の様子を見て、伍子胥はいつか呉は越に滅ぼされるだろうと思います。自分の子供は他国に逃がしたものの、先代の王から恩を受けた自分は呉を見捨てるわけにはいかないと思って戻ってきます。ところが、「同病相憐れむ」で推挙してやった男が夫差に讒言したために、伍子胥は夫差から剣を渡されます。つまり、自害しろということですね。伍子胥は「自分の墓の上に梓の木を植えよ、夫差の棺桶を作るために。自分の目をくりぬいて城門の上に置け、越が呉を滅ぼすのを見るために」と言い残して自ら首をはねます。夫差は怒って墓を作らせるどころか、遺体を革袋に入れて川に流します。その後、伍子胥が見切った通りに呉は越に滅ぼされました。夫差は「伍子胥の言葉を取り上げなかったために、こんな羽目になった。伍子胥に合わせる顔がない」と顔を布で覆って自決しました。このあたりも中学部の授業で取り上げていました。生徒たちは結構おもしろがってくれたものです。

越王勾践が夫差を油断させようとして送り届けた美女がいます。西施ですね。四大美人の一人ですが、みんな一つだけ欠点があったとも言われています。西施はどうも大根足だったらしく、いつも裾の長い着物を来ていたそうな。それがまた妙なことに、じつは足が美しかったのではないかという説も出てきます。西施の絵は足を出して川で洗濯をする姿がえがかれます。その姿に見とれて魚たちは泳ぐのを忘れてしまったとか。「沈魚落雁」と言います。「落雁」のほうはやはり四大美人の王昭君です。残りの貂蝉は月が恥じて雲に隠れ、楊貴妃はその美しさに花が気おされてしぼんでしまったので「閉月羞花」と言います。さて、西施には持病があり、胸元を押さえ、眉をひそめた姿はなんとも美しく、人々は大騒ぎをします。それを見たある醜い女が西施のまねをして、顔をしかめると、人々はすぐに戸を閉め、中には妻や子を連れて遠くに逃げた者もあったとか。これが「ひそみにならう」の元になった話です。呉と越にはいろいろなエピソードがあり、故事成語もたくさんあるわけですが、最も有名なのが、仲の悪い国同士というところから生まれた「呉越同舟」ということばですね。

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