2016年6月19日 (日)

赤パンダずるむけ考

※江戸時代の経世家・工藤平助の『赤蝦夷風説考』を意識した題ですが、内容的にはまったく無関係です。

私が十代の頃、藤原新也さんの『メメント・モリ』という写真集が話題になっていました。メメント・モリは〝死を想え〟という意味のラテン語で、中世ヨーロッパでペストが猛威をふるった頃に巷間に流布した言葉だとか(すいません、お得意のうろ覚えです)。

高校生だった僕は、勉強をさぼってその写真集をぼんやり眺めては、自分の死に場所をよく夢想しました。当時の僕が考えていた死に場所、それはずばり〝山奥の谷底〟です。もう少し文学的に粉飾した表現を用いれば、〝幾重にも遠い山の連なりの奥深くにひっそりと隠れた渓谷のふところ〟とでもなるでしょうか、どこが文学的やねんと言われれば返す言葉もありませんが。

だいたいどんないきさつによってそんな場所にひとりたどり着き、かつタイミング良くこの世に別れを告げることになるものやらさっぱりわからないわけですが、なんとなくロマンチックでええ、と思っていました。

さて、歳月は流れました。

最近、山登りをしていて(たとえば奥大日岳)ふとそのイメージがよみがえることがあります。雪の稜線をひとりで歩いているときに (うーん、今ここで足がつるっと滑って転落したり、見事雪庇を踏み抜いてしまったりした日にゃ、まさに山奥の谷底でひとりひっそり死ぬはめになるかもしれん。そういえば、「夢はいつも忘れた頃にかなう」なんて言葉もあったのう。……いやじゃあ!こんなところで死ぬのはいやじゃあ!) と、心の中で叫びながら、必死でアイゼンを蹴り込み、ピッケルを深々と突き刺したりしています。

あとで山小屋の人に、この時季の奥大日岳で死ぬ人なんていないよと言われましたが、 高い所が苦手な人間にとっては十分に怖いです。みんな高所恐怖症に理解がなさ過ぎるような気がします。何で高所恐怖症のくせに山登りしてるのかとか聞かれると困りますが。

でもね、でもね、かつて観覧車はおろか歩道橋も無理な繊細な人間だった僕に言わせれば、高いところが平気だなんて想像力の欠如以外の何ものでもありません! 高いところが怖くないなんて人は恥ずかしいと思っていただきたいです。(すみません、本気にしないでください。)

それはともかく紫外線の強いこの季節に雪の稜線をルンルン歩いていたせいで、顔が真っ赤っかになりました。おまけに体調がいまひとつ良くなくて全身がパンパンにむくんでいたので、キャンプ場のトイレの鏡に映してみたら、ものすごい顔になっていました。なんていうか、雪眼にならないようにサングラスはしていたので、その部分だけが赤くなく、赤いパンダみたいな。みなさんにお見せできないのが残念です。いや実は写真もあるのですが、正直見せたくありません。 さすがにこの顔で授業はできないなあ、まずいぜえ、と心配していましたが、なんとか休みあけの最初の授業までには、ひととおり厚い面の皮をはぎ、素知らぬ顔で授業に臨みました。すると、鋭い塾生君から鋭い質問が。

「先生、どうしてそんなに顔が赤いの?」

「そ、それは、久しぶりにみんなに会えて照れくさいからだよ」

「じゃあ先生、先生はどうしてそんなにムキムキなの?」※クールビズのため腕がムキ出し

「それはお前をしばくためじゃあ!」

その後順調に日焼けは赤から黒へと移り変わりました。スタンダールみたいですね。

え、スタンダールの『赤と黒』を読んでいない? ぜひ読んでください、韓流ドラマよりは面白いと思います。

スタンダール『赤と黒』『パルムの僧院』

バルザック 『谷間の百合』

フローベール『感情教育』

このあたりは問答無用でお勧め。あー、もちろん小学生には無理で~す。

2016年6月 5日 (日)

わしも歌手に、いや歌人に

かなり前ですが職場で『東大の現代文25カ年』という赤本をぱらぱらめくっていたら、隣にいたT見tr(神女コース担当)が、「あ、これ、神女で出た文章だ!」

そう、2012年度東京大学で出題された文章と同じ文章が今年神戸女学院の入試で出題されていたのです。すごいですよね、中学入試。

ちなみに出題されていたのは歌人で少し前に亡くなられた河野裕子さんの随筆です。この人の短歌が中学校の教科書に載ってるのを見たことがあります。

・たとえば君  ガサッと落ち葉すくうように私をさらって行ってはくれぬか

というやつです。書き写していてちょっと照れますね。でも、これって、真っ向勝負のストレートのようでいて、実はそうじゃない、内角高めから外角低めに落ちる高速スライダー(智仁~!※)みたいな趣もあります。「私」=「落ち葉」っていう重ね合わせはずいぶんな気がします。なぜ落ち葉なんでしょうか? 「ガサッと」「すくう」は乱暴な手つきというか無造作な振る舞い方というかそういう感じってことで片が付くんですけど、「落ち葉」が。なにか、自分のことを価値のないもののようにみなしたい気持ちでも働いていたのかしら、などと勘ぐってしまうわけです。 こんな年齢ですしこんな性格ですしこんな見た目なので、恋愛の歌について語るなどというのは相当照れくさい話で、今も書きながら恥ずかしさのあまり身もだえしているのでありますが、平安時代なんて、坊さんがしれっとして恋愛の歌詠んでたりするわけで、ここはひとつ大目に見ていただきましょう。

・終バスにふたりは眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて

・「キバ」「キバ」とふたり八重歯をむき出せば花降りかかる髪に背中に

 穂村弘さんの歌ですが、かわいいですよね。もしかすると恋愛歌じゃないかもしれません。そういう読み方もできると思いますが、まあでも、恋愛の歌と考えた方がしっくり来るかなあと。ひとつめの歌は、「ふたりは眠る」とあって、それを見ているわけですから、作者自身の恋愛ではなく、バスの中で目にした微笑ましいカップルの風景を歌にしたということかもしれません。ふたつめの歌は、友だちっぽいカップルでしょうか、みつはしちかこさんの『小さな恋のうた』を彷彿とさせます。

・限りなく音よ狂えと朝凪の光に音叉投げる七月

・秋になれば秋が好きよと爪先でしずかにト音記号を描く

といったあたりは、背景にもしかすると恋愛があるかもしれないけど、主題としては恋愛ではなく、あまり照れずにはいりこめる感じがします。どちらも音楽がらみですね。どうも音楽をやっている女性と恋愛関係にあったのかなと想像をたくましくさせます。いずれも、『シンジケート』という歌集に収録されているものです。この歌集はすごく評価が高くて、作家の高橋源一郎なんかは昔、「俵万智の『サラダ記念日』が300万部売れたのなら、穂村弘の『シンジケート』は3億部売れてもおかしくない」というような意味のことを書いていたぐらいです。『シンジケート』の冒頭には、12月から1月までを織り込んだ短歌が十二首載っていてどれも素晴らしいですね。

・停止中のエスカレーター降りるたび声たててふたり笑う一月

なんて絶妙じゃないですか。いや、これ確かに一月ですよね。「停止中のエスカレーター」を降りたり昇ったりしたことありますか。絶対に笑っちゃいますよ。すごく奇妙な気分になるので。

穂村弘でなくても良いですが、眠る前のひととき、一日の疲れを癒すには歌集。良いと思います。

短歌は何かの折にふと口にすることができるのがいいですよね。その点、詩はちょっと長いので、そういうわけにはなかなかいきません。詩の一節が口をついて出るということはありますが、一篇の詩をはじめから終わりまで口ずさむとなると、少しちがう心理状態かなあと思います。僕は詩が好きですが、はじめから終わりまで暗誦している詩は数篇しかありません。

でも、短歌にしろ詩にしろ、何かの折にふっと、なじみの一節が出てくるというのは良いものです。いま、朝日新聞の朝刊に、鷲田清一さんが(入試によく出る人)「折々のことば」という短章を連載されていますが、僕にも折にふれて思い出す言葉があります。いつまでも良い味のする飴玉みたいにずっと舌の上で転がしていたい言葉というのがあるものです。何かの拍子に思い出しては転がしていると、以前とはちがった味がする、そんなことばですね。

さて、こんな僕ですが、かつて一度だけ短歌を作ったことが……!  中学生のときに国語の宿題で作らされたのですが、今でもよく覚えています。恥を忍んで発表しましょう!

・短歌をばつくろつくろと思えどもなかなか出来ぬが短歌なりけり

名作だ!

※ 智仁・・・・・・伊藤智仁。ヤクルトスワローズのエースだった人。あまりにも激しく曲がり落ちる高速スライダーでばったばったと巨人のバッターを撫で斬りに。あの頃は良かった!

2016年5月 8日 (日)

李白は天才、李賀は鬼才

ジャイアンツの元監督だった川上が現役のころ、「ボールがとまって見える」と言ったという有名な話がありますが、実は別の選手のことばを新聞記者が川上のことばとして書いたとか。今だったら「捏造」ということで大騒ぎになるかもしれません。マリー・アントワネットの「パンがなければお菓子を食べればいいのに」も、実際には別の人が言ったことばらしいし、「お菓子」も実はパンより安い小麦で作られるもののことだという説もあるそうです。誤解されて伝わっていくこともあるのですね。酒呑童子も漂着したシュタイン・ドッチという西洋人で、その見慣れない姿形を都の人たちは鬼だと思った、という魅力的な話もあります。人の生き血を飲んだというのも、実は赤ワイン? これは小説になっていたのですが、ひょっとしたら、実際にそういうことがあって伝説が生まれたのかもしれません。

何にしろ、ちょっと時がたてばわからなくなります。戦時中のことさえわからない、というのが驚きですね。当時、大人だった人たちがどんどんいなくなっているのですから、実際に体験した人がいないと、わからなくなるのもやむをえないのでしょう。昭和の日常的な生活のことさえ、今の若い人たちにとっては知らないことです。たとえば「ダイヤルを回す」という言い方はもはや死語でしょうか。今どき、ダイヤル式の電話を見ることはありません。にもかかわらず、110や119はそのまま残っているのですね。緊急時なのでダイヤルが回る距離が最も短い1を基本にして、さらに誤りを防ぐために距離が長い0や9と組み合わせたのですが、プッシュホンでは全く無意味です。でも、いったん決めたことを変えるわけにはいかないので、そのままにしているのでしょう。「呼び出し電話」というのもありましたが、何のことかわからない人が多いでしょう。電話を持っていない人が、電話がある近所の家などに取り次いでもらって、電話を受ける「システム」です。だれもがケータイを持つ時代では、もはや完全な死語です。電話の設置場所も玄関をはいってすぐの下駄箱の上などが多かったのも、「呼び出し」の便宜を考えたものでした。黒電話の上にカバーをかけたり、レースのかざりをしたりして、電話というのは「豪華家電」だったのです。

高速道路の制限速度が100キロになっているのも、なぜかはもうわからないらしいですね。その設定にした理由が記録としては残っていないということです。記録がないとわからない、ということになったらもはや民俗学の対象ですね。今はかなりのものが情報化されているので、状況は変わっています。むしろ情報が多すぎるので、真偽を見分ける必要さえ出てきます。ウィキペディアなんて、その最たるものですね。ふつうは、文字化されることによって権威が生まれてくるので、みんな信じてしまうのでしょう。もっともネット上の文字でしかないウィキでは、権威は少ないようです。その点、いまだに新聞は権威を持っていると言えるでしょうが、それも少しあやしくなってきました。とくに朝日新聞によって、新聞の信頼度が疑問符付きになっています。朝日とサンケイを読み比べると、同じニュースのはずなのに、正反対のことが書かれているのが不思議です。さすがに、事実そのものが大きくちがうということはあまりありませんが、解釈や評価は全くちがいます。そういえば、朝日新聞は最近、ちょっとしたミスも訂正するようになりました。謙虚さも感じられますが、それにしても多すぎです。変換ミスが多いし、事実関係も違っていることもあります。記事の内容そのものには大きな影響を与えないミスも多いのですが、ほぼ毎日のように訂正があるというのはいかがなものか。「確認が不十分でした」と書かれていますが、「不十分」ではなく、確認をしていないのかなと思います。新聞記者の能力が落ちてきているのでしょうか。それとも、昔からこういうミスは多発していたのだけど、ただ表に出なかっただけなのでしょうか。

 昔はよかった、と思うのは、単なる思い込みで、昔だってひどいことはたくさんあったのに忘れているだけなのかもしれません。昔の人が優れていたわけでもなく、今の人が劣っているというわけでもないでしょう。天才的な人物は過去にもいただろうし、今もいるし、未来にも出てくるでしょう。最近、地下鉄の西中島南方、阪急の南方に行く用事がありました。「敵のいない駅、みなみかた」というやつですね。地下鉄は「にしなかじまみなみがた」で、「かた」ではなく「がた」らしい。それは置いといて、「南方」について検索しようとしたら南方熊楠という名前が出てきました。「みなかたくまぐす」です。これは天才ですねぇ。「歩く辞書」という表現がありますが、この人は「歩く百科事典」と呼ばれたのですから、けたがちがいます。分類すれば博物学者ということになるのでしょうか。子供のころ、100巻ぐらいある博物図鑑を少しずつ読んで覚え、家に帰ってから記憶をもとに書き写したという話もあります。何の植物だったか忘れましたが、元の絵と並べた写真を見たことがあります。見比べると、細かい部分までほぼ一致していました。20か国語ぐらいしゃべれたそうですが、それもすべて耳で聞いて覚えたとか。昭和天皇に御前講義をしたときに、何かの標本を献上しました。その標本がキャラメルの箱にはいっていたというエピソードが有名です。天皇も心ひかれたのでしょうか、「…紀伊国の生みし南方熊楠を思ふ」という歌を詠んでいます。

異様なまでの記憶力などは、ひょっとしたらアスペルガー症候群の可能性もあります。いずれにせよ、天才と呼ばれる人は常識人のはずがなく、他の人とちがったところがあるからこそ天才と呼ばれるのでしょう。そういう優れた才能は、「天才」とか「偉才」とか「鬼才」「奇才」「異才」「異能」などなど、いろいろ呼ばれますが、どれが一番すごいのでしょうか。「秀才」「俊才」「英才」は一般人の中で優れた人物という感じですが、「天才」となると、先天的に特別の才能を持っているというニュアンスが出てきます。「奇才」は普通の人にない能力を持っている感じがあり、「異才」「異能」は一風変わった独特な能力という感じです。「鬼才」は「異端」の要素がはいってきますね。だから、誰かのことを「鬼才」と呼ぶときには、正統派ではないという雰囲気が漂い、必ずしも全面的な評価をしているわけではなさそうです。最近では「その発想はなかった」というような発想をする人に対して使ったりすることもあり、軽く見ているか、ばかにしている感じもします。ある意味で、苦し紛れのほめことばなのかもしれないので、言われても喜んではいけないかも。

2016年4月24日 (日)

左卜全という人もいました

聖徳太子が隋の煬帝に出した有名な手紙がありますが、あれは聖徳太子が中国語で書いたのか、日本語でしゃべったことをだれかが翻訳して書いたのか。当時の知識人は文章語としては中国語を使っていたのでしょう。読んだり書いたりはできたかもしれませんが、話せたのでしょうか。遣唐使として中国に渡った人は、まず中国語を勉強していったのでしょうか。駅前留学みたいな中国語会話の教室があったのかなあ。逆に、鑑真は日本語が話せるようになったのでしょうか。こういうのは記録が残っていないのですかね。

幕末の西郷隆盛と桂小五郎はどういうことばで会話をしたのでしょうか。桂は江戸の三大道場の一つ、練兵館で修行をして塾頭となっていますから、江戸のことばが理解できたはずです。でも、西郷はそうではないので、おそらく文章語を話しことばとして使ったのでしょう。手紙の候文や謡曲などで使われることばをベースとした「侍言葉」みたいなものがあったのかもしれません。大河ドラマでよくやっているように方言を交えることは、西郷隆盛でもしなかったのではないか。もちろん、会津の下級武士などは訛りがひどかったでしょうが、それでもなんとか意味は通じたはずです。では、一般庶民同士ならばどうだったのでしょうか。不便なことが多かったにちがいありません。そこで、共通語の必要性が出てきたわけです。

いまは共通語の影響を受けて、方言もどんどん「共通語化」しつつあります。純粋な鹿児島弁を理解できない、若い人たちも出てきています。「強い方言」である大阪弁にしても、どこまでが大阪弁になるのでしょう。落語の中に出てくるようなことばを今どき使う人はいません。「何言うてまんねん」とか「そんなもん、おますかいな」とか言うと変人あつかいされます。いわゆるオチケンの大学生などが、たまにコテコテの大阪弁を使ってたりしますが、プロのはなし家でも、いまは共通語化された大阪弁ですね。大阪出身とはかぎらないので、アクセントなどちょっと変な落語家もいます。

江戸落語の三遊亭圓生の大阪弁はさすがにうまかった。大阪生まれだったので、当然と言えば当然ですが、船場言葉と庶民の言葉も使い分けられたし、京都弁ともちがえていました。天才タイプの古今亭志ん生でも、大阪弁はだめでした。むこうのハナシの中に大阪の人間が登場するものがあるのですが、その部分の大阪弁のイントネーションがどうしても不自然になってしまいます。息子の志ん朝でも、やはり大阪弁はできませんでした。さすがに圓生です。本来、人間国宝になってもおかしくなかったんですがね。米朝ならともかく、小さんが人間国宝って、なんで?と思いました。三枝改め文枝がこのまま行けば人間国宝だったのに、つまらないことで逃した、と言っている人もいましたが、それも「へ?」ですね。落語家としての格が圓生とは比べものになりません。ただ、圓生さん、「どうだ、オレはうまいだろ」というのが感じられて鼻につくこともたまにありました。事実、うまいので仕方がないのですが。亡くなったときは、新聞に大ニュースとして載るはずだったのに、同じ日に上野動物園のパンダのランランが死んでしまい、そちらの方が大きく取り上げられたというのは残念至極。圓生を襲名するかどうかで、弟子たちの間でもめていましたが、その後どうなったのか。いずれにせよ、圓生を名乗るのもおこがましい、という感じがします。

圓生以上に襲名するのも恐れ多いのが圓朝です。春風亭小朝に襲名の話があったけど、さすがに辞退したとか。当然のことながら、圓朝のハナシをじかに聞いた者などいません。どれだけすごかったか、ということが「伝説」になって残ってゆくのですね。「天井から血がぽたり」と言った瞬間、客がみな思わず寄席の天井を見上げたとか、話が進むにつれて、怖さのあまり、みんなが身を寄せ合ってしまい、客席の四隅が空いてしまったとか。こういう「伝説」は伝わるうちに、だんだんと誇張されていくこともありそうです。たとえば、すごい力持ちで、こんなものを持ち上げた、というような話が、はじめはそんな重いものをよく持ち上げたなあのレベルだったのが、それは無理やろと思うようなものを持ち上げる話になっていくとか。平家物語の「ひよどりごえ」の逆落としの場面で、畠山重忠が愛馬三日月を傷つけまいと思って、馬を背負って駆け下りた、という話があります。競馬で乗るサラブレッドは450キロぐらいなので、これは無理でしょう。重量挙げの記録でも250キロぐらいです。ただし、サラブレッドは源平時代にはいません。大河ドラマの合戦シーンに出てくる馬はサラブレッドではないかもしれませんが、当時の大きさではないでしょう。日本本来の馬はもう少し小さかったようです。ただ、それでも250キロぐらいはあったので、それをかついで崖を走り降りるというのは相当すごい。

この前、テレビで、コンビニの床に足をつけずに買い物をして、マンションの3階まで届けるというのをやっていました。いくつもの突起物がついた壁を登っていくスポーツがありますね。あれのチャンピオンの女の人がチャレンジしたのですが、それは見事なものでした。指の力、腕の力、背筋の力などをフルに使って、スパイダーマンのように動いてました。まさに「伝説」になってもおかしくないような技でしたが、いまはテレビだからそのまま残っていきます。でも、昔のものは映像もなく、話だけなので、伝えるうちに、少しずつ脚色されていくこともあるでしょう。

NHKで堺雅人が演じた剣の達人塚原卜伝にはいろいろなエピソードがあります。生涯、二百人以上を倒しながらも、一度も負けず、傷一つ受けなかった、というのからして、ほんまかいなと思います。卜伝が琵琶湖で船に乗っていたところ、乗り合わせた武士に勝負を挑まれた、という話があります。小さな島が見えたので、そこで勝負しようということになって、武士は島に飛び降りました。卜伝は船頭から棹を借りて岸を突き、武士を島に残して去っていったという、無駄な争いをしなかったというエピソードも有名です。灘中の入試にも出ました。馬に蹴られないようにするため、わざわざ馬の後ろを避けて通ったという話もあります。このへんの話なら、あっても不思議ではありませんが、卜伝といえば、もっと有名な話があります。宮本武蔵が後ろから斬りかかったところ、卜伝が振り返って鍋の蓋で受ける、という、昔ドリフターズのコントで、志村けんと加藤茶が「修行が足りんわ」とか言って、むこうずねに木刀をあててたやつです。でも、武蔵と卜伝ではまったく時代がちがいます。だれかが武蔵と卜伝が勝負したらおもしろいぞと思って作ったんですね。無責任なおもしろがりです。

2016年4月10日 (日)

本がブックブックと沈む

前回「大リーグのマスコット」と書きましたが、この「大リーグ」ということばも死語になりつつあるのでしょうか。最近では 「メジャーリーグ」またはその省略形の「メジャー」という言い方しか聞かなくなりました。そのほうがおしゃれなのですかね。ところで、majorの発音は「メイジャー」のほうが近いはずです。「チーム」を「ティーム」と発音する、いたいアナウンサーでも、「メジャー」と言って「メイジャー」と言わないのはなぜでしょう。「メジャー」は昔は巻き尺の意味でしか使わなかったのに、いつのまにか「大きい」とか「数が多い」の意味で使われるようになりましたが、実は、さらに発音も平板化しているようです。巻き尺のときは「メ」にアクセントが置かれていましたが、いまのプロ野球の選手がアメリカに行きたいという意味で「メジャー」と言うときには、ダラーとした平板な発音になっています。

よくまちがわれる外来語(日本語として定着してはじめて外来語と言えるのでまだ「英語」と言うべきかもしれませんが)に、「スイート」というのがあります。もちろん「甘い」の意味で、日本語の中に無理矢理はめこんで使っていました。だいたい形容詞は外来語としては使いにくいのですね。いつのまにか「スイーツ」ということばも使われるようになり、これは「甘いお菓子」という意味のようです。さて、問題はホテルの「スイートルーム」の「スイート」です。これが「甘い」のsweetではなく、suiteと書き、「一揃い」という意味であることはけっこう知られています。要するに、寝室だけでなくリビングや応接間などがそろった部屋ということですが、新婚カップルが宿泊するための部屋だからsweetだと思っていた人が昔は多かったんですね。日本語には同音異義語が多いのですが、英語にもあります。

発音に関して言うと、「ベッド」を「ベット」だと思っていた人も多かったようです。「ベット」はドイツ語から来た可能性もありますが、おそらく「ド」で終わる単語が日本語では少ないために、「ト」の発音に変わったのではないでしょうか。「ティーバッグ」もいろいろなところで取り上げられていましたね。「バッグ」をまちがえて「パック」と言っている場合もありましたし、紅茶の紐付きの「ティーバッグ」とちがって、麦茶なんかのはいった紐なしのやつは「ティーパック」と言うんだ、とか。女性用の下着に「Tバック」というのも存在しました。ただ、老人は濁音より半濁音を好むのか、「ビートたけし」も最初のころは「ピートたけし」と言う人もいました。濁音そのものは日本語に存在するのですが、あまり好まれなかったのか、「山崎」や「中島」という苗字は西日本では濁らずに「やまさき」「なかしま」と言う、というのをこの前テレビでやってました。たしかに、「高田」はふつう「たかだ」ですが、ジャパネット「たかた」は九州です。ただ、東日本の訛りという問題があります。茨城県の人が、「茨城」は「いばらぎ」ではなく、「いばらき」が正しいと言うのですが、その発音がどちらも「えばらぎ」にしか聞こえません。「き」のつもりでも結局は濁ってしまうのですね。

濁るか濁らないかについては、その前の音によって決まる場合もあります。「一本」は「ぽん」、二本は「ほん」、「三本」は「ぼん」なので、促音「っ」のあとは「ぽ」、撥音「ん」のあとは「ぼ」になりそうですが、「四本」は「よんほん」になって、規則性がないように見えます。実は、「よん」は訓読みなので、他と条件がちがうのですね。「匹」「階」も「三」と「四」で変わってくるのはそういう理由です。ただ、そうすると、では、なぜ「四」は音読みしないのかという問題が起こってきます。たしかに「しほん」ならまだしも「しひき」「しかい」はわかりにくい。「死」につながるのだから避けたのだという説もあるようで、「九」も「く」が「苦」につながるので避けるのだとか。でも、「一二三…」と順に言うときの「四」は「し」で、「十九八…」と降りてくるときには「よん」になるということの説明にはなりません。

「一二三四…」を「ひいふうみいよう…」と読むときもあります。「一」とその倍の「二」が「ひい」と「ふう」、「三」と「六」が「みい」と「むう」、「四」と「八」が「よう」と「やあ」になって、それぞれ同じ行になるのは偶然か、なにか規則性があるのか。日本語と英語の単語が似ていても、それは偶然だろうとふつうは思います。「名前」と「ネーム」、「坊や」と「ボーイ」が似てると言われても、ああそうですか、と言うしかありません。「グッド・スリーピング」と「ぐっすり」とか、「ケンネル」は「犬寝る」で「犬小屋」だとか、「ナンバー」は「なんぼ」と似てるなんてのは、こじつけにすぎないし、ディクショナリーは「字引く書なり」、とか「石がストーンと落ちた」なんてのは単なるだじゃれです。「ブック・キーピング」を「簿記」、「シグナル」を「信号」としたのは音を意識して、日本語に訳したのだとも言われます。

いずれにせよ、日本語と英語では、系統的に見ても異なる言語ですが、古代の日本語と朝鮮語のレベルならどうなのでしょうか。同系統のことばだったのか、交流があったことからことばの行き来もあったのか。「ワッショイ」の語源は古代朝鮮語の「ワッソ」だというのも、否定的な見解がありますが、なんらかの関係があってもおかしくないような。ただ、古代朝鮮語自体がよくわからないようですね。今の韓国語では「国」という意味で「ナラ」と言いますが、だからと言って「奈良」と結びつくのか。韓国語で「母」は「オモニ」ですが、日本語の「母」も「母屋」のときは「おも」と読みます。偶然なのか、なんらかの理由があるのか。

聖徳太子の家庭教師は高句麗からやってきた恵慈という坊さんですが、二人は何語で話していたのでしょうね。恵慈は当然「高句麗語」でしょうから、聖徳太子は高句麗語を話せたのか。通訳を介してということはないでしょう。坂口安吾は聖徳太子は高句麗系だと言っていましたが、法隆寺の壁画を描いた曇徴はたしかに高句麗から来ています。でも、法隆寺には百済観音があるし、聖徳太子からもらった弥勒菩薩像で有名な広隆寺を氏寺本がブックブックと沈むとする秦河勝は新羅系だと言われています。新羅・百済・高句麗のことばと日本語はどういう関係だったのでしょうか。司馬遼太郎だったか、そのころはゆっくりと大声で話せば通じたとか乱暴なことを言っている人がいましたが、意外にそんな感じだったかもしれません。スペイン語とポルトガル語のちがいは、関東と関西の方言ぐらいの差だとよく言われます。そんなレベルだったのかなあ。

2016年3月 6日 (日)

全然ちごーよ

関ヶ原の合戦で破れた真田親子が紀州九度山で細々と暮らしていたとき、紐を作って売ることで生計を立てていたとか。その紐を真田紐と言い、その紐に似ているということで、寄生虫のサナダムシが名付けられました。ひょっとしたら、真田十勇士が紐商人として各地に売り歩きながら情報収集をしていたかもしれませんね。いずれにせよ、真田幸村がイケメンだった裏付けは何もありませんが、実際にイケメンだったということで人気が出てきたのが長宗我部元親です。もし、坂本龍馬の先祖が明智とかかわりがあったとすれば、光秀が長宗我部家との連絡係だったので、その関係を通じて土佐にやってきたという可能性もあります。

でも、歴史上のイケメンと言えば、なんと言っても在原業平でしょう。『日本三代実録』にハンサムだったと書かれています。実在の人物だから、元親にしても業平にしてもイケメンというのは十分ありえるのですが、最近は日本刀までもがイケメンになっているようです。刀剣を擬人化してイケメンにするというのはすごい発想ですが、ゲームだけでなく、商品とか、地名・駅名まで擬人化されています。軍艦を女の子に擬人化するというのもなかなかの発想でした。戦国武将や三国志の武将が女の子のキャラになるという、「人間の擬人化?」さえ起こっています。こういう擬人化・キャラクター化の最初のものは何だったのでしょうか。ひょっとして鳥獣戯画? いやいや、元をたどればアニミズムにまで行き着くかもしれません。世の中に存在するすべてのものにアニマ、つまり魂があり、一つ一つの石ころにさえ神様が宿るという考え方ですね。原始宗教ですが、日本では特にそれが強かったらしい。八百万の神ですね。今でも、針供養をするわけですから、日本人は擬人化が好きなのですね。「国語くん」とか「算数くん」という擬人化もできそうです。

ゆるキャラもブームになって久しいのですが、日本最初のキャラクターって何だったのでしょうね。卑弥呼かなあ。企業とか商品などのマスコットキャラクターとしては、不二家の「ペコちゃん」なんかは相当古いですね。スポーツにもありました。巨人のミスタージャイアンツは趣味が悪かったなあ。長嶋と王の顔をミックスしたとかいう設定だったと思いますが、相当気色悪かった記憶があります。阪神のトラッキーが登場したのはそれよりずっと後でしたね。大リーグのマスコットも実はそんなに古いものではないかもしれません。だいたい、何をもって「最初」とするか、あいまいなものが世の中には多いようです。

十三駅のホームで、西宮北口に向かうために特急を待っていました。2012年7月14日のことです。パリ祭、フランスの建国記念日なので覚えているのですが、暑かったのでちょっと日陰になる壁のところに一列になってもたれている人たちがいました。同じホームに特急だけでなく、急行や普通もはいってくるので、次の特急を外してわざと後ろにさがっていると思っていました。ところが、特急がホームにはいってきて、ドアが開いた途端、その中の大学生ぐらいの年頃のおねえちゃんが、スルスルと前に出てきて、「ちょっと、並んでたんですけど!」と不愉快そうな口調でのたまうではありませんか。「え、どこに? おまえが壁にもたれて楽してる間に、こっちは暑い中、立って待ってたんや。おまえら、どこに並んでたと言うんじゃい!」と怒鳴ってやろうと、心の中で思いながらすごすごと順番を譲っちゃいました。おそらく、彼女は「順番から言えば、私が一番先に来たんだけど、暑いから壁にもたれてただけで、一番の権利は私にあるよねー」と思ってたんでしょうね。私が並んでると思ってるから、それは並んでることになるんだ、という主張なのでしょう。自分が思っていることをわからないおまえが悪いという表情でこっちをにらみながら彼女は乗っていきました。かくして、「並んでいないのに並んでいると主張する若者の登場」は2012年7月14日のことであることが明らかになりました。今後、こういうヤカラが出てきたときに、この日が思い出されることになるでしょう。

パンツを見せて、ズボンをずらしてはく恥ずかしい人たちは最近さすがに少なくなりましたが、ああいうのも一番はじめはいつだったのでしょうね。アメリカからはいってきたもので、ヒップホップ系のミュージシャンの真似から始まったようです。起源はアメリカの刑務所で囚人たちが自殺防止のためにベルトをつけられなかったことだとか。「ヤバい」をプラス評価で使うようになったのもいつからでしょうか。「真逆」も、いつのまにか「まさか」ではなく「まぎゃく」と読む人が出てきました。電車の中で飲食する人の登場はいつからでしょうか。アメやガムは昔からありましたが、ガムは音を立てるので不快に思う人もいるでしょう。ペットボトルは液体なので、人に迷惑をかける可能性があります。おにぎり・パンはがまんできても、スパゲッティやカレーはやめてほしい。汽車ならともかく、乗っている時間の短い電車の中での飲み食いは原則アウトだったはずですが、今は平気でカップヌードルを食べているやつがいます。

茶葉を「ちゃば」と読んで使うのもいつからでしょう。そんなことばを聞いたことがなかっただけに、音訓読みに抵抗があります。たしかに「ちゃ」は音読み感が薄れてはいますが。「美肌」も困ったことばですね。すなおに「びき」と読んだら意味が通じそうにないし、「びはだ」と言うのもなんか変です。こんなことば、昔からあったのかなあ。「防かび」も抵抗があります。漢字で書けば「防黴」なので、「ぼうばい」と読むのが素直なのですが、読めない人が多いから、かな書きになったのかもしれません。「じいじ」「ばあば」という、おかしなことばも最近よく聞きますね。素直に「じじい」「ばばあ」と言えばいいのに。「じじ」「ばば」はけっして悪いことばではありません。「ちち」が年とって「ぢぢ」に、「はは」が年とって「ばば」になっただけです。なにか胡散臭く感じるのは、仕掛けたやつがいるからですね。絶対にだれかが意識的に作ってはやらせようとしたことばです。それにおどらされていると感じる人には抵抗があるのでしょう。「ちげーよ」というのもありますね。ちょっとワルぶっている若者がドラマの中でよく使います。もちろん、その影響を受けて、実際に使う人もいるでしょう。これはおそらく、だれか頭の悪いやつが最初に使ったんですね。「近いよ」や「すごいよ」はたしかに「ちけーよ」「すげーよ」になります。「ちがいない」も「ちげーねー」となりますね。江戸っ子のことばでは、aiがeiに変わります。「すごい」が「すげー」になるのは、oiがeiに変わったわけで、「とおい」が「とえー」になることもあります。でも「ちがうよ」はauなので、変わるとすればou、つまり「ちごーよ」のはずですが如何?

2016年2月22日 (月)

サナダムシの名の由来は幸村

大河ドラマの『龍馬伝』で岡田以蔵を演じたのは佐藤健で、勝新とはちがう、なかなかいい味を出していました。『天皇の料理番』でも堺正章やさんまを超えたと評した人がいました。私ですが…。

ところで、岡田以蔵は、諱(いみな)ではなく「以蔵」という名で呼ばれますが、歴史上の人物の呼び方はどうやって決めるのでしょうか。たとえば、社会のテストで「勝海舟」と答えずに「勝麟太郎」「勝安房」としたら×になるのか、足利尊氏を高氏としたら×なのか。鎌倉幕府を滅ぼした時点では、まだ北条高時からもらった「高」で、幕府滅亡後に後醍醐の「尊治」からもらった「尊」に変えたのだから、「鎌倉幕府を倒したのはだれか」という問題なら「高氏」と答えるべきなのか、それとも最終的な名前で答えるべきなのか。「中国の孔子」という言い方も考えたらおかしいわけで、孔子の生きていた時代には「中国」とは言わなかったはずです。結局、現代の目から見た呼称でよいのかなあ。

諱と字(あざな)の問題とは別に文化人には「号」というのもありますね。ペンネームみたいなものですが、「号」はそのままで独立しています。「夏目漱石」「森鴎外」は「漱石」「鴎外」と呼んで抵抗がないのは「号」だからですね。ということは、テストの答えで「号」だけ答えても×にはできないはずです。「海舟」も「号」なので、そのままでも点をもらえるのかなあ。「松陰」もそうですね。文化人以外にも結構います。西郷隆盛の「南洲」も「号」でしょうし、犬養毅の「木堂」、尾崎行雄の「咢堂」は明らかに「号」ですね。芥川や太宰は「号」を使っていないので、下の名前ではなく姓で呼ばれるのでしょう。ただし、川端はなぜかフルネームで呼ばれることが多い。横光は姓だけでもOKで、志賀は微妙、武者小路はOK。ということは、ありふれた名字は紛らわしいのでフルネームになるのかもしれません。

将軍は下の名で十分ですね。頼朝、尊氏、家康でまちがえようがありません。有名武将も下の名前だけで呼ばれることがあります。信長、秀吉はもちろん、加藤清正でも清正でOKなのに、福島正則はフルネームですね。家康四天王のレベルでも「本多忠勝」のようにフルネームか、下手すると、ご丁寧に「本多平八郎忠勝」と呼ばれることもあります。単なる知名度の差とも思えませんし、このちがいは何なのでしょうね。吉田松陰の諱はほとんど知られていませんが、通称の「寅次郎」は知っている人もそこそこいるようです。ということは、同時代の人たちは「寅さん」と呼んでいたかもしれません。年下の家来の門下生になった、そうせい侯毛利敬親はどう呼んだのでしょうか。

坂本龍馬は「龍馬」ですね。「坂本」とは呼ばれません。坂本城を領した明智光秀の娘婿の子孫なので「坂本」になったと言いますが、坂本の家の株を買っただけで、光秀と直接のつながりはないようです。関ヶ原で徳川に負けた島津・毛利と秀吉に負けた明智が力を合わせて徳川氏を倒した、というストーリーはなかなかおもしろいのですが。その薩長がつくりあげた日本が太平洋戦争で負けたときの戦後処理は奥羽出身者がやったというのにもつながるような。そして、今また長州の安倍さんという流れになっているのは、歴史はくり返す、ということですかね。長州の高杉新作や薩摩の西郷、大久保は、龍馬とちがってやはり姓で呼ばれるので、龍馬だけが別格なのかもしれません。

自分の名前の一字を子供や家来に与えるということがよくあります。平氏はみんな○盛です。この「盛」や北条氏康・氏政・北条氏直の「氏」は、通字と言って、一族で使う字です。これに対して、たとえば足利将軍が大名に自分の名の一字を与えることがあり、これを偏諱(へんき)と言います。偏諱を与えれば、お礼をするのが普通ですから、要するに金儲けの手段にもなっていたようですね。そうすると、大名の名前は通字プラス偏諱になることがよくあります。伊達尚宗・稙宗・晴宗・輝宗なんかはそうですね。輝宗の子の政宗は何代か前の先祖の名前をそのままもらったようですが。諱というのは「忌み名」ですから、本来、表に出さない名前です。日本を含め、東南アジアにはそういう考えがあったみたいで、中国では皇帝の名前の字を使ってはいけないということがよくありました。漢の劉邦の「邦」が使えなくなって「国」の字を使ったりしたんですね。都市の名前さえ変えさせられることもありました。ロシアではピョートル大帝の名前を付けたサンクト・ペテルブルクがレーニンの名前のレニングラードになって、また元にもどっていますが、大ちがいです。日本の天皇家では「仁」の字が用いられます。一般庶民がこの字を使って子供の名前をつけたら「不敬罪」ものだったようですね。

ところが、日本では武士の時代になって、主君の名の一字を与えられることが名誉になってきます。武田信玄の晴信は12代将軍の義晴から、上杉謙信の輝虎は13代義輝です。同時代の大名の名前が似ているのは、そういう理由ですね。「義」をもらった大名もいて、朝倉義景とか最上義光、島津義久・義弘、相良義陽などなど、結構います。源義家以来、「義」の字は源氏の通字でしたが、足利氏は源氏の中では傍流になっていました。それが征夷大将軍になったことで後継者意識が芽生えて、「義」の字を復活させたのかもしれません。徳川家康にしても、もともと松平元康でしたが、この「元」は当然今川義元からもらったものなので、義元が死んだ後はさっさと変えています。長男の「信康」の「信」は信長からもらったのでしょう。「秀康」は豪華ですね。実の父の家康と養父の秀吉から一字ずつもらっています。その弟の「秀忠」の「秀」も当然秀吉です。大谷吉継とか堀尾吉晴、田中吉政は「吉」のほうをもらっています。榊原康政の「康」は家康からもらったのでしょうね。江戸時代になっても島津斉彬など「家斉」からもらった名前があります。徳川家の通字は「家」ですね。結局、みんな名前が似てしまうので、どの将軍だったかなあと迷うことになります。それでもルイ何世よりはましですが。徳川家で「家」の字を使わないのは傍流の証拠で、綱吉も吉宗も慶喜も、直系ではないわけです。

織田信成は「信」の字がはいっていますが、織田家はやはり「信」の字がほしいなあ。今年の大河ドラマは「真田幸村」ですが、もとは真田信繁でした。祖父が幸隆、草刈正雄がやってる昌幸は三男で、その子が信幸・信繁ということになります。「幸村」という名前は後世の『難波戦記』の作者がつくったと言われますが、どこから来たのでしょうね。真田十勇士も同じ作者の創作です。芝居の世界と同じように、幕府からのおとがめを避けるための改名かもしれません。ゲームの世界ではイケメンという設定ですが、当然これも創作で、そんなわけねえよ、ということですな。

2016年2月 9日 (火)

おひさしぶりですパート2

突然ですが、やっぱりブログ書かなあかんなと思ったわけです。

もともとだれに頼まれたわけでもないのに自分でやりたいと言い出してはじめたブログです。待ってる人はもちろんのこと読んでる人さえいるかいないかわからないブログですが、特に伝えたいことも鋭い主張も繊細な感受性もないブログですが、わしは書く! 書くといったら書く!

というわけでわたしは帰ってきました。これからは書いて書いて書きまくる所存です。定年退職までウン年間、週に一本のペースで書き続けます。いや、それはちょっとキツいですね。年に一度にします。年に一度といえば七夕ですね、年に一度、七夕の日にアップするというのはどうでしょう、もちろん雨が降ったら中止です。

というのはもちろん冗談! わしは書きます! 週に一度は無理かもしれないが年に一度よりははるかに高い頻度で書きます! しかし! 

問題は何を書くかですよねー。突然冷静になってしまいました。書くことがないんすよねー。鋭い主張と繊細な感受性の発露を自分に禁じてしまったせいですかね。いや正直、それさえ書いて良いのであればいくらでも書けるんすよ、でも、そんなの僕らしくないじゃないですか、ね? 「ね?」とか言われても困ると思いますけどね。でもまあそうなんです! ゆえに書くことがありません!

とか強弁しててもしょうがないので、何か書きますか。

さて。

わたしのチューター生で、今年卒塾した某君は読書家です。受験勉強も佳境をむかえていた晩秋、引率中に彼が言いました。

「読む本がないので、プラトンの『国家』を読んでるねんけど、きつい。」

いや、いくらきみが読書家で国語ができるといってもそれは無理でしょ、と思った僕は、彼に本を貸してあげることにしました。ほんとうはこんな時期に受験生に本を貸すなんて塾講師にあるまじき行為なんですが、彼なら大丈夫だと思ったんですね。というかむしろ、この子なら、なまじ問題を解くよりも骨のある本を読んだ方が力がつくんじゃないかと真剣に考えたわけです。それで、筑摩書房から出ている『高校生のための文章読本』という本を貸してあげました。モーパッサンにはじまり、武満徹やら小林秀雄やら永瀬清子に淀川長治に塩野七生に・・・・・・とそうそうたる顔ぶれのアンソロジーです。しかも、一つの文章につき問題が(それも相当キツいのが)一問ずつついており、異様にくわしい解答まで別冊でついています。え? 小学生に『高校生のための』本を貸すなんて無茶だ? 何をおっしゃいますやら、この本は、私が大学の教養部生のときに買った本ですが、当時、問題が難しすぎて手も足も出なかった本なんですぞ。え? ますますひどい。そのとおり! でも、彼なら何とか読めるんじゃないかと思ったんですよね。もちろん問題はまともに解けるわけがないけど、解答を読むだけでも勉強になるはずだし・・・・・・と思いました。

先日、会ったときにおいしいチョコレート付きで本を返してくれましたが(ぼろい本を貸しただけなのに申し訳ないというかラッキーというか)、

「今何読んでるの?」

と訊くと、彼の取りだした本が、埴谷雄高の『闇の中の黒い馬』。

だから、背伸びし過ぎなんだってば!

背伸びして難しい本を読みたくなる年頃ってあるんですけど、彼の場合はふつうよりだいぶ早いようですね。でもいくらなんでもキツいと思うなあ。しかし、同じ埴谷雄高でも『永久革命者の悲哀』じゃなくて良かったぜ、と思う私でありました。

さて、某君、埴谷雄高を読むなら、『虚空』とかどうでしょう。で、『虚空』を読んだら、その勢いでポーの『メエルシュトレエムに呑まれて』を読みましょう! 並べて読むとなかなか感慨深いんじゃないかと思いますよ~。でも、キミにお勧めなのは、福永武彦の『死の島』。なぜお勧めかといわれても困りますが、何となくきっと気に入ってくれるのではないかと思います! 何なら貸してあげるぜ!

(以上は2/8に書いたもので、以下は2/9の加筆です)

ちょっと付け足します。

福永武彦の『死の島』を僕が読んだのは高校一年になる直前の春休みでした。特に憧れていなかった第3志望ぐらいの公立高校に合格してやれやれとひと息つき、九州に旅行したときに持って行ったんです。長崎の片田舎に祖母が(だいぶ前にこのブログに書いたことがありますが、銭湯から帰るときに上半身はだかで帰ってくるワイルドな人で、ご近所さんに恐れおののかれていました)住んでおり、そこをねぐらにして雲仙とか阿蘇とかひとりで観光して回るあいだに読んでしまいました。当時の日本の小説としてはわりと前衛的な手法も使われていてびっくりしましたが、なんせおもしろかった。それからしばらくは福永武彦ばかり読んでいました。解説に、「死の島」というのは「広島」のことで、「しのしま」と「ひろしま」で韻を踏んでいるのだと書いてあり、「韻」というものを理解していなかった僕は「駄洒落じゃん!」と失礼なことを思ったりしていました。

そういえば、「しのしま」という表現はべつの物語にも出てきました。斎藤惇夫さんの『ガンバとカワウソの冒険』です。「四の島」に四十万の支流をもつ川があって・・・・・・という設定ですが、つまり「四国」で「四万十川」ですよね。そこでガンバたちが追いつめられ「四の島」が「死の島」に・・・・・・というような話だった気がします。すみません、読んだのが相当昔なので記憶がさだかではありません。

坂東眞砂子さんの『死国』も「四国」をもじったものでしたね。八十八カ所を逆に回るとおそろしいことが・・・・・・みたいな話じゃなかったでしたっけ。

坂東眞砂子さんの随筆は灘コースの志望校別特訓のテキストに入っています。台風が好きだ~という内容の随筆なんですが、ホラー作家ならではの表現上の工夫が随所に見られ、書き手がどんなことを考えてどんな書き方をするのかということを考えさせるための教材としてとても良いのです。福永武彦さんの文章は使っていませんが、池澤夏樹さん(福永武彦さんのご子息)の文章は灘中の入試で出題されたことがあるし、僕もプレ灘中入試で出題したことがあります。坂東眞砂子さんにしろ池澤夏樹さんにしろ、よくよく考えて上手に書かれた文章は授業をしていてもやりがいがありますね。

2016年1月22日 (金)

おひさしぶりです。

言いわけするのもいやになるぐらい、更新をさぼっていました~。

しかし、まだ入試は続いています。関西における入試が完全に終わったら書きます!

必ず書きます! たとえ山に行かなくて書くことがなくても書きます。だれも待っていないと思うけれど、いましばらくお待ちください!

2015年9月27日 (日)

衝撃の亜空間、シネマ食堂街続報!

少し前の話ですが、台風が来ました。私が山に登ったからです。ええ、そうです。私が登ると来るんです、知ってます。毎年の話ですからね。もはや台風が来るの来ないので一喜一憂する私ではありませんよ。来たければ来ればいいんです。僕は逃げも隠れもしないんですから。

というわけで、先日、北アルプスを縦走してきたのですが、台風&秋雨前線のため、五泊六日の山行中、雨が降らなかったのは下山する日だけでした。おかげさまで何もかもからからに乾いた状態で下山できてハッピー! いいんですよ、下山する日さえ晴れれば! すれちがった人たちの楽しそうなこと! ちっ!

おまけに、台風のせいで予定が狂い、下山したらまず室堂のミクリが池温泉に入るという当初の計画は見直さざるを得ませんでした。じゃあしょうがないから富山市内の観音湯という銭湯に入ろうかと思って一応調べてみたら、なんとすでに廃業されているとか。六日も山にいるとすごく臭いので、風呂に入れないまま高速バスに乗るとものすごい顰蹙を買うことうけあいです。やむなく、登山口の水場で頭をじゃぶじゃぶ水洗いし、手ぬぐいをぬらして全身をごしごし拭き、服を着替えました。

折立というその登山口からバスに乗って、有峰口という富山地方鉄道の無人駅まで行ったんですが、乗客は僕と、やはり下山したてのおじさんだけでした。このおじさんがくさいくさい。なんせバスの発車時刻ぎりぎりに下りてきたので、僕のように清らかな状態になっていません。僕の二つ前の座席にいたんですが、おじさんの方からすさまじいにおいがただよってくるので、このくさいおやじめ、と内心毒づいておりました。

ところが、バスを降り、無人駅で列車が来るのを待っていると、くさいおやじがどこからか缶ビールを2本ゲットしてきて「どうですか」と言うのです。くさいおやじなんて心のなかで言ってごめんなさい、とこれも心のなかで言って、ありがたくちょうだいしました。福島県の方でした。ありがとう、くさかったけれど優しいおやじ。

さて、ここからが本題です。衝撃の亜空間、シネマ食堂街の話です。

と言われても何のことかわからない方もいらっしゃいますよね。だいぶ前に書いたんですけど、富山市内にある、昭和の香りも馥郁たる古い(というよりぼろい、そしてくさい)建物で肩を寄せ合っている飲み屋街です。僕は以前、そこの『あや』という居酒屋?スナック?でビールを飲んだことがあり、数年後にそこのママの正体を知って衝撃を受けたのです。詳細は、古いブログ記事をご覧ください。

さて、富山市に出ていつもどおりシネマ食堂街に行くと、なんと、閉鎖されていました。富山市は新幹線が開通し、いまや再開発の嵐が吹き荒れています。富劇の建物にいたってはすでに取り壊されていました。富劇というのは、シネマ食堂街と似たような雰囲気の、古いぼろい建物に小さな飲み屋がごちゃごちゃとかたまっている、そういう空間です。僕はいつもこの富劇の横のコインランドリーで登山服一式を洗うのです。

取り壊された富劇の向かいに居酒屋があり、明るいうちから営業していたので、さっそくビールを飲みました。客はおばちゃんとおじいちゃんのふたり。おばちゃんは、どうもカラオケスナックのママらしく、出勤前の風情でした。おじいちゃんはよくわかりません。でも、昼間からお酒飲みに来ている人って基本的にさみしがり屋なので、すぐに話しかけてきます。僕もそういう人と話をするのは嫌いではありません。しかし、このおじいちゃんについては特筆すべきことは何もありません。シネマ食堂街と関係ないので。

おじいちゃんが帰ったあと、店のおばちゃんとお客のおばちゃんに、

「シネマ食堂街に、美空ひばりばかりかかっている店がありましたよね」

とたずねると、ふたりは一瞬「ん?」と考えたあとで、爆笑。

「ああ、あの、おかまちゃんの!」

というわけで、『あや』のママ(マスター)って、けっこう有名だったんだなあ、とほんわかしてしまいました。すみません、実を言うと、「続報」というのはこれだけです。

風景はどんどん変わっていきますね。

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