2010年2月27日 (土)

将棋の諺

せっかく趣味が将棋、と書いているのですから、ここは一つ将棋の話でもしなきゃなあ。

と考える私。根がまじめなばかりに避けようのない事態です。

中学受験の国語では「ことわざ」がときどき出題されます。従って受験生は努力してことわざを覚えるわけです。

でも、「試験に出るから覚えないと」というのはちょっともったいないくらい、ことわざにはなかなか味のあるものがあります。

出る杭は打たれる(でるくいはうたれる)

なんていうのがあります。とてもメジャーなことわざで、まあ、みんな知っているので入試には逆にあまり出ないくらい。

でも、このことわざを知っておく必要は、ありそうです。

テレビで「時の人」になった人物は、もてはやされていたと思いきや、一転「バッシング」される対象になることもしばしば。

希学園の塾生の皆さんも、将来偉くなる人、「出る杭」になる人が多いでしょうから、心してほしいものです。

あぶないあぶない。うっかり将棋の話にならずに終わってしまいそうでした。どうもすぐに話をきれいにきれいにまとめてしまうのは根っからまじめな性分でしかたがありません。教室によく寝ぐせがついたままで入ってしまうのも、決してだらしないのではなく、羽生名人のスタイルを踏襲しているだけなんです。ええ。

閑話休題。

将棋の世界にも「ことわざ」があります。将棋を知らない人には、なんのことやらわかりそうにないですが、ふんいきだけでもお楽しみ下さい。

歩のない将棋は負け将棋(ふのないしょうぎはまけしょうぎ)

これはまだわかりやすい方でしょうか。歩(ふ)というのは、将棋の駒で一番価値が低い駒とされていて、一度に一マス前に行くことしかできません。横にも後ろにも斜めにも行けません。40個ある駒のうち一番数が多く18個もあり、希少価値すらありません。

ですが、将棋を学んでいくと、歩の使い方が巧い人ほど棋力(将棋の力)が高いということがわかってきます。ここで歩が一枚あったら勝ちなのに、ないばかりに負けた、ということは実は結構あるものです。将棋以外の現実の場面でも、これに似た局面はありそうです。

すごくすごく喉が渇いていて、自動販売機でジュースを買おうと思ったが小銭入れを忘れて一万円札しかなかったら……。うーん。例が今ひとつかなあ。現実はそれほど困らないしな。コンビニ、恐るべし。

王手は追う手(おうてはおうて)

つまらないダジャレのようなことばですが、将棋では非常に大切な考え方です。

「王手をかける」と言えば、将棋をはなれてよく使われる慣用句です。「あと一手で勝ち」という手を指すことですが、自然に「王手がかかる」ところまで準備万端ととのえばよいのですが、無理に「王手をかける」ようだと、逃げられておしまい、二の矢がないなんてこともしばしば。

将棋以外の現実の場面でも、これに似た局面はありそう……あるかなあ。いや、あるはずだ!

恋愛に例えるなら、まだお互いの気持ちが通じ合っていないのに「告白」したり「プロポーズ」したりでしょうか。うーん。これも下手な例だな。どうも例がうまくなくて説得力がないか。

金底の歩 岩より固し(きんそこのふ いわよりかたし)

もはや将棋をしらない人にはなんのこっちゃ! ですが。将棋では、相手の王を攻める場合に、まずは守りの駒である金をはぎとります。しかし守りを固める「金底の歩」を打っておくと、攻める側は、金の下に歩があるために金をただで取れない。ここでも歩が活躍するんですね。専門的には「金にひもをつける」なんて言います。

さあ、これを将棋以外の現実の場面にあてはめてみると。うーーん。財布を落とさぬようにストラップでもつけましょうか。

まあ、何事も足下の守りが大切ってことで(滝汗

両取り逃げるべからず

「王手飛車取り」を聞いたことがあるでしょうか。どちらかが必ず取られてしまうという大ピンチです。ことに「飛車」は一番強い攻め駒なので、取られてしまうと、敗色濃厚、という気分になります。ところが、プロの世界では「王手飛車をかけた方が負け」とよく言われます。さすがに序盤で飛車を取られると勝てないものですが、終盤では飛車を取られても、目的である相手の王を詰ましてしまえばいいのですから、最後まで勝負を投げずに一直線に進んでみるものです。

これも将棋以外の現実の場面でも、これに似た局面はありそうです。考えてみて下さい。どうもいい例が思いつきません。(もはや投了)

2010年2月24日 (水)

入試分析会②

本日の入試分析会は何とか無事に終了しました。

とはいえ、男子会場は、私の話が長引いてしまい、来場してくださった方々にご迷惑をおかけしました。申し訳ありませんでした。

途中、しゃべりながら「いか~ん、明らかに時間配分をまずってる」と思ったものの、変に端折るわけにもいかず、あせっていました。会場のうしろの方で、国語の矢原先生がぐるぐる手をまわしているのも見えたのですが、「以下省略しま~す☆」などと言うわけにもいかず・・・・・・。

反省しきりです。

話を終えて控え室に戻ると、学園長が冷ややかに「西川先生が戦犯ね」。

むう。いつもは時間通りの僕なのに。

さて、入試分析会はまだまだ続きます。明後日は四条烏丸の希学園の教室で10時からになります。またしても、男子は西川、女子は山下のコンビでお送りしますので(国語の話)、ご都合がよろしければ是非是非お運び下さい。

「どの塾よりもためになる入試分析」を心がけます。

2010年2月23日 (火)

入試分析会

明日から入試分析会が始まるので、その準備でおおわらわです。

通り一遍の分析でお茶を濁すのはいやなので、できるだけ突っ込んだ話をしたいのですが、あんまり専門的な話ばかりするのもなあ、それこそ国語マニアだよなあ・・・と考え込む日々です。

「○○中学は物語と説明文が出題されます。登場人物の気持ちに注意して読むようにしましょう」みたいな、別に専門家でなくても言えるような話にはしたくないんですが、突っ込んだ話をしようとすると、どうしてもマニアックに傾いてしまいます。

抽象的な話も最低限におさえたいんですが(国語講師以外には何のことやらわからないでしょうから)、具体例を入れすぎると時間が・・・・・・。

悩ましいです。

そういえばかつて「話の内容が難しかった」とアンケートに書かれたことがあります。うんうん、懐かしいなあ。

できるだけ具体的にわかりやすく、かつ核心のみをずばりとつくような説明を心がけます。

どうぞお誘い合わせのうえお越し下さい。

お子様が希学園に通われていない保護者の方も大歓迎です。

もちろん無料です。

長いあいだ座って話を聞いていただくので、笑える話もしたいところですが、こっちはあまり自信がありません。昨年、惜しくもM―1グランプリ決勝進出を逃した(一回戦敗退)理科の奥村先生にアドバイスをもらいに行く所存です。

2010年2月17日 (水)

本文に線を引く

新年度が開講して半月。

6年ベーシック№1・2のテーマは「本文に線を引く」でした。

本文に線を引きましょう、というのはよく言われることですが、実際にはなかなか難しいことです。

参考書などによっては、「大事なところに線を引こう」などと書いてありますが、「大事なところがわかったら苦労しねえよ」というのが正直な感想ですよね。

大事なところに線を引く、という考え方は根本的にまちがっています。

線を引くことによって、大事なところがわかるようにする。

これが正しい考え方ですね。

ですから、線を引くべき場所は、ある程度機械的にわかるのでなければいけません。

考え込むことなく、すっと引ける。けれども、それによって、大事なところ、答えにからみそうなところが目につく。そういうのでなければだめですね。

そういう発想で、№1・2のテキストは作られています。ですから、ここはくり返し読んで確認してほしいところです。小6塾生諸君、よろしくね。

・・・・・・おお、なんだか今日の記事はまじめだなあ。

2010年2月16日 (火)

雑感①

塾講師になって17年ほどになりますが、新年度が開講し、初めてのクラスで授業をするときはどうしても緊張します。

数々の苦い経験から学んだ教訓は、「ぼくの上質なユーモアセンスでがっちりハートをつかむぜ」的なお子様ランチな発想は厳に慎まねばならないということです。この教訓を忘れると、教室のなかで寒々とした孤独を感じることになるかもしれません。

「ふつうに」やるのがいちばんです。いつもどおりやること。

ここ数年は、初めてのクラスであっても自己紹介もしません。いきなり授業に入ります。

相手が小3や小4だったら、今でも自己紹介ぐらいするかもしれません。以前はよく自己紹介で遊んでいました。子どもたちって、「下の名前」とか年齢を知りたがるんですよね。

子「先生、下の名前なに?」

僕「名札にちゃんと書いてあるやん」

子「書いてへんで」

僕「よう見てみい」

子「『西川』しか書いてへんやん」

僕「『西』が名字で『川』が名前やがな」

子「うそや」

僕「ほんまや」

子「ほんなら西先生や」

僕「フルネームで呼んでくれな返事せえへん」

子「わがままや」

僕「しかも、『西川先生』とちゃうで。『西・川先生』やで」

しばらくは子どもたちもがんばって「西・川先生」などと言っていますが、いくらノリがいい小3・小4生とはいえ、そのうちめんどくさくなってやめてしまいます。

すぐにムキになるのも、小3・小4生の特徴です。以下は小4相手の休み時間中の会話。

僕「今までだまってたけど、先生ほんまはペンギンなんや」

子「うそや」

僕「ほんまや。これ人間のぬいぐるみやねん。チャックおろしたらペンギンが出てくるねん」

子(ムキになる)「ぜったいウソや!」

僕(ウソに決まってるやんけと思いつつ)「先生がみんなにウソついたこと」

子「ありまくりや」「ていうかウソしか言わん」

僕「そうやったかなあ」

子「ほんまやったら証拠見せろ」「ぬいぐるみ脱げ」

僕「うんしょ、うんしょ、あかん、チャックに手が届けへん」

子「ぜったいウソや!!」

このように「ぜったいウソや」とムキになって叫びつづけるのは男の子ですね。女の子はうふふと笑っていることが多いです。

また別の日。

僕「今までだまってたけど、先生ほんまは天使なんや」

子「ウソや!」「っていうか、この前ペンギンや言うてたやん」

僕「ペンギンかつ天使なんや。『ペンジェル』と呼んでくれ」

子「もうええって」

人間ひとりひとりに個性があるように、クラスにも個性があります。同じ教室のたとえば同じNPクラスであっても、毎年雰囲気がまるで異なります。

ときどき、鉄板だと信じてきた冗談が全然うけないクラスがあります。そういうクラスでは、冗談に限らず、我ながらなんてわかりやすい解説なんだろうと思ってしゃべっているのに子どもたちの表情がまったく変わらなかったりします。

これは落ち込みます。

俺ってなんて授業が下手なんだろう、いつまでも駄目だな。街を離れて一か月くらい山登りにでも行こう。でも戻ってきたらクビになってるな。なんて考えたりして。

ところが、そのクラスでアンケートをとってみると、なぜかとても数字が良かったりするわけです。相変わらず冗談は滑り続けています。発問してもあまり手は上がりません。

あれはいったい何なんでしょう?

そういうクラス、としか言いようがないんですが、たぶん心の中ではくすくす笑っているし、なるほどと思っているんだけれど、それをあまり顔に出さない、そういう個性のクラスなんでしょうね。

2010年2月11日 (木)

ぷらちな奴

むかし東京の大森区と蒲田区が合併して「大田区」になりました。こういうパターンのほかに、福岡県の五つの市が合併して「北九州市」というえらそうなものになったケースもあります。大阪近辺では「東大阪市」のような、謙虚というか安易というか権威を借りるというか、のパターンもありました。
最近でも例の大合併のせいでこういうのが増えてきました。「四国中央市」という、スケールでかすぎ、というようなものに対して、「西東京市」は謙虚パターンでしょうか。これがなんだかとぼけた感じがするのは「西」と「東」が連続するからでしょう。第一、「東京」自体が「東の京」なのだから、その「西」だったら、結局「京都」のことやないかーい、とつっこみを入れたくなります。
意味のよくわからない都市名もあります。「つくばみらい市」も妙な感じですが、「みどり市」、「さくら市」となると、「なぜ?」と言いたくなります。結局採用されなかった「あっぷる市」というのはお茶目でよさそうでしたが、「南セントレア市」は「やってもたー」という感じでしたね。「南アルプス市」はまだましですが、どうしてカタカナことばなのか、という疑問が残ります。そこまで行くのなら、いっそのこと「RHマイナス市」ぐらいの名前なんてどうでしょうかね。意味不明なアルファベットの羅列はインパクトがあります。
ちなみに、「国鉄」が「JR」に変わったときは不評どころか、酷評の嵐でしたね。「J」は発音も難しいし、センスのなさは感心するほどだという意見が多かったのです。さすがに「E電」という名称は消えましたが、こちらはさらにほれぼれするほどのネーミングセンスでした。「×××(アルファベット三文字伏せ字)銀行」というのも天下無双のセンスだと思います。「○ニバーサル・フタジオ・○ャパン」の略かいな、と思わせておいて、省略形ではなく最初からアルファベットを並べただけという、一般人の常識の及びもつかない発想で、まさに脱帽ものです。今後これを凌駕する命名はないでしょうね。
地名のつけ方もいろいろで、合併でなくても「長浜」「高知」「大阪」のような改名パターンもあります。また、「岐阜」のような創設パターンは明らかに人為的な命名です。しかし地名のほとんどは、その土地の特徴を表すところから来た自然発生的なものでしょう。
というよりも、世の中で使われている多くのことばは、ある特定の人がつくったものではなく、いつのまにやら生まれたものですよね。ですから、「花」がなぜ「はな」なのか、よくはわかりません。しかし、「鼻」も「はな」だし、「端」も「はな」であるなら、どうやら日本人は「はしっこにあるもの」は「はな」と呼んだようです。A地点にあったものがB地点にも登場すれば「うつる」です。中国人は、A地点のものがなくなったのなら「移」、A地点にも残っており、同様のものがB地点にも出現したのなら「写」、光などを利用して現れるなら「映」のように区別していますが、日本人はそんな区別はしなかったようです。
だれがつくったのかわからないのですから、「やま」がなぜ「やま」なのか、「かわ」はなぜ「かわ」なのか、と言われたら困ります。「まつげ」なら「目(ま)・つ・毛」で「つ」は「の」の意味の古語だし、「みなと」は「水(み)・な・戸」で「な」は「の」の転化したものだから、一語のように見えても分解すればわかるものもあります。しかし、分解した最小単位がなぜそう名づけられけたかはわかりませんし、分解できそうもないものはお手上げです。
「光」がなぜ「ひかり」なのか。これは何となくわかるような気がします。「ひ」の音は今でこそhiと発音されますが、室町時代ごろの都の人たちは「fi」と発音していたことが、宣教師たちのつくったポルトガル語の辞書によってわかるそうです。「ひと」は「fito」、「はな」は「fana」です。さらにさかのぼると「ひ」は「pi」と発音されていただろうと推測されるので、「ひかり」は「ぴかり」だったことになります。「ピカリ!」とするものだからそのまま「ぴかり」と呼んだにちがいないではありませんか。「ひよどり」や「ひよこ」もピヨピヨ鳴くものだったのですね。だからプラチナを盗んでいくような奴は「ぷらちな奴」というのです。

2010年2月 6日 (土)

授業でのナイスボケ

こんにちは。

西川先生と趣味の合わない栗原です。

昨年は3年・4年ばかりの担当で、とても楽しい一年でした。

6年生のような軽妙な会話は望めないとして、天然な「ボケ」を楽しませてもらいました。

私「冷凍うどんって、あなどれないよな。すごく美味いよね」

ある小4生「ぼくはあったかいうどんの方が好きheart

他の小4生「……。」

※本人には、匿名でなら、とブログに書くことを了承してもらいました。

2010年2月 1日 (月)

DVDを買う

こんにちは、栗原先生と映画の趣味が合わない西川です。

今日から新年度開始ですが、そのこととは関係なく映画の話を。

ちなみに栗原先生とは音楽の趣味もまるで異なるので、話が噛み合わなくて。

数年前の会話。

栗「僕はジャズが好きなんです」

僕「俺ジャズ嫌い」

栗「そうですか」

僕「でもガトー・バルビエリだけ聴くなあ」

栗「誰ですか、それ」

最近はカプースチンも聴くけど、栗ちゃんはやっぱり知らないんだろうか。

さて。

先日ひさしぶりに映画でもみようと思ってDVDを借りに行ってびっくり。

みたい映画がまったくない!

ハリウッド映画とアニメとテレビドラマばっかりだ!

僕が学生の頃のレンタルビデオ屋にはもう少し多種多様な映画が置いてあったものですが、某大手のレンタル屋さんが売れ筋のビデオばかり何十本も置くという手法を大々的に展開してからでしょうか、ちょこちょこといろいろな映画を置いていたビデオ屋が姿を消してしまい、ついに現在のような惨憺たる有様になってしまったんですねえ。現代は価値観が多様化しているなんてウソですよね。

しかたなくインターネットでDVDを買うことに。

ギリシャのアンゲロプロス監督のものばかり4本。家にアンゲロプロスがあると思うと何だか幸せ。

さっそく『エレニの旅』と『シテール島への船出』をみました(『エレニ』は以前に十三の第七芸術劇場でみたことがあるので二度目)。

あたりまえのことですが、映画って、何よりもまず「目の愉しみ」ですね。いやもちろん耳の愉しみでもありますが(登場人物がポケットからしわくちゃの紙幣を出して伸ばすときの音なんてぞくぞくしてしまう)。

黒い色がとても美しい。水がとても美しい。

我々がもっているギリシャのイメージ(エーゲ海に燦々ときらめく陽光みたいな)とはほど遠い曇天模様のもと、ワンシーンワンカットに近い長回しでゆっくりと情景が展開していくので、「みる」ということについての姿勢をふだんのそれからアンゲロプロス用に切り替えないときっとすごく退屈でしょうねえ。おまけに、なぜか登場人物の多くが黒い服あるいは黒っぽい服を着て、最小限にしぼりこまれたセリフしかしゃべらない。

でも、どのカットも絵のように美しくてうっとり。

ひとつの情景をこんなにゆっくり眺める(あるいは見つめる)ことは日常生活ではまずない(日常生活どころか、景勝地でもみんな写真さえ撮ればさっさと移動してしまう)ので、たとえDVDでもアンゲロプロスの映画をみると、日常生活の中にまったくちがう時間がさしはさまれたように感じます。

『エレニの旅』はストーリー的には相当悲惨な話ですが、後味が全然悪くない理由のひとつはそういうところにもあるんじゃないかと思ったりして。

『シテール島への船出』のラストも、いわゆるハッピーエンドではありませんが、老夫婦が浮桟橋に揺られながら霧の海へと消えていく情景はとても美しかった。そういえば『エレニ』も『シテール島』もラストシーンの水が印象的で。

よだれをたらしながら眠ってしまう私でありました。

言い訳ではなく、いい映画は僕をうっとりと眠くさせる!

タルコフスキーの『サクリファイス』も眠かった!(タルコフスキーといえば『惑星ソラリス』も出だしとラストの水が美しくて印象的でした) 

気持ちよく眠れるのもいい映画の条件のひとつですよね。

うっかり眠ってしまったらもう一度みて二度楽しめるし。

2010年1月29日 (金)

はんはんはん

名前といっても上の名前と下の名前があります。上の名前つまり名字を度忘れすると困りますよね。特にいま話してる相手の名字を忘れるとつらいものがある。相手に言わせる方法がないわけでもありません。ずばり聞いてしまうのです。「えーと、お名前は何でしたっけ」相手が妙な顔をして「田中ですが」と言ってくれたらしめたもの、内心のうれしさをおさえつつ、なにくわぬ顔で「いや、下のお名前ですよ」と言えば、相手も「名字ならともかく下の名前は忘れても仕方がないか」と思って、「太郎です」と言ってくれるでしょう。「ああ、そうそう太郎さんでしたね。……ときに田中さん」と、なんの不自然もなく会話が続けられます。
名字(苗字)と姓は厳密に言うと違うようで、日本の四大姓と言えば「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」です。八切止夫という人が、「源は元だし、藤は唐と関係がある、橘は契丹(きったん)をバックにもった一族で、平はペイすなわちペルシャである」という、非常に魅力的な説を唱えていました。日本の姓も国際色豊かなものだったのかもしれません。
そのうち、同じ源氏でも足利庄に住む源氏だから足利さん、新田庄なら新田さん、九条にお屋敷のある藤原は九条さん、伊勢の藤原で伊藤さん、加賀の藤原は加藤さん、というように区別していって名字が生まれたのでしょう。さらには、「四月一日」「八月一日」「月見里」「小鳥遊」のような、クイズに出題されることを目的とした名字も生まれました。……うそです。ちょっとわざとらしすぎました。いま瞬間的にデイブ・スペクターの生き霊がとりついたようです。ちなみに、順に「わたぬき」「ほづみ」「やまなし」「たかなし」と読む、実在する名字らしいです。なぜ、そう読むかは省略。
鼻毛さんという一家が実在します。これを勝手に変えるわけにはいきません。一度聞いたら忘れないというメリットはあるらしいのですが、墓石には「鼻毛家の墓」と書かなければならないのですね。これには、やはり一掬の同情を禁じ得ない。
いっぽう、下の名前は親が勝手につけるのですから、どのようにつけたって自由です。「白鳥」さんの娘に「麗子」とつければ、典型的な美少女のイメージです。「鬼河原」さんちで「権造」とでもつけられた日にゃあ、もうどう考えても悪役の名前です。まかりまちがってもヒーローの名前にはならない。「水田」さんちの娘に「マリ」とつけるのは親の受け狙いとしか考えられません。
田中角栄全盛期に、ある田中さんちで生まれた子どもに「角栄」とつけました。今太閤にあやかろうとしたのですが、如何せん、本家はロッキード事件で逮捕されてしまいました。当然、「角栄くん」はいじめられます。そこで改名を願い出たところ、正当な理由であるとして認められたそうです。
夫婦別姓という話題がよく出ます。「結婚して性が変わりました」という手紙が来るとびっくりしますが、「姓」は変わるのですね。そうすると、親が意図しなかった読み方になって、「水田マリ」現象が起こることもあるでしょう。でも、夫婦どちらの姓を名乗るのかは自由なので、そのあたりは避けられるはずです。
どちらか片方の名字にするのではなく、いっそのこと新しい名字にしてしまったら、という考えもあるようです。山田さんと田中さんが結婚して「臍俵擬(ほぞだわらもどき)」というような、まったく元の名字とは関係のない名字をつくるというのも一つの手ですが、わけのわからん名字が増えそうです。単純にくっつけて「山田中」とするか、羅列型の「山田田中」とするか。しかし後者だと、その人が「高橋渡辺」と結婚すると「山田田中高橋渡辺」になり、その人が「鈴木佐藤中村山本」と結婚すると、とんでもないことになってしまいます。
太陽銀行と神戸銀行が合併して「太陽神戸銀行」になり、これが三井銀行と合併して「太陽神戸三井銀行」となったとき、これはどこまで行くのやら、と期待していたのですが、「さくら銀行」に改名、という卑怯な手で肩すかしをくらいました。しかし、さらに住友銀行と合併して「三井住友銀行」になったわけですから、今後に期待しましょう。
阪神と阪急が合併すると聞いたとき、阪神はもともと大阪と神戸だし、阪急は京阪神急行だったわけで、どうなるのだろうと期待しました。「阪阪」なんてどうかな、大阪ばかりになってしまうけど、「はんはん」は「半々」にも通じて対等の合併という感じもするし、さらに京阪電車と合併したら「はんはんはん」になります。「おけいはん」から出世して、「ロックンロールウィドウはんはんはん(古すぎ)」とはオツやないの、なんて思ったのですが、世の中、期待どおりにはいかないものですな。

2010年1月25日 (月)

シネマレビュー(3)その2

「レミーのおいしいレストラン」という映画の話の続きです。

前回は、荒唐無稽な物語の設定について書きましたが、受験生へは「好意的に読め」というメッセージを送りました。物語の設定にけちをつけ始めると、芸術にはすべてけちがつくからです。かの西郷竹彦先生の言を借りるなら「現実を踏まえ、現実を超えるのがフィクション」です。

今回は、この映画においてスパイス的な存在である「アントン・イーゴ」なる料理批評家の話。

料理人を志す主人公のネズミの憧れであるシェフ・グストーは、この批評家の酷評がもとで憔悴し命を落とします。はからずもその批評家イーゴとレミーの料理対決となるわけですが、結果はレミーの圧勝。

レミーが作った「ラタトゥイユ」は、イーゴの心を強く動かし、「シェフに讃辞を述べたいと思うのは何年ぶりだろう」とまで言わせます。

この映画の原題でもある「ラタトゥイユ」は、フランスのごくありふれた家庭料理で、「おふくろの味」というやつだそうです。

日本にはすぐれた料理漫画「美味しんぼ」があるので、素朴な料理が舌の肥えた批評家を唸らせるという展開はさして目新しくないのですが、私が心惹かれたのはイーゴの独白です。

不確かながらだいたいのセリフを。

「批評家というのは気楽な稼業だ。辛口の批評は書くのも読むのも面白いし、商売にもなる。しかし、批評家の批評は、三流と言われる料理よりも存在価値がないことも認めるべきだ。」

おいおい、ネズミの可愛さにひかれてこの映画を観る子どもがこれを理解できるわけないよな。と思いつつ、この独白に価値を感じました。

母が「批評家にだけはなってほしくない」と口癖のように戒めて言っていたのを思い出しました。

辛口の批評というよりも、「けなす」だけが目的の批評もどきがなんと多いことよ。

相手を批判しけなすことで相対的に自分の価値を上げる。そういう輩の多いことよ。

世間がなかなか認めない価値を口にするには勇気が必要。

だれかの業績を妬んでこき下ろすのは痛快で溜飲が下がるものです。

批評の対象に愛情を持たずに非難し批判するのは独善的で、単なる悪です。

自戒をこめて。

勇気をもって、価値を見いだし、ほめることが育てる側には必要なのだと改めて思い至りました。なんか、日本の不況脱出のカギも、もっとみんなで「ほめ合う」ことのような気がしました。

こういうことを書くと、「夢想家」「いい子ちゃん」「偽善」のようなそしりもありそうですが。

イーゴがレミーのラタトゥイユをほおばった瞬間に少年時代を回想する場面、友だちにいじめられてべそをかいて家のドアを開け、母親のラタトゥイユをほおばる場面に、なぜか大いに共感しました。こういうのに弱いなあ。いかにも、なのに。

パリの夜景がとても美しく、それだけでもこの映画の価値は十分な気がします。

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