死に土産
紛らわしい名前としては、「関西大学」と「関西学院大学」があります。前者は「かんさい」、後者は「かんせい」です。アメフトで日大の監督がまちがって「かんさいがくいん」と読んでしまったのも無理ないでしょう。昔、「東京」を「とうけい」と呼んだのと同じく、ちょっと気どった言い方なのでしょうか。「西」を「サイ」「セイ」と読むのは呉音・漢音というやつです。呉音というのは4世紀ぐらいまでの大和朝廷のころに中国から伝わった読み方、漢音というのは7、8世紀ごろ、遣唐使などが持って帰ってきた読み方です。その後、遣唐使を廃止して中国からの影響がなくなりますが、再び、12、3世紀ごろ平清盛によって貿易が復活し、僧侶も大陸へ渡って新しい仏教、禅宗を持って帰ります。そのときに伝わったのが唐音です。「西瓜」を「すいか」と読みますが、「スイ」が唐音ですね。今の中国では「シー」で、昔の長安、今の西安は「シーアン」です。麻雀界では「シャー」ですな。東南西北は「トン・ナン・シャー・ペー」です。なぜ「シャー」なのか、よくわかりません。「サイ」と「セイ」では、「サイ」のほうが古いので、「西方浄土」など仏教関連では「サイ」と読んだほうが荘重な感じがするのかもしれませんね。
「関西」は、中国では函谷関より西を意味しました。日本では鈴鹿、不破、愛発(あらち)の三関がありますが、いちおう不破の関があった関ヶ原より西でしょう。「関東」という言い方がまず生まれ、都びとは、自分たちは「中心」であって「西」だと考えていなかったはずなので、「関西」という言い方はそんなに古くはないような気もします。越前の愛発の関は早くに廃止され、近江に逢坂の関が置かれます。ちなみに奥羽三関というのもあって、白河・勿来・念珠の三つです。関西大学は五代友厚の作った商科大学がもとになっていますね。五代友厚といえば、ディーン・フジオカが演じて有名になりました。ブームが過ぎると忘れ去られるのが世の習い。
ところで、この「ディーン」というのは姓か名か。「フジオカ」が姓なら、「ディーン」は名前だと思いますが、ジェームズ・ディーンという人もいました。これは名字です。ジェームズ・ディーンは『エデンの東』という映画でスターとなり、あっという間にこの世を去ったことで、永遠の青春のシンボルのようになっています。だからこそ、永ちゃんの名曲『サブウェイ特急』で「ジェームズ・ディーンは、そう、立ちふさがる白い壁にただ一人…」と歌ったのです。ところがこの歌の二番の歌詞では同じところを、ジェームズつながりで「ジェームズ・ボンドは、そう、髪の毛がはげるまで…」と歌っています。演じたショーン・コネリーの髪の毛が薄くなって話題になっていたことを踏まえたものでしょう。ただコミックソングでもないのに「はげ」ってことばが出てきて、なんだか笑ってしまいました。同じ歌に「畳じゃ死なねえぞ」というフレーズがあるのも、今どきのことばではないよなあと思いました。作詞は矢沢ではなかったのですが…。
それまでの歌詞になかったことばとしては、長渕剛の『とんぼ』の中に「ケツのすわりの悪い」という強烈なフレーズが出てきましたが、この歌なら許されるのですね。和歌の時代から、歌に使うことばは「雅語」でなければならないようなイメージがありました。「つる」ではなく「たづ」であり、「あわ」ではなく「うたかた」とした瞬間に歌の格調がぐっと上がります。「永遠」を「とこしえ」と言えば上品だし、「とこしなえ」と言えばさらに優雅になってグレードアップします。加山雄三の『君といつまでも』の中では「しとね」ということばが出てきて意味不明でした。ひらたく言えば「布団」ですね。この歌では他にも「今夜」「今晩」ではなく「今宵も日がくれて」と歌います。岩谷時子さんの頭の中では、「君といつまでも」の「君」は「君が代」の「君」だったのかも…。
谷村新司の『すばる』でも、文語というか古語を使っていますが、あれは不完全です。特に「なり」の使い方に無理矢理感がただようなり。松田聖子の『風立ちぬ』は堀辰雄をふまえているのでしょうか。一部だけ古語を使ってみました、という感じです。井上順の『お世話になりました』では「何もかも忘られないよ」と歌っていますが、「忘れられない」なら問題ありません。「忘れる」ではなく「忘る」なのでここは古語です。そうすると次の「れ」は「る」の活用したものかなと思ったら、あとに「ない」という東国方言が続く、という意味不明の構成…。と、文句をつけてみましたが、単に口調でそうなったのでしょうね。じつは古語の「忘る」はやっかいなことばで、現代語の「忘れる」につながるのは、下二段活用の「忘る」で、「れ・れ・る・るる・るれ・れよ」と活用します。ところが、四段活用の「忘る」もあるのですね。「ら・り・る・る・れ・れ」となるのですが、どうもかなり古い形のようです。「忘れたり」は自然ですが、「忘りたり」は変です。「忘られず」という形がたまに見られるのはこの古い古いことばが現代人にも「忘られない」のでしょうか。現代語に古語がまぎれこんでもそれと気づかず使っていることもあるでしょうね。桑田佳祐が『希望の轍』の中で使っているのは「忘られぬ」の形なので、まあ許せるか。
吉田拓郎は『イメージの詩』の冒頭で「これこそはと信じれるものがこの世にあるだろうか」と、いわゆる「ら抜きことば」を使っていました。昭和四十年代でしたが、もうみんな平気で使っていたのでしょう。昔の人でもまちがって変な言い方をしていることがあります。「ふぐはくいたし命はおしし」は「惜し」で十分なのですが、七音にしないとリズムがくずれるので「おしし」になってしまったのでしょう。この句を作ったのはどの地方のことでしょうか。なんとなく江戸のような気もしますが、ふぐ文化は北九州あたりの発祥でしょう。大阪人もふぐ好きです。「づぼらや」の看板でも有名でした。下関もふぐの本場で、有名な「春帆楼」も大阪に出店がいくつかあります。道頓堀の春帆楼で食べているときにとなりの部屋でおっさんたちが「死に土産、死に土産」と言いながら食っていましたが、あれはどういう意味だったのかなあ。さすがに春帆楼のふぐはそうそう食べられないから、死ぬ前に一度味わっておこう、ということか。こんなうまいものを食ったら、あたって死んでも本望だ、ということか。ふぐ食は秀吉が禁じて、伊藤博文が解禁したという話があります。春帆楼は日清戦争の講和条約の舞台になったところですから、李鴻章も食べたのかしらん。