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2020年11月の2件の記事

2020年11月29日 (日)

キメハラ

元祖教育ママと言えば孟母ですね。三遷の教えで有名です。孟子は性善説、荀子は性悪説、とよく言われますが、中国も物事を単純に二つにわける西洋式に近いようですね。日本は単純に分けるのを好みません。むしろ「玉虫色」をよしとします。「明日は雨が降るような天気ではない」とか「父は死んでいない」が二通りの解釈ができる、というような話をすると、子どもたちはずいぶんおもしろがります。「すごい」のような単純なことばでも、「すばらしい」場合にも「ひどい」場合にも使えます。「あいつの成績、すごいな」は、どっちの意味で言っているのでしょうか。これは「あいつ」がだれなのかによって変わってくるのです。

「号泣」や「爆笑」などは、元の意味とはちがう使われ方をします。本屋に行くと、書店員の書いたポップがついていることがあります。「号泣」と書いてあったら、「本を読んでガオーッと泣くやつがおるかい」とつっこみたくなりますし、「爆笑」とあれば「おまえは何人おるんや、大勢が笑うことを『爆笑』と言うんや」とぼやきたくなりますが、「ことばは時代によって変化するもの、ゆるしてやったらどーや」と吉本新喜劇風に自らを戒めます。それでも「あまりの衝撃に三日間寝込んだ」と書かれていれば、「嘘はアカンやろ」と思います。

新聞の記事のように見えて、実は全面広告という、嘘すれすれのものを、たまに夕刊で見ることがあります。生姜シロップか何かの広告の小見出しで「思わずとりはだが立ちました」とありました。つっこみどころが二つ。「とりはだが立つ」を恐怖や気味悪さでなく、プラスの感動表現で使ってるのは、もはや「ゆるしてやったらどーや」ですが、「思わず」は無意識のうちに行動する様子を表すことばなので、「とりはだが立つ」のような生理現象に使うのはなんとなく違和感があります。新聞の言葉で思い出しました。かなり昔、阪神の金本が現役のころです。決勝の3ランで逆転したのですが、そのときの朝日新聞の見出しに、「味方のミスを帳消し」とありました。「帳消し」はプラスのものを台無しにしてしまうイメージがあったので、ちよっとひっかかったのです。「消し」のニュアンスから、相殺されて価値や意味が「なくなる」意味だと思い込んでいたのですが、マイナスのものを「消す」ときにも使うようです。「この親にしてこの子あり」はプラスかマイナスのどちらで使うのでしょう。本来は立派な親子の場合に使うはずですが、たしかに、だめな親子の場合にも使えそうな気もします。

これは、と思ったのはテレビのニュース番組で「トランプ大統領、内政問題で火の車、外交で活路を見いだせるか」というナレーション、スーパーにも出ていました。「火の車」は経済状態が苦しいことなので、内政問題が火の車、とは何が言いたいのやら。集中砲火をうけているのなら「火だるま」ですが単に内政がうまくいっていないという意味なのか。洋服の青山のCMで毎春「いまご来店の方には素敵な粗品をさしあげます」と言っているのはわかっていてやってるのか。…頑固じじいの悪口のような「国語批判」は、じつは的外れなのかもしれません。ことばはどんどん変化していくものです。そのときは「まちがい」であっても、時間がたって、みんなが使うようになれば「正しい」ことばになっていきます。

最近気がついたこととしては、熟語の副詞的用法がやや多くなってきているような。たとえば「…なのは勿論だ」から「勿論…だ」のように、熟語を単独で修飾語としてそのまま使うことです。昔からあったわけですが、「結果」「基本」「原則」などは比較的最近使われだしたものではないでしょうか。略語も昔からよく使われますが、新しいものがどんどんつくられます。「たなぼた」や「やぶへび」のようなことわざ系では「ちりつも」「みみたこ」「るいとも」などを使う人がいます。「あけおめ」や「なるはや」などはさすがに目上の人には使わないでしょうが…。でも、「国体」や「テレビ」だって略語のはずです。使い慣れてきたら、なんら抵抗がなくなるのでしょう。とくに外来語で長くなるのは略したいわけで、「セクハラ」とか「コスプレ」とかはふつうに使います。「キムタク」「クドカン」「セカオワ」は仲間意識をそれとなく示すものだったでしょうし、「バンセン」などは専門用語です。「キモオタ」とか「ヒトカラ」は何なのでしょうね。「一人カラオケ」は略せるけど「一人焼き肉」は略しにくいし。「キメハラ」なんて、新しいことばも生まれています。「『鬼滅の刃』ハラスメント」の略ということで、「鬼滅、見てないの」とか「鬼滅が嫌いって、アホちゃう」とか言って、同調圧力をふりかざすことらしい。

何年か前、書き言葉、話し言葉に対して、打ち言葉が生まれつつあると文化庁が発表しました。SNSやメールで使う、くだけた感じの表現で、絵文字などを多用するような書き方のことのようですが、「おk」とか「うp」とか、文末の「ww」とかも含まれるそうな。たしかにそうかもしれません。ことばはどんどん変化します。古語の中には、元の意味では使われなくなったのに、新しく生まれた意味が生き残って、いまだに使われているものもあります。「しがらみ」などはそうですね。「かぶりをふる」ということばも、「かむり」つまり「かんむり」と関係があるなんて、言われないと気がつきません。

だれの文章だったか、八丈島かどこかへ行って、「めならべ」という意味不明のことばを聞いて、しばらく考えるうちに「女の子」のことだとわかった、というのがありました。「女童(めわらべ)」のなまったものだったのですね。平安時代に使われていたようなことばが多少変化してもいまだたに使われているわけです。それに比べるとやはり新語の寿命は短いことが多いようです。「ナウい」はすぐ消えるだろうと思われたのに使われつづけ、どうやら定着しそうだと思われたころに消えてしまいました。こういうことばは辞書に入れるかどうか悩むそうですね。流行語にすぎないと見なせるものは、やはり載せないでしょう。「チョベリバ」や「激おこプンプン丸」のような、わざとらしすぎて実は流行っていなかったことばなんて載るわけがない。吉本の「ギャグ」も辞書には載りません。

2020年11月15日 (日)

劣等生仲間

最近のテレビのエンドロールは異様に速すぎることがあって、動体視力の弱い人間には追いつけません。あの俳優、誰だっけと思って確認しようとしても、アララーと言ううちに消え去っていきます。脇役でよく見るのに名前を知らない人がいて、たまに誰だろうと思うことがあるのに…。たとえばそういう人のひとり、『ラストサムライ』にも出ていた「先生」はちょっと有名になりました。時代劇の斬られ役専門の人で、福本清三という人です。悪徳商人とか「や○ざ」の親分の用心棒の役などがぴったりの人で、「先生、お願いします」と言われて出てくるのですが、二枚目の主人公にすぐに斬られて死んでしまいます。『探偵ナイトスクープ』で、「先生」の正体が知りたいという依頼が来て、桂小枝探偵が「センセー、センセー」と呼びかけたことがあり、通称としてすっかり定着してしまいました。

最近は脇役が注目を浴びることが多くなってきました。脇役と言うとしょぼい感じですが、バイプレイヤーと言うと、何かかっこいい。遠藤憲一、松重豊、滝藤賢一、甲本雅裕、六角精児…。昔も吉田義夫、遠藤太津朗、進藤英太郎、成田三樹夫とか、ピラニア軍団というのもいました。しかし今は昔以上に「活躍」して、主役なみの人気をもつようになってきています。こういう「脇役」をズラリとそろえると「豪華な配役」という感じさえします。配役を見ただけでは正体がわからないことも多い。悪役だけでなく、善玉を演じることも多くなってきて、たまに悪役を演じると新鮮に感じる、なんて妙な現象も起きます。善悪両方いける人が多くなってきたのでしょうか。高橋英樹でさえ悪役をやったりします。昔だったら考えられないことですね。高倉健さんは悪役は無理かなあ。若いころに佐々木小次郎をやったことがありますが、悪役ではないし、「や○ざ」の役が多いので純粋な善とは言えないけれど、悪役とは言えません。たまに主役級二人をそろえて「コラボ」と言うことがありますが、この使い方はどうなのでしょう。「コラボ」って、なんだか「異種」という条件が必要な感じがします。ソロの歌手二人なら「コラボ」と言えそうですが…。演劇の場合は、一人芝居もないわけではないものの、大勢の人で演じるのが原則なので「コラボ」って言うと違和感があります。

小説家二人で一つの作品を書くのは「コラボ」でしょうか。エラリー・クイーンは有名だし、岡嶋二人などは自らそう名乗っています。木皿泉は夫婦ですね。島崎藤村はちがいます。「しまざき」と「ふじむら」の漫才コンビのようでもありますが…。小説家ではないけれど、藤子不二雄もそうですね。単独で描くときにはFとかAとかを入れて区別していました。あるドラマに別のドラマの要素がチラッとはいってくることがあります。作り手のお遊びと言うか、ファンサービスみたいなものでしょう。『99.9 刑事専門弁護士』というドラマのラストで、岸部一徳演じる弁護士が「私、辞職しないので」と言ったのは、自分が出ている別のドラマのもじりでした。こういうのは「コラボ」とは言わないのですね。このドラマはなかなかおもしろかったのですが、設定に無理のある回もありました。トリックを重視すると、どうしてもストーリーや人物設定に無理が出てしまうのですね。ただし、そんなアホな、という動機で起こす事件や間抜けな展開になる事件も世の中にはよくあります。まさに「事実は小説よりも奇なり」ですが、これは、だれのことばなのでしょう。出所不明なのでしょうか。「天災は忘れたころにやってくる」は寺田寅彦のことばとされています。ところが、少なくとも弟子の中谷宇吉郎の証言によれば、書いたものの中には登場してこないようです。

寺田寅彦といえば、『帝都物語』に登場していました。荒俣宏のこの小説は将門伝説をふまえています。魔人加藤保憲が平将門の怨霊を使って帝都破壊をもくろむという話です。将門は日本最大の怨霊の一つです。首塚も東京の真ん中に今なお残っています。京都の三条川原でさらされた将門の首級がなかなか腐らず、夜な夜な「俺の体はどこだ。首をつないでもう一度戦おう」と叫び続けたとか。やがて、残された胴体を求めて板東の地まで飛んでいったことになっています。都市再開発で、これを取り壊して建物をつくろうとしたとき、不穏な事故が相次いだ、ということで、いまだに祟りが残っているわけです。神田明神は将門を祀っています。神田祭も将門ゆかりのものなのですね。

またまた大河ドラマの話ですが、将門は加藤剛が演じていました。『風と雲と虹と』という作品で、原作は海音寺潮五郎です。藤原純友を緒形拳、今はすっかりしぶい俳優になった草刈正雄も出ていました。ヒロインはなんと吉永小百合。今考えても、なかなか豪華な出演者だったし、ドラマのつくりも荘重なものでした。ドラマの中でもあつかわれていたと思いますが、菅原道真と将門は実はちょっとしたつながりがあるのですね。この二人に崇徳院を入れて日本三大怨霊ですが、怨霊つながりというだけでなく、道真が死んだ年に将門が生まれており、将門は道真の生まれ変わりだと言われていたらしい。道真の霊験によって、将門は「新皇」の位記を授けられます。道真の霊が宿った巫女が「八幡大菩薩が汝に天皇の位を授ける」と託宣したのだとか。道真の息子は将門の弟の学問の師匠だったという話もあります。怨霊になってもおかしくないような最期を遂げたことから両者のイメージが重なり、生まれ変わり説などが生まれたのかもしれません。

こういうオカルト系の話は昔から根強いファンがおり、最近平田篤胤もちょっと注目されています。天狗考とか神隠しとか。前にも触れたような気がしますが、平田派の国学者の息子の島崎藤村の『夜明け前』にもUFOらしきものを目撃した話が出てきます。この小説は維新前を「夜明け前」にたとえたわけですが、それから約150年、まさに「明治は遠くなりにけり」です。でも、明治45年は1913年ですから、たかだか100年前です。安岡章太郎は、龍馬ともかかわりがあった先祖の話を書いています。吉田東洋暗殺にかかわった人物ですが、自分の身内のことを語っている感じです。調べてみたら、安岡章太郎は、1920年生まれなので、そう遠い過去のことではないのですね。安岡章太郎は、『宿題』という作品が昔よく入試に出ていました。母親が今で言う教育ママみたいな人だったようです。でも、ずっと劣等生だった、と自ら語っています。灘中で劣等生だったという遠藤周作と仲が良かったのも、そのせいかなあ。

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