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2021年7月 9日 (金)

夢オチ

元は歌手だった人が今は俳優になっていても別段意外ではありませんが、ジャイアント馬場のように、元は野球選手だった人がプロレスラーになったりすると、やや意外性があります。芸能人が政治家になるのはよくありますね。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で過去に飛んでいった主人公がドナルド・レーガンの映画看板を見て、この人がのちに大統領になることをおもわず言ってしまって、そんなばかなことがあるかと笑われるシーンがありましたが、たしかにそうでしょうね。さすがに大統領となると別格のようです。アメリカ大統領になれる条件として、アメリカ国籍があること、二十五歳以上であること以外に何があるか、というクイズがあります。答えは「選挙で選ばれること」という卑怯なものです。日本国籍とアメリカ国籍の両方を持っていても大統領になれるのでしょうか。たとえば菅さんがアメリカ国籍も取得して日本の首相とアメリカの大統領の両方に選ばれたりしたら大笑いですね。現実には、それなりの条件あるはずなので、ありえないでしょう。伊賀と甲賀の忍者の頭領が同一人物で、一人二役をして両方の忍者を競わせた、という話がおもしろくて好きなのですが、ちょっとそんな感じですなあ。

野球選手がトレードされると、去年までの自分のチームを敵として戦わなければなりませんが、どんな気持ちなんでしょうね。授業で「一期一会」の話をしていて、昨日の自分と今日の自分とでは一部の細胞が入れ替わっているから同じ人間ではないと言っているうちに、「テセウスの船」の話を思い出しました。ドラマのタイトルにもなっていましたね。そういう話をするとピンとこない生徒がいたので、阪神に巨人の選手が一人トレードでやってきたら、去年まではボロクソに野次をとばしていた相手でも阪神の選手として応援するか、と聞くと、それはそうやと言います。では、巨人と阪神の選手全員がお互いにトレードされるとどうなるか、つまり阪神の選手全員が去年までの巨人の選手で、巨人の全員が元阪神の選手、ということになった場合、阪神ファンとしてはどちらを応援するか、ということですね。高校野球の場合には、三年前の選手はいなくなるわけです。完全にちがうチームですよね。

「テセウスの船」とか「カルネアデスの船板」ということばは一種の故事成語でしょうが、「シュレディンガーの猫」なんてのもあります。量子力学では、すべての事象は観測された瞬間に確立するのであって、確立する寸前までは異なる複数の事象が重なりあった状態で存在する、ということになっているそうです。そこで、シュレディンガーは、「ランダムの確率で毒ガスの出る装置とともに猫を箱の中に閉じ込めたら、箱を開ける時までは一匹の猫が、生きている状態と死んでいる状態として、同時に存在している」ことになるのか、と指摘したという話です。なんだか、わかったようでよくわかりません。「シュレディンガー」という、わけのわからんカタカナがあるとよけいにわからなくなります。

むやみやたらに難解な表現を用いて、自分の学識をひけらかす態度を「ペダンチック」と言います。日本語で言えば「衒学的」とでも言うしかないことばですが、どちらかと言うと否定的な意味合いで使われることが多いようです。ところが、小栗虫太郎の『黒死館』なんか読んでいると、それが効果的に用いられており、「衒学趣味」とでも言ったほうがよさそうな感じです。なんだかわけのわからん「高尚」めいたことを次から次へと聞かされると、心地よく感じるから不思議です。もちろん、ペダンチックなものにひかれる人でも、うんちくを傾けられるのは好まない、ということはあります。

この差はなんでしょうか。やってることは同じでも、後者は、自分の知識をひけらかすという「上から目線」があるからかもしれません。そういう押しつけがましさがないような「ミニ知識」などはみんな好きなのですね。特に、今まで何か心にひっかかっていたことが解決されたり、バラバラだった知識が一つにまとまったりすると快感があります。算数や数学の問題が解けたときの快感と同じで、モヤモヤしていたものがスッキリするときの感じですね。名探偵によって犯人が指摘されて、めでたしめでたしと終わったりするのも同様です。

ところが、あえてモヤモヤ感を残す物語もあります。『くだんの母』や『オーメン』もそうだし、ドラマの『天国と地獄』の入れ替わりも…。「この終わり方は、続編がきっとあるよなー」と思わせることがよくあります。話を広げていって、どんどん面白い展開になっていくと、これはどうやってオチをつけるつもりだろうと思ってワクワクすることもありますね。予想の斜め上を行く驚天動地の作品もないわけではありませんが、作者自身も困ってしまってどうしようもなくなることがあるかもしれません。最後の手段が「夢オチ」というわけですね。

「夢」だったという設定から始まるのが落語の『芝浜』です。魚屋の勝五郎は、腕はよいけれど酒好きの怠け者。女房に時間をまちがえてたたき起こされ、魚河岸に行き、浜で財布を拾います。ずっしりと中身がつまった財布で、気をよくした勝五郎は、友達を呼んで飲めや歌えのどんちゃん騒ぎをしたあげく、酔いつぶれて寝てしまいます。翌朝、女房に起こされて、河岸に行けと言われ、昨日の金はどうなったと聞くと、夢でも見たんじゃないかと言われます。財布を拾ったのが夢で、大酒を飲んだのが本当だと言われて、勝五郎は心を入れかえ、酒をやめて商売にはげみます。表通りに店を構えるようになって、大晦日の除夜の鐘が鳴るころに女房が汚い財布を勝五郎の前へ置きました。実は夢ではなかったんですね。夢にしてくれたおかげで、こうして正月を迎えることができると言って勝五郎は女房に感謝します。久しぶりに一杯飲んでもらおうと思って女房が用意した酒をうれしそうに飲みかけた勝五郎が一言、「よそう、また夢になるといけねえ」。

こういうのも「夢オチ」と言うのかなあ。このことばはどういう意味でしょう。財布を拾ったというのは夢ではなかったと知った上で、酒を飲むときに「また夢になるかもしれねえ」と言うのは理屈から見ると変です。でも、よくできた話である事には変わりありません。三遊亭円朝が作ったそうな。

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