2013年11月24日 (日)

シネマ食堂街③

前回の「シネマ食堂街②」が、なぜか「時事問題」にカテゴライズされていました。明らかに時事問題ではないんですが、なぜこんなことになってしまったんでしょう。どこか変なところを押してしまったんでしょうか (・_・ )( ・_・) オロオロ。

どこをどうしたらなおせるのかわからないのでこのままいきますが、時事問題ではありません。原発についてもテロについても秘密保護法についても言及していません。ただ、シネマ食堂街という、ある時代の雰囲気を濃密に体現している空間が主題であると考えれば、時事問題と言えなくないかもしれません。そして、「じじ問題」と表記すれば、それはそれで思いあたるふしもあったりなかったりするようなしないような・・・・・・コホン、ゴホッゴホッ。

さて、シネマ食堂街との衝撃の出会いから数年後、わたしは、再び剱岳に登りました。去年の話です。

同じルートはつまんないので、一般登山道ではなく、懸垂下降用のロープを担いで源次郞尾根ちゅうところから登ってみました。30メートルの懸垂下降が一カ所あるだけなのに、それだけのために50メートルのロープを2本持って行かねばならず(1本はY田先生に借りました)、おまけに少し雪渓を下るんですが、Y田先生が、ピッケルは必携、アイゼンもあった方がいいかも、などとのたまうのに素直に従ったら、もう重い重い。重さのために遭難するのではないかと思いました。

しかし、この源次郞からの登山の話は割愛します。問題はつねに衝撃の亜空間『シネマ食堂街』なのであります!

下山後、ひさしぶりに富山市内で時間があったので、僕はさっそく懐かしのシネマ食堂街へといそいそと足を運びました。めざすはもちろん「あや」です。べつに安くもなければおいしくもなく、ただ、男みたいなママと、生活保護のおばあちゃんがいたというだけの店でしたが、なんとなく、あの異次元空間ぶりに引き寄せられる感じで足が向いてしまうのでした。

しかし、残念ながら、「あや」はもうなくなっていました。小さい迷路みたいな食堂街のなかをくまなくさがしたけど、ありませんでした。ほんとうはそんな店なかったのかも・・・・・・とは思いませんでしたが(そんなおおげさな、ねえ?)、なんとなくぼんやりした、不思議な気持ちになりました。少しさびしいような。

このまま「あや」はだんだん僕の記憶から薄れていき、いつしか忘れられてしまう・・・・・・そんなふうにして、僕と「あや」との縁(というほどのものでもないですが)は消滅するかと思われたのですが、つい先月、三度目の剱岳登山を終え、富山市内に下り立つや、僕の足はやはりシネマ食堂街に向かってしまうのでした。未練がましく「あや」をさがすも、やはりかげもかたちもなくなっており、僕はだからといってたいしてがっかりするわけでもなく、シネマ食堂街の一角にあるべつの居酒屋に入りました。「あや」よりかなり綺麗だし、料理もおいしく、値段も高くなくて良い店です。

その店でビールを飲みながら、僕はふと「『あや』のことを聞いてみよう」と思い立ったのです。

ホールを切り盛りしている声の大きい、化粧の濃いおばさん(この人は東大阪の出身だそうです)に、「以前、美空ひばりばかりかかっている店がありましたよね?」と尋ねると、

「ああ、ああ、ありました。」

「あのお店はもうなくなっていますね」

「あの店のマスター、っていうか、ママね、亡くなったのよ。癌で」

「ああ・・・・・・そうですか。いつ頃ですか」

「もうだいぶ前よ~。4年ぐらい前かしら」

「ああ・・・・・・そうですか」

「あの店のマスター、っていうか、ママね、いい人だったのよ~。田舎から送ってきた野菜くれたりね」

「ああ・・・・・・」

「これ言っていいのかしら、でも本人も隠してなかったからいいわよね、あのママね、昔、だったのよ」

は?

「奥さんも息子さんもいてね、昔は高岡でバーをやってたんだけど、どうしてだか、あんなふうになっちゃってねぇ、お嫁さんが、いっしょに暮らすのいやだって言うものだから、店の二階に住んでたわ。そりゃねえ、舅が姑になっちゃったんだもんねぇ」

「む、むう・・・・・・」

そういえば、あの店でビール飲んでたとき、夕方近くなったら、突然カウンターのなかでかつらをかぶって化粧というか顔に何か塗りつける的な作業をしてましたよ、あの男みたいな、というか、今まさにかつて男性であったことが発覚したところのママ。しかし、それなのにまったく気づいていなかった僕って、僕の眼って、すばらしく節穴。

それにしても、あの「ママ」の人生はもう失われてしまい、あの「ママ」の人生に何が起こり、何を思って、あの場所に行き着いたのか、そうして毎日、生活保護のおばあちゃんと差し向かいで、どんな気持ちで美空ひばりを聴いていたのか、そういったことのすべてが消え去ってしまいました。もう一度行って仲良くなって、ビール飲みながらゆっくり話を聞いてみたかったな、と思います。

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2013年11月17日 (日)

シネマ食堂街②

前回、明らかに話の本筋とは関係のないY田M平ばなしでムダに字数を費やしてしまい、肝心な内容にまったく入れませんでした。ちょっと気をぬくと登場するY田M平、油断も隙もないとはこのことです。

 

さて、とにかく私はカウンター席に座り、男みたいな顔のおばちゃん(たぶん60代半ば)が焼いてくれた鰤を食べながら、ビールを飲み、美空ひばりの唄を聞くともなく聞いていたわけです。

店のママ、つまりさっきからしつこく繰り返していますが男みたいな顔したおばちゃんは、僕が大阪から来たことを知るや、店の奥から1葉の写真を取りだしてきて、

「これ、わたしの好きな男の人なの」

といって見せてくれました。色褪せた古い写真には、いかにも真面目そうな、背広姿のサラリーマンらしき男性がうつっていました。昭和四十年代ふうの黒縁の眼鏡をかけたおじさんです。

「豊中に住んでるのよ」

と男みたいなママは言いました。

残念ながら僕はこういうときなめらかに言葉が出てくる人間ではありません。ただ、「はあ」とか「むう」とかつぶやくだけなのでありましたが、男みたいなママは、うっとりと遠くを見るような目で、

「優しい人なのよ」

「はあ」

「わたしがどうしても会いたくなって」

「むう」

「突然、突然よ」

「はあ」

「迷惑なのはわかっているんだけど、行っちゃったの、でも、ちゃんと駅まで会いに来てくれて・・・・・・」

「むう」

「ひばりぃ~」(これは僕のとなりにいるおばあちゃんの声)

「そう、あなた豊中から来たの」

「いえ、茨木です」

「そうなの」

「ひばりぃ~」

といった感じで、昼下がりから夕方にかけてのひととき、妙に非現実的な時間が流れていくのでありました。

ちなみに、一定の時間間隔で「ひばりぃ~」とつぶやきつづけているおばあちゃんですが、

「あのおばあちゃんね、生活保護を受けてるのよ」

と、おばあちゃんが席をはずしているときに、ママが教えてくれました。

これが、5年ほど前の話です。

さて、ほんとうに濃い話はこれからなんですが、またしても時間がなくなってしまったようです。

つづく!

 

 

 

 

 

 

2013年11月10日 (日)

シネマ食堂街①

今日は、わたしが今年もっとも衝撃を受けた話を紹介します。

・・・・・・なんというか、けっこう濃い話なので、こんなところに書いてもよいものかどうか・・・・・・。

ま、いっか。

僕のはじめての北アルプス体験は剱岳です。

もともと僕は、高い所が苦手でした。歩道橋もいやだったぐらいですから、山登りはおろか、観覧車だって当然アウトです。はるか昔のことですが、青春の1ページといいますか、とある女性といっしょに観覧車に乗ったときのこと、かの人が隣に腰をおろそうとするのを「やめろ、一方に重量が偏ったら傾くだろ」とわめいて全力で拒否、きわめて気まずい雰囲気に。うーん、まさに青春の一コマですね。しみじみ。

とにかく、そんなにも高い所がダメで、おまけに体力にも運動神経にも自信がなかったので、北だろうが南だろうがアルプスなんてとてもとても・・・・・・あたしゃそのへんの裏山程度のところでいいのよ、という感じのヤマノボラー(=山登りをする人)だったわけです。ウェアもいいかげんで、さすがにジーパンはまずいということで化繊の含有量の多い服は着ていましたが、雨具は自転車とかバイクに乗る人用の気密性の高い、むれむれのカッパ、靴はヒマラヤかどこかで買った安物のトレッキングシューズ、そんな出で立ちで京都の皆子山とか、奈良の白鬚岳とか、どこよそれ?というような山を本で見つけてきては登ってました。

そこへ彗星のごとくあるいは火星の衛星フォボスのごとく現れたのが、ヒマラヤ八千メートル峰に3回も(2回だったかな?)挑んだ(そして敗退した)男、山男のなかの山男、黄金の太もも、Y田M平先生であります。

かれは僕に言いました。

ヘイ、今度、山登りに行かないか? 算数のY川氏もいっしょさ。

算数のY川先生も独自に山登りの魅力にとりつかれ、すでに北アルプスにも何度か登ったことがあるという話でした。

そのとき、Y田先生が連れて行ってくれたのは、雪彦山という姫路の近くにある山です。低山ですが、ちょっとした岩場があり、ちょっとアルパインな気分が味わえます。

ちなみに、Y田先生はきわめて保守的な性格の持ち主で、とにかく自分がかつて登ったことのある山、それも庭のごとく知悉している山にしか登りたがりません。その割には道に迷うのが不思議です。その後も雪彦山には岩登り(いわゆるロッククライミング)の練習で二度行きましたが、行く度に山中をさまようことになりました。たしかに岩場というのは一般登山道からはずれたところにあるのでわかりにくいんですが、Y田先生はかつてさんざん通ったにもかかわらず迷うため、われわれはいつも岩場にたどり着くまでに体力と時間を使い果たし、結局クライミングなどほとんどできず、懸垂下降だけして帰ってくるのであります。

それはともかく、ま、そうやって山行をともにするなかで、北アルプスはいいですよと、Y田先生およびY川先生に勧められて、ついその気になってしまったわけですね。行きましたよ、剱岳。

新田次郎の小説が数年前に映画化されていましたね。『剱岳 点の記』とかいうやつです。

この、初の北アルプス、それも剱岳登山でも、僕はやってはいけないことをやらかし肝を冷やしたわけですが(かいつまんで言うと、山頂でのんびりサッポロ一番を食べビールを飲んでいたら下山が遅くなり途中で日が暮れてしまった)、今日はしかし登山の話がしたいのではありません。

下山してからの話であります。

富山市に出て、さあ、おなかもすいたし、ビールの1本か2本、できれば3本ぐらいも飲みたいものだと思って、店をさがしていたら、「シネマ食堂街」と書かれた、おそろしく古いビルがありました。まさに昭和の香りふんぷんたる前時代的建造物です。ここなら昼から営業している居酒屋があるかも~と思って入ってみると、「あや」という名前の店が開いていました。入口には「美空ひばり後援会なんとか支部」みたいな貼り紙。

店内には美空ひばりのビデオが流れ、お客さんがふたりいました。

カウンターの中にいたのは、なんといったらいいんでしょう、男みたいな顔をした短髪のおばちゃんでした。いるじゃないですか、たまに、男みたいな顔した人。

客のひとりはまだまだ元気な感じのおじいさんで、暇をもてあましていたらしく、僕のリュックをみるや、どの山に登ったのかとかどこから来たのかとかいろいろ話しかけてきました。

もうひとりの客はおばあさんで、カウンターにかがみこんでちびちびとビールを飲みながら食い入るようにビデオを見つめ、「ひばりぃ~」とつぶやいているのでありました。

「うわあ~、なんだか濃いところに来ちゃったな~」と思いながら、僕もビールを飲み、仕方なく美空ひばりの歌声に耳を傾けていました。

 さて、ここからが濃い話になっていくわけですが、余計なことを書いていたら時間がなくなってしまいました。というわけで、今回は「シネマ食堂街①」ということにして、次回へつづく!

 

 

 

 

 

 

 

 

2013年11月 2日 (土)

「人生」のルビは「ショー」

前回の続きを書こうとして読み直していると、最後のところで変換ミスをしていることに気がつきました。「忍ぶ鎧の」は「偲ぶ」ですね。大楠公(「だいなんこう」では変換できない!)の歌の「しのぶ鎧の袖の上(「そでのえ」も変換できない!)に」の部分です。「世の行く末をつくづくとしのぶ」という流れなので「忍ぶ」ではなく「偲ぶ」がふさわしい。「手書き」なら、どちらだろうと考えながら書くのに、機械が勝手に変換してくれると、なんとなくスルーです。「忍ぶ」は「人目を忍ぶ」つまり「忍者」、「がまんする」という意味なら「忍耐」「堪忍」です。一方「偲ぶ」は「昔を偲ぶ」ですが、「ぶ」と濁らないのが本来の形だったようです。こちらの方は常用漢字にはいっていないので原則として仮名書きでしょうが、漢字で書いてもなんら問題はありません。

当用漢字は常用漢字とちがって「縛り」がきつかったので、表外の漢字は新聞などでは仮名書きになっていたようです。軍隊がなくなって「駐屯地」の「屯」はいらんだろう、ということで表外になってしまったのですが、その後自衛隊が生まれて、この語を使おうとすると「駐とん地」という表記で、なんかブタがブーブー言って集まっている感じになったとか。「瀆職」の「瀆」の字が使えなくなって、「汚」に書きかえたため、「汚職事件」という新語が生まれました。「とくしょくじけん」が「おしょくじけん」になってしまったのですね。「汚職事件」の変換ミスとして「お食事券」になる、というネタも登場しました。「風光明媚」が「風光明美」となると「かざみつあけみ」さんかと一瞬思ってしまいます。

今の新聞では、表外の漢字でも、ふりがな付きで書かれることがあります。とくに記者の書いたものではなく、寄稿されたものであれば原文を尊重しようということでしょう。このふりがなの効用というのは、じつは大きかったのではないでしょうか。知らない漢字でもふりがながあれば読めるし、そこで新たに漢字を覚えていくということもありました。「流行る」と書いて「はやる」と読ませたり、「殺る」と書いて「やる」と読ませたりするやり方もあります。漢字で書くことでイメージがはっきりしますが、ふりがなをつけないと読みにくい。かといって、仮名書きでは雰囲気が出ない、ということでしょう。「うつす」には「移」「写」「映」の三つの漢字があって使い分けをする問題がよく出ます。「都をうつす」場合には「遷」なんて字を書くこともあるのですが、「風邪をうつす」の場合はどれでしょう。「移」なのでしょうが、これは場所移動なので、元の場所からいなくなる感じです。でも、風邪は人にうつしたら自分は治るというわけでもないので、微妙に違和感があります。そこで「風邪を伝染す」と書く人もいるのでしょう。

漢字で視覚に、ふりがなで聴覚に訴えて立体的なイメージを出そうというテクニックもあります。歌詞でよく使われたりしますが、耳で聞いているだけではわかりません。ふりがな付きの歌詞を見て、あれま、と思うことがあります。「永遠(とわ)」「運命(さだめ)」「女性(ひと)」「性質(さが)」ぐらいはよくあるパターンですが、「現代(いま)」「宇宙(そら)」「時代(とき)」となると、歌を聞いてるときには気づかんかったなあと思います。「出発(たびだち)」「舞台(ステージ}」なんて、漢字で書かんでもええやないの。同じ「日本」なのに「くに」になったり「ふるさと」になったり、熟字訓の域をこえてます。「人生」と書いて「ショー」と読ませる桑田佳祐はさすがです。歌舞伎の外題もなかなか魅力的です。奇数は陽なので縁起をかついで、漢字五字または七字で書くものに無理矢理読み方をつけています。河内山宗俊の出てくる『天衣紛上野初花』は「くもにまごううえののはつはな」になります。『青砥稿花紅彩画』が 「あおとぞうしはなのにしきえ」とは、そら知らなんだの世界です。めんどくさいので『白浪五人男』と言うことが多いようです。『慙紅葉汗顔見勢』は「はじもみじあせのかおみせ』ですが、これも『伊達の十役』と言います。それぐらいなら、はじめからややこしい名前をつけるなよ、と思います。落語にも『地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)』というのがありますが、これは歌舞伎のパロディでしょう。

「大人気」はふりがながなければ読めません。「だいにんき」なのか「おとなげ」なのか。「人気のない公園」は「ひとけ」がないのか「にんき」がないのか、どっちでしょう。「大人百円、小人五十円」と書かれているのを見ることがありますが、「小人」はどう読むのでしょう。奈良公園の「鹿の発情期には注意」という看板の「発情期」には「気の荒いとき」というふりがなが付いていてオシャレです。こういうふりがなをルビと言いますが、外国にはないようです。「ルビ」ということばは、宝石のルビーから来ているらしいのですが、日本独自の発明なんでしょうね。もともと経文の漢字を読むためのカンニング用に作られたのが片仮名だと言われます。でも、漢字の横に書いたのでしょうから、これがルビの起こりかもしれません。

漢字以前に日本では文字がなかったことになっていますが、有名な「竹内古文書」は「神代文字」で書かれていたと言います。キリストが日本に来たなんてことが書かれているとかいう本です。こういうのを真剣に(?)信じてる人もいるようで、昔流行(はや)った「ノストラダムスの予言」なんてのも信じた人がいたのでしょうかね。その日が来れば結果がわかるのに、あとのことは考えないのか、または「それまでかせごう」と割り切ったのか、そういう人たちがテレビにもよく出ていました。「明日は雨が降るような、天気ではない」なら絶対当たります。「あなたは25歳ですか。では、来年は26歳になるでしょう」も。中島らもが「最近の若者の事件」についてのコメントを求められて「共通することが一つあります。それは、みんな若い、ということです」と言ったとか。当たり前っておもしろいですね。たまにテストで点をとる方法を聞かれることがあります。そんなとき、私は「正解を書け」って言います。怒らずに笑ってくれる人は高得点がとれる人です。

ほんとうは、前回の続きで「七五調」から発展させて「型の美学」について書こうと思っていたのですが、「型」が乱れてしまいました。こういうのを「かたなし」と言うのでしょうか。

2013年10月22日 (火)

脱・雨男

うけけけけ。

え、笑い声が下品? 

そっすね。

先日、またしても山登りに行ってしまいました! 今シーズン最後の山登りです。

例によって例のごとく、と言いますか、出発日が近づくとなぜか南の海上で台風が湧くんですよね。そして、でもまあこっちには来ないだろうと思ってると、なぜか狙いすましたようににじり寄ってくるんです。

9月に、北アルプス(飛騨山脈のことですぞ、4科受験の諸君)の、赤牛岳~水晶岳~黒部五郎岳を縦走したときも台風が来ました。

初日、黒部ダムから湖沿いにずっと歩き、渡し船で対岸にわたって(みなさんご存じですか、黒四ダムの最奥部には山小屋があり、「平の渡し」という渡し船があるのです)、黒四ヒュッテでテントを張るところまでは何とかもっていましたが、テント設営後、すぐさま雨が降り出しました。

翌朝にはやんでいて、読売新道を登っているあいだも何とかもっていたんですが、赤牛山頂から水晶山頂へ向かうあたりで降られ、そのときは雷まで鳴り出してもう半泣きでした。(山の稜線で雷に遭遇するというのは、ほんとに怖ろしいです。)

さらに翌日、黒部五郎小屋でテントを設営後、即大雨になり、このときも雷鳴バンバン稲妻ピカピカで、僕はテントの中でおそれおののきながら缶ビールにしがみついていました。

しかしながら、今回、なんと、少なくとも行動中は一度も雨に降られないという強運にめぐまれてしまったのです! 台風24号がきていたのに!

今回の目玉は、剱岳北方稜線でした。

剱岳山頂まではふつうの登山道を上りますが、山頂から「北方稜線:ここより先キケン 一般登山者は入らないでください」とかなんとか書かれたプレートを過ぎて下っていきます。

ミーハーと呼ばれてもいい! はっきり言ってしまおう!! 気持ちいいのだよ! 背中に「一般登山者」たちの「おお・・・・・・北方稜線へと向かう勇者がここに・・・・・・!」的な視線を浴びながら、プレートの向こうへと下りていくのが! お、お、おれの勇姿を見てくれ、団塊の人たちよ!

ウン、ま、実際はそれほどたいしたことでもないんですけど。

でも、テント装備だったので、重くて重くてほんとにしんどかったです。

特に、ここを下るのがうんざり。ガラケーで撮った写真なのでわかりにくいですが、池ノ谷ガリーと呼ばれている、四〇〇メートルほどの下りです。どう歩いてもがらがら石が崩れてしまいます。

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 これで雨に降られていたら悲しくて切なくて泣きだしたかったにちがいないです。

このあと、小窓雪渓という、つい先年、氷河に認定された雪渓を歩き、池ノ平小屋という山小屋に着きました。テントを張ってしばらくしてから台風のせいでびゅうびゅう風が吹きはじめ、雨も降りましたが、ビールもコーラも買ったし、トイレにも行ったしで、無問題。ちなみに、この日、剱沢という、前日に僕がテントを設営した場所にテントを張った人は、強風のためテントのポールが折れたとか。祖母谷温泉というところで会った人がそう言ってました。

それにしてもこの池ノ平小屋、不思議だったのは、コーラを買ったら、0キロカロリーコーラだったことですね。山小屋でダイエットコーラ? カロリー必要でしょ? と思いつつ、ビールをコーラで割って飲む私でした。

翌日は少し風がありましたが、雨はやんでいました。で、快適な山歩き。この日は阿曽原温泉小屋まで。温泉があるんです! もちろん露天! この日も、雨が降り出したのは、テントを張ってから。それと、温泉につかっているときのみ。で、やはり翌日はやんでました。ブラボー!

その翌日は、水平歩道を歩いて欅平まで。黒部峡谷のトロッコ電車といえばご存じの方も多いのではないでしょうか。その終点が欅平です。水平歩道というのは、こんな道です。

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よくわかんないですよね。水平に走っている溝のようなものが登山道です。これを近くで見ると、次のようになっています。

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僕はもともと高所恐怖症で、高校生のときは歩道橋も渡れなかったんですが、人間、かわればかわるもんですね。いまでも怖くないわけじゃないですけど。

この日は欅平からさらに少し歩いた祖母谷温泉にテントを張りました。やはりやはり、テントを張ったあとで雨が降り出し、翌朝にはやんでいるという僥倖ぶり。テントの下に大きなカエルがはいりこんで、ポッポッとかわいい声で鳴いていました。もう少しでつぶしてしまうところだったぜ。

この祖母谷温泉で会った人が、件の、剱沢でテントのポールを折られた人で、かなり設営に手間取っていました。

「もう帰ろうかと思ったんだけど、せっかく休みとったのに!と思って・・・・・・」

わかるな、その気持ち!

というようなわけで、今回、カッパは全然使用せず! 

もはや雨男ではない! 曇り男だ! 晴れ男とまではよう言わんが!

さあ、あとは入試本番まで、全力疾走あるのみです。

がんばります。

入試が終わったら、雪山が待ってるし。

 

 

 

 

 

 

 

 

2013年10月 6日 (日)

どうも雨男くさい

どうも雨男くさいんですよね。

山に行くたびに雨が降ります。確かに山は雨が降りやすいんですけど、ひたすら降られ続けてます。何年前かには、絶対それると思われた台風が沖縄あたりで行きつ戻りつして何だかひどく強引に、無理矢理な感じで長野に襲来したことがありました。もう、狙っているとしか思えませんでしたね。そのとき、私は上高地から前穂高・奥穂高を経由して、穂高岳山荘のテント場で一泊し、翌日西穂高まで縦走しようとしていました。ところが穂高岳山荘に着いたところで情報を収集すると、どうも台風が来るらしいってことで、大慌てで涸沢まで下りました。いったんテントを張ったものの、どうも台風が気になって仕方ないので、撤収してさらに横尾という上高地と同じくらいの標高のところまで下りたんですけど、もう少しでテントを張り終えるというところで雨がじゃーじゃー降り出して、しみじみがっかりしました。

去年、北アルプスの五色ヶ原でテントを張ろうとしたときも、山小屋に着いて申し込みをしようとしたとたんにすごい雨が降り出し、雷もバリバリ鳴って、すっかりやる気を失ってしまいました。その直前にはツキノワグマにばったり遭遇していたこともあり、テントを張るのはやめました。

テント好きです。小学生の頃から憧れていました。いつか僕もテントを背負っていろいろなところに出かけたいと思ってました。で、高校生のときにかなり年上の従兄に古いテントを譲ってもらい、友だちと三人で対馬まで行きました。

この対馬行きは、友だちのお父さんの強硬な反対を乗りこえて実現したものです。「あかんわ、父ちゃんが絶対あかん言うとる」「なんでそんなに反対しとるんや」「わからん」

よくよく聞いてみると、友だちのお父さんは対馬がソ連領だと思ってたんです。要するに、「ちしま」と「つしま」を混同してたんです。誤解がとけるとわりとあっさり許可してくれましたが、僕の母の友人も対馬は沖縄だと思っていたらしいし、とにかく対馬について知らない人が多すぎるのにびっくりしました。対馬にはツシマヤマネコがいるので、イリオモテヤマネコがいる西表島とかんちがいしたのかもしれません。対馬は九州と朝鮮半島のあいだにある島です。釜山が見えます。

そもそも何で対馬に行ったかというと、日本史の先生が対馬のことを激賞したからですね。おもしろい、とか、美人が多い、とか。行ってみたら、たしかにおもしろかったけど、美人よりヤンキー(っぽい人たち)が多かったです。村人の勧めでグランドにテント張ってたら、近くで集会していたヤンキー(っぽい人たち)がわらわらと寄ってきて生きた心地もしませんでした。みんな体もごついし。でも、テントの設営を手伝ってくれました。「俺は大工だ、任せとけ」「俺は鉄工所勤務だ、任せとけ」とか言いながらすごい勢いでペグを地面に打ち込んでくれ、次の日抜くのに苦労しました。おっかなかったけれど、聞いてみたら、中卒の社会人1年目だったりして、実は僕たちの1年下でした。でも明らかにお酒飲んでましたけどね。

ちなみにそこはほんとに村人たちのグランドなので、次の朝、目が覚めたら、テントをぐるりと取り囲んで村人たちがラジオ体操をしており、我々としてはテントから出るに出られず、いたたまれないというかはずかしかったのが良い思い出です。

古い記憶なのでさだかではありませんが、対馬では一滴も雨に降られなかったような気がします。あの頃は雨男じゃなかったんですね。何でこうなってしまったのか。

その後私はかなり無気力な大学生へと変貌し、長いあいだアウトドアから遠ざかることになります(1回だけ丹後半島に行った)。それどころか、山登りしたりキャンプしたりする人のことを「アウトドア小僧」なんて呼んでバカにしていました。すみません。まさかこの歳になってアウトドアおやじになるなんて思ってもみませんでした。雨男になっちゃったのは、アウトドア小僧の人たちをバカにしてきた罰があたったのかもしれません。

 

 

2013年9月18日 (水)

青葉茂れるはげあたま

王子さまとお姫様があてもない死の旅をしているとするなら、あの歌は「道行き」だったのですね。浄瑠璃や歌舞伎で、男女が死にに行く場面です。「この世の名残、夜も名残、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えていく、夢の夢こそあはれなれ。あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響くなり」というやつです。荻生徂徠が絶賛した文章ですね。徂徠の言うとおり、たしかに「あれ数ふれば」のあたりからは、名文中の名文です。

徂徠は煎り豆を噛んで古人をののしるのが楽しみだと言ったことでも有名です。「豆」に縁があるのですかね、「豆腐」がらみの話があります。其角が「梅の香や隣は荻生惣右衛門」という句を作っていますが、其角の家の隣で徂徠は塾を開いていました。そのころ、あまりの空腹で、金もないのに豆腐を注文して食べてしまいます。豆腐屋は許してくれたのですが、その豆腐屋は赤穂浪士討ち入りの翌日に火事で焼けだされます。徂徠が新しい店を贈ろうとしたところ、義士に切腹をさせた徂徠からの施しはいらないと言われます。徂徠が法の道理と武士の道徳について語ると、豆腐屋も納得して贈り物を受け取るという話で、浪曲・講談・落語で演じられます。たいしておもしろい話ではないのですが、志の輔のがなかなかいい。

話を前回の続きに無理矢理もどすと、リアリズムでなくても、誤解の上に成り立つ美があれば、それでいいのですね。『南総里見八犬伝』では伏姫を取り返すべく、金碗大輔が鉄砲をかついで八房と伏姫のいる富山に向かったものの、八房ともども伏姫もうちぬいてしまいます。時代設定は1450年ぐらいです。1543年の100年前ですね。馬琴は、鉄砲の伝来時期を知らなかったのでしょうか。でも、そういう細かいことを無視して楽しめばよいのですね。

ただし、誤解と言っても、たとえば歌詞の聞き間違いはだめです。「異人さんに連れられて行っちゃった」を「ひいじいさんに連れられて」と勘違いしたら、意味不明の設定になってしまいます。「川は流れてどこどこ行くの」の「どこどこ」は「何処何処」でしょうが、なんとなく擬声語・擬態語の「ドコドコ」のようにも聞こえると思ったとたん、笑ってしまいそうになります。「矢は放たれた」なんてことばも「洟垂れた」に聞こえてしまうんですね。別にダジャレにするつもりはなかったのに「結果的ダジャレ」になってしまう。

「結果的早口ことば」というのもありますね。「老若男女」をつづけて十回言わされたら、何回目で「にゃんにょ」になるでしょう? 一回目からいきなり「りょーなくなんにょ」と言ってる人もいます。「きゃりーぱみゅぱみゅ」なんか、アナウンサー泣かせでしょうね。「手術室」などは「しじつしつ」のようにごまかしても許されるそうですが、プロなら「摘出手術」はまちがわずに言ってもらいたい。「低所得者層」とか「土砂災害」「骨粗鬆症」「貨客船万景峰号」も原稿にあったら、いややなと思うやろなあ。「かきゃくせんマンギョンボンごう」なんて、いやがらせとしか思えません。「マサチューセッツ州」なんてのも言いにくそうです。

「追加予算」を「おいか予算」と読んだり、「生憎の雨」を「ナマニクの雨」と読んだりするのは単なるKYでした。麻生さんは「踏襲」を「ふしゅう」、「未曾有」を「みぞうゆう」と読んで笑いものにされましたが、アナウンサーだって、「訃報」を「とほう」、「西瓜」を「にしづめ」、「浪速」を「ろうそく」と読んだ人がいたそうです。「旧中山道」という横書きの原稿を「1日じゅう山道」と読んだというのは伝説になっていますし、シューベルトの『鱒』を「しゃけ」と読んだ人もいたそうです。徳川綱吉を「とくがわあみきち」と読んだというのは誤読というより単なる無知。「我田引水」を「われたゆみみず」とか「冷奴」を「つめたいやつ」とか…これはウソです。

早口ことばで「坊主が屏風に上手に…」というのがありますが、あれはたまにそのあとが「坊主の屁をこいた」になる人がいます…いませんか。でも、錯覚してしまうことがあるかもしれません。パロディにしてやろうと思っているわけでなく、「言いまつがい」ですね。二つのものがごっちゃになるのは「的を射る」と「当を得る」、「言わぬが花」と「知らぬが仏」など、形がもともと似ているので、ついうっかり言いまちがえてしまう。「言わぬが仏」って、ものを言わないのは仏様になっているからだと思うと、正しいような気もします。

まちがいではありませんが、歌の途中で歌詞がわからんようになってごまかす、というのもよくありますね。たいてい「なんたらかんたらで~」と言ってごまかします。むかし鶴瓶が「飛び散る火玉は走るこだま」とか「垣根の垣根の曲がり角、焚き火だ焚き火だ落ち葉焚き、帰ろうか帰ろうよ」と歌って、上岡竜太郎に「火事になるわ」と突っ込まれてましたが、こんな歌、最近は歌わんようになったのかなあ。鶴瓶は、「夕焼け小焼けで日が暮れて」という歌詞は合っているのですが、メロディが『赤とんぼ』になってるというのもありました。酔っ払うと、勝手に歌詞を変えてしまい、気に入るとなぜかそこだけ繰り返して歌うおっさんもいます。米米CLUBの『浪漫飛行』の「トランク一つだけで浪漫飛行へ In The Sky」の歌詞をしつこく「浪漫飛行でいいんですかい?」と歌うおっさんとか、井上陽水の『夢の中へ』の「はいつくばってはいつくばって一体何を探しているのか」を「タイツ配ってタイツ配って一体何を探しているのか」と歌うおっさんとか。

『替り目』という落語で酔っ払いのおっさんが、わけのわからん歌を歌うところがあります。「一でなぁし、二でなし、三でなし、四でなしかぁ。五でなし、六でなし、七でもありませんよ、八でもなければ九でもないなぁ~い。十が十一、十二、十三、十四、十五、十六……」と歌って、「この歌止まらんなあ、さっぱワヤやねぇ」と枝雀は言うてました。「青葉茂れる桜井の里のわたりの夕まぐれ木の下蔭に駒とめて世の行く末をつくづくと忍ぶ鎧の袖の上に散るは涙かはた露か」は落合直文の作詞ですが、七五調の五の部分をすべて「はげあたま」に替えてぶちこわしにするという話を覚えているのですが、はて、どこで読んだのやら。

2013年8月24日 (土)

月の砂漠はタクラマカン

「義士外伝」というのは、『忠臣蔵』の四十七士以外の物語です。『四谷怪談』は「外伝」の一つと見ることもできます。四十七士それぞれについての話なら「銘々伝」ということになり、講談や浪曲の形で広がっていきました。浪曲つまり「浪花節」は、広沢虎造の「寿司食いねえ」とか「馬鹿は死ななきゃなおらない」などのフレーズが流行語になったこともあって、関東のイメージもありますが、本来はその名のとおり大阪発祥なので、もともとは庶民の義理人情の話が中心です。「浪花節」ということば自体が、義理人情にからんだ「くさい」話の比喩として使われることもあるぐらいです。でも、今ではすっかり廃れてしまいました。ちょっと前までの寄席では浪曲系の漫才も多かったのですがね。宮川左近ショウとかタイヘイトリオとか。

フラワーショウという女性三人組もいました。そのうちの一人のお兄さんが京山幸枝若という人で、いわゆる浪曲だけでなく河内音頭もやっていて、『河内十人斬り』なんてのが有名です。明治のころに赤阪水分村で起こった「殺人事件」を題材にして、事件直後につくられたものです。それまで古い義士ものや任侠ものが歌われていたのに対して、最近起きた実際の事件を歌ったので「新聞読み」と言います。「新聞」は「しんぶん」ではなく「しんもん」と読みますが、まさにニュースを知らせるものだったのですね。「男持つなら熊太郎弥五郎、十人殺して名を残す」というフレーズは今の時代なら「不謹慎」と言われそうですが、ヒットしたのですね。いまだに歌われているだけでなく、町田康の小説『告白』の題材にもなっています。読売新聞に連載されていましたが、会話のリズムがなかなかのもので、不思議な魅力があります。

河内音頭だけでなく、八木節や江州音頭など、ストーリーを語るものがたくさんあります。平家物語もストーリーのある「歌」です。こういうものの子孫として、日本の歌謡曲が生まれてきたのでしょう。西洋でも吟遊詩人というのがいましたが、メロディをつけて楽器を使いながら「語る」ことによって聴く人の心をゆさぶるのですね。『矢切の渡し』という曲がありましたが、あの歌詞を手がかりにして、いろいろ推理している人がいました。どういう状況で二人が舟に乗って、どこからどこへ行くのか、元の歌詞の断片的な情報から読み取っていくのは、探偵の推理のようで、なかなかおもしろいものでした。

『木綿のハンカチーフ』という歌は松本隆が歌詞を作っています。じつは元ネタがあり、ボブ・ディランの歌で、旅に出た主人公と残してきた恋人とのやりとりになっています。送ってほしいとねだるのは「ハンカチーフ」ではなく、「スペイン製の革ブーツ」ですが。歌詞のなかの「いいえ星のダイヤも海に眠る真珠も、きっとあなたのキスほどきらめくはずないもの」のあたりなんかは、ほぼそのまま使っています。でも、この歌でも、いろいろなことが推理できます。「ぼく」は都会に憧れて、田舎から出て行きますが、恋人の女性は田舎暮らしに満足しています。この対比は、高度経済成長を象徴する二つの価値観の対比だ、と言う人もいますね。そんな大層なものかい、と思うのですが。で、歌が進むにつれて、その価値観のちがいがだんだん大きくなっていき、最後には破局を迎えます。そのときに、「涙拭く木綿のハンカチーフください」というフレーズが出てきて、はじめてタイトルの意味がわかります。では、恋人がいるのはどこでしょうか。「草に寝ころぶあなたが好きだったの。でも木枯らしのビル街、体に気をつけてね」という歌詞があるので、ここから推理すると、「ぼく」は「木枯らしに弱い」はずです。ということは、彼らのふるさとは「温暖な土地」ではないかと見当をつけられそうです。「ぼく」は「東へと向かう列車」に乗りますが、「都会」は東京とはかぎりません。そこで、利用した路線は「山陽本線」ではないか、「紀勢本線」と考えるのは無理があるのではないか…。ばかばかしいけど、こういう推理も結構おもしろいですね。

まあ、こういう歌のディテールについては人それぞれの思い込みがあるのでしょう。自分が酔いしれることができるのなら、まちがった解釈でもよいのかもしれません。「敷島の大和の国に人ふたりありとし思はば何かなげかむ」という歌が万葉集にあります。「この日本にあなたと二人でいるのだから幸せだ、なげくことなど何もない」と解釈して、二人ラブラブのすばらしい恋の歌だと思っても責めるにはおよびません。「恋愛とは美しき誤解である」と言った人がいますが、まさに「美しき誤解」なら許されそうです。本当は「思へば」に対して「思はば」は仮定条件を表すので、「この国にあなたがもう一人いると思えるなら、何をなげくことがあるだろう。あなたはたった一人しかいない」と解釈しなければなりません。しかも「あなた」はこちらを振り向いてもくれないのですね。かけがえのないあなただから、ただなげき続けるしかない、という意味なのです。こういう歌でいう「人」は「あのひと」ということで、「人間」という意味で使うことはあまりないし、だいたい恋愛がうまくいって喜ぶ歌そのものはまず詠まれません。ふつうはなげきの歌なんですね。

はじめから作者がまちがっていて、おかしいという場合もあります。「月の砂漠」の歌詞で「おぼろにけぶる月の夜を」とありますが、沙漠で月が「おぼろにけぶる」ということはありえない。作詞の加藤まさを自身が千葉かどこかの海で着想を得たと言っていたはずなので、作者自身の「誤解」ですね。日本のイメージがつい出てしまったのでしょう。ほかにも変なところがあります。「金の鞍」「銀の鞍」に乗っていたとありますが、金属製の鞍なら、昼間は熱くなってしまって乗れないのでは? お尻が火傷やけど、という、しょうもないダジャレも入れつつ。だいたい、ラクダは物資を運ぶために使うので、ふつう人間は乗らないようですが、「ひろい沙漠をひとすじに、ふたりはどこへゆくのでしょう」。お供がいる様子もなく、たった二人で「とぼとぼと」夜の沙漠を「だまって越えてゆきました」。「金の鞍には銀の甕、銀の鞍には金の甕」も、沙漠をこえるのに必要な水甕を相手に預け、それを「紐で結んで」あるのは、おたがいの命を相手にゆだね、しかも結ばれているというイメージです。とすると、「おそろいの白い上着」が意味するところも見えてきます。「白」をわざわざ着たふたりの行き先は……って、これほんとに童謡ですか?

2013年8月 6日 (火)

わらの男

あまりにも暑い日々が続いていますがいかがお過ごしでしょうか。

今年の梅雨入りはなんだかあやしくて、ざーっと雨が降って梅雨入り宣言が出たものの、その後長らく雨が降らず、あの梅雨入り宣言は何だったのだろう、あれは気象庁の勇み足で、あの時点ではまだ梅雨入りしていなかったのではないか、気象庁の人たちも「やってしもた~」と思っているにちがいないと睨んでいたのでありますが、そんな梅雨も終わってだいぶたちます。

前回の山下先生の記事がアップされるまでブログの更新が滞っていたのは私のせいです。山下先生はだいぶ早くに書いてくれていたんですが、それを私が長い間アップし忘れていました。山下先生、そして数少ない読者の方々、申し訳ありません。心に余裕がない人間はダメですね。いつもあっぷあっぷして生きているのでいろんなことを忘れてしまいます。シャレではありません。

さて、僕は暑いのはまったく気にならないのですが、湿気に耐えられません。中央アジアを旅行したとき、ひどく暑かったんですけれど、もうまるで平気で、むしろ心地よかったのは、空気が乾燥していたからだと思います。空気さえからっとしていればいくら暑くてもだいじょうぶ、というのがそれ以来の僕の信念です。

かりに、暑くてしかも湿気がひどかったとしても、皮膚が何にも接触していなければ問題ない気がします。つまり、素っ裸ですね。素っ裸で、寝そべったり座ったりせず立っている状態です。座ると、椅子の座面にからだがふれますし、寝そべったりすればますますそうなるからダメですが、足の裏が床に接触している程度ならば問題はなさそうです。でも、正直、その状態で1日を過ごすのは難しいですね。当たり前のことですが、まず、外出できません。まだそんな勇気はないですね。僕の亡くなった祖母は、その昔、銭湯から帰ってくるときいつも上半身はだかで、近所の人々に恐れおののかれていましたが、僕自身はまだその境地に達していません。祖母は九州の人で、はやくに夫に先立たれ、子どもを育てるために炭鉱で働いたこともあるという話なので、そういうのが平気だったのかもしれません。中学生のとき国語の授業で「たらちねの」という枕詞を習い、長崎の片田舎にひとりで住んでいる祖母のことを思い出しました。

こんなに暑くて湿気がひどいと、沢に行きたくなります。沢登りしたいです。はじめて沢登りをしたときは、こ、こ、こ、こんなに楽しいことがあったのかと大興奮しました。まさに大人の水遊び。最近では、お酒を飲んではじけることなんてなくなりましたが、沢に入ると秒殺で脳内麻薬物質が分泌されトランスしてしまいます。沢は危ないですけど、天候に気をつけて慎重に行動すればあんなに楽しいことはありません。

はじめて沢登りをしたときだったか二度目だったか、いっしょに行った(というか連れて行ってくれた)Y田M平先生が熱中症(的な何か)にやられちゃって、大変でした。Y田先生、塩分とらずに沢の水をがぶ飲みしてましたから、それがよくなかったんじゃないかなと思います。僕は水分はため込むタイプなのか、飲むときは大量に飲みますが、飲まないときは全然飲まなくても平気で、そのときもほとんど飲みませんでしたが、全然平気でした。いずれにせよ、沢をたいがい登り詰めて、登山道に出、あとは下山するだけというあたりからY田先生のようすがぜえぜえはあはあとあやしくなり、数分歩いては休憩するという状態に陥りました。熱中症(的な何か)は怖いです。あっという間に日が暮れて、真っ暗な樹林帯をヘッドランプの明かりを頼りに下っていきましたが、何度目かの休憩のとき、ふとあたりを見わたすと、斜面一帯が蛍で埋め尽くされていたのであります。こんなに美しいものが見られるなんて何と幸運なんだろう、それにしてもなぜ横にいるのがこいつなのだろう、と思っていると、「こいつ」がうつろな目をして「ほらごらん、来てよかっただろう」と、何十回も聞かされてうんざりしている定番の「ギャグ」を力なくとばすのでありました。まあ、僕も似たようなことはよく言うわけで、僕の場合は、十三教室のエレベーターなんかで事務系の女性職員と2人きりになってしまってなんとなく気まずい感じのときに「やっと二人きりになれたね」などと言ってどん引きされてしまうわけでありますが、まったくオヤジというのはどうしようもないものです。

閑話休題。今までに見た、最も綺麗な蛍でした。使い古された形容ではありますが、まさに幻想的とはこのことかって感じで、しかもなぜか地の底から読経の声が響いてきましてね。あーもう極楽浄土ですかって思いました。実は、登山道の入口(つまり出口)のあたりがお寺で、ちょうどそのとき若いお坊さんたちが集まって修行か何かやってたんですね。比良の沢でした。

去年は沢登りに行けませんでした。今年こそは行きたいものです。ちゃんと地下足袋と草鞋のストックがあるんです。Y田先生は渓流タビ、Y川先生は渓流シューズ、そして私は草鞋なんですが、草鞋が最強ですよ。濡れた岩のうえだけでなく、滝を高巻いて藪漕ぎするときにも滑りにくい。使い捨てですが、年に1回か2回のことですし。溯行終了点の木の枝か何かに草鞋をくくりつけるというのがまたおしゃれです。なんせワラだから、ゴミにならない。

ワラといえば、昔、だれかに見せてもらった「誕生日の花」の本で、僕の誕生日の花が「ワラ」になっていて驚愕したことがあります。ワラって、花じゃないじゃん! ていうか、植物名ですらないよね!? じゃあ俺は誕生日に花束のかわりに藁束もらうのか!? しかも、花(?)言葉が「協調性」とかなんとか書いてあって、小学校のとき通知表にいつも「協調性がない」と書かれていた僕と知ってのことだろうか、何のいやがらせだ、と憤慨しました。

 

 

 

 

 

2013年7月25日 (木)

スピンオフ

「おいこら」は「おーい、そこのあなた」というレベルで人を呼びとめる意味だったのが、鹿児島出身者が警察官になって使ったため、人をおどすような感じで受けとられたのですね。誤解というのはおそろしい。「ナイスショット」はゴルフでよく聞くことばです。特に接待ゴルフでは必要不可欠なことばでしょう。ところが、鹿児島弁で「ナイショット」と言われたら、「なにやってんだ」という意味になってしまいます。「どこを狙うとる、この下手くそ」と言うとるわけですから、鹿児島でゴルフをするときには「ナイスショット」は禁句ですな。

昔、黒板消しのことを「ラーフル」と言う人がいましたが、これも鹿児島弁の一つです。オランダ語の「ぼろ布」という意味だそうで、長崎経由でオランダ語がはいってきたのでしょう。「ゴム」のことを「ギッタ」と言います。「ゴムまり」は「ギッタマイ」です。これも、もとはオランダ語のようです。方言の中に外国語もまじっているのですね。逆もあります。「醤油」のことを「しょい」と言います。この変化は全国的にあるようで、大阪でも使っている人がいます。「しょいのみ」とは「醤油の実」、つまり大豆のことです。幕末のころ、パリ万博に薩摩は幕府とは別に参加しています。そのときに出品した調味料「しょい」がなまってソイになり、ソイソース、ソイビーンという英語になったとか。「ヤクーザ」「カローシ」と並ぶ、日本語がもとになった英語ですな。

一方、東北弁のほうは過疎と震災で消えそうだとも言われます。「じぇじぇじぇ」はブームですが。あれは地元では「じゃ」と言うらしい。それでも残っていることは残っています。一方、石巻では雄牛が「ど」、陸前高田では「梅雨」が「じっぷぐれ」と言っていたそうですが、こういうことばがなくなりつつあると天声人語に書いてありました。むかし、秋田の大曲の老人と話をしたとき、まったく意味不明でその息子が「通訳」してくれましたが、何を言っていたかというと、「津軽弁はわからん」とのこと。有名な「どさ」「ゆさ」ですな。「どこへ行くのですか」「お風呂ですよ」というやつ。短くなるところは鹿児島弁と似ています。「け」だけで、「食べろ」「かゆい」「おくれ」「どうぞ」「粥」になりますし、「毛」も当然「け」ですね。自分の「わ」、あなたの「な」など、古語もしっかり残っています。「えふりこぎ」は「いいふりをこく(する)」意味の「いいふりこき」で、見栄っ張りのことだし、「おべだふり」は「覚えたふり」の訛りで知ったかぶりのことだというのは納得しやすい。「~だんず」「~だびょん」「~ずおん」みたいな文末の音の感じがフランス語に似ているので、トヨタのCMでもやっていましたね。「せばだばやってみら」とか言ってました。英語の「ハブ・ア・ナイス・デー」も津軽では「へばナイスデー」と言うらしい。ほんまかいな。津軽弁もそのまましゃべっても、暗号として使えそうです。

暗号と似たもので、よく推理小説に出てくるのが「ダイイングメッセージ」です。「今日のお料理はカレーです」っていうやつですか。そら、ダイニングメッセージやがなー! 祝賀会の劇でも「ダイイングメッセージ」ということばが出てきたときに、「ソーセージもって死ぬこととちゃうでー」という不謹慎な台詞を書いています。O方先生に強制されて書いたのですがね。ミステリーで、死んだ人物が死ぬ間際に残したメッセージのことで、たいがい犯人を示しているのですが、なぜかズバリと言わないで、まわりくどい暗号になっています。犯人に知られないようにするため、という苦しい説明がついているのですが、死ぬ間際にそんなまわりくどいことを考えるだけの気力があるのでしょうか。「被害者のポケットには碁石が88個はいっていた。白が52、黒が36。これはピアノの鍵盤の数だ。つまり犯人はピアニストのあなただ!」……まわりくどいだけでなく、碁石を数えながらポケットに入れてる間に死んじゃいます。死ぬ前に入れてたとしたら用意周到すぎるし、ポケットふくらみすぎで犯人に見破られます。横浜スタジアムの方向を指さして倒れている被害者、探偵は犯人を浜陽子という女性だと断定します。なぜなら、被害者の指さす方向に書かれていた文字は「YOKOHAMA」……。

『相棒』のスピンオフ「X DAY」は悪くはなかったのですが、予想通り地味めの展開でした。犯人さがしというより、権力をもった相手に真相をにぎりつぶされるという、よくあるパターンで、右京さんもわざわざ出るまでもないという感じでした。スピンオフだから当然といえば当然ですが。「スピンオフ」ということばも、最近よく聞くようになりました。テレビのドラマや映画、漫画などの「派生作品」という意味のようです。単なる続編ではなく、脇役キャラクターを主人公にしたりするようなやつですね。『バットマン』から生まれた『キャットウーマン』(古いか!)とか、ドラクエのシリーズから生まれた『トルネコの大冒険』(これも古いか!)。キングボンビーの『桃太郎電鉄』は『桃太郎伝説』のスピンオフと言っていいのか? 志村けんのバカ殿は『全員集合』か『ドリフ大爆笑』のコントから一つの番組になったのだから、これもスピンオフでしょう。一つのキャラクターが別の作品で主人公になるというだけなら、手塚治虫の「スター・システム」もあてはまりそうですが、スピンオフはその背景となるものが共通しているのに対して、スター・システムはキャラクターが俳優みたいなもので、全く別の作品に出てくるという違いがあるようです。スピンオフというのは、昔なら「外伝」と言っていたものですかね。白土三平の『カムイ伝』は、『ガロ』という雑誌に連載されてたのですが、『少年サンデー』でやってたのは『カムイ外伝』でしたね。「外伝」ということばを覚えたのはこの作品だったのかもしれません。『ガロ』は、手塚治虫の『COM』とともに、大人向けのマンガ雑誌で、全共闘時代の大学生がお気に入りだったものなので、本伝が大人向け、外伝は子ども向けだったのかもしれません。テレビのアニメも「外伝」のほうだったと思います。松山ケンイチと小雪の映画も「外伝」だったかな。見ていないので記憶はあいまい。評判もイマイチだったような。同じ忍者でも、大物俳優加藤清史郎先生主演『忍たま乱太郎』は「外伝」ではありません。

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