2010年1月17日 (日)

六代目

入試にかかわりなく、前回のつづき。前回最後に書いた「騎士」は「ないと」、「七音」は「どれみ」、「一二三」は「わるつ」と読むそうですが、なにか……?
ということで、名前の話ですが、昔は、おおまかにいって音読み系は通称、訓読み系は実名でした。前者を字(あざな)、後者を諱(いみな)といいます。
中国の人も、諸葛亮孔明のような呼び方をすることがあります。亮が諱、孔明が字です。どちらも「明るい」という意味の共通性があり、そういう名付け方をしたようです。
日本では木下藤吉郎秀吉の藤吉郎が字、秀吉が諱です。字と諱の間は、とくにつながりはないようです。官職名を字のように使って姓まで入れ、真田左衛門尉海野幸村とか長宗我部宮内少輔秦元親みたいな言い方もします。
では、なぜ諱を「いみな」と言うのでしょう。これは「忌み名」で、原則的にはできるだけ隠して、知られたくない名前なのですね(ハリー・ポッターの「名前を言ってはいけない人」も同じ考えかもしれません)。
「言霊(ことだま)信仰」というのがありました。今でもありますね。結婚式のときなど使ってはいけないことばがあります。「犬」「切る」「終わる」などはだめです。商売人も縁起をかついで、「すりへる」につながる「する」ということばをいやがります。「スルメ」は「アタリメ」です。入試が近づくと「落ちる」ということばをいやがるのも、同じ心理でしょう。
この考え方でいうと、ことばには魂がこもっているので、たとえば大昔の天皇は、正月には山に登って自らの治める国をながめて、「やまとの国はすばらしい」という歌を詠みました。本当にすばらしいのではなく、そう歌うことで、歌にこもった魂がそれを実現させてくれると考えたのですね。この風習はいまだに続いていて、正月の行事として天皇を中心とした歌会が催されます。
そして歌と同様あるいはそれ以上に霊力をもつことばが人の名前です。人の名前はその人自身をさし示すものですから、うっかり人に知られると、呪いをこめられるかもしれません。名前にこめられた呪いはその人自身にふりかかってくるはずです。ですから、本名を言わないで通称でごまかしたのでしょう。じっさい、坂本龍馬の諱はふつう知らないでしょう。社会のテストでうっかり「坂本直柔」なんて書いたらペケにされそうです。
明治になって新しい戸籍をつくるときに、字と諱のどちらにするか決めなければならなくなったときに、司法卿の江藤新平は字にしました。それでは軽すぎると言われて本人は「『にいひら』とでも呼んでくれ」と言ったそうです。板垣退助も字系の名前ですね。
西郷吉之助も「隆盛」は本人の名前ではなかったという話があります。ほんとの名前は隆永だったそうです。西郷が留守のときに名前を届けなければならなくなって、友人が「たしか隆盛だったような気がする」とか言って届けたのが正式の名前になったということです。つまり、それほど諱というものは知られていなかった。
さて、そういう魂のこもった名前なら、すばらしい人物の名前を受け継ぐことで、その人の才能や力量も受け継ぐことができる、と考えたのが「襲名」ですね。歌舞伎や落語家の世界ではよくあることです。あの「こぶ平」が「正蔵」になっただけで、なんとなく貫禄のようなものが出てくるから不思議です。
希学園も二代目の学園長が生まれました。その際、「二代目前田卓郎」を名乗るというのも「あり」だったわけです。あるいは新学園長が初代としてその名前を「大名跡」にして、将来において次の人とバトンタッチをするときに「二代目を名乗らせてください」と言われるなんて話、夢があるでしょう。
各科の先生も、そういう襲名をするとおもしろいでしょうね。「西川和人は三代目が名人だったね」とか「初代の西川和人はショボすぎたので、じつは歴代に数えないらしいぜ」とか。
講義中に、「五代目!」って声がかかったりするのもいいけれど、「六代目と同じ時代の空気が吸えるだけでも幸せだ」なんて言われる講師がいたらすごいなあ。

2010年1月14日 (木)

休憩中の会話

その1

入試対策期間なので、休憩中も6年生は自習。

電子辞書持参の子どもたちが多いなか、広辞苑で語句の意味調べをしている塾生を発見!

ぼく 「塾に広辞苑持ってきてるんか!」

塾生 「はあ」

ぼく 「すごいな、鍛えてるね!・・・・・・体。」

塾生 「そっちか!」

その2

入試対策期間なので、休憩中トイレの前で見張り。

ぼく 「さっさと用をすませて教室にもどれよ」

塾生 「先生、こんなとこまで・・・・・・」

ぼく 「水圧を上げて3秒で全部出しきれ」

塾生「※収容所か!」

※実際の発言が過激過ぎたので変更しました。

2010年1月 8日 (金)

シネマレビュー(3のその1)

入試が始まり、希っ子たちも次々と人生初めての中学入試に臨んでいます。

希学園では、「当日激励」を行っています。大学入試や高校入試を受ける人たちとはちがい、中学入試はまだ11歳・12歳の可愛い可愛い子どもたちです。

入試当日にどういう声をかけるか。100人を超える入試激励から、私と生徒1人だけの入試激励までさまざまな当日激励の場を経験しましたが、これほど難しいものはないように思います。

国語の先生として、一つアドバイスを。それは、

「文章は好意的に読め!」

です。なんか「!」などつけてエラソーな感じで恐縮ですが、戦いに臨む人へのアドバイスが、

「~た方がいいかなあ」「~してみれば?」

のような及び腰であっては役に立たない。という信念のもと、あえて偉そうに書きました。ただしピンクの文字で。

ここでなぜか「レミーのおいしいレストラン」という映画の紹介です。

またまた子ども向きの映画か。という向きも我慢してお読み下されば幸い至極です。

山下師匠のように30字要約はおこがましいので、50字くらいならなんとかなるかも。いや、古い文体の方が圧倒的に短くなるので、その手で要約をいたしてみますと、

「人語を解し嗅覚味覚に優れたる鼠、仏蘭西にありけり。食物を調理すことを志し人を助け仏蘭西料理店を開くに至る。」

となりましょうか。漢字って便利!「フランス」が3字で書けるんですから。

閑話休題それはさておき。

なんせ設定が荒唐無稽。ネズミが料理をしちゃいます。ついつい私などは、「いったい脚本家は、どうやってネズミが料理をする必然的・合理的な状況に持っていくのだろう」というところに興味を持ちました。

そもそも、「ありえないこと」が起こるのが物語にはつきもので、私などは小さい頃それがいやで童話などを読まなかった経験があります。魔法なんかがあれば強引なストーリー展開ができるからです。

この映画でも、非常にご都合主義的な展開、いわば「ツッコミどころ」が満載で、

「おいおい、どんくさいはずのリングイニ(主人公のネズミの手足となる人間)が、いきなり光GENJIばりにローラースケート履いて超人的な動きを見せて接客しとるやんけ!」

なんてことになります。

でも、そういうことは枝葉末節として、お話全体として描こうとしている主題のようなものを観ようとしなければ、映画そのものが楽しめない。

批判的に文章を読むことも、読解力を養う過程では必要な面もありますが、こと中学入試という場面で出された文章に対しては、作者や筆者、もっと言うと問題作成者の意図にそって読むことが求められているのですから、批評家の自分は押さえておいて、まずはよい観客となって読む方が、出題に対して素直な気持ちで臨めるのではないかと思います。

批評家というと、この映画には実に興味深い人物「アントン・イーゴ」なる孤高の批評家が登場しています。この人物が実によいスパイスとなってこの映画の味を引き立てています。その人物のどこに私が惹かれたかは次の回で。

受験生の皆さんが実力を遺憾なく発揮することを望みつつ。

  つづく

2010年1月 6日 (水)

「太郎」は「たろう」か

またまた浦島ですが、浦島太郎の「太郎」は一姫二太郎のように普通名詞としても使えるし、固有名詞にもなります。ただし、みんな太郎だと区別がつかないので、源氏の太郎なら源太(郎)、藤原氏の次男なら藤次郎、平氏の三男なら平三郎のようになって、いろいろバリエーションが生まれます。「岡崎二郎三郎」「茶屋四郎次郎」なんてふざけたのもありました。後には官職の「左衛門」「兵衛」なども人名になっています。この系統は基本的には音読みになりますが、もう一つ訓読み系の名前もあり、両方名乗る場合には「木下藤吉郎秀吉」のようになります。
厄介なのは訓読み系で、どう読むのかが難しい。人名のみで使う訓読みというのもあって、さらに困ります。「和」が「かず」、「知」が「とも」というのが普通なので、三浦知良は「ともよし」だと思っていたら「かずよし」だし、「植村直己」は「なおき」だろうと思ったら「なおみ」です。「巳」なら「み」で納得ですが、「己」は「おのれ」じゃろが、とつっこみを入れたくなります。
音読みのほうでも、「桑田佳祐」は「ケイスケ」ではなく「カスケ」と読むべきだという意見がありました。また、「颯」は「ソウ」と読みます。これも、「颯爽」と書いて「さっそう」じゃないか、と言われると「あれ?」と思いますが、まちがってはいません。
名前に使える字は、ひらがな・カタカナ・常用漢字プラス人名用漢字なので、ローマ字や算用数字は使えません。したがって、残念ながら子どもの名前を「R-118」とつけることはできないのですね。ところが、たとえば常用漢字さえ使っていれば読みはどうでもよいらしいのです。
ということは「太郎」と書いて「しなののくにのじゅうにんげんたざえもんのじょうみなもとのかねてつ」と読んだってかまわないということになるわけです(だれも読んでくれるはずはありませんが)。「耕平」をじつは「ライオンまる」と読むということをだれが知っているでしょう、いやだれも知らない(反語)。
子どもに「悪魔」とつけようとして「事件」になったこともありました。お釈迦さまが息子に「悪魔」と名付けたと言われているので先例はあったのですが。受け付ける役所の人が個人的な口出しをするのもどうかと思います。江戸家猫八という芸人が「八」の字が好きなので、長男に「八郎」とつけて届けようとしたら、「太郎」とすべきだとか「せめて八郎太にしろ」とか言ったらしい。大きなお世話だ、バカヤロー、子どもに好きな名前をつけるのは親の権利だ、と思うのも当然です。ただし、使いたくない漢字というのはありますがね。「傷」とか「腸」とか「墓」「呪」「痔」「糞」……。「死」なんて最も使えない字のはずですが、俳人の「秋元不死男」のような思いがけない荒技もあります(本名は不二雄)。でも、やはり「かっこいい」漢字を使いたくなるのが人情でしょう。「翔」なんて、たしかにドラマの主人公っぽい字です。
昨年の命名ベストテンの男子1位は「大翔」で「ひろと、やまと、はると」と読ませるそうですが、……うーん、読めない。6位の「陽斗」の「やまと」もつらい。ちなみに9位の「颯太」「颯真」は、やはりそれぞれ「そうた」「そうま」です。女の子の2位「美咲」も「みく」とは気がつきませんでした。10位の「愛莉」を「あいり」と読むのは納得ですが、「めもり」と読めと言われても……。その他、「輝星」の「らいと」、「航海」の「せいる」は言われればなるほどですが、「愛羽」で「あろは」、「会心」で「えこ」はどうでしょう。「騎士」はなんとか読めますが、「七音」「一二三」は……。

2010年1月 3日 (日)

シネマレビュー(2)

あけましておめでとうございます。

今年も、地球は太陽の周りを回ります。太陽までの平均距離がざっと1.5億㎞なので、直径3億㎞の円周上≒約10億㎞を365日で一周するわけです。時速に換算すると10万㎞以上!

凄く速い乗り物に乗り合わせた乗客同士で、今年も少しでもよい席をと奪い合いがあるわけです。「宇宙船地球号」といううまいことばを考えたのは誰だったでしょうか。そういう視点で考える一年の初めでありたいもんです。

電車や路線バスなどでは、乗っている客同士で連帯感なんてあまり生まれないもんですが、長距離のバスや海外路線の飛行機などに乗って降りると、到着地でうろうろしていて、ばったりあったときに「あ、同じ便に乗ってた人!」なんて不思議な親近感を持つものですし、邦人のあまりいない異国の地で会った日本人には、同胞よ!と言いたくなるような感情を持つものです。

人類が連帯するためには、地球規模の危機や地球外生命体との遭遇なんてイベントが必要なのかもしれません。でも、そんなイベント実際にはあってほしくないので、そこでSF映画やパニック映画の役割があるのかもしれないなと考えています。

「アポロ13」という映画がありました。主演は人によって好みの分かれるトム・ハンクス。

前回のレビューでは、人物の「たい」に注目するという話をしましたが、この映画もストーリー自体はシンプルで、「月へ行きたい」が「地球へ生きて帰り(帰らせ)たい」に大きく転換するところが見所でしょうか。

トム・ハンクス主演の他の映画では「ターミナル」「キャスト・アウェイ」が私の好きな映画です。でも、この映画ではゲイリー・シニーズの渋い演技も見てほしい。この人は、トム・ハンクスといくつかの映画で共演しています。ゲイリー・シニーズは「ミッション・トゥ・マーズ」という映画で月どころか火星に行く宇宙飛行士の役で主演を果たしています。

地球から約38万㎞のところにある月。今年の大晦日から元日にかけて、ほんの少しだけですが「月食」があったことをご存じだったでしょうか。地球の影がわりとくっきり映るくらいの距離なんですね。地球一周が4万㎞ですから、地球を九周半くらいのところなんで、結構いけそうです。40年以上前にアポロ計画のサターンロケットは月へ5回も人を送り込んでいたわけですし。当時のアポロに搭載されていたコンピューターの性能は、現在掃除機や炊飯器などの制御に使われているコンピューターチップ程度で、ニンテンドーDSに入ってるチップの方が何千倍も高速度で大容量だとか。

どうして今の技術がありながら再び月へ行かないのか? その疑問はこの映画を観てもすっきりしません。技術じゃなくて政治・経済の問題なんでしょうか。

アポロ13号は11号の成功を受けて月へ飛び立つ3番目の宇宙船です。

「金メダリストは末永く覚えられるが、銀メダルの選手は記憶に残らない」

アメリカ本国でのアポロ熱はすっかり冷め、注目されなかった13号。そのあたりの描写に、なぜまた月へ人を送らないか、という答えはありそうなんですが、それでも疑問は残ります。

夢にお金がかけられない時代なんだ、という答えなら、少しさびしい気がします。

※前回のブログで映画「ファインディング・ニモ」を2000年の映画だったと書いていましたが、2003年公開の誤りでした。

2010年1月 1日 (金)

浦島太郎

入試の時期ですが、なんら関係なく。
前回、浦島太郎について、ちょっと書いたので、そのついでということで。
「土産の玉手箱で老人になる話」なのですが、乙姫様の土産なのに、なぜそんな悲惨な結果になるのか、不思議に思ったことはありませんか。
乙姫様は悪意を持っていたのでしょうか。玉手箱の煙の正体はいったい何だったのでしょうか。
白い煙が出た、ということは要するに玉手箱には形のあるものは何もはいっていなかったということでしょう。では、何がはいっていたのか。
浦島太郎は、竜宮城で過ごした時間はそんなにたいしたことがないと思っていたのに、故郷にかえってきたときには、とんでもなく時間がたっていました。ということは、何百年という時間を失ったわけで、結局乙姫様は「失われた時間」をかえしてくれたのですね。
しかし、何百年という時間をもらっても、ふつうの人間なら死んでしまう。事実、浦島太郎は見る見るうちに老人になってしまった。そのままなら人間の寿命を通り越して死んでしまうでしょう。
だからこそ、乙姫様は浦島太郎を鶴の姿に変えてくれたのです。「鶴は千年、亀は万年」ですからね。
もう一つ、論理的に考えて疑問に思うのは「こぶとりじいさん」です。「小太り」ではなく、「瘤とり」です。文法的には、こぶを鬼にとられたのだから「瘤取られじいさん」と言うべきだという人もいますが、鬼をつかってこぶをとらせたのだから、まちがっちゃいません。大阪城を建てたのは大工さんではなく豊臣秀吉です。それより「はなさかじいさん」のほうが変です。
話がそれました。問題にしたかったのは、翌日となりのじいさんが行ったときに、なぜ鬼たちは昨日のじいさんだと思ってしまったかというです。
となりのじいさんはこぶをとってもらうために行ったのですから、当然こぶがついているはずですね。ところが、昨日のじいさんはこぶをとられているのですから、まちがえるわけがないではありませんか。別人であることは見ただけですぐわかるのに、鬼たちはなぜ昨日のじいさんとまちがえたのか。
ここから導き出される論理的帰結は、昨日のじいさんは両頬にこぶがあったのではないか、ということです。右と左にこぶがあったのを、たとえば右だけとられてしまった。つまり、左のこぶは残ったままです。そして、となりのじいさんは左にこぶがあった。だから、鬼たちはまちがえたのだ。どうだね、ワトソンくん。

2009年12月27日 (日)

食事どきの会話

入試対策第Ⅱ期に突入しています。

①N生は朝9時半から国語の語句テストと理科の実力テストを受け、その後各教科の講義・自習を経て、夜9時半に帰ります。

12時間拘束です。

しかも、教室の黒板には

『①N生に休み時間はない!』

などと書かれていたりします。

おまけに、食事休憩中も講師が教室にはりついて目を光らせています。

にもかかわらず、子どもたちは結構楽しそうに元気よく勉強してたりして。

心の中では「えらいなあ、おまえたち、うんうん。」と思っているんですが、食事休憩の監督に入ると、つい、

「おい、いつまで飯食ってんねん、さっさと勉強せんかい」

などと言ってしまう私でした。

ある日の食事中の会話。教卓に座っている私に、塾生がご飯を食べながら、

「先生、今いくつ?」

「九百歳や」(めんどくさい)

「この前十八歳って言うてたやん」

「九百十八歳や」(ますますめんどくさい)

「長生きやな」

(ついのってしまう)「鎌倉幕府が成立したころのこともよう覚えてるで。頼朝と先生は、頼ちゃん和ちゃんと呼び合う仲やったんや。『頼ちゃん、あれじゃ、義経がかわいそうだよ』『兄弟のことに口をださんといてくれ』みたいな。武蔵とも戦ったで」

「どっちが勝ったん?」

「引き分けや」

「坂本龍馬は知ってる?」

「臭いやつでな。あまり近寄らんようにしてた」

「永倉新八は?」

「いやあいつはなかなか強かったな。でも、齋藤一のほうが強かったな」

「沖田総司は?」

「あんな咳ばかりしてるやつたいしたことあるかい」

「近藤勇は?」

「あいつは拳骨が口に入るというだけの男や」

「高野長英は?」

「あいつはけっこう悲惨でね。俺も逃亡手伝ってやったりしたがね」

「勝海舟は?」

「さっさと食うて勉強せえ!annoy

2009年12月25日 (金)

①Nの家庭学習用教材②~シルクロード篇~

①N国語教材の表紙を飾った写真について、その2です。

「語句砂漠」という見るからに苦しそうな教材を猛暑の8月に配付しました。

大量の三字熟語と四字熟語、およびさまざまな語句問題が延々とつづく、まさに「タクラマカン砂漠・死の隊商」といった感じの教材でしたが、その表紙に使った写真がこちらです。

1

中国ウイグル自治区のパキスタン国境近くに「タシュクルガン」という街があり、その街の外れにこの城跡があります。ほんとうにタクラマカン砂漠の近くです。

城跡に入るにはお金がいります。ただし、係員がいるときだけ。

僕はこの街に二泊し、その間に三回この城跡を訪れましたが、夕方と朝早い時間には係員がおらず、出入り自由でした。

朝早い時間に行くと、タジク族と思われる老人が山羊をつれて来ていました。そして、くずれた石壁の蔭にしゃがんで用を足していました。大きいほうでした。

城の北は農村地帯で麦畑が広がっています。こんなところです。

2

十歳くらいの男の子と仲良くなり、家でヨーグルトとパンを食べさせてもらいました。

城の東側は美しい湿地帯です。

そこかしこから清水が湧いて細い筋となり、それらが寄り添って小川になり、さらに合流して大きな流れをつくっています。

その河原とも湿地ともつかない場所で、牛や山羊がのんびり草をはみ、子どもたちが遊んでいるのでした。

1

次の写真も「語句砂漠」で使用したものです。

1_2

これはカシュガルの東(?)にあるヤルカンドという街の外れですね。

タシュクルガンにもヤルカンドにもカシュガルからバスで行きます。

タシュクルガンはバスで8時間ほど。ヤルカンドは3時間か4時間だったかな。

ところで、カシュガルのホテルで突然見知らぬ男に名前を呼ばれるという事件がありました。

中国語もウイグル語も、そしてなぜか英語もまったくできない僕は、筆談専門で何とかそれまで乗りきっていたのですが、ホテルのフロントにいたのがウイグル人女性で筆談が今ひとつ通じず、延泊の交渉に苦労していたときのこと。

横にいた漢族の男性が突然、

「西村さん! あなた西村さんではないですか!?」

「え、いや、西・・・」

「わたし、西遊旅行社のガイドをしている○×△です。」

「なんと、そうなんですか。しかしちなみにわたしは西・・・」

「西村さんがこちらに来るという話聞いていました! わたしにまかせて。明日と明後日は泊まらないで、その次の日からまた泊まりますか」

「おお、実にそうです。明後日の次の日から。ただし、わたしは西・・・」

しかし彼は僕の言葉を最後まで聞いてくれず、ウイグル人とひとしきり話をし、

「だいじょうぶです、明後日まで泊まらない、OKです。そして、次の日からまた泊まる」

「どうもありがとうございました。とても助かりました」

僕は満面の笑みで感謝の言葉を述べ、

「えーと、わたし、西川です、西村じゃなくて、へへ」

となぜか照れ笑いしながら打ち明けるのでありました。

「あ、にし・・・かわさん、そうですか」

彼は「西村」と言うときは流暢なのになぜか「西川」は言いにくそうなのであった。しかもなぜか少し不満そうなのであった。

われわれはしばらく歓談し、やがて別れを告げました。

「どうもほんとうにありがとうございました」

「いえいえ、OKです。さようなら、西村さん!」

お約束ですね。

その後この人にはタシュクルガンでも偶然会ったのですが、そのときも大きな声で

「西村さ~ん!」

と呼びかけられたのであった。

2009年12月22日 (火)

シネマレビュー(1)

ブログというもの自体が初めてなんですが。ま、回数を重ねればそれなりになっていくと思います。最初のうちは辛抱してお読みください。

あの「こち亀」も初期はずいぶん絵が今と違いますから。

記念すべき第一回をどういうネタにしようかとかなり困りました。

で、結局、映画の話にしました。でも、西川先生みたいに「通」ではないので、非常にメジャーな映画で。しかも子ども向き。

こういう、書くまでの裏話なんかをだらだら書くエッセイっていかにもだめだめなんですが、書いてみると気持ちがわかるなあ。

さて、今回のシネマレビューは「ファインディング・ニモ」です。たしか2003年の映画なんで、もう7年前ですね!

物語の授業で「主人公」の話をしたときに、「映画『ニモ』の主人公はだれやった?」と尋ねると、必ず「ニモ!」と言ってくれるお子様たちがいていつも誠に誠に感謝しています。そうこなくちゃ話を振った意味がないですものね。振ったらボケる。関西ではもはや礼儀です。

正解は「ニモ父」ですよね。デカい方。名前はマーリン。吹き替えはとんねるずの木梨憲武がやっていました。私もいつか映画の吹き替えをやってみたいです。そう思って今日も教室で朗読の練習をしています。

この映画の主題を言ってしまうと「再生」でしょうか。

(以下若干ネタバレあり←映画レビューページでの用語?)

この上なく辛い経験をした主人公は、人間(魚)不信におちいり、安全に無難にコンサバな人生を送ろうとします。妻子を失い、残ったのは息子ニモ。そのニモを徹底的に箱入りで育てていたニモかかわらず(笑 と自分でフォロー)、ニモは人間に連れ去られてしまいます。

マーリンはニモを探す旅にいやおうなしに出かけることになります。

その旅の道連れが記憶力のない魚「ドリー」です(吹き替えが絶妙でした)。このドリーのおかげで、マーリンは数々の困難を乗り越えてついにニモの囚われているシドニーにたどりつく訳ですが、傷ついたマーリンの「不信」のせいでトラブルも多くなります。

最後はドリーやペリカンのナイジェルを「信じる」ことで、ニモに再会することができるわけです。

子ども向きの映画ですが、実によく練られたストーリーだと思います。

この映画に出てくるキャラクターの多くが、何らかの「ハンディキャップ」を持った設定であることも見逃せないポイントです。

ニモは生まれつき右の胸びれが小さい。ドリーは記憶障害。主人公マーリンはPTSD?

アメリカらしい発想が随所にあります。

よく私は物語文の授業で「人物の『たい』に注目せよ」と言います。

「たい」は願望の助動詞と言われます。「~たい。」「~ほしい。」という気持ちは誰にだっていつだってあるものです。主人公や主要人物の願望や目的をとらえれば、ぐっとストーリーがわかりやすくなると思うのです。

面白いと言われるストーリーは、この「たい」が明確かつ強力なものであることが多いです。

「モンテ・クリスト伯」では目的は復讐です。「西遊記」では、三蔵法師のそれが「天竺から経文を持ち帰り、人々を仏の道に導きたい」であるのに対し、孫悟空の願望は「この輪っかを外したい!」で、真逆です。そのズレた目的が、最終的に一致するダイナミズムが面白さになっています。

この映画でも、父親が何としても息子を助け出したいという願いがよく伝わってくるからこそ、ストーリーに入り込みやすいわけです。

とまあまじめなレビューを書いてしまったのですが、この映画の見所は、本当に美しい海中のCGですね。ピクサーのスタッフ全員がスクーバダイビングの資格をとって、実際の海を見に行った、というだけのことはあります(すごい会社ですね)。

「たくまざる自然」ということばがありますが、人工的に自然を作り上げてしまうところに、私は素直に感動してしまいました。アメリカ人ってすげえ。

とはいいつつ、一番好きなキャラは、ベジタリアン志望のサメのブルースです。

2009年12月19日 (土)

読書日記

 国語科の山下です。
 趣味を「読書」としたからには、本について書かなければならないでしょう。
 そこで今月読んだ小説について、さらりと(テストのネタになりそうな本は秘密)。
 しつこく書いてもしようがないので、三十字という制限にしてみます。
 三十字というのは、きついようで手ごろかもしれません。
 たとえば『桃太郎』は「桃から生まれた少年が犬・猿・きじとともに鬼を退治する話」。
 『浦島太郎』なら、「亀を助けた男が竜宮城に行って、土産の玉手箱で老人になる話」。
 この感じで行くと、まず、西田俊也『オオサカンドリーム』(徳間文庫)。
 「ヤッちゃん系の若者が『笑いの学校』へ行って漫才師を目指す話」。
 こう書くと、いかにもおもしろくなさそうですね。
 次は、貫井徳郎『夜想』(文春文庫)。
 「触れた物で人の心が読める少女と出会った不幸な男が救われる話」。
 どんな話だがよくわかりません。
 A・ファウアー『数学的にありえない(上下)』(文春文庫)。
 「天才数学者が確率を基礎に未来を予測する力を得て、悪者と戦う話」。
 うーん、これも意味不明か。
 マイクル・クライトン『NEXT(上下)』(ハヤカワ文庫)。
 「遺伝子を買う企業とヒトの遺伝子を導入したオウムとチンパンジー」。
 三十字では無理……これだけで内容の想像がつく人がいるのだろうか。
 『ジュラシック・パーク』の原作者の最後の小説なんですが……。
 ディーン・クーンツ『オッド・トーマスの受難』(ハヤカワ文庫)。
 「死者の霊が見える青年が、誘拐された友人を霊に導かれて救う話」。
 なんとなくはわかってもらえそうですが、やはりなんだかなあ。
 結論。
 企画倒れでした。

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