2014年3月29日 (土)

オーバー・アイランド・ドラゴン・ソルジャー

小さい子どもがオトナ語を使うのはいやですが、オトナのまねをしたくなるというのはわかります。背伸びしたくなるのでしょうね。よく知らないものでも、子どもというのは、何でも取りあえず言ってみるというところがあります。授業の中で「古代ギリシャの哲学者」という話になったとき、「○○○○ス ○○○ン ○○○○○○○ス」というふうに板書すると、「ゴンザレス」とか「コペルニクス」とか「アルキメデス」とか好き勝手なことを言います。真ん中のを「プ○○ン」としたら、「プランクトン」と字数を無視して言うし、最後のなんかは「ティラノサウルス」と言って受けを狙うやつもいます。「アリガトゴゼマス」と言ったやつの頭の中はどうなっているのでしょうか。

「生産者」を外来語にすると「○ー○ー」という形になる、と言うと、必ず「ヒーハー」と言うやつがいます。「メーカー」という答えが出て、では消費者も「○ー○ー」の形になるが、と言うと「メーカー」の反対だから「カーメー」という「バーカー」なやつが出てきます。副詞の呼応で、「たぶん」は「だろう」、「けっして」は「ない」ということばが必ずあとに来る、こういうのを「呼応」と言う、では「きっと」と呼応することばは、と聞くと、間髪入れず「カット」と答えるやつは頭がいいのか悪いのか。「比叡山を焼き討ちしたのは?」と聞いたら、「聖徳太子」と答えたやつもいました。思わず「おい!」と突っ込みましたが、灘志望の男の子は社会の知識がない者が多いので、しかたありません。仏罰があたっても、あたっていることにも気づかないでしょうな。

「(  )民」を「中産階級」という意味の三字熟語にしろ、という問題では、さすがに「小市民」はなかなか出ませんでした。「非国民」と言ったやつは、ほめてやってもよいのではないでしょうか。「ミイラが三人発掘された」を訂正する問題がありました。正解は「三体」なのですが、「ミイラ」を「ミイラ男」にしたらあかんのか、という発想をした生徒がいます。相当鋭いようですが、「ミイラ男が発掘された」というのは、なんか変ですし、ミイラ男は、はたして「三人」と数えるのか? 妖怪はどうなのでしょうか。「ぬらりひょんが三人現れた」と言ってよいのか。「ぬらりひょん」自体、種族名なのか固有名詞なのか。鬼太郎は、「おい、ぬらりひょん」と呼んでいるようなので、固有名詞のような気もします。固有名詞なら、ローマ字で書くと、最初は大文字にしなければなりません。

ローマ字も、考えたら妙なことがありますね。「天満橋」の駅の表示を見ていたら「TEMMA」と書いてありました。「M」があとに来るため「ん」の音も引っ張られて「M」になっています。ところが「天神橋」なら「TENJIN」です。「橋」が「HASHI」になったり「BASHI」になったりするのは、実際に発音が変わるのだから納得ですが、「M」と「N」の発音の変化はちょっと聞き分けられません。「天王寺」も当然「N」ですね。「天王寺」は「TENNOJI」となって、「てんのーじ」ではなく、「てんのじ」とも読めます。長く伸ばすのかどうかも問題ですね。また、人名でも「大野」と「小野」はどう区別するのでしょうか。野球の「王」さんは「OH」にしないと、背番号が「0」なのかと思われます。安倍首相は「Abe」で、なんの問題もないようですが、日本人なら素直に「アベ」と読んでも、アメリカ人などは「エイブ」と読んでしまうのではないでしょうか。小泉さんも「ジュニチロー」と発音されていましたが。

逆に、外国人の名前でも、どう読んでいいのかわからないというのもありますね。「ギョエテとはおれのことかとゲーテ言い」という川柳があります。たしかに「Goethe」はどう読むのか、なやみます。アメリカ大統領のレーガンは、はじめはリーガンでした。映画俳優だったときには自分でもリーガンと発音していたそうですが、身近な人で綴りは違うのですがやはり「リーガン」という人がいたので、区別するために自ら「レーガン」に変えました。映画がらみで言えば、「オードリー・ヘップバーン」と言っていますが、ローマ字のヘボン博士と同じ綴りだとか。まあ、だいたいイエス・キリストだって、日本ではイエスですが、アメリカではジーザス・クライストでしょ。だからアメリカでは「あなたはキリストですか」「イエース」と言っても笑ってくれないのですな。「エスさんわてを好いてはる」という関西弁の歌は賛美歌です。「エスさん」は「イエスさん」の訛りですね。古代ギリシャの歴史家トゥキディデスが「築地です」に聞こえるというのもありました。

同じ名前でも国によって発音が変わるという例でよく出てくるのはピカソですね。スペイン読みだと「ピカソ」でも、英語読みすると「パイキャッソー」なので、まったく別の人みたいです。ミハエル・シューマッハは本人がマイケルと呼んでほしいということですが、「ミハエル」自体、「ミヒャエル」と書いてあったり、「ミハイル」と書いてあったり、書き方の問題もありそうです。最近は「アンビリーバボー」と表記しますが、綴りの感じからは「アンビリーバブル」ですね。「チューン・アップ」とか「ライン・アップ」も「チューンナップ」「ラインナップ」と書くべきなのでしょうか。人名については、その人の国でどう呼ばれているかにしたがうのが素直なような気がします。イギリス人のジョージはゲオルグと呼ばれたくないでしょうし、チャールズはカルロスと言われたら、「だれ?」と思うでしょう。アンリ・シャルパンティエをヘンリー・カーペンターと言ってしまうと、まったく別の店のようです。このあたり、西洋ではどう扱っているのかなあ。自分の国の発音で呼んでいるような気がします。そもそも綴りが変わるでしょう。

中国や韓国の人の名も現地読みになりました。金大中あたりから変わったような気がします。同じ漢字を使いながら、日本では習っていない読み方で読まなければならないのは不自然なような気もしたのですが、世界の報道と日本の報道とで読み方がちがうのはおかしいということだったのかもしれません。向こうの人から文句を言われたのかなあ。ということは、安倍晋三さんは、中国のニュースでも「あべしんぞう」と正しく発音されているはずです。日本に現地読みを要求しながら勝手に中国の発音にしているなんてことはまさかないでしょう。でも、フランス人は鳩山さんの最初のHは発音しないから「あとやま」と読んでしまうだろうなあ。BとVとか、RとLのように、カタカナで書き分けられないものもあり、発音の系統がちがうのでもともと無理があります。とはいうものの、やっぱり自分の名前をアンダーマウンテンライトライトとは言われたくないしなあ。

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2014年3月18日 (火)

お天気の話→京都人の話→雪山の話

なんか暖かくなってきましたね。やはり東大寺のお水取りが終わるとぐっと春らしくなります。

なんてことを《ザ・京都人》の前でいうと、ひんやりした空気が流れて、「は? 関係あらしまへんやろ」的な顔をされてしまうわけですが、ぜひとも京都と奈良、同じ古都どうし仲良くしてほしいものです。

ちなみに、ここでわたくしが《ザ・京都人》と呼ぶのは、単に京都に住んでいらっしゃる方のことではなく、いかにも京都人らしい京都人、以下の項目のいずれかにあてはまる人のことです。

1 京都が盆地でいかに寒いかを強調する。「でも京都がいくら寒いって言っても昭和基地ほどじゃないでしょう」と反論すると、「京都は底冷えしますさかいに」とやんわりたしなめてくる。

2 「あの店は井戸水使たはるさかい」と言う。

3 おのぼりさんのことを揶揄して「『しじょうとりまる』言わはるさかい、どこのことやろ思て」と、知っているくせにとぼける。

いかがでしょうか、みなさんのまわりにもいらっしゃるのでは? ザ・京都人。もしかすると、「うちのことどすか」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。失礼しました。

以前にも、奈良県の人に「リニアモーターカーは、奈良は通るだけで止まらないんですよね」と言って怒られたことがあるんですが、我ながら懲りないもんです。と、そういえば、リニアモーターカーはどうなるんですかね。京都ではちょっとしたキャンペーンやってますね、リニアモーターカーを京都に! みたいな。あれ、奈良の人は怒っているんだろうなあ。これについては奈良の人に同情的です。

もし大阪が「府」から「都」になってしまったら、やはり《ザ・京都人》は「きっ」とまなじりを吊り上げて、京都も「府」ではなく「都」に、みたいなキャンペーンをはるんでしょうか。そしたら、「京都府」から「京都都」になるのかしら?

それはともかく、僕としてはそもそもリニアモーターカー計画自体がどうも。南アルプスの下を通すって聞いた瞬間に頭がくらくらしてしまいました。

ああ、南アルプスのことを思いうかべたら山に行きたくなりました。入試が終わったら雪山に行こうと思っていたんですけど、新年度の準備も忙しかったし、なんだかこの冬は妙に寒がりになってしまって、「雪山? 考えただけでガクガクブルブルだよ~」とか言って日和っちゃったんです。後悔しています。

雪山というのは格別です。例によってカメラマンの腕前がへぼで申し訳ありませんが、

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だれもいない山のうえでこんな風景のなかにいると泣いちゃいます。

夏山もそりゃじゅうぶんに美しくて幸せなんですが、やっぱり雪山は、ちょっと、別格です。ヒマラヤとか行ったらもっとすごいんでしょうね。でも、行きません。僕なんかが行ったら死ぬから。

日本の雪山でもちょっと油断したらすぐに死ねます。

雪山に行きだしてすぐの頃、北アルプスの雪山にひとりで行くのはまだちょっと自信ないなあ、でも滋賀の比良山系ぐらいならね、みたいな気分でいた頃ですが、10月下旬にひとりで穂高に行きました。Y田M平trに、「この時期の秋山は一晩で雪山になることがあるから、ピッケルとアイゼンはちゃんと持っていくように」と言われて一応持って行きましたが、まあ、だいじょうぶだろうと何の根拠もなく思ってました。単なる願望ですね。シーズン最後の山登りですから、雪なんか積もっていない、安全で楽しい秋山登山がしたい、できなければいやだ、できるはずだ、みたいな。うん、我ながら人間の小ささがよく出てるなあと思います。

上高地に着くと、山には雪が。もちろん、真っ白というわけではありません。ところどころです。だから、だいじょうぶだと思ったんです。すごく甘い判断です。甘いというか、何もわかっていないですね、平地のイメージなんです。大阪あたりの街中でところどころにしか雪がないというのは日陰以外は雪が解けちゃってるからですよね。なんとなくですが、そんなイメージでとらえてしまってるんですね。標高ざっと1000メートルの上高地から3000メートル級の山を見て、そんなふうに見えるってことは、実際に登ってみたらどうなっているのか、ということがまるでわかっていなかったわけです。

で、るんるん気分で前穂高めざして登りはじめました。登山道に雪はありません。さっさと穂高岳山荘に着いてビールを飲みたいので、ぐいぐい登っちゃいます。当時、前穂高に行く途中にある岳沢小屋は再建工事中でした。横を通ったときに、小屋の人になんとなくいぶかしげな、変な顔で見られたような気がしましたが、あまり気に留めませんでした。

重太郎新道は結構きつい急登の連続です。だいぶ登ったあたりで、ところどころ雪が出てきました。そのうち雪を踏まないと歩けなくなり、バランス感覚が悪くてすぐに足を滑らせてしまう僕は、やがてアイゼンを履きました。Y田先生の言うとおり持ってきてよかったなあ、なんて呑気に思ってました。すぐに登山道は完全に雪に埋もれました。

それでも、前穂高と奥穂高の分岐までは比較的良いペースでした。ザックを分岐に放り出して、前穂の頂上をめざして登り始めたときに、ようやく、ちょっとまずいなと思いました。なんか怖いんです。アイゼン履いてピッケルも持っているんですが、まあ、素人同然です。今でもそうですが、当時はもっとそうでした。だから、まともに歩ける気がせず、滑りそうで怖いんです。しばらくがんばって進みましたが、ちょっと血の気が引いてきたので、分岐に戻りました。問題はそこからです。奥穂高に向かう道は「吊尾根」と呼ばれています。前穂と奥穂を結ぶ、まさしく「吊橋のような美しい弧を描く稜線」だからです。

僕の実力を考えればそこで下山するべきでした。なのに、何を考えたのか、僕は吊尾根に突っ込んでしまったんです。なんとなく、しばらくがまんして歩いたら奥穂はすぐだというような錯覚があったみたいです。所要時間についての判断もおかしくなっていました。夏山と同じようなもんだろうという、まったくもって非理性的な判断を、なんとなくしてるんですね。「なんとなく」という言葉がくり返し出てくることがそのときの僕の心理を物語っていると思います。ふわっと行っちゃったんです。

吊尾根は、雪のない季節に歩くと、とても気持ちの良い道です。ほどほどに鎖場もあって岩登りっぽいところもあって楽しめます。でも、そこに40~50センチほど雪が積もっていると、状況は一変します。

まず、ルートを示す目印(たいてい、岩にペンキで丸印や矢印が描かれている)の多くが隠れてしまいます。

そして、まだそのうえをだれも歩いていない新雪が積もっているということは、単に登山道が消えるということだけではなく、平坦な部分がなくなっているということです。本来の山の斜度そのままの雪の斜面を延々トラバースしつづけることになります。雪山素人の僕が。

岩場にくると、むき出しの岩と雪のミックスです。岩にアイゼンを引っかけて進みますが、手で岩をつかもうにも、手でつかみやすい形状になっているところは雪が積もっています。

で、このあとが問題なんですが、僕はこのとき、ものすごく油断していたのか、手袋を忘れてきていました。ほんまにアホなんです~。だから、ずっと素手でピッケルを握り、ときには雪に手を突っ込んで岩をつかんだりしなければなりませんでした。

さらに怖ろしいことに、というか、アホなことに、いざというときのためにつねに持ち歩いているべきツェルト(まあ、簡易テントとでも思っていただけばよいかと)まで僕は忘れてきていました。

このあたり、恥をしのんで告白しているわけですが、ほんとに最低の登山者でした。

途中、ルートがわからなくなり、たぶんこっちだろうと思いながら雪の斜面を登っていくと、登り切ったところが向こう側にすっぱり切れ落ちた断崖になっており、また、横にトラバースすることもできないような斜度の雪面になっているため、怖い思いをして元に引き返すなんてことも何度かありました。当然下りの方が怖いわけです。基本的にトラバースの連続ですから、つねに左側は切れ落ちており、滑落したら、滑落停止訓練なんかほとんどしていない僕は数百メートルは止まらなさそうです。

気がついたら、日が暮れようとしていました。

なんとかザックをおろせる場所を見つけて、ヘッドランプを出したんですが、点灯しない。電池は切れていない証拠に、ときどきは点く。でもなぜかしばらくすると消える。ずっと手でスイッチを押していたらなんとか点いていますが、上述したような状態なので、そんなわけにもいきません。

そうこうするうちに、ガス(霧)がすごい勢いでわいてきました。

終わった、と思いました。

これが遭難か。遭難した人たちってたとえばこんなふうにして死んだんだ。ルートが見えなくなってむやみに歩き回ったあげく、注意力が散漫になって滑落したり、疲れ果てて低体温になったり。

とりあえず、Y田M平に電話でもしてみよう。何かアドバイスがもらえるかもしれない。電波が通じればの話だが。

と思って試しに電話するとなんと電波がつながりました。

「はい」

「Y田先生、遭難しちゃった」

「え!?」

ツーツー。

なぜかこの絶妙のタイミングで電波が不通に。そしてそれっきりつながりませんでした。あとで聞きましたが、Y田先生、めっちゃ心配してくれたらしいです。そりゃ心配しますよね。ほんとにすみませんでした。

死にたくなかったらとにかく歩くしかないので、僕としてはめずらしくビールのことなどほとんど考えずに(つまり少しは考えた)、とにかく滑落しないように細心の注意を払って、アイゼンを雪面に蹴り込み、ピッケルをたたき込んでぐいっと引きちゃんと岩にかかっているか確認しながら、一歩一歩カニみたいに横歩きしていきました。頭のなかでは5:5とか4:6とか、気力が萎えかかると3:7とかそんな数字が踊ってました。

何がありがたかったかといって、霧がすぐに晴れたこと、そして、そのあと、雲ひとつない夜空にきれいな半月が出たこと、僕が助かったのはあの月のおかげですね。今でもときどきお月様には手を合わせるようにしています。

吊尾根を突破して、奥穂直下までたどり着いたときに、これで死ぬことはないな、とようやく安心しました。以前、春に、Y田先生と雪の奥穂に登ったことがあったので、慎重であることさえ失わなければだいじょうぶだと確信できました。でも、かなり疲れ果てていたので、なんだかきれいな鈴の音が聞こえてきたり、岩に話しかけたりして、若干ではありますがおかしな状態でした。前の日、自分で車を運転してきたのでほとんど眠っておらず、ほぼ徹夜だったんです。バスの中で、30分ぐらい眠ったかなという程度でした。

穂高岳山荘に着いたときには、夜10時をかなり回っていました。ざっと15時間歩き続けた計算ですね。

次の日、ベテランぽい登山客に「吊尾根通ってきたって? 自殺行為だな」と吐き捨てるように言われました。まあ、僕について言えばそれは当たりかもしれません。でも、ヒマラヤに何度も行ってるY田M平みたいな人であれば、自殺行為ってことはないはずで、単に僕の判断と技術と心がけのすべてがまるでなっていなかったという、それだけのことです。

こうして書いていても冷や汗が出てきますが、今となっては、いい経験をしたなとも思います。

車にひかれかけて「もう少しで死ぬところやった」みたいなことはよくありますが、このままだと死ぬなあと思いながら歩き続けるなんてあまりないですからね。

「絶望」ってどういうものか少し垣間見えたような気さえしました。なんというか、心が黒く塗りつぶされていく感じです。「いや、だいじょうぶ、なんとかなる」と自分に文字どおり言い聞かせ言い聞かせて、黒いのを振り払いながら歩いた、そんな10時間でした。

次の日、電波がつながるところまで下りてY田先生に電話をし、無事を報告しました。くり返しくり返し僕の携帯に電話をくれていたみたいです。感謝。すみませんでした。

さあ、反省もしたことだし、雪山行くぞ~。

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2014年3月 9日 (日)

オトナ語

歌舞伎のせりふを会話や文章の中に入れるのは最近さすがに見なくなりましたが、外国ではシェークスピアや聖書のフレーズを引用することが今でも多いのでしょうか。昔、ラジオで「心に愛がなければどんなことばも相手に響かない。聖パウロのことばより」とか言っていましたが、「聖パウロ」が何者なのかわからないので、そのことばもいまいち響かない。タモリが外国人宣教師に扮して、片言の日本語で、「みなさーん、そうでジンジャー…おお、まちがいましーた、そうでしょうが」とやってました。こちらのほうは響きました。「知らざあ、言って聞かせやしょう」とか、「こいつぁ春から縁起がいいわい」のような歌舞伎のせりふをなんの断りもなしに会話の中に入れても、あれだなとすぐわかったように、聖書のことばを引用すると、向こうの人はピンとくるのでしょうね。

日本語に訳されたものでは、たまに語注がついていて、なるほどと思うことがあります。「俺のものは俺のもの、おまえのものも俺のもの」という、よく聞くフレーズも、もとはシェークスピアらしいですね。ただし、「俺のものはおまえのもの、おまえのものは俺のもの」だったとか。「人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ」は、日本語のせりふとして使うと、くさすぎます。「生きるべきか死ぬべきか」はあまりにも有名ですが、「To be or not to be,that is the question」をいちばんはじめは「ありますか、ありませんか、それは何ですか」と訳したとか。「ながらうべきか、ただしまた、ながらうべきにあらざるか、ここが思案のしどころぞ」とか「死ぬがましか、生くるがましか、思案するはここぞかし」とか、簡潔なのは「生か死か、それが問題だ」とかありますが、実際に使う機会は当然ながら多くありません。

ある場面では必ず使うフレーズというものがあります。常套句というよりテンプレートの文ですね。合戦の場で武士が言う「やあやあ我こそは」も決まり文句ですね。「遠からんものは音に聞け、近くば寄って目にも見よ」というやつです。敵討ちのときに言うせりふも決まっています。「ここで会うたが百年目、盲亀の浮木優曇華の、花咲く春の心地して、いざ尋常に勝負、勝負」とか言います。百年に一度しか水面に出てこない亀がいたそうで、しかも目が見えない。それなのに、大海に漂う浮木のたった一つの穴にはいろうとしたということから、出会うのが至難の業であることをたとえて「盲亀の浮木」といいます。「優曇華の花」は、三千年に一度開くということで、これもめったにないということのたとえです。「がまの油売り」というのもありました。小学校のときに覚えたと思うのですが、元になったのは何だったのやら。「さあさあ、お立合い。ご用とお急ぎのない方はゆっくりと見ておいで。手前ここに取りいだしたるはガマの油。ガマはガマでもただのガマではない。これより北、筑波山のふもとで、おんばこと云う露草をくろうて育った四六のガマ。四六五六はどこで見分ける。前足の指が四本、後足の指が六本、合わせて四六のガマ。山中深く分け入ってとらえましたるこのガマを、四面鏡ばりの箱に入れたるときは、おのが姿の鏡に映るを見て驚き、タラーリタラーリと脂汗を流す。これをすきとり、三七、二十一日間、トローリトローリと煮つめましたるが、このガマの油」というやつですが、これは長すぎる。

短いフレーズなら、あいさつや政治家の答弁でもよく見られます。「ただいまご紹介にあずかりました山下でございます」という言い回しや「ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」という締めのことば。これらを使えば一応かっこうがつくという点では便利です。ただし、心がこもっているようには受け取られない。何か事件があったときの政治家の「jまことに遺憾に存じます」も心がこもってはいませんが。「それが本当なら大変だ。可及的速やかに善処いたします」が「何もする気がございません」という意味と同じであるように、黙っているわけにもいかないので、取りあえずしゃべるフレーズという位置づけですね。結婚式の「本日はお日柄もよく…」や会のはじめの「ご多忙の最中ご来場有難う御座います」なども取りあえず語として重宝します。ある業界の方の「ただで済むと思うなよ」などは、びびらせる効果がある分、ちょっとちがうようです。

糸井重里の『オトナ語の謎。』という本では、子どものときには絶対に使わなかったのに、大人になったらよく使うことばが載っています。「お世話になっております」「よろしくお願いいたします」「お疲れ様です」など、いつのまに使うようになるのでしょうか。「いただいたお電話で恐縮ですが」「ご足労頂きまして」「その節はどうも」「お噂はかねがね」なんてのは「熟練」したサラリーマンという感じです。こういうことぱがサラッと出てくると、おヌシできるなと思われるようになります。「取り急ぎ」「落としどころ」「ざっくりと」「さくっと」なんてのもオトナ語ですね。「なるはや」「午後イチ」となるとサラリーマン語でしょうか。「一両日中に」というのも子どもは使いません。相手の会社の名前に「さん」を付けるとか「営業のニンゲンに聞いてみます」のような、普通のことばを特殊な用法で使うのもオトナ語です。月のはじめの日のことを「いっぴ」と言うのも、オシャレと言うかダサいと言うか、特殊な世界のことばのような感じがします。「いや」を四連発で「いやいやいやいや」と重ねたあと、「なにをおっしゃいますやら」となるとおっさんですな。オヤジ語としては「ロハで手にはいる」とか「今夜はノミュニケーション」「ガラガラポン」なんてのがあります。「なんにも専務」とか、会議中に寝る人がいたら「山下スイミングスクール営業中」とか、ダジャレ系になると脱力してしまいます。 「さもありなん」「ならでは」「あらずもがな」「聞こえよがし」「やいなや」などはいかにも古くさいことばですが、灘の入試で出ていました。こんなことばを使う幼稚園児はいやです。大人が日常使うことばをどれだけ知っているかが、国語力の有無をはかる上で大きな指標になりますが、可愛げがありませんな。しかし、いつかは覚えなければなりません。そこのところ、ひとつよしなに。

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2014年2月25日 (火)

河内守

入試が終わってすぐ妙に暖かくなったせいか、もう春になったんだというような錯覚を起こしてぼんやりしていましたが、いつのまにか新年度がはじまりめちゃくちゃ寒くなったかと思うとオリンピックまではじまり、そして気がついたらオリンピックは終わり、寒さも緩んできました。

ぼんやりしたり新年度の立ち上がりを必死でこなしたりしているあいだに世の中ではいろんなことがあったみたいですね。大雪が降り、マー君がアメリカに行き、だれかが金メダルをとってだれかがとりそこなって、都知事選があり、府知事選・・・・・・はまだでしたっけ、あと、ウクライナがたいへんなことになったり、仮面ライダー鎧武で主人公が誤って友人をやっつけてしまったり。

オリンピック開幕直前には佐村河内守という人がちょっと話題になってましたね。僕はてっきり「さむらかわちのかみ」と読むのかと思ってたんですけど。えへへ。聴いたことがないのでどんな音楽かわかりませんが、だまされていちばん怒っているのはきっとマスコミの人なんでしょうね。CDを聴いて良い曲だと感じた人にとっては、だれが作曲したかとか、河内守さんの耳が聞こえるかどうかはどうでもいいことのはずで(だって曲の良し悪しとはまったく関係ないから)、したがって、この音楽が好きでCD買ったんだという人にしてみれば別段腹を立てる理由はないですよね。ただ、耳の聞こえない人が作った曲だということだけで感動してあのCDを買った人は、腹を立てるかもしれません。僕としてはそんな理由でCD買うなよと思いますが、まあそのへんは人それぞれなのでしかたないかなとも思います。ただ音楽好きの立場からすると、耳の聞こえない人がつくった音楽だと思うと良い音楽に聞こえて、そうでなかったら怒るっていうのは、音楽に対する冒とくの匂いがします。その点、あの、スケートのおにいちゃんは偉かったですね。本心かどうかはわからないけど、はっきりと、音楽が良いと思って選んだんだから関係ないって言ってましたから。

音楽といえば、永遠に宇宙一かっこいいシベリアン・ニュースペーパーが活動を休止するそうです。父の亡くなった年にはじめて彼らの音楽を知り、まだ1枚しか出ていなかったアルバムをくり返しくり返し聴きながら、病院に見舞いに行ってたのを思い出します。『フラグメンタ』という曲を聴くと夏の北アルプスの三千メートル近い稜線の風景、『オンディーヌ』は沢の情景、『プルートレモンスカイ』は雪山の黄昏どき、まだ少し青さの残っている空にうかぶ月を思い出します。シベリアン・ニュースペーパーに出会った頃、父の亡くなった頃、山に登りはじめた頃が、だいたい同じなんです。はっきりしないつながりが何かあるのかもしれません。

そうそう、来週の3月4日から入試分析会がはじまります。最近、その準備に忙殺されていますというか、忙殺されないように逃げ回っていますというか、そういう状態です。8校分つくらないといけません。去年よりは少ないんですが、そのぶん深い分析にしたいと思って悪戦苦闘しています。苦悶しています。正直、入試問題の傾向なんて、毎年毎年変わるものじゃないじゃないですか。でも、毎年同じ話だとつまらないですよね。もちろん、学校のポリシーが感じられる部分、はっきりとしたその学校の特色には、それが毎年変わらないからこそ、ちゃんとふれなければいけませんが、「今年も去年と同じです~、よろぴく~」なんていうわけにはいきません。今年はじめて入試分析を聞かれる人もたくさんいらっしゃるけど、去年もお聞きになった人もたくさんいらっしゃるわけで、去年と同じことしゃべっとるわ~と思われて帰られるのはちょっと希学園の沽券に関わるというか。かといって、ただの年度による差、つまり「ぶれ」をとりあげて仰々しく「今年度の傾向」だなんてばかばかしくてやってられないし。というわけで、なんとか、その学校の特色、はっきりとした変わらぬ傾向はしっかりおさえつつも、新しい視点を持ち込みたい、「おもしろい/良い話が聞けた」と感じて帰っていただきたいと思って、現在、呻吟中です。そして、なんだか孤独な辛い気持ちになって、ついついブログを書いてしまうのであった・・・・・・。孤独に耐えていっしょうけんめい課題に取り組んでいる子どもたちは偉いです、ほんと。

というわけで、3月4日からです、入試分析会。ぜひお越しください。

希学園にお子さんが通われていない、いわゆる一般生の保護者の方もぜひぜひお越しください。

おもしろいですよ~、特に国語とか吹いてしまっていいのだろうか・・・・・・。算数や理科社会の先生が読んでたら・・・・・・。ま、怒られたら謝るのみっすね!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2013年12月15日 (日)

客観視

いつのまにか本格的な冬が訪れようとしています。いよいよ2013年度も大詰めの時期を迎え、関西の小6生諸君にとってはいわゆる前入試まであと3週間ほどです。

 

毎年多くの受験生を入試へと送り出します。入試が近づく度に何人もの卒業生の顔を思い出すのですが、その中に次の二人の生徒がいます。仮にAくん、Bくんとしておきましょう。

 

Aくんは合格体験記を書いてくれました。合格体験記を読ませていただくと、さまざまな発見や感動があります。特に小6終盤期は毎日のように接するのですが、日ごろの様子からうかがい知れなかった心持ちを知ることがあります。

Aくんも自分の体験記に、日々の努力の様子、スタッフや講師陣への感謝の言葉を書き連ねてくれました。ご両親、ご家族への感謝の言葉もありました。その中に私がいたく感心した一節がありました。

小6になると毎日のように塾の授業があり、夕食は塾でお弁当を食べることが多かった、というくだりに続けて、ぼくのお弁当は毎日お母さんの手作りだった、一回たりともお店のお弁当はなかったと書いてありました。

事実を述べただけともとれますが、もちろん母親への感謝をこの一節に込めたのでしょう。私はこの一節を体験記に書くことができたAくんの意識に対して感心したのです。ご両親、ご家族への感謝を書き述べる生徒は多くいますが、このように具体的な事例を挙げて記す生徒はあまりいません。

この一節を書くためには自分を客観視し、その意識をどこかに保ち続けていなければなりません。このAくんのご家庭は共働きで、お母様は帰宅後にお弁当を用意して塾に届けてくれていました。子ども、特に男子ですからいちいち言葉にして日々感謝を述べるようなことはなかったでしょう。雨の日も風の日もそうやって届けに来てくれていたことを心に留めていたのだと思います。

もちろんお店のお弁当がよくないというようなことを申し述べたいのではありません。いろいろなご事情もありましょうし、家がかなり遠いお方もいらっしゃいます。しかも子どもたちは意外にもお店のお弁当を喜んだりします。いつものお家の味とは違うところが新鮮なのでしょう。もしかしたらAくんも心のどこかで唐揚げ弁当を注文したいと思っていたかもしれません。そのような中で、毎日毎日手作り弁当を届けてくれた母親に、後に残る文章の形で感謝の意を記したAくんに小学生とは思えない感性を見たのです。

このAくんは小5のころまでお家でまったく勉強をせず、お母様を怒らせてばかりいました。叱られるとふくれてしまうこともあり、冬場にTシャツ一枚でお家を飛び出したこともあったそうです。ただ、読書が大好きで、宿題優先のために本や新聞を禁じられたら広告チラシまで読みあさるほどの活字好きだったそうです。そんなAくんは小6になって第1志望校を心に定めてからエンジンがかかりました。面倒くさがっていた算数にも嫌がらずに立ち向かうようになりました。そして見事甲陽学院に合格しました。

私の感慨はそういった経緯を知っているからこそのものかもしれませんが、人の心、自分の姿を知るという点でAくんは見事な小学生だったと思います。

 

さて、Bくんです。小6で彼を担当したのは1か月だけでした。その彼が合格祝賀会でお手紙を渡してくれたのです。冒頭に次のような一節がありました。

----先生はおそらく覚えていないと思いますが、先生のおかげで第1志望校の灘中学に合格できました。

お恥ずかしながら、本当に思いあたることがありませんでした。顔も名前も覚えていますし、授業中の様子も覚えていましたが、特別なことをした覚えがないのです。文面は次のように続いていました。

----学習らんをしっかり書かなかったぼくに繰り返して注意してくれました。元のクラスにもどったときには、その教室にまで来て前週の宿題の取り組みについて叱ってくれました。あれから国語にもきちんと取り組むようになり、得点が安定しました。合格はそのおかげです。ありがとうございました。

覚えています。国語が得意な彼は、その分かどうか算数が苦手でした。算数に時間をかけたいので国語の取り組みがおろそかになっていました。そのせいで時々得意な国語でとりこぼしをすることがありました。そこで何度も何度も宿題の取り組みについて注意していたのです。

長文読解の問題で×になった設問には、模範解答を写してから「どうしてその答えになるのか」「その答えになる決め手はどこにあったのか」を考えて、書き記すように指導しています。その取り組みをきちんとこなすよう指示したのです。本文を理解できる力があっても設問の理解・対応がうまくいかないと正解にはいたりません。

手前味噌のようで恐縮ですが、合格祝賀会で非常に嬉しい言葉をいただいた訳です。ただし、私の指導成果や満足を問題にしたいのではありません。おそらくや自ら思い立って、感謝の手紙を書き記してくれたこともそうですが、冒頭の一文に感心したのです。

おそらくこちらは覚えていないだろうという書き方に、小学生とは思えないものの見方を感じたのです。まさに自分と相手を客観視しているのです。講義や問題作成以外にわれわれ希学園の講師陣は、それぞれの生徒のためにさまざまなアプローチをかけます。時には厳しく叱ることもあります。無意識にではありませんが、当然のこととしてそれらの指導を行っている訳です。そして指導がうまくいったケースについては特に忘れがちです。なかなか成果が出ない場合は気がかりだし、次の策を講じたりして心から離れません。

そういった心理や状況を汲み取って書かれたのがあの一文だと思います。卒業してから知ったのですが、この生徒は国語が得意なはずで、小5までにかなり多くの司馬遼太郎の作品を読破していたそうです。入試を終えてからは山本周五郎だとか藤沢周平だとかに手を出しているそうです。

 

国語がよくできた二人の生徒を紹介したことになりますが、より強く心に残っているのは国語が不得意だった生徒たちです。間もなく入試に向かう小6生の保護者の方も、小5生以下の諸君の保護者の方も、国語も努力によって得点をあげていける教科です。最後まであきらめずに取り組んでいただきたいと思います。

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2013年12月 8日 (日)

父は兵庫におもむかん

前回寄り道したので、前々回の続きとして「型」の話をば。この「をば」という言い方も近頃は聞きませんね。年寄りの話では、この「をば」を使うのも一つの型だったのかもしれません。型を身につけるためには、まず覚えなければなりません。むかしは神武綏靖…と天皇の名前を覚えさせられましたが、天皇の名前を呼び捨てにして「不敬罪」にはならなかったのでしょうかね。教育勅語というのも覚えさせられたそうですが、それはさすがに知りません。『平家物語』や『方丈記』の冒頭は暗唱させられましたね。『曽根崎心中』は強制されなかったのに覚えているのが不思議です。「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」という、犀星の『小景異情』も自然に覚えたのか、藤村の『千曲川旅情の歌』は覚えさせられたような。「小諸なる古城のほとり」というやつですね。海原お浜・小浜の漫才でやってました。「コモロやコモロ、わからんか!」「コモロってなんや?」「天ぷらについてるがな」「そらコロモとちゃうか」という、じつにしょうもないネタ…。小浜の息子もむかし漫才をやっていて、そのときの相方が池野めだかです。孫のやすよ・ともこもおばあちゃんそっくりですな。

藤村の『初恋』は「人恋ひそめしはじめなり」の部分が重複だと言う人がいました。「初めし」と「初め」が意味的に重なっていてムダだというんですね。定型にとらわれるあまり、語の選択が藤村ほどの人でもゆるがせになっているという批判でした。憂いの気持ちがやや重くなる『千曲川』は五七調、甘美な『初恋』は女性的な七五調、と使い分けているあたりはさすがだと思うのですが。『水戸黄門』のテーマはそんなこととは関係なく七五調です。

漢詩も七文字または五文字になります。音のリズムだけでなく、平仄を合わせるのが難しい。平声のほか、上声・入声・去声とかあって、どういう配列にするのか規則があります。ふつうの日本人が漢詩をつくるときには専門家に平仄が合っているか見てもらわないといけなかったようです。読み下しにしたら、そんなことはわからないし、七五調でなくても、ある程度のリズムは出るようなのですが。「霜軍営に満ちて秋気清し 数行の過雁月三更 越山併せ得たり能州の景 遮莫(さもあらばあれ)家郷の遠征を憶ふ」は上杉謙信作と言われます。だれだったか、日清戦争が終わって、日本の将軍の一人が、この詩の「能州」は能登の国なのでさすがに地名は変えたものの残りをそのままパクって中国人に見せたところ、大絶賛だったそうです。明治のころまでは政治家・軍人でも漢詩を作る人は多かったようです。乃木さんも作っていますね。「爾霊山嶮なれども豈に攀ぢ難からんや」というやつです。二〇三高地ですね。標高二〇三すなわち「にれいさん」を「爾(なんじ)の霊の山」と表記しています。自分の息子も含めて、この山で死んだ無数の霊に対する鎮魂の念をこめて、このような表記をしたのだと、NHK『坂の上の雲』で言うてましたな。

しかし、さすがに今の日本で漢詩を作る政治家はいないでしょう。短歌・俳句でも無理かもしれません。辞世の句なんて作れない。 同じ越山でも田中角栄の「国交途絶幾星霜 修好再開秋将到 隣人眼温吾人迎 北京空晴秋気深」という「漢詩」は卓越しています。一見「七言絶句」ですが、中国人が見たらまさに「絶句」でしょう。いっさい返り点なしで、「3LDK駅近」のような不動産広告みたいだと、日本人からも酷評されました。「秋」の字の重複も本来は望ましくないし、「吾人迎」も「迎吾人」にしなければ文法的におかしい。また、「北京空」ではなくて「北京天」としなければなりません。「空」では「北京はむなしい」と言っていることになる。でも、毛沢東も周恩来も喜んで受け取ってくれたのでしょう。オバマさんが日本語で俳句を作るみたいな感じですから、作ることに意味があり、巧拙は問題ではなかったということでしょう。

七五調は古くさいと思われがちですが、今もってその威力はすごいものがあります。「仰げば尊し」は八六調、『春が来た』は五五調、いろいろありますが、やはり七五調のリズムが人を酔わせます。 標語はだいたい七五調です。「飛び出すな車は急に止まれない」のように。正岡子規が「彼岸の入りだというのに寒いなあ」と言うと、母親が「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」と答えました。これ、そのまま子規の句として発表されています。「1にナントカ、2にナントカ、34がなくて5にナントカ」とか「はじめちょろちょろ、なかぱっぱ」のような七五調は言いやすいし、覚えやすい。寅さんの口上も七五調です。「四谷赤坂麹町チャラチャラ流れる御茶ノ水、粋な姐ちゃん立ちションベン」とか「白く咲いたか百合の花、四角四面は豆腐屋の娘、色は白いが水臭い」とか「焼けのやんぱち、日焼けのなすび、色が黒くて食いつきたいが、あたしゃ入れ歯で歯が立たない」とか。

むかしは歌謡曲の司会の歌紹介も七五調でした。「赤いランタン波間に揺れて…姑娘(クーニャン)かなしや支那の夜」というのは浜村淳で覚えたような気がします。「本日はにぎにぎしくご来場、まことにまことにありがとうございます。わたくし四畳半のザッツ・エンターテイメント、小松よたはちざえもんでございます。歌は流れるあなたの胸に、いま歌謡界に燦然と光り輝く、お待ちどおさま、涙、涙のベンジャミン伊東でございます」となると『電線音頭』です。 歌舞伎の名台詞も当然のごとく七五調です。「知らざあ言って聞かせやしょう」なんて、NHKの番組『にっぽんの芸能』で檀れいが決めぜりふとして言っていました。「浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ヶ浜…名せえゆかりの弁天小僧菊之助」とか、「月も朧に白魚の篝も霞む春の空…こいつぁ春から縁起がいいわい」とか。

浪花節から出た「バカは死ななきゃならない」は今やことわざの域になっています。「あっと驚く為五郎」ももとは浪曲です。出典が忘れられても「どこまで続くぬかるみぞ」「戦い済んで日が暮れて」「なにをこしゃくな群雀」など、軍歌から出たフレーズを使う人がいまだにいます。…ほとんどいないか。だれだったか忘れましたが、何かの標語コンクールの審査員になった人が、子どもに「どこに行くの」と聞かれて、「父は標語におもむかん」と言った、という話、いまは通じませんね。また『青葉茂れる』にもどってしまいました。

2013年11月24日 (日)

シネマ食堂街③

前回の「シネマ食堂街②」が、なぜか「時事問題」にカテゴライズされていました。明らかに時事問題ではないんですが、なぜこんなことになってしまったんでしょう。どこか変なところを押してしまったんでしょうか (・_・ )( ・_・) オロオロ。

どこをどうしたらなおせるのかわからないのでこのままいきますが、時事問題ではありません。原発についてもテロについても秘密保護法についても言及していません。ただ、シネマ食堂街という、ある時代の雰囲気を濃密に体現している空間が主題であると考えれば、時事問題と言えなくないかもしれません。そして、「じじ問題」と表記すれば、それはそれで思いあたるふしもあったりなかったりするようなしないような・・・・・・コホン、ゴホッゴホッ。

さて、シネマ食堂街との衝撃の出会いから数年後、わたしは、再び剱岳に登りました。去年の話です。

同じルートはつまんないので、一般登山道ではなく、懸垂下降用のロープを担いで源次郞尾根ちゅうところから登ってみました。30メートルの懸垂下降が一カ所あるだけなのに、それだけのために50メートルのロープを2本持って行かねばならず(1本はY田先生に借りました)、おまけに少し雪渓を下るんですが、Y田先生が、ピッケルは必携、アイゼンもあった方がいいかも、などとのたまうのに素直に従ったら、もう重い重い。重さのために遭難するのではないかと思いました。

しかし、この源次郞からの登山の話は割愛します。問題はつねに衝撃の亜空間『シネマ食堂街』なのであります!

下山後、ひさしぶりに富山市内で時間があったので、僕はさっそく懐かしのシネマ食堂街へといそいそと足を運びました。めざすはもちろん「あや」です。べつに安くもなければおいしくもなく、ただ、男みたいなママと、生活保護のおばあちゃんがいたというだけの店でしたが、なんとなく、あの異次元空間ぶりに引き寄せられる感じで足が向いてしまうのでした。

しかし、残念ながら、「あや」はもうなくなっていました。小さい迷路みたいな食堂街のなかをくまなくさがしたけど、ありませんでした。ほんとうはそんな店なかったのかも・・・・・・とは思いませんでしたが(そんなおおげさな、ねえ?)、なんとなくぼんやりした、不思議な気持ちになりました。少しさびしいような。

このまま「あや」はだんだん僕の記憶から薄れていき、いつしか忘れられてしまう・・・・・・そんなふうにして、僕と「あや」との縁(というほどのものでもないですが)は消滅するかと思われたのですが、つい先月、三度目の剱岳登山を終え、富山市内に下り立つや、僕の足はやはりシネマ食堂街に向かってしまうのでした。未練がましく「あや」をさがすも、やはりかげもかたちもなくなっており、僕はだからといってたいしてがっかりするわけでもなく、シネマ食堂街の一角にあるべつの居酒屋に入りました。「あや」よりかなり綺麗だし、料理もおいしく、値段も高くなくて良い店です。

その店でビールを飲みながら、僕はふと「『あや』のことを聞いてみよう」と思い立ったのです。

ホールを切り盛りしている声の大きい、化粧の濃いおばさん(この人は東大阪の出身だそうです)に、「以前、美空ひばりばかりかかっている店がありましたよね?」と尋ねると、

「ああ、ああ、ありました。」

「あのお店はもうなくなっていますね」

「あの店のマスター、っていうか、ママね、亡くなったのよ。癌で」

「ああ・・・・・・そうですか。いつ頃ですか」

「もうだいぶ前よ~。4年ぐらい前かしら」

「ああ・・・・・・そうですか」

「あの店のマスター、っていうか、ママね、いい人だったのよ~。田舎から送ってきた野菜くれたりね」

「ああ・・・・・・」

「これ言っていいのかしら、でも本人も隠してなかったからいいわよね、あのママね、昔、だったのよ」

は?

「奥さんも息子さんもいてね、昔は高岡でバーをやってたんだけど、どうしてだか、あんなふうになっちゃってねぇ、お嫁さんが、いっしょに暮らすのいやだって言うものだから、店の二階に住んでたわ。そりゃねえ、舅が姑になっちゃったんだもんねぇ」

「む、むう・・・・・・」

そういえば、あの店でビール飲んでたとき、夕方近くなったら、突然カウンターのなかでかつらをかぶって化粧というか顔に何か塗りつける的な作業をしてましたよ、あの男みたいな、というか、今まさにかつて男性であったことが発覚したところのママ。しかし、それなのにまったく気づいていなかった僕って、僕の眼って、すばらしく節穴。

それにしても、あの「ママ」の人生はもう失われてしまい、あの「ママ」の人生に何が起こり、何を思って、あの場所に行き着いたのか、そうして毎日、生活保護のおばあちゃんと差し向かいで、どんな気持ちで美空ひばりを聴いていたのか、そういったことのすべてが消え去ってしまいました。もう一度行って仲良くなって、ビール飲みながらゆっくり話を聞いてみたかったな、と思います。

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2013年11月17日 (日)

シネマ食堂街②

前回、明らかに話の本筋とは関係のないY田M平ばなしでムダに字数を費やしてしまい、肝心な内容にまったく入れませんでした。ちょっと気をぬくと登場するY田M平、油断も隙もないとはこのことです。

 

さて、とにかく私はカウンター席に座り、男みたいな顔のおばちゃん(たぶん60代半ば)が焼いてくれた鰤を食べながら、ビールを飲み、美空ひばりの唄を聞くともなく聞いていたわけです。

店のママ、つまりさっきからしつこく繰り返していますが男みたいな顔したおばちゃんは、僕が大阪から来たことを知るや、店の奥から1葉の写真を取りだしてきて、

「これ、わたしの好きな男の人なの」

といって見せてくれました。色褪せた古い写真には、いかにも真面目そうな、背広姿のサラリーマンらしき男性がうつっていました。昭和四十年代ふうの黒縁の眼鏡をかけたおじさんです。

「豊中に住んでるのよ」

と男みたいなママは言いました。

残念ながら僕はこういうときなめらかに言葉が出てくる人間ではありません。ただ、「はあ」とか「むう」とかつぶやくだけなのでありましたが、男みたいなママは、うっとりと遠くを見るような目で、

「優しい人なのよ」

「はあ」

「わたしがどうしても会いたくなって」

「むう」

「突然、突然よ」

「はあ」

「迷惑なのはわかっているんだけど、行っちゃったの、でも、ちゃんと駅まで会いに来てくれて・・・・・・」

「むう」

「ひばりぃ~」(これは僕のとなりにいるおばあちゃんの声)

「そう、あなた豊中から来たの」

「いえ、茨木です」

「そうなの」

「ひばりぃ~」

といった感じで、昼下がりから夕方にかけてのひととき、妙に非現実的な時間が流れていくのでありました。

ちなみに、一定の時間間隔で「ひばりぃ~」とつぶやきつづけているおばあちゃんですが、

「あのおばあちゃんね、生活保護を受けてるのよ」

と、おばあちゃんが席をはずしているときに、ママが教えてくれました。

これが、5年ほど前の話です。

さて、ほんとうに濃い話はこれからなんですが、またしても時間がなくなってしまったようです。

つづく!

 

 

 

 

 

 

2013年11月10日 (日)

シネマ食堂街①

今日は、わたしが今年もっとも衝撃を受けた話を紹介します。

・・・・・・なんというか、けっこう濃い話なので、こんなところに書いてもよいものかどうか・・・・・・。

ま、いっか。

僕のはじめての北アルプス体験は剱岳です。

もともと僕は、高い所が苦手でした。歩道橋もいやだったぐらいですから、山登りはおろか、観覧車だって当然アウトです。はるか昔のことですが、青春の1ページといいますか、とある女性といっしょに観覧車に乗ったときのこと、かの人が隣に腰をおろそうとするのを「やめろ、一方に重量が偏ったら傾くだろ」とわめいて全力で拒否、きわめて気まずい雰囲気に。うーん、まさに青春の一コマですね。しみじみ。

とにかく、そんなにも高い所がダメで、おまけに体力にも運動神経にも自信がなかったので、北だろうが南だろうがアルプスなんてとてもとても・・・・・・あたしゃそのへんの裏山程度のところでいいのよ、という感じのヤマノボラー(=山登りをする人)だったわけです。ウェアもいいかげんで、さすがにジーパンはまずいということで化繊の含有量の多い服は着ていましたが、雨具は自転車とかバイクに乗る人用の気密性の高い、むれむれのカッパ、靴はヒマラヤかどこかで買った安物のトレッキングシューズ、そんな出で立ちで京都の皆子山とか、奈良の白鬚岳とか、どこよそれ?というような山を本で見つけてきては登ってました。

そこへ彗星のごとくあるいは火星の衛星フォボスのごとく現れたのが、ヒマラヤ八千メートル峰に3回も(2回だったかな?)挑んだ(そして敗退した)男、山男のなかの山男、黄金の太もも、Y田M平先生であります。

かれは僕に言いました。

ヘイ、今度、山登りに行かないか? 算数のY川氏もいっしょさ。

算数のY川先生も独自に山登りの魅力にとりつかれ、すでに北アルプスにも何度か登ったことがあるという話でした。

そのとき、Y田先生が連れて行ってくれたのは、雪彦山という姫路の近くにある山です。低山ですが、ちょっとした岩場があり、ちょっとアルパインな気分が味わえます。

ちなみに、Y田先生はきわめて保守的な性格の持ち主で、とにかく自分がかつて登ったことのある山、それも庭のごとく知悉している山にしか登りたがりません。その割には道に迷うのが不思議です。その後も雪彦山には岩登り(いわゆるロッククライミング)の練習で二度行きましたが、行く度に山中をさまようことになりました。たしかに岩場というのは一般登山道からはずれたところにあるのでわかりにくいんですが、Y田先生はかつてさんざん通ったにもかかわらず迷うため、われわれはいつも岩場にたどり着くまでに体力と時間を使い果たし、結局クライミングなどほとんどできず、懸垂下降だけして帰ってくるのであります。

それはともかく、ま、そうやって山行をともにするなかで、北アルプスはいいですよと、Y田先生およびY川先生に勧められて、ついその気になってしまったわけですね。行きましたよ、剱岳。

新田次郎の小説が数年前に映画化されていましたね。『剱岳 点の記』とかいうやつです。

この、初の北アルプス、それも剱岳登山でも、僕はやってはいけないことをやらかし肝を冷やしたわけですが(かいつまんで言うと、山頂でのんびりサッポロ一番を食べビールを飲んでいたら下山が遅くなり途中で日が暮れてしまった)、今日はしかし登山の話がしたいのではありません。

下山してからの話であります。

富山市に出て、さあ、おなかもすいたし、ビールの1本か2本、できれば3本ぐらいも飲みたいものだと思って、店をさがしていたら、「シネマ食堂街」と書かれた、おそろしく古いビルがありました。まさに昭和の香りふんぷんたる前時代的建造物です。ここなら昼から営業している居酒屋があるかも~と思って入ってみると、「あや」という名前の店が開いていました。入口には「美空ひばり後援会なんとか支部」みたいな貼り紙。

店内には美空ひばりのビデオが流れ、お客さんがふたりいました。

カウンターの中にいたのは、なんといったらいいんでしょう、男みたいな顔をした短髪のおばちゃんでした。いるじゃないですか、たまに、男みたいな顔した人。

客のひとりはまだまだ元気な感じのおじいさんで、暇をもてあましていたらしく、僕のリュックをみるや、どの山に登ったのかとかどこから来たのかとかいろいろ話しかけてきました。

もうひとりの客はおばあさんで、カウンターにかがみこんでちびちびとビールを飲みながら食い入るようにビデオを見つめ、「ひばりぃ~」とつぶやいているのでありました。

「うわあ~、なんだか濃いところに来ちゃったな~」と思いながら、僕もビールを飲み、仕方なく美空ひばりの歌声に耳を傾けていました。

 さて、ここからが濃い話になっていくわけですが、余計なことを書いていたら時間がなくなってしまいました。というわけで、今回は「シネマ食堂街①」ということにして、次回へつづく!

 

 

 

 

 

 

 

 

2013年11月 2日 (土)

「人生」のルビは「ショー」

前回の続きを書こうとして読み直していると、最後のところで変換ミスをしていることに気がつきました。「忍ぶ鎧の」は「偲ぶ」ですね。大楠公(「だいなんこう」では変換できない!)の歌の「しのぶ鎧の袖の上(「そでのえ」も変換できない!)に」の部分です。「世の行く末をつくづくとしのぶ」という流れなので「忍ぶ」ではなく「偲ぶ」がふさわしい。「手書き」なら、どちらだろうと考えながら書くのに、機械が勝手に変換してくれると、なんとなくスルーです。「忍ぶ」は「人目を忍ぶ」つまり「忍者」、「がまんする」という意味なら「忍耐」「堪忍」です。一方「偲ぶ」は「昔を偲ぶ」ですが、「ぶ」と濁らないのが本来の形だったようです。こちらの方は常用漢字にはいっていないので原則として仮名書きでしょうが、漢字で書いてもなんら問題はありません。

当用漢字は常用漢字とちがって「縛り」がきつかったので、表外の漢字は新聞などでは仮名書きになっていたようです。軍隊がなくなって「駐屯地」の「屯」はいらんだろう、ということで表外になってしまったのですが、その後自衛隊が生まれて、この語を使おうとすると「駐とん地」という表記で、なんかブタがブーブー言って集まっている感じになったとか。「瀆職」の「瀆」の字が使えなくなって、「汚」に書きかえたため、「汚職事件」という新語が生まれました。「とくしょくじけん」が「おしょくじけん」になってしまったのですね。「汚職事件」の変換ミスとして「お食事券」になる、というネタも登場しました。「風光明媚」が「風光明美」となると「かざみつあけみ」さんかと一瞬思ってしまいます。

今の新聞では、表外の漢字でも、ふりがな付きで書かれることがあります。とくに記者の書いたものではなく、寄稿されたものであれば原文を尊重しようということでしょう。このふりがなの効用というのは、じつは大きかったのではないでしょうか。知らない漢字でもふりがながあれば読めるし、そこで新たに漢字を覚えていくということもありました。「流行る」と書いて「はやる」と読ませたり、「殺る」と書いて「やる」と読ませたりするやり方もあります。漢字で書くことでイメージがはっきりしますが、ふりがなをつけないと読みにくい。かといって、仮名書きでは雰囲気が出ない、ということでしょう。「うつす」には「移」「写」「映」の三つの漢字があって使い分けをする問題がよく出ます。「都をうつす」場合には「遷」なんて字を書くこともあるのですが、「風邪をうつす」の場合はどれでしょう。「移」なのでしょうが、これは場所移動なので、元の場所からいなくなる感じです。でも、風邪は人にうつしたら自分は治るというわけでもないので、微妙に違和感があります。そこで「風邪を伝染す」と書く人もいるのでしょう。

漢字で視覚に、ふりがなで聴覚に訴えて立体的なイメージを出そうというテクニックもあります。歌詞でよく使われたりしますが、耳で聞いているだけではわかりません。ふりがな付きの歌詞を見て、あれま、と思うことがあります。「永遠(とわ)」「運命(さだめ)」「女性(ひと)」「性質(さが)」ぐらいはよくあるパターンですが、「現代(いま)」「宇宙(そら)」「時代(とき)」となると、歌を聞いてるときには気づかんかったなあと思います。「出発(たびだち)」「舞台(ステージ}」なんて、漢字で書かんでもええやないの。同じ「日本」なのに「くに」になったり「ふるさと」になったり、熟字訓の域をこえてます。「人生」と書いて「ショー」と読ませる桑田佳祐はさすがです。歌舞伎の外題もなかなか魅力的です。奇数は陽なので縁起をかついで、漢字五字または七字で書くものに無理矢理読み方をつけています。河内山宗俊の出てくる『天衣紛上野初花』は「くもにまごううえののはつはな」になります。『青砥稿花紅彩画』が 「あおとぞうしはなのにしきえ」とは、そら知らなんだの世界です。めんどくさいので『白浪五人男』と言うことが多いようです。『慙紅葉汗顔見勢』は「はじもみじあせのかおみせ』ですが、これも『伊達の十役』と言います。それぐらいなら、はじめからややこしい名前をつけるなよ、と思います。落語にも『地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)』というのがありますが、これは歌舞伎のパロディでしょう。

「大人気」はふりがながなければ読めません。「だいにんき」なのか「おとなげ」なのか。「人気のない公園」は「ひとけ」がないのか「にんき」がないのか、どっちでしょう。「大人百円、小人五十円」と書かれているのを見ることがありますが、「小人」はどう読むのでしょう。奈良公園の「鹿の発情期には注意」という看板の「発情期」には「気の荒いとき」というふりがなが付いていてオシャレです。こういうふりがなをルビと言いますが、外国にはないようです。「ルビ」ということばは、宝石のルビーから来ているらしいのですが、日本独自の発明なんでしょうね。もともと経文の漢字を読むためのカンニング用に作られたのが片仮名だと言われます。でも、漢字の横に書いたのでしょうから、これがルビの起こりかもしれません。

漢字以前に日本では文字がなかったことになっていますが、有名な「竹内古文書」は「神代文字」で書かれていたと言います。キリストが日本に来たなんてことが書かれているとかいう本です。こういうのを真剣に(?)信じてる人もいるようで、昔流行(はや)った「ノストラダムスの予言」なんてのも信じた人がいたのでしょうかね。その日が来れば結果がわかるのに、あとのことは考えないのか、または「それまでかせごう」と割り切ったのか、そういう人たちがテレビにもよく出ていました。「明日は雨が降るような、天気ではない」なら絶対当たります。「あなたは25歳ですか。では、来年は26歳になるでしょう」も。中島らもが「最近の若者の事件」についてのコメントを求められて「共通することが一つあります。それは、みんな若い、ということです」と言ったとか。当たり前っておもしろいですね。たまにテストで点をとる方法を聞かれることがあります。そんなとき、私は「正解を書け」って言います。怒らずに笑ってくれる人は高得点がとれる人です。

ほんとうは、前回の続きで「七五調」から発展させて「型の美学」について書こうと思っていたのですが、「型」が乱れてしまいました。こういうのを「かたなし」と言うのでしょうか。

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