2016年2月22日 (月)

サナダムシの名の由来は幸村

大河ドラマの『龍馬伝』で岡田以蔵を演じたのは佐藤健で、勝新とはちがう、なかなかいい味を出していました。『天皇の料理番』でも堺正章やさんまを超えたと評した人がいました。私ですが…。

ところで、岡田以蔵は、諱(いみな)ではなく「以蔵」という名で呼ばれますが、歴史上の人物の呼び方はどうやって決めるのでしょうか。たとえば、社会のテストで「勝海舟」と答えずに「勝麟太郎」「勝安房」としたら×になるのか、足利尊氏を高氏としたら×なのか。鎌倉幕府を滅ぼした時点では、まだ北条高時からもらった「高」で、幕府滅亡後に後醍醐の「尊治」からもらった「尊」に変えたのだから、「鎌倉幕府を倒したのはだれか」という問題なら「高氏」と答えるべきなのか、それとも最終的な名前で答えるべきなのか。「中国の孔子」という言い方も考えたらおかしいわけで、孔子の生きていた時代には「中国」とは言わなかったはずです。結局、現代の目から見た呼称でよいのかなあ。

諱と字(あざな)の問題とは別に文化人には「号」というのもありますね。ペンネームみたいなものですが、「号」はそのままで独立しています。「夏目漱石」「森鴎外」は「漱石」「鴎外」と呼んで抵抗がないのは「号」だからですね。ということは、テストの答えで「号」だけ答えても×にはできないはずです。「海舟」も「号」なので、そのままでも点をもらえるのかなあ。「松陰」もそうですね。文化人以外にも結構います。西郷隆盛の「南洲」も「号」でしょうし、犬養毅の「木堂」、尾崎行雄の「咢堂」は明らかに「号」ですね。芥川や太宰は「号」を使っていないので、下の名前ではなく姓で呼ばれるのでしょう。ただし、川端はなぜかフルネームで呼ばれることが多い。横光は姓だけでもOKで、志賀は微妙、武者小路はOK。ということは、ありふれた名字は紛らわしいのでフルネームになるのかもしれません。

将軍は下の名で十分ですね。頼朝、尊氏、家康でまちがえようがありません。有名武将も下の名前だけで呼ばれることがあります。信長、秀吉はもちろん、加藤清正でも清正でOKなのに、福島正則はフルネームですね。家康四天王のレベルでも「本多忠勝」のようにフルネームか、下手すると、ご丁寧に「本多平八郎忠勝」と呼ばれることもあります。単なる知名度の差とも思えませんし、このちがいは何なのでしょうね。吉田松陰の諱はほとんど知られていませんが、通称の「寅次郎」は知っている人もそこそこいるようです。ということは、同時代の人たちは「寅さん」と呼んでいたかもしれません。年下の家来の門下生になった、そうせい侯毛利敬親はどう呼んだのでしょうか。

坂本龍馬は「龍馬」ですね。「坂本」とは呼ばれません。坂本城を領した明智光秀の娘婿の子孫なので「坂本」になったと言いますが、坂本の家の株を買っただけで、光秀と直接のつながりはないようです。関ヶ原で徳川に負けた島津・毛利と秀吉に負けた明智が力を合わせて徳川氏を倒した、というストーリーはなかなかおもしろいのですが。その薩長がつくりあげた日本が太平洋戦争で負けたときの戦後処理は奥羽出身者がやったというのにもつながるような。そして、今また長州の安倍さんという流れになっているのは、歴史はくり返す、ということですかね。長州の高杉新作や薩摩の西郷、大久保は、龍馬とちがってやはり姓で呼ばれるので、龍馬だけが別格なのかもしれません。

自分の名前の一字を子供や家来に与えるということがよくあります。平氏はみんな○盛です。この「盛」や北条氏康・氏政・北条氏直の「氏」は、通字と言って、一族で使う字です。これに対して、たとえば足利将軍が大名に自分の名の一字を与えることがあり、これを偏諱(へんき)と言います。偏諱を与えれば、お礼をするのが普通ですから、要するに金儲けの手段にもなっていたようですね。そうすると、大名の名前は通字プラス偏諱になることがよくあります。伊達尚宗・稙宗・晴宗・輝宗なんかはそうですね。輝宗の子の政宗は何代か前の先祖の名前をそのままもらったようですが。諱というのは「忌み名」ですから、本来、表に出さない名前です。日本を含め、東南アジアにはそういう考えがあったみたいで、中国では皇帝の名前の字を使ってはいけないということがよくありました。漢の劉邦の「邦」が使えなくなって「国」の字を使ったりしたんですね。都市の名前さえ変えさせられることもありました。ロシアではピョートル大帝の名前を付けたサンクト・ペテルブルクがレーニンの名前のレニングラードになって、また元にもどっていますが、大ちがいです。日本の天皇家では「仁」の字が用いられます。一般庶民がこの字を使って子供の名前をつけたら「不敬罪」ものだったようですね。

ところが、日本では武士の時代になって、主君の名の一字を与えられることが名誉になってきます。武田信玄の晴信は12代将軍の義晴から、上杉謙信の輝虎は13代義輝です。同時代の大名の名前が似ているのは、そういう理由ですね。「義」をもらった大名もいて、朝倉義景とか最上義光、島津義久・義弘、相良義陽などなど、結構います。源義家以来、「義」の字は源氏の通字でしたが、足利氏は源氏の中では傍流になっていました。それが征夷大将軍になったことで後継者意識が芽生えて、「義」の字を復活させたのかもしれません。徳川家康にしても、もともと松平元康でしたが、この「元」は当然今川義元からもらったものなので、義元が死んだ後はさっさと変えています。長男の「信康」の「信」は信長からもらったのでしょう。「秀康」は豪華ですね。実の父の家康と養父の秀吉から一字ずつもらっています。その弟の「秀忠」の「秀」も当然秀吉です。大谷吉継とか堀尾吉晴、田中吉政は「吉」のほうをもらっています。榊原康政の「康」は家康からもらったのでしょうね。江戸時代になっても島津斉彬など「家斉」からもらった名前があります。徳川家の通字は「家」ですね。結局、みんな名前が似てしまうので、どの将軍だったかなあと迷うことになります。それでもルイ何世よりはましですが。徳川家で「家」の字を使わないのは傍流の証拠で、綱吉も吉宗も慶喜も、直系ではないわけです。

織田信成は「信」の字がはいっていますが、織田家はやはり「信」の字がほしいなあ。今年の大河ドラマは「真田幸村」ですが、もとは真田信繁でした。祖父が幸隆、草刈正雄がやってる昌幸は三男で、その子が信幸・信繁ということになります。「幸村」という名前は後世の『難波戦記』の作者がつくったと言われますが、どこから来たのでしょうね。真田十勇士も同じ作者の創作です。芝居の世界と同じように、幕府からのおとがめを避けるための改名かもしれません。ゲームの世界ではイケメンという設定ですが、当然これも創作で、そんなわけねえよ、ということですな。

2016年2月 9日 (火)

おひさしぶりですパート2

突然ですが、やっぱりブログ書かなあかんなと思ったわけです。

もともとだれに頼まれたわけでもないのに自分でやりたいと言い出してはじめたブログです。待ってる人はもちろんのこと読んでる人さえいるかいないかわからないブログですが、特に伝えたいことも鋭い主張も繊細な感受性もないブログですが、わしは書く! 書くといったら書く!

というわけでわたしは帰ってきました。これからは書いて書いて書きまくる所存です。定年退職までウン年間、週に一本のペースで書き続けます。いや、それはちょっとキツいですね。年に一度にします。年に一度といえば七夕ですね、年に一度、七夕の日にアップするというのはどうでしょう、もちろん雨が降ったら中止です。

というのはもちろん冗談! わしは書きます! 週に一度は無理かもしれないが年に一度よりははるかに高い頻度で書きます! しかし! 

問題は何を書くかですよねー。突然冷静になってしまいました。書くことがないんすよねー。鋭い主張と繊細な感受性の発露を自分に禁じてしまったせいですかね。いや正直、それさえ書いて良いのであればいくらでも書けるんすよ、でも、そんなの僕らしくないじゃないですか、ね? 「ね?」とか言われても困ると思いますけどね。でもまあそうなんです! ゆえに書くことがありません!

とか強弁しててもしょうがないので、何か書きますか。

さて。

わたしのチューター生で、今年卒塾した某君は読書家です。受験勉強も佳境をむかえていた晩秋、引率中に彼が言いました。

「読む本がないので、プラトンの『国家』を読んでるねんけど、きつい。」

いや、いくらきみが読書家で国語ができるといってもそれは無理でしょ、と思った僕は、彼に本を貸してあげることにしました。ほんとうはこんな時期に受験生に本を貸すなんて塾講師にあるまじき行為なんですが、彼なら大丈夫だと思ったんですね。というかむしろ、この子なら、なまじ問題を解くよりも骨のある本を読んだ方が力がつくんじゃないかと真剣に考えたわけです。それで、筑摩書房から出ている『高校生のための文章読本』という本を貸してあげました。モーパッサンにはじまり、武満徹やら小林秀雄やら永瀬清子に淀川長治に塩野七生に・・・・・・とそうそうたる顔ぶれのアンソロジーです。しかも、一つの文章につき問題が(それも相当キツいのが)一問ずつついており、異様にくわしい解答まで別冊でついています。え? 小学生に『高校生のための』本を貸すなんて無茶だ? 何をおっしゃいますやら、この本は、私が大学の教養部生のときに買った本ですが、当時、問題が難しすぎて手も足も出なかった本なんですぞ。え? ますますひどい。そのとおり! でも、彼なら何とか読めるんじゃないかと思ったんですよね。もちろん問題はまともに解けるわけがないけど、解答を読むだけでも勉強になるはずだし・・・・・・と思いました。

先日、会ったときにおいしいチョコレート付きで本を返してくれましたが(ぼろい本を貸しただけなのに申し訳ないというかラッキーというか)、

「今何読んでるの?」

と訊くと、彼の取りだした本が、埴谷雄高の『闇の中の黒い馬』。

だから、背伸びし過ぎなんだってば!

背伸びして難しい本を読みたくなる年頃ってあるんですけど、彼の場合はふつうよりだいぶ早いようですね。でもいくらなんでもキツいと思うなあ。しかし、同じ埴谷雄高でも『永久革命者の悲哀』じゃなくて良かったぜ、と思う私でありました。

さて、某君、埴谷雄高を読むなら、『虚空』とかどうでしょう。で、『虚空』を読んだら、その勢いでポーの『メエルシュトレエムに呑まれて』を読みましょう! 並べて読むとなかなか感慨深いんじゃないかと思いますよ~。でも、キミにお勧めなのは、福永武彦の『死の島』。なぜお勧めかといわれても困りますが、何となくきっと気に入ってくれるのではないかと思います! 何なら貸してあげるぜ!

(以上は2/8に書いたもので、以下は2/9の加筆です)

ちょっと付け足します。

福永武彦の『死の島』を僕が読んだのは高校一年になる直前の春休みでした。特に憧れていなかった第3志望ぐらいの公立高校に合格してやれやれとひと息つき、九州に旅行したときに持って行ったんです。長崎の片田舎に祖母が(だいぶ前にこのブログに書いたことがありますが、銭湯から帰るときに上半身はだかで帰ってくるワイルドな人で、ご近所さんに恐れおののかれていました)住んでおり、そこをねぐらにして雲仙とか阿蘇とかひとりで観光して回るあいだに読んでしまいました。当時の日本の小説としてはわりと前衛的な手法も使われていてびっくりしましたが、なんせおもしろかった。それからしばらくは福永武彦ばかり読んでいました。解説に、「死の島」というのは「広島」のことで、「しのしま」と「ひろしま」で韻を踏んでいるのだと書いてあり、「韻」というものを理解していなかった僕は「駄洒落じゃん!」と失礼なことを思ったりしていました。

そういえば、「しのしま」という表現はべつの物語にも出てきました。斎藤惇夫さんの『ガンバとカワウソの冒険』です。「四の島」に四十万の支流をもつ川があって・・・・・・という設定ですが、つまり「四国」で「四万十川」ですよね。そこでガンバたちが追いつめられ「四の島」が「死の島」に・・・・・・というような話だった気がします。すみません、読んだのが相当昔なので記憶がさだかではありません。

坂東眞砂子さんの『死国』も「四国」をもじったものでしたね。八十八カ所を逆に回るとおそろしいことが・・・・・・みたいな話じゃなかったでしたっけ。

坂東眞砂子さんの随筆は灘コースの志望校別特訓のテキストに入っています。台風が好きだ~という内容の随筆なんですが、ホラー作家ならではの表現上の工夫が随所に見られ、書き手がどんなことを考えてどんな書き方をするのかということを考えさせるための教材としてとても良いのです。福永武彦さんの文章は使っていませんが、池澤夏樹さん(福永武彦さんのご子息)の文章は灘中の入試で出題されたことがあるし、僕もプレ灘中入試で出題したことがあります。坂東眞砂子さんにしろ池澤夏樹さんにしろ、よくよく考えて上手に書かれた文章は授業をしていてもやりがいがありますね。

2016年1月22日 (金)

おひさしぶりです。

言いわけするのもいやになるぐらい、更新をさぼっていました~。

しかし、まだ入試は続いています。関西における入試が完全に終わったら書きます!

必ず書きます! たとえ山に行かなくて書くことがなくても書きます。だれも待っていないと思うけれど、いましばらくお待ちください!

2015年9月27日 (日)

衝撃の亜空間、シネマ食堂街続報!

少し前の話ですが、台風が来ました。私が山に登ったからです。ええ、そうです。私が登ると来るんです、知ってます。毎年の話ですからね。もはや台風が来るの来ないので一喜一憂する私ではありませんよ。来たければ来ればいいんです。僕は逃げも隠れもしないんですから。

というわけで、先日、北アルプスを縦走してきたのですが、台風&秋雨前線のため、五泊六日の山行中、雨が降らなかったのは下山する日だけでした。おかげさまで何もかもからからに乾いた状態で下山できてハッピー! いいんですよ、下山する日さえ晴れれば! すれちがった人たちの楽しそうなこと! ちっ!

おまけに、台風のせいで予定が狂い、下山したらまず室堂のミクリが池温泉に入るという当初の計画は見直さざるを得ませんでした。じゃあしょうがないから富山市内の観音湯という銭湯に入ろうかと思って一応調べてみたら、なんとすでに廃業されているとか。六日も山にいるとすごく臭いので、風呂に入れないまま高速バスに乗るとものすごい顰蹙を買うことうけあいです。やむなく、登山口の水場で頭をじゃぶじゃぶ水洗いし、手ぬぐいをぬらして全身をごしごし拭き、服を着替えました。

折立というその登山口からバスに乗って、有峰口という富山地方鉄道の無人駅まで行ったんですが、乗客は僕と、やはり下山したてのおじさんだけでした。このおじさんがくさいくさい。なんせバスの発車時刻ぎりぎりに下りてきたので、僕のように清らかな状態になっていません。僕の二つ前の座席にいたんですが、おじさんの方からすさまじいにおいがただよってくるので、このくさいおやじめ、と内心毒づいておりました。

ところが、バスを降り、無人駅で列車が来るのを待っていると、くさいおやじがどこからか缶ビールを2本ゲットしてきて「どうですか」と言うのです。くさいおやじなんて心のなかで言ってごめんなさい、とこれも心のなかで言って、ありがたくちょうだいしました。福島県の方でした。ありがとう、くさかったけれど優しいおやじ。

さて、ここからが本題です。衝撃の亜空間、シネマ食堂街の話です。

と言われても何のことかわからない方もいらっしゃいますよね。だいぶ前に書いたんですけど、富山市内にある、昭和の香りも馥郁たる古い(というよりぼろい、そしてくさい)建物で肩を寄せ合っている飲み屋街です。僕は以前、そこの『あや』という居酒屋?スナック?でビールを飲んだことがあり、数年後にそこのママの正体を知って衝撃を受けたのです。詳細は、古いブログ記事をご覧ください。

さて、富山市に出ていつもどおりシネマ食堂街に行くと、なんと、閉鎖されていました。富山市は新幹線が開通し、いまや再開発の嵐が吹き荒れています。富劇の建物にいたってはすでに取り壊されていました。富劇というのは、シネマ食堂街と似たような雰囲気の、古いぼろい建物に小さな飲み屋がごちゃごちゃとかたまっている、そういう空間です。僕はいつもこの富劇の横のコインランドリーで登山服一式を洗うのです。

取り壊された富劇の向かいに居酒屋があり、明るいうちから営業していたので、さっそくビールを飲みました。客はおばちゃんとおじいちゃんのふたり。おばちゃんは、どうもカラオケスナックのママらしく、出勤前の風情でした。おじいちゃんはよくわかりません。でも、昼間からお酒飲みに来ている人って基本的にさみしがり屋なので、すぐに話しかけてきます。僕もそういう人と話をするのは嫌いではありません。しかし、このおじいちゃんについては特筆すべきことは何もありません。シネマ食堂街と関係ないので。

おじいちゃんが帰ったあと、店のおばちゃんとお客のおばちゃんに、

「シネマ食堂街に、美空ひばりばかりかかっている店がありましたよね」

とたずねると、ふたりは一瞬「ん?」と考えたあとで、爆笑。

「ああ、あの、おかまちゃんの!」

というわけで、『あや』のママ(マスター)って、けっこう有名だったんだなあ、とほんわかしてしまいました。すみません、実を言うと、「続報」というのはこれだけです。

風景はどんどん変わっていきますね。

2015年9月20日 (日)

三島はなぜ割腹したか

1ドルが360円で固定されていたのは、いつごろまでだったのでしょうか。ケネディとかニクソンの時代まではそうだったような気がします。ケネディはさすがに有名ですが、ニクソンとなると今の子供たちは知らないかもしれません。それでもアメリカの大統領ともなれば知名度は高い。上杉鷹山の「なせばなるなさねばならぬ何事もならぬは人のなさぬなりけり」をもじった「なせばなるなさねばならぬ何事もナセルはアラブの大統領」は、だれが作ったのか傑作です。でも、ナセルをみんな覚えているのかなあ。「将棋好きなロシア人で、銀将の使い方が卑怯なことで有名な人は?」というなぞなぞを昔つくったことがあります。答えは「コスイギン」。こんなの無理です。フルシチョフの次の首相ですが、どちらも最近は名前を聞くことがありません。「こすい」も死語か。坂田三吉の「銀が泣いてる」というフレーズも有名です、いや、でした。これも通じぬか。政治家で今後何百年も通じる名前は、ケネディ以外にはチャーチル・スターリン・ヒトラーぐらいかもしれません。日本の首相では伊藤博文は別格として吉田茂・田中角栄・佐藤栄作ぐらいでしょうか。佐藤栄作が「栄チャンと呼ばれたい」と言ったので、横山ノックが国会の質問で「栄チャン」と呼びかけたら、いやな顔をされたという話も有名だったのですが。

教科書に載るレベルの野球選手といえば、やはり長嶋・王でしょうか。今ならイチローという名前も出てきそうですが、それ以外となるとどうでしょう。歌手なら美空ひばりの一人勝ちですかね。小説家となると、現代なら村上春樹でしょうか。大江健三郎はノーベル賞をもらったものの、多くの人にとっては「だれ、それ?」です。ピースの又吉も今の話題にはなっても名前が残るかなあ。世界的な知名度から言っても村上春樹がぶっちぎりですが、ほんとにみんな読んでいるのかどうか。いずれにせよ、漱石には及びませんね。明治以降の小説家を一人あげよ、と言われたら、いつのまにか夏目漱石ということになってしまいました。

その漱石が落語家の柳家小さんを「天才だ」とほめちぎっています。小さんと同じ時を共有できるということはたいへんな幸せだ、とも言っています。でも、こういう感想はだいたいその人が死んでから言われるものなんですね。米朝さんと同じ時代を生きた私たちは幸せでした、みたいに。ひょっとしてAKBなんかでもありうるかもしれません。死なないまでも、ファンが爺さん婆さんになったときに、「あのババアも昔はこうだったんだぜ」なんて言えるとうれしかったりします。私は、高倉健さんも、やくざ映画以降、あまり魅力を感じなくなっていました。中国で人気の『君よ憤怒の河を渉れ』や『幸福の黄色いハンカチ』でも、なにかちがうなあと思っていました。錦之助の『宮本武蔵』で佐々木小次郎を演じた若いときも、にやけぶりが悪くはなかったのですが、やっぱり『昭和残侠伝』あたりにはかないません。私にとって健さんは「花田秀次郎」(シリーズでの役名)です。

マスコミなんかで、死んだらみんな「いい人」にする風潮も笑えますね。これでまた「昭和」のなんとかの一つが消えた、とか決まり切った言い回しが登場します。愛川欽也の訃報を聞いたとき、「はい、消えたー」と不謹慎なことを思ったのは私だけでしょうか。世界のレベルで言えば、マイケル・ジャクソンのときのマスコミは手のひらを返したようで、妙におかしかったですね。それまではボロクソだったのに。それに比べれば「ビートルズ」はたいしたものです。バッハ、ブラームス、ベートーベンの三大Bにビートルズを入れて四大Bだと言われるぐらいですから(言っているのは私だけですが)、これは教科書レベルで、後世に名前が残るでしょう。ポール・マッカートニーだけはまだ生きていますが。あの年でのライブはたいしたものでしたな、見てないけど。レノンは死んでもポールは残る、とだれかが言ってたような…。中島らもが土建屋さんのために作ったといわれる、あの名作コピー「家は焼けても柱は残る」とゴッチャになっているかもしれません。

でも本当のポールは実は若くして死んでしまい、今のポールは替え玉だという都市伝説もあります。そういえばプレスリーも徴兵に行って帰ってきたのは別人だという説もありました。反対に「実は死んでいなかった」というのも魅力的なシチュエーションなのでしょうか、昔からよくあります。空海は高野山でまだ生きており、坊さんたちが毎日食事を運んでいるというのは有名ですが、なんかミイラみたいになった空海がおにぎりを食っているみたいなイメージがしてしまいます。源為朝が死なずに琉球王になったというのはロマンがあります。義経ジンギスカン説なんて、わくわくします。西郷隆盛が西南戦争で死なずにロシアに逃げたというのは新聞にも載ったそうです。十何年かたってロシアの皇太子が日本人の警官に斬りつけられるという大津事件が起こりますが、その背景には西郷が復讐のために帰ってくるといううわさもあったとか。まあ、明治天皇すりかえ説レベルの「トンデモ」説でしょうが。豊臣秀頼が薩摩に落ちのびたというのは知っている人は知っているレベルでしょうね。豊臣びいきの人たちは秀頼を殺してしまうのがしのびなかったのでしょう。家康が実は大坂夏の陣で死んでいたというのはその逆ですが、これも豊臣びいきの人の発想でしょうね。日本とは別に大阪国というのがあって、となると小説ですが。

「じつは死んでいなかった」パターンの小説で、「この人物で設定するか」と思ったのは京極夏彦ですね。『書楼弔堂』という作品は、泉鏡花、月岡芳年、井上円了、巌谷小波、ジョン万次郎、勝海舟などの著名人が登場します。最初はだれかわからないのが、読み進めていくうちに、なるほどあの人か、とわかるようになっていて、そのあたりが山田風太郎の明治ものと同じでなかなかおもしろい。その中で「宜振」という名前の人物が登場します。実は、そういう諱(「いみな」、要するに本名ですな)の人物を知っていたので、ピンときましたが、なかなか大胆です、その人物は明治になる前に打ち首獄門になっているはずです。それを「じつは死んでいなかった」設定で、明治の御代まで生き延びさせているのですね。本来マイナーな人物だったのが、有名になったのはやはり司馬遼太郎の小説でしょうか。人斬り以蔵です。映画では勝新太郎がやりました。ちなみにそのとき薩摩の「人斬り」、田中新兵衛を演じたのが三島由紀夫で、映画の中で切腹するのですが、その「快感」が忘れられずに、ああいう最期を迎えたという説を唱えている人もいます。私ですが。

2015年9月14日 (月)

結婚式のスピーチなら俺に任せろ

先日、今年2回目の結婚式に行ってまいりました。もちろん僕の結婚式ではありません。知人の結婚式にお呼ばれしたのです。
結婚式は嫌いではありません。ただし、スピーチとか乾杯の「ご発声」とか、そういうのがなければ、の話です。
ずっと昔、結婚式でスピーチを頼まれて、新郎も国語講師でしたから、国語講師らしいスピーチにしようと、鮎川信夫の詩の一節を題材にして話を組み立てました。「すべてをうばわれても文句を言えない すべてをあたえられても文句を言えない 理不尽な契約」とかなんとかいう部分(例によって例のごとくうろおぼえ)です。この直前には「無償を意味する愛という言葉は 今でも私を動転させる どうしたらいいかわからなくなる」とかなんとかいう部分(うろおぼえ)があるのですが、そこはまあカットして、何とかこれで良い感じの内容に強引に解釈しちゃえってことで、いろいろ屁理屈を編み出しました。
 ところが当日、結婚式に行ってみると、なんと新婦側の主賓が、あの、高名な現代詩人である金時鐘氏! ぐわっと呻いて倒れそうになる私。あの金時鐘の前で、鮎川信夫の詩を引用してスピーチするの? そんなのム~リ~! とは思うものの、今さらスピーチの内容を変更する余裕も能力もない私。
 私にできることはただひとつ、金時鐘氏の存在を忘れてしまうまでべろべろに酔っ払うことだけでした……。完璧に暗記したはずのスピーチ内容をちゃんとしゃべれたかどうかおぼえていません。ただ、「鮎川信夫」という名を口にした一瞬だけ、金時鐘氏がこちらをちらっと見たような……。

スピーチはお断りです。

2015年8月26日 (水)

携帯電話紛失事件

ある日、阪急電車をおりて豊中教室に向かいながらポケットに手を入れたら、携帯電話がありませんでした。電車に乗る前に見た記憶があるので、電車の中に忘れたことはほぼ確実です。

さっそく阪急電鉄に電話しました。

「携帯電話の特徴を教えてください」

「黒いガラケーです。正確にいうと、元々は黒かったガラケーです。現在は塗装がはげてほぼシルバーです」

「ストラップはつけていますか」

「・・・・・・はい」

「どんなストラップですか」

さて、楳図かずお先生をこよなく敬愛している私の携帯ストラップは、『まことちゃん』というマンガでよく描かれた、とても下品な、とある物体をデザインしたものです。『Dr.スランプ』でアラレちゃんがよくつんつんしていたものと同じ物体です。

「はい、あの、ピ、ピンクの」

「ピンクの」

「き、金属の」

「ピンクの金属の」

「薄い・・・・・・そういう感じのものなんですが」

「?」

この話を家人にしたところ、

「なぜはっきり『うん◎』と言わないのか」

と糾弾されました。

でもいずれにせよ携帯電話は見つかりました。よかった。拾ってくれた方、ありがとうございます。

 

 

 

 

2015年7月 2日 (木)

1ドルは360円

五年生の授業のとき、「風呂敷」ということばが出てきましたが、やっぱり知らない生徒がいるのですねぇ。「先生、フロシキってなに?」「フロシキ知らんのか、ロシアの食い物やないか。カレーパンみたいになってて…」そうするとおそるおそる「それピロシキとちゃいますか」と言う者がいます。これが六年生なら、すかさず「そら、ピロシキやがな!」とつっこみがはいるのですが…。五年生、まだまだ鍛え方が足りないなと思いました。

ということで、またまたさりげなく前回のつづき、と言っても前回が相当むかしのことになってしまったのですが、白とか黒とかの話でした。素人も「しろうと」と言い、「玄人(くろうと)」と対比されますね。この二つのことばはどちらが先にできたのでしょうか。何も知らない「素」のままの人を「しろうと」と言ったので、その反対を「くろうと」としたような気がします。犯人のことをクロと言い、無実の人はその反対だからシロ、ということみたいなので、こちらは黒のほうが先かもしれません。と書いていて、妙なことに気づきました。「しろ」と「くろ」って、ことばの形の上からも対比ができます。どちらも「○ろ」という形なんですね。漢字で書くと気づかないのですが、かな書きすると、ひっかかることがたまにあります。「鼻」も「花」も「端」もすべて「はな」と書いたら「はしっこ」という意味の共通点でくくれます。その「はしっこ」のことを古くは「つま」と言いました。着物のはしっこも「褄」ですし、奥さんの意味の「妻」や刺身の「つま」も、そえるものという要素でくくれます。昔の日本の東西の端は、「あずま」つまり関東地方と「さつま」つまり「薩摩」です。「あずま」がもともと「あつま」だったと考えると、どっちも「つま」なんですね、偶然かもしれませんが。

で、話をもどすと「いろ」ってことばも同じような形で、「○ろ」のパターンですね。日本人の感覚の中では、もともと「いろ」と言えば「しろ」と「くろ」しかなかったのかもしれません。明暗や濃淡の感じが大事であって、あざやかさはどうでもよかったのではないか。そのうち「あかるい」のは「あか」で「あわい」のは「あを」となったのでしょう。「青」はグリーンも含みますし、黒馬の名前なのに「あお」と付けたりします。相当いいかげんですね。

こんなことを書いている文章がありました。「白い」「たいへん白い」「もっと白い」のうち、どれが一番白いか、というような内容です。「たいへん」や「もっと」が付くと、レベルを表すことになり、そのレベルには際限がなくなり、よりいっそう白いものの存在が考えられる。それに比べると「白い」は比較の対象外の白さになるから、これが一番だ、という、わかったようでわからん文章でした。白は色の中では彩度がなく、明度のみですが、「最も明るい」も考えたらわけがわからんようになります。明るさに限度があれば、「最も明るい」という規定はできますが…。

名前を聞いてもピンと来ない色があります。スカーレットとかバーミリオンとかの洋風の名前にも、なじみが薄いのでわかりにくいものがありますが、和風のものにもよくわからない色があります。「はなだ色」とか「生成り色」とか言われても、ピンときません。「葡萄色」と書いて「えびいろ」と読むことを「今でしょ」の先生が言ってましたが、これだって、どんな色かわかりにくい。「御納戸色」なんてまったく意味不明です。江戸川乱歩がコナンドイルをもじって探偵小説の作家名として使っていましたが。「浅葱色」は田舎侍をさすことがありました。「浅黄色」ではなく、薄い葱の葉の色ということなので、緑がかった藍色でしょう。江戸へやってきた田舎侍が、羽織の裏地に浅葱色の木綿を使うことが多く、江戸っ子に馬鹿にされたようです。

ところで、時代小説でそういう色を描写する際に「グリーン」とか「ピンク」ということばを使ったらどうでしょうか。「緑」と表現しようが、「グリーン」と表現しようが、同じ色のはずですが、時代小説・歴史小説でそういうことばが出てくると、なにか違和感があります。基本的には現代語で書かれた小説なのですから、理屈の上からはおかしくないはずです。もちろん会話で織田信長が「ぼくってさ、プライドが高いもんね」みたいな口調でしゃべったら、台無しです。かといって、当時の尾張のことばそのままでは読んでもらえないでしょう。会話以外の文、いわゆる地の文でも、「ニュアンス」なんてことばを使われると、いささか抵抗があります。作者が外来語起源であることに気づかずに、うっかりと「ダブる」と使った場合はどうでしょう? 読者も気づかなければ「スルー」してしまうかもしれません。でも、歴史小説はやっぱりそれらしい雰囲気で、格調高く書いてほしいですね。「信長は死んだのでR」なんてのは論外です。

だからといって、「古くさいことば」を使うと、若い読者を獲得できないでしょうし、書き手のほうもどんどん若くなっていきます。明治のころに書かれた、明治時代のことばを使ったものと今のものとでは、かなり雰囲気が変わっているかもしれません。歴史考証にしても、江戸時代生まれの人が生きていた頃には、日常生活のちょっとしたことでも正確だったでしょう。最近、時代小説が復活しつつあって、「捕物帖」的な作品も増えてきていますが、どこまで正確なのでしょうか。少なくとも、現代語の会話は勘弁してよ、と思います。昔の岡本綺堂とか野村胡堂とかは、ペンネームからしてものものしい。半七さんや銭形平次の口調は、いかにもそれらしいし、吉川英治や山岡荘八もさすがに、雰囲気があります。でも逆に、『のぼうの城』を明治時代の人間が読んだらどうでしょうか。ふざけているのかと怒ったかもしれません。とはいうものの、時代による変遷はやむをえません。読者も変化します。ただ、昔は常識だったことに関する知識がなくなっていくのは、どうしようもないとはいうものの、作る側にしてみたら厄介かもしれません。落語でも、「時そば」を演じるときに、昔は十二支で時刻を表し、寺のつく鐘の音で時刻を知らせていたんですよ、九つは十二時のことですよ、と説明しなければなりません。このあたりはオチに結びつくことなので、説明するのもやむをえないかもしれませんが、話の途中で「いくら」「二円」「大金やなあ」なんて部分が出てくると笑ってしまう人がいます。笑うところでもなんでもないのに、なぜなんだろうと思ってたら、どうやら「二円」という金額が値打ちのあるものだと知らないからなんですね。「車のハンドルはいくら?」「180円」「なんでや」「半ドルやから」という小話は今では通用しなくなりました。

2015年6月 2日 (火)

クールなビズにしてくれ

早いもので、クールビズ解禁になってから一カ月です。私もさっさとネクタイをはずして勤務しています。昔からネクタイが嫌いで嫌いで。太っていたからか煙草を吸っていたからか、シャツのいちばん上のボタンを留めると、おえおえとえずくんです。だから昔はネクタイをするたびに涙目になっていました。今はそんなことはありませんが、ネクタイは嫌いなので、クールビズ期間になると解放感でいっぱいです。

ところで、標記の歌をご存じの方ってどのぐらいいらっしゃるんでしょう。いやいや、元々の題はもちろん「スローなブギにしてくれ」でしたけれど。すっかり歳をとっちゃって、職場のいろいろな人と歌の話などしても、全然通じません。昔、この歌をうたっていたミュージシャンと同姓同名の子が希学園にいて、その子を見かけるたびに心のなかで「ウォンチュー、お~れの、肩を~、抱きしめてくれ~」と歌っていましたが、今年すご~く難しい大学の難しい学部に進学されたみたいでめでたいかぎりです。ブギといえば、笠置シヅ子ですよね。うわあ、ますます古いなあ。山下正明先生とかじゃないと話が通じなさそう。劇団時代に笠置シヅ子が好きだっていう人がいて、よく聴かされました。「買い物ブギ」とか有名ですよね。でも僕がいちばん噴いたのは、「黒田ブギ」です。もちろんあの「酒は飲め飲め飲むならば」の「黒田節」からきています。小学生のころ民謡が好きで、「黒田節」とか「こきりこ節」とか「木曽節」とかよく歌っていました。前に、「うちのにょうぼにゃヒゲがある」という歌をよくうたっていたという話を書いた気がしますが、何かとおかしな小学生だったんでしょう。

何かきっかけがあると、すぐに歌を口ずさみます。もうほとんど無意識に近いです。 昔の『大岡越前』の主役をやっていた俳優さんと同姓同名(漢字はちがいますが)の子を見ると、心のなかで「うーうーううー」と『大岡越前』のテーマが流れます。山登りに行くときに、Y田M平と車に乗っているときも、桂川をわたれば(『青葉城恋歌』のメロディーで)「かつらがわ~流れる岸で~思い出は~帰らず~」、京都に入れば(『そして神戸』のメロディーで)「きょうーと-、泣いてどうなるのか~」といった調子です。

山登りといえば、希学園の創立記念日に、ひさしぶりに軽く山登りに行ってまいりました。湖西の比良山系です。比良山系はアクセスがいいし、きれいな沢もあって、ちょっと思い立ってテントをかついで行くには悪くない山だと思います。

テントを張ったのは、八雲ヶ原高層湿原というところです。湿原です湿原! もう、尾瀬なんてメじゃないくらい小さい!(10分もあれば1周できてしまう) 人がいない!(他にテント1張でした) ラムサール条約なんて問題外!(登録されるはずがない)

どんなにしょぼくても湿原は湿原、むれむれの登山靴と靴下をぬいでビーサンにはきかえ、さっそくビールです。でも虫除けをもっていくのを忘れてたのが運の尽きで、アリやらハエやらいろいろ寄ってくるのを手や足で払いのけながらビールを飲んでいたわけですが、突然、ひときわ大きく、重くて低い羽音が急接近してくるのです。もう、その音を聞いた瞬間、これはやばい、と直感的に思いました。姿を確認する余裕もなく、とりあえず走って逃げ、離れたところから振り返ってみると、オオスズメバチなのであります。いや、もう、キイロスズメバチなんかとはモノがちがいます。すごい恐怖感でした。やつも、自分が最強であることを知っている感じでした。

しかし、私を病院送りにしたのは、このオオスズメバチではありません。

ブヨです。

ブヨにくわれるとあんなにひどいことになるとは知りませんでした。帰ってきてから、すごく大きな水ぶくれができてしまって、びっくりしました。写真をとってアップしようかと思ったぐらい、不気味な水ぶくれでしてね。昨日、皮膚科に行ってつぶしてもらいました。

テントを張った翌日。武奈ヶ岳から蛇谷ガ峰をめざしててくてく歩いていると、やはりテント装備の暑苦しい感じのおっちゃんに話しかけられました。しかし、僕も暑苦しい感じなので文句を言う筋合いではありません。

「蛇谷の方に行かれますか」

「へーい」

「この先で道がわかんなくなっちゃったんで、後ろつかせてもらってもいいですか」

「(え、こんな暑苦しい感じのおっちゃんが後ろからついてくるのか?と思いつつ)へーい」

「蛇谷は何回目ですか?」

「はじめてでーす」

「僕は3回目なんですが、なぜか道がよくわかんなくて」

で、あとはもくもくとおっさん2人で歩いておりました。しばらく行くと、登山道が直角に折れているところがあり、(あれ、もしかしてここでまっすぐ行っちゃったんじゃないかな、うしろのおっちゃん)と思っていると、案の定、

「ああ、こっちか。わかりました。ありがとうございます。」

と言っておっちゃんはすたすたと僕を追い越していきました。

とちゅうでちらりと先を行くおっちゃんの姿が見えましたが、その地点までたどり着いてみると、明らかにおっちゃんはまたしてもちがう方向に進んだようでした。道は右に続いていたのに、さっき見えたおっちゃんは左に進んでいたので。ありゃーと思ったけれど、僕もしんどかったし、おっちゃんは暑苦しい感じの人だったので、もうほっときました。だいぶたってから、おっちゃんがうしろから近づいてくるのが見えて、ほっとしました。

温泉に入ってシャトルバスに乗ったら、おっちゃんも乗っており、運転手に、道に迷った話をしていましたが、GPSが安物だからだと、よくわからない言いわけをしているのでありました。

ちがう、ちゃんと地図やテープを見ないからだ!

と、つっこみたかったけど、黙ってました。あのおっちゃんはいつか遭難するかもしれません。

2015年4月30日 (木)

松本留五郎の本職

「ファイナンシャルプランナー」とか言われても、何をする人かわかりません。なんとかアドバイザーとか、なんとかコーディネーターとか、最近はいろいろあります。「ディッシュウォッシャー」と言うと、ちょっとオシャレですが、直訳すれば「皿洗い」です。女性専用だった「スチュワーデス」が使えなくなったために、「フライトアテンダント」とか「キャビンクルー」とかに変わりました。「キャビンアテンダント」というのは和製英語らしいですが。こういうのは社会情勢の変化によるもので、やむを得ません。「スッチー」と言えなくなったことを残念がるのはおじさんだけです。

いまだに外来語にすると、なにか高級な感じになるのが不思議ですね。「便所」というと下品ですが、「トイレ」と言うと、ゴージャスな感じがして一生こもっていたくなります。そんなことはないか。「ご職業は」と聞いて、堂々と「ニートです」と答えられたら、外資系の会社に勤めてるんだなと思わず納得してしまいます。逆に今では通用しなくなった職業名もあります。「モク拾い」なんてのが昔はありました。小椋佳が『モク拾いは海へ』という曲を作っていますが、戦後間もないころ、「モク拾い」を仕事にしていた人がいました。これはさすがに実物を見たという記憶がありません。「モク」というのはタバコのことで、要するに街なかでタバコの吸い殻を拾い、それを材料にして新たなタバコを作って売るわけですね。それ専用の道具もありました。先に針のついた棒でタバコの吸い殻を突き刺して背中の籠に入れるのですが、なんか書いてるうちに見たことがあるような気もしてきたから不思議です。おそらく映画かテレビのドラマの記憶でしょうが。

こんな算数の問題もありました。「タバコの吸い殻5個で新しいタバコ1本を作れる人がいます。25個の吸い殻を拾ってきたこの人は何本のタバコが作れるでしょうか」のような。5本と答えたらダメなんですね。その5本を吸って、また新たに1本作れる、とかいうインチキみたいな問題です。妙な商売では「ガタロ」というのがありました。落語の『代書屋』に出てきます。松本留五郎さんの生業ですね。「ガタロ」は「河太郎」の訛りで河童のことも意味しますが、ここでは下半身全部を包むような長靴をはいて川にはいり、川底に落ちている釘などの金属製品などを拾って売る、というすごい商売です。松本留五郎さんが履歴書を書いてもらうために、代書屋で自分の職業を言うのですが、代書屋さんもどう書いてよいのか、困ってしまいます。「ガタロ商を営む」とか「川の中に勤める」とか、留五郎さんが案を出すあたりが大笑いです。この「川の中に勤めている人」は確かに見た記憶が…、たった一回だけですが。

だいたい「代書屋」自体が今はありません。「司法書士」「行政書士」にあたる仕事をする人で、手紙の代筆などもしていたようです。日本は識字率が高いのですが、明治のころは、無筆の人もいたようです。まあ巻紙の手紙は今や誰も書かなくなりましたが、うちの父親はよく書いてましたね。左手にトイレットペーパーのような巻紙を持って、右手の筆でサラサラと書いていくのが、まるで大河ドラマみたいで、今思えばかっこよかった。いざとなったら「代書屋」をやる、と言っていました。字は戦前、中国東北部にいたときに、土地の人に習ったらしいです。父親が14、5才の頃、故郷に送ったはがきが残っていましたが、まだ字を習う前だったようで、下手な字で「大連で電車に乗ったとき金を拾って、その金をねこばばして饅頭を食った」みたいなことを得々として書いていました。子供たちにさんざん揶揄されて恥ずかしかったのか、いつのまにかこっそり破って捨ててしまったようです。残っていれば、今となってはその頃の満州事情を知るうえで多少の歴史的価値があったかもしれません。下手な字だったのが難点ですが。

それにしても何をもって上手と言い下手と言うか、というのも結構むずかしい問題です。空海って、ほんとうにうまいのでしょうかね。残っている真筆を見ても、一つ一つの字のくせもすごく、全体のバランスが悪いような気もします。いろいろな書体を書き分けられたようだし、個性のある字なのでしょうが…。そのへんにいる書道の先生とはレベルがちがっていて比較にならないということなのですかね。「書道の大家格付けチェック」で、空海の字はA・Bどっち、というのをやれば見破れるのでしょうな、GACKTを待つまでもなく。まあ美の基準なんて、国や民族、文化によってもちがいますし、時代によってもちがってきます。平安時代の美人を今の時代に連れてきても美人というわけではなく、小野小町でも在原業平でも、現代人の目から見たら「ナニコレ珍百景」かもしれません。昭和の美人でさえ、今では通用しない可能性がありますし、今のイケメンが百年後には「なんじゃこりゃ」になっていても不思議ではありません。動物の美醜はどうなんでしょうね。可愛いものもあれば、気味の悪いものもありますが、たとえば蟻の中でも個体差があるのでしょう。犬猫になると、相当あるようで、同じトイプードルでも整った顔立ちのもいれば、「珍百景」もいます。ただし、犬同士ではどうなんでしょう? 人間とは基準がちがっているのかなあ。人間が見てブッサイクな顔が犬の世界ではイケメンであるかもしれません。

いつも思うのですが、モナリザって美人なのでしょうか? 一説によるとダビンチ自身がモデルだと言います。そうであるなら、おっさんの顔ということになってしまいます。「白骨美人」ということばもありますが、これもよく考えてみると意味不明ですね。「白骨」なのに、美人だとわかるはずがありません。それとも、白骨そのものが美形なのでしょうか? 書いているうちに、もう一つ疑問が出てきました。骨って白のはずなのに、「白骨」と言ってわざわざ強調するのはなぜでしょうか? ひょっとして、この「白」はホワイトではないのかなあ? 「白木造り」も白い色をぬっているわけではなく、素のままの木を使った建て方だし、酒を飲んでいない「しらふ」も赤くなってはいないもののホワイトというわけではありません。漢字で書けば「素面」ですから、「白木造り」も本来は「素木造り」のほうが正しいのでしょう。肉のついていない骨なので「素骨」を「白骨」と言ったのか。ただ音読みなのでこれは漢語になります。中国でも、やまとことばと同じ事情なのかなあ。辞書では「白骨」は「風雨にさらされて白くなった骨」と書かれていました。ということは、風雨にさらされる前は「白」ではない? ひょっとして生きているときはピンク? 黒だったらいやだなあ。

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