2022年12月 7日 (水)

また明日のこころ

前回、「先祖」と書きましたが、これは「祖先」とどう違うでしょうか。「祖先は八幡太郎義家だ」と言うと「家系の初代」という意味ですが、「祖先を祀る」と言うと「初代から先代までの人々」ということになるでしょう。一つの家からスケールを大きくすると、「人類の祖先」「哺乳類の祖先」のような使い方もできます。「現在まで発達してきたものの、元のもの」という感じでしょうか。「先祖」にも「家系の初代」や「初代から先代までの人々」「その家系に属していた人々」といった意味合いがありますが、「人類」レベルで使うことはあまりなく、個別の家系をさすことがほとんどのようですし、「祖先」に比べて口語的表現という感じですね。「万世一系」と言いますが、いずれにせよ、どの人にも祖先がいて、脈々とつながっているわけです。 今年は春日大社の式年造替にあたっています。伊勢神宮の式年遷宮と違って、建て直しではなく、修理をするのですね。人が親から子、子から孫とつながっていくのに対して、建物はこわれますが、中にはこういう風に修理しながら、ずっと続いていくものもあります。ちなみに、伊勢神宮が国宝になっていないのは建て直しをするからだと言います。国宝ともなると、むやみに作り替えてはいけないので、あえて国宝にならないようにしているということでしょう。春日大社は伊勢神宮に比べると新しいとはいうものの、それでも奈良時代に創建されています。藤原一族の氏神ですが、鹿島・香取の両社も同じく藤原氏の氏神で、こちらは特に武芸の神として有名です。剣術の道場に「鹿島大明神」「香取大明神」と書いた紙がぶら下がっています。時代劇でよく見ますが、この紙は道場以外ではや○ざの親分の部屋にあったりします。これも映画などで見るだけで、入ったことはありませんが…。任侠の世界に生きる人たちにとっても荒ぶる神は尊崇の対象なのでしょう。 千葉周作は北辰を信仰していたということをだいぶ前に書いたような気もしますが、この人が千葉氏の一族であるなら『鎌倉殿の13人』の岡本信人の子孫ということになりますね。千葉氏は坂東八平氏の一つです。桓武天皇の子孫である高望王が臣籍降下して、平朝臣を名乗ります。「平」は桓武天皇の平安京にちなんだと言われます。平高望が上総介になって下向すると、その子供たちも各地に勢力を伸ばしていき、さらにその子孫が坂東各地で千葉氏や、相馬氏、上総氏、三浦氏などに分かれて、八つの大きな家が生まれます。これが坂東八平氏と呼ばれるものです。 千葉氏は大きな一族でしたが、戦国のころは衰えて大名にはなれませんでした。一方、相馬氏は平将門の血筋ということになっていますが、なぜか大名として江戸時代まで生き残ります。その相馬氏の家令を務めていた志賀直道はお家乗っ取りを謀った大悪党だと言われます。「相馬事件」と呼ばれ、星亨や後藤新平もからんできて、なかなかスケールの大きな事件になります。星亨は「押し通る」とあだ名されたぐらいの剛腕政治家で、隻腕の美剣士伊庭八郎の弟である伊庭想太郎という男に暗殺されました。後藤新平も、その大胆な構想から「大風呂敷」とあだ名された大物政治家です。杉森久英の『大風呂敷』という伝記はなかなかおもしろかった。角川文庫で読んだのですが、もともと新聞小説だったらしく、挿絵もはいっていました。そのころの角川文庫は新潮の文庫のきどった活字と違って、やや太めの角張った活字のものがあり、とてもいい感じでした。杉森久英は『天皇の料理番』の作者で、伝記でおもしろいものがたくさんあります。 さて、相馬事件の立役者、志賀直道の孫が直哉です。兄が早世したため、家系を絶やさないように祖父母が直哉を育てると言い出し、幼いころの直哉は祖父母に溺愛されて育ちました。小学校卒業のころに実母が亡くなり、父親が再婚します。そのあたり、『母の死と新しい母』という作品に描かれています。この作品は、ときどき入試にも出ていました。そして祖父や父に対する複雑な心情から生まれた作品が『暗夜行路』です。その志賀直哉は昭和46年まで生きていたのですから、江戸時代といっても、そう古くはないわけですね。ということで、前回の流れと結び付く話になってきました。 志賀直哉、武者小路実篤、有島武郎らは白樺派と呼ばれます。イメージだけで大胆に分類すると、学習院から東京帝国大学が白樺派、早稲田が自然主義、慶応が耽美派、というところでしょうか。実際には自然主義の島崎藤村も田山花袋も早稲田ではないのですが、自然主義の考えを理論的に支えたのが「早稲田文学」という雑誌です。慶応大学から生まれたのが「三田文学」で、ロマンティック路線であり、それを突きつめると、「耽美派」になります。ただし、耽美派の永井荷風も谷崎潤一郎もやはり慶応出身ではないのですが…。 今や永井荷風はほとんど読まれなくなっていますし、谷崎も同様です。漱石と芥川は別格として、明治大正の作家はもはや過去の人なのでしょう。最近著作権の切れた人に山本周五郎がいます。俗っぽいけれど、やはり今読んでも面白い。新潮文庫で出ていたものは高校生のころすべて読みました。本は処分しましたが、ネットの青空文庫でまた読めます。青空文庫は無料で利用できるのでおすすめです。小酒井不木や浜尾四郎、小栗虫太郎などの推理もの、海野十三のSF、林不忘、野村胡堂の捕物帖、佐々木味津三の退屈男、国枝四郎の伝奇もの…、夢野久作のドグラマグラも読めます。 最近、外国作品でゴシック・ロマン調のものを読みました。ケイト・モートンというオーストラリアの作家で、『忘れられた花園』『秘密』『湖畔』の三作を読んだのですが、いずれも上下巻に分かれており、なかなか読み応えがありました。「ゴシック・ロマン」というのは、18世紀末ぐらいに流行した神秘的、幻想的な小説で、今のSFやホラー小説の源流とも言われるものです。ガストン・ルルーの『オペラ座の怪人』やナサニエル・ホーソンの『緋文字』もその流れですし、エドガー・アラン・ポオは言うまでもなく、ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』も同じ系譜です。ケイト・モートンのものはその雰囲気を生かした作品で、日本で言えば、「新本格」みたいなものかもしれません。「新本格」については長くなるので、続きはまた次回のこころだ。

2022年11月13日 (日)

今こそ島への愛を語ろう④~ジャワ島~

 ジャワといえばジャワカレーですが、ジャワ島の食べ物は実のところ全然辛くありません。ガドガドなんていうサラダ食べればわかりますけど、エスニックといえばエスニックではありますが、いわゆるインドとかタイとかの感じではありません。甘~いピーナッツソースがかかっています。
 もちろんインドネシア全体でいえば辛い料理もあります。パダン料理がそうですね。ジャカルタのデパ地下で食事したときに連れがこのパダン料理を食べてあまりの辛さに泣き出し、まったく往生しました。あわててパイナップルジュースを飲ませたら少し落ち着きましたが、まさか辛いからといって泣き出す人がいるとは思わず、焦りました。
 パダン料理というのはスマトラの料理です。スマトラといえば、大学のときの友人K君(前回に引き続き登場)が結婚したのはスマトラの人だということです。フィールドワークに行った村で知り合ったそうです。素敵な話です。K君は一見すごく常識的で良識派で温厚な人で、僕なんかと仲よくなりそうにない人だったのですが(K君を紹介するとみんな何でこんないい人が西川の友だちなのかと失礼なことをいいます)、実のところ僕なんかよりはるかに深く静かにいかれた人です。悪口ではありません。好きだといっているのです。前にも書きましたが、一緒に韓国に行った人です。あの韓国旅行は最低中の最低だったわけですが、それはもちろんK君のせいではありません。K君にはほんとうに悪いことをしたと思っています。すべて私が悪いのです。でも、くり返しになりますが、何があったか書きませんよ。なんたって、韓国は島じゃなく半島ですからね。私はテーマを大事にする人間ですからね。もちろんK君のどこがいかれているかも書きません。私は友人を大事にする人間ですからね。
 K君とは山形の立石寺にも一緒に行きました。「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」という芭蕉の句で有名な「山寺」ですね。一緒に行ったというか、夏休みに自動車の運転免許を合宿でとったのですが、そのとき一緒だったんです。で、その宿が立石寺のそばにあったのです。
 立石寺は九十九折りのものすごい参道を上った先にあるのですが、もうかなり上ったところで右に入る小道があり、なんとなく行ってみると、ロープがかかっていて、立ち入り禁止と書かれていました。
「おや、立ち入り禁止と書かれているよ、西川君」
「ほんとうだね、K君」
「行ってみようか西川君」
「う、うん、行ってみようか、K君」
 というわけで二人でロープをくぐって登山道のような道を登っていくと、立石寺の全景を見渡せる素晴らしい場所に出ました。修験者が修行のために使う道だったようです。
 ちなみに立石寺は縁切寺でもあります。私の知り合いのカップルがそれと知らずに行き、その後すぐに別れました。
 しまった、ジャワの話でした。ご存じのようにあちら(東南アジア)では右手を使って食事をします。そういう現地の風習のとおりにするのが私は好きなのでがんばって右手で食べようとするわけですが、つらかったのがアヤム・ゴレンです。鶏をまるごと(ではないけれど大きいまま)揚げたようなやつで熱々です。片手でなんか食えるかっちゅう話です。どうすんねんこんな熱いやつ! と思って周囲の現地人を見ると、意外と柔軟に左手とかフォーク使ったりしてました。なんだよ! と思いましたけどね。
 インドネシア語勉強したなあ。K君に良い参考書を教えてもらって半年ぐらい頑張りました。インドネシアには2回行っていて、2回目に行ったときもやはり半年ぐらい勉強し直したので、計1年勉強しています。そんなに頑張ったのにもうまったくおぼえていません。ただ、いつか使うこともあるかと思って、※Saya sudah pernah belajar bahasa Indonesia. Tetapi saya sudah lupa. というフレーズだけおぼえておくようにしています。まちがっておぼえてるかもしれませんが。ああ、いつかインドネシアの人に言いたい! でも、ほんとうに、最もよくインドネシア語が頭に入っていたときには、英会話よりはできていたんです。そのぐらい英会話ができないのです! 空港で現地の人に英語で話しかけられてインドネシア語で返事したらうれしそうな顔をされました。そりゃそうですよね。海外に行ったらできるだけ現地の言葉でしゃべりたいです。英語なら通じるから英語で、なんていうのは、大英帝国の植民地支配を追認するみたいでいやです。なんていう理窟をぶちぶちごねごねするぐらい英語ができないのです。というわけで、まだしもインドネシア語の方がましでしたという話です。日本からスラウェシまで電話してインドネシア語で車をチャーターする予約とかできましたからね、えへん、ぷい。

※ わたしはかつてインドネシア語を学びましたが、もう忘れました。

2022年11月 4日 (金)

古墳に墓参り

有栖川宮詐欺事件とは、二十年ぐらい前に、有栖川宮の名を詐称して偽の結婚披露宴を開催して、招待客からご祝儀をだましとったという、ちょっと笑えるような事件です。有栖川宮家は跡を継いだ弟の代で断絶しているのですが、平成の時代でも有栖川宮という名前の威力は大きかったのですね。芸能人など、なんのつながりもないのに、宮様から招待されたと思って出かけていった人が結構いたようです。ちなみに有栖川有栖という、ふざけた名前の小説家がいますが、もちろん本名ではありませんし、有栖川宮とも何のつながりがあるわけでもありません。自分の通っている同志社大学の近くに有栖川邸跡があったので、それをペンネームにしたらしい。下の名前は、「不思議の国のアリス」も意識したようです。

ところで、有栖川宮率いる東征軍の行進は「ナンバ歩き」だったのでしょうか。これは、右手と右足、左手と左足をそれぞれ同時に出す歩き方で、よくわかるのは歌舞伎の「六方」ですね。弁慶が同じ側の手と足を動かして花道を飛ぶように歩いていきます。江戸時代の忍者や飛脚は、一日に50里の距離を走ったと言います。単純に一里を4キロと考えても、200キロになります。フルマラソンが、42.195キロで、走ったあとフラフラになっているのですから、これは驚異的な距離です。ただ、左右の手足が同時に出るナンバで走ると、体をねじらないし、大きく手も振らないので、余計な力を使わずにすんで疲れにくいそうな。

秀吉の「中国大返し」のときもナンバだったのでしょうが、幕末から明治のかけての軍隊となると、外国式の軍事調練をしていそうです。ということは現在のように、右手と左足、左手と右足を同時に出す行進だったのでしょう。東征軍は「ナンバ歩き」ではなかったと考えるべきかもしれません。「外国式」と言いましたが、政府軍ならイギリス式、幕府軍ならフランス式という違いがあったようです。ただし、フランス軍というのは実は弱かったそうです。ナポレオンだけが突出して強かったのかなあ。それ以降、普仏戦争も第一次大戦も第二次大戦も負け続けています。「戦えば負けるフランス軍」などと悪口を言われますが、どれも相手がドイツで強すぎたから、ということもあるでしょう。

日本では戦国時代最強と言われたのが上杉謙信率いる越後兵ですが、対抗する甲斐の武田兵にしても共通する弱点がありました。彼らは基本的には農民なので、稲刈りの時期は使えなくなるということです。戦争が長引いても、秋になると兵をひかざるをえなかったわけです。弱かったと言われる尾張の兵を率いた信長が勝利を収めていくのは専業武士団を作ったからであって、それまで武士の実態は農民だったのですね。そのあたりは大河ドラマの『鎌倉殿の13人』を見ているとよくわかります。源頼政の挙兵が失敗したあと、伊豆国の国司の座は平時忠に移り、目代として山木兼隆が赴任します。大河の初めのほうで、北条時政は義時を連れて、兼隆に挨拶をするためにやってきますが、兼隆の代わりに対応したのが後見の堤信遠でした。そのとき、時政は手土産として野菜を持参するのですね。ところが、信遠は野菜を踏みつけて、ナスを時政の顔に擦りつける、という場面がありました。自分の土地でとれた野菜をもっていくあたり、武士の本質は農民だったのだと感じさせられます。だからこそのちに刀狩までして「兵農分離」をしたのでしょうね。

「一所懸命」ということばが示すとおり、武士が土地に命をかけたのもうなずけます。名字が地名になるのも土地との結びつきを表すためだったかもしれません。そうすると、徳川幕府の命令による移封は彼らにとってはつらかったでしょうね。江戸期になると、そこまでの土地との結びつきはなかったでしょうし、移封後の年月が重なるにつれて、その土地の気風と結び付くということはありました。上杉家は秀吉の時代に越後から会津120万石に移され、関ヶ原で敗れたあと、米沢三十万石に減封されます。苦しい財政を建て直したのが、十代目藩主の上杉鷹山ですね。「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」は、鷹山が子供にのこした言葉です。米沢という土地との結び付きから生まれた言葉でしょう。上杉家は今でも残っています。ちなみに、現在の上杉家の当主は有名な宇宙工学博士ですね。

秀吉の軍師と言われた黒田官兵衛の家はもともと備前国の福岡というところの出なので、関ヶ原の戦功で筑前国を与えられたとき、それまで博多と呼ばれていた地域に城を築き、祖先の地にちなんで福岡城と名付けます。那珂川をはさんで城下町のほうを「福岡」、反対側を商人の町として「博多」と区別していたのが、明治になって統合されます。そういういきさつのせいか、博多の人々は黒田家をあまり好きではなかったと言います。黒田家とは土地との結び付きがうまくいかなかったということとでしょうか。

八幡太郎源の義家の弟である新羅三郎義光の子孫が甲斐に土着したのが武田氏で、常陸国で栄えたのが佐竹氏です。秀吉の時代には五十万石を超える大大名として認められますが、のちに関ヶ原で中立的な立場をとったために、出羽国への国替えを命じられます。こうして佐竹家は江戸時代を通じて、久保田藩を支配することになります。久保田藩が秋田藩と改称されるのは、実は明治になってからですが、その秋田県の知事を務めているのが佐竹敬久さんですね。つまり昔の殿様の子孫が、今でも県のトップになっているわけです。そういえば井伊家の子孫も彦根の市長になっていましたね。

そう考えると、江戸時代はけっして古くありませんし、歴史の流れというものは途切れずにずっと続いていることがわかります。昔からの連続性ということで言えば、たとえば古墳は単なる遺跡ではなく、天皇家にとっては祖先の墓ということになりますね。エジプトのピラミッドとは、ここが決定的に違います。もちろん、一般庶民が先祖の墓参りをするように天皇が仁徳天皇のお墓に毎年墓参りに行くということはないでしょうが…。いや、行っているのでしょうか? いずれにせよ、一般庶民とちがって、天皇家は先祖のお祀りも大変なようです。

2022年10月21日 (金)

今こそ島への愛を語ろう③~台湾その3~

 で、その、台湾なんですが、正直いうとあまり記憶にないのです。いや、ないわけではないんですが、「島への愛」とは全然関係ないというか。確かに島ですけど、そんなこといったら、北海道だって九州だって四国だって本州だって島じゃん、て話です。だから、島への愛とは関係なく、台湾の思い出なぞ語ってお茶を濁したいと思います。
 当時の台湾は物価が安くて素敵でした。今頃になって日本でも人気のルーローハンですが、当時台湾の下町だと、豚汁的な(いやたぶん全然ちがうんですけど)汁物とセットで180円くらいでしたね。そのときいっしょに下町をぶらぶらしていた三人のうちの一人(英語の先生でした)は、後に歌手になりました。「ホーム」という歌がヒットした木山裕策さんです。木山さんは覚えていらっしゃらないかもしれませんが、いっしょに台湾の下町をぶらぶらした仲です。センシティブな方だったので、下町の匂いの凄まじさに具合が悪くなり、早々にホテルに戻られました。だから、その後喫茶店でトイレの場所を教えてもらおうと筆談を試み、店員に「何処在厠?」と書いた紙を見せ「はあ?」という顔をされたときにはいらっしゃらなかったような。今にして思えば「何処在厠」が通じるわけないのですが、何だかバカバカしくて良い思い出です。
 この台湾社員旅行が私にとって初めての海外旅行だったのですが、海外っていいなあと思いました。植生とか風習とかがちがうので、わあ遠くに来たなあと感じるのがよかったです。たとえば、当時の台湾は、檳榔の実をくちゃくちゃ噛んではそのあたりに吐き捨てる人がたくさんいました。そういうのもなんだか新鮮で、バスガイドのお姉さんに「わしも檳榔の実がほしい」と訴えると、そんなことをいう日本人は珍しかったみたいで、にこにこしてお店に連れて行ってくれたのだったか、ちょっとこのあたり記憶が曖昧ですが、もしかしたらバスガイドさんがビニール袋にいっぱいくれたのだったかもしれません。なにしろ、檳榔の実をゲットして嬉しくなってくちゃくちゃしていたのをおぼえています。
 この旅行で海外の素晴らしさに目覚めた私は次に韓国に行ったわけですが、とにかくこの旅行が最低でした。韓国が悪いわけではありません。もちろん韓国の人が悪いわけでもありません。すべてが自業自得ではありましたが、とにかく最低の旅行でした。一緒に行ったK君(現・某国立大学教授)には悪いことをしたなあと思っています。何があったかは書きません。なぜなら韓国は島じゃありませんからね。この文章のテーマは「島への愛」ですから。
 というわけで、次回の島はジャワ島です。実をいうとその前にやはり前職の社員旅行でワイハーに行っているのですが、これも割愛します。食い物があまりにもまずいために食欲をなくし餓死するんじゃないかと思ったという記憶しかありませんからね。

2022年10月 7日 (金)

今こそ島への愛を語ろう②~台湾その2~

 今は昔の話ですが、何もしたくなかった私はずるずると七年半近く(十八歳から二十五歳まで!)仙台にいました。と書き始めたのが運の尽きで、前回は台湾の話にたどり着きませんでした。
 そうです、七年半仙台にいて、何となくしかたなく帰阪し就職した、というところから台湾の話を始めようとしたのです。なのに、うっかり井月の句なんか紹介したせいで、話が脱線したまま戻りませんでした。恐るべし井月。恐るべし亀之助。
 就職したのは、当時京阪沿線で主に公立高校受験の実績を伸ばしていた某進学塾です。新聞の求人欄を見てとりあえず電話したらいついつに来いと言われて、行ったら即筆記試験を受けさせられ、試験が終わったらその試験問題で模擬授業をさせられ(思えば生まれて初めての授業でした)、その場で「採用ね」といわれました。
 このようにあれよあれよというまに就職したら、出勤初日に「一か月後に社員旅行で台湾に行くからパスポートとってね」と申し渡されたのです。めまいがするような急展開です。思えば仙台から大阪に帰ってきたのが9月のはじめで10月には台湾です。そもそもその帰阪というのもなかなか普通ではなく、5日かけて(実質的には2日半)国道6号線と1号線を原チャリで走り抜いて帰ったのです。
 初日は6号線を仙台から水戸まで走り、ビジネスホテルに泊まりました。
 そして、「雨のルート6」という詩?をつくりました。

   雨のルート6

姥桜の「姥」は ウンババウンババ
今日俺は雨の中 ウンババ言いながら単車転がしたら
右折しそこねたものさ

今日もウンババ
明日もウンババ

 何でこんなくだらないものを書いてしまったのか、まったく記憶にありません。なのに暗唱できるというのがまことに不思議です。
 2日目は東京の友人の家に泊めてもらいました。
 3日目は東京でふらふらしていました。
 4日目は東京から1号線を関ヶ原まで突っ走り、関ヶ原駅舎の壁にもたれて眠りました。寝袋持っていたので。
 5日目にようやく大阪の実家まで。
って感じです。
 1号線をずっと原チャリで走るというのは恐怖以外の何ものでもありません。意地悪なトラックの運転手がいて、僕の原チャリの横を併走し続けるのです、わざわざスピードを落として、追い抜きもせず、地響き立てて。何であんなに根性ばばちゃんなんでしょう? いずれにせよ、静岡に入る頃には原チャリのエンジンが明らかに不調になり、スピードが落ちました。わざわざ箱根を迂回して休み休み走っていたのですが、それでもダメでした。

 は!? わたしったら何の話をしてるんでしょう? なぜ「雨のルート6」などという人生の恥部をさらしているんでしょう? 台湾の話はどこへ? というわけで、台湾の話は次回、その3で!

2022年9月28日 (水)

今こそ島への愛を語ろう①~台湾その1~

 只居ても腹は減る也春の雪   井月

 今は昔の話ですが、何もしたくなかった私は、ずるずると七年半近く(十八歳から二十五歳まで!)仙台にいました。「何もしたくなかった」というのは、今となってはそう思うという話で、仙台にいた頃の自分は、わしにはやりたいことがある! と信じていました。「ほしいものがほしいわ」という当時のパルコのコピーふうにいえば、「やりたいことがやりたいのだ」って感じでしょうか。「で、何がやりたいのだ」と自問すると、そのときどきで場当たり的な答えしか出てこないという、なかなか不毛な青春ではありましたが、開き直って、この不毛さこそ近代的自我の証やんけ!とかいーかげんなことを言うてました。一応演劇はやってましたが、あらためて考えてみれば、ほんとうに舞台がそんなに好きだったのか疑問です。なんだか多少の縁があってやることになったので、これこそわしのやりたいことだと思い込もうとしていたようなところがあります。
 絶対にしたくなかったのは仕事、つまり働くことです。就職しないまま大学を卒業してぼんやりしていると親からの仕送りも途絶え、やむなくアルバイトをして糊口をしのいでいましたが(親には「ふーてん」と呼ばれていました、当時は「ぷーたろう」といういい方もありました)、働かなければ生きていけないとはまたなんという不条理かと正直思っていました。旧約聖書の、アダムとイブがエデンの園を追放される話なんか読んで、やはり昔の人も「働かざる者食うべからず」という説教臭い命題に不満があって、それでこんな話ができたんだろうなと思っていました。
 サルが木の実や昆虫を食べたり、ライオンがシマウマを食べたり、ミミズが土を食べたりするのは労働でしょうか。栗本慎一郎(古い!)は労働だといってたような記憶があります。それを労働とみるならば、確かに「働かざる者食うべからず」を不条理というわけにはいかないでしょうが、彼らがやっていることは人間の労働とはずいぶんちがうような気もします。だって彼らは食うために苦労して働いているわけではなく、ただ苦労して食っているだけです。こういってよければ、彼らにとっては、「食べること」=「働くこと」です。さらにいえば、「食べること」=「働くこと」=「生きること」です。ぴったり重なっています。に対して、「働かなければ食べていけない」とか「食うために働く」といってしまった瞬間、「食べること」と「働くこと」は分離してしまいます。飛躍をおそれずにいえば、人間の不幸の少なくとも一部分は、目的と手段が分離してしまったことに起因しているのではないでせうか! いや、目的と手段だけではないかもしれません! 本来ひとつに重なっているべきことを何かの便宜のために分けて考えるようになったのがすべての不幸の源なのでは!? すいません、飛躍してますね、きっと!
 一方で、大学のサークルでマルクスの『資本論』を読んだりもしていて、マルクスの労働観にも惹かれるものがありました。マルクスは、頭の労働と手の労働が分離することによって労働は苦痛なものになるという意味のことを書いています(おお、ここにも「分離」が!)。工場で機械にとりついて働いている人々、生産計画に参画できずただただ手を動かし続けるだけの労働を強いられている人々のイメージですね。逆にいえば、それが分離していなければ労働は苦痛なものではないということになりましょうか。働くことは単なる苦痛ではなく、喜びにもなりうるということですね。当時の僕は働く喜びを知りませんでしたが、頭の労働と手の労働を分離させてはいけないという考え方は心に残りました。
 仙台に住んでいたにもかかわらず、仙台にゆかりのある詩人、尾形亀之助のことを当時知らなかったというのは、かなりの痛恨事です。亀之助を知ったのは、何かを諦めて帰阪し就職してからのことです。もっといえば、塾講師の仕事に本格的にやりがいを感じるようになった頃からです。それと同時に亀之助に惹かれ、少し遅れて井月の俳句に出会いました。
 亀之助ははっきりと「働かなければ食べていけないとはこのことかと、餓死して見せたっていいのだ」と、かなり振り切った(というか、いかれた)ことを書いています。井月は、ご存じの方は少ないと思いますが、幕末にどこからともなく尾羽打ち枯らした浪人の風体で長野の伊那に飄然姿を現し、そのまま死ぬまで伊那に住み着いた俳人です。

 落栗の座を定むるや窪溜り   井月

 書は後に芥川龍之介をして「神韻あり」とまで言わしめたほど、俳句の宗匠としても一流だったので、はじめのうちは大事にされたようですが、いつまでも居続けるのでだんだん疎まれるようになり、晩年は「乞食井月」と呼ばれ、近所の悪ガキに石をぶつけられるような存在になっていたそうです(後ろから石をぶつけられて頭から血を流しながら、ふり向きもせずに歩き続けていたという話です)。

(中略……いろいろ書いたのですが読み直して削除しました、てへ。井月も亀之助も毒が強すぎます)

 夏深し或る夜の空の稲光  井月

 僕が井月の言葉づかいで好きなのは、たとえば、冒頭の句の「只居ても」とか、この句の「或る夜」とかです。何もしたくなかった井月、何もしなかった井月、自分の人生を俯瞰していた井月を感じます。「只居ても」の句は、一茶の「むまそうな雪がふうはりふはりかな」を下敷きにしているのかなとも思いますが、なんというか、一茶には健全な食欲があるのに、井月は空腹は感じても健康な食欲は持たなかったのではないかという気がします。春の雪を見て一茶の句を思い出しはしても、「むまそうな」とは思わなかったのではないかなと思います。

 えーと、何の話でしたっけ? そう、台湾の話でした。何で井月の話なんかしてるんでしょう? 台湾に行った話をしようとしていたのですが、どう切り出していいかわからずすごく遠いところから話し始めたらこんなことになってしまいました。というわけで、台湾の話は次回、その2で!

2022年9月11日 (日)

有栖川宮詐欺事件

歌舞伎では、演者は違っても、基本的なセリフや動きは以前からのものが踏襲されます。ところが、たまに、その型を大きく変える人が出てきます。いわゆる「型破り」というやつです。落語にも講談にも『中村仲蔵』という演目があります。歌舞伎の世界では、血筋がものをいうのですが、そういう背景のない中村仲蔵という役者が、なんとか出世をして、『忠臣蔵』五段目の斧定九郎という役をふられます。これがあまりいい役ではありません。五万三千石の家老の息子なのに、どう見ても山賊の風体で、だれも見てくれません。なんとか工夫をしようと思って、神参りをつづけたある日、雨に降られて、そば屋で雨宿りしていると、浪人が駆け込んできます。その姿にヒントを得た仲蔵は、芝居の当日、前もって頭から水をかけ、その水を垂らしながら見得を切ると、場内は水を鬱打ったような静けさになります。失敗したと思った仲蔵は、江戸から逃げだそうとしますが、師匠に呼ばれて行ってみると、師匠は、あまりにすばらしさに客が声を失ったのだと仲蔵の工夫をほめてくれる、というストーリー。新しい「型」が生まれた瞬間を描いたお話です。

「忠臣蔵」の元になった赤穂浪士の事件についても、新発見があったと、所ジョージの番組でやっていました。討ち入りをした一人、近松勘六の家臣の家に伝わる文書が見つかったとか。吉良邸に討ち入って上野介の首をとったのですが、実はこれで終わったわけではないというのです。その首を高輪泉岳寺へ持って行ったのは、単に亡き主君にお目にかけるためではなく、最終目的は墓石を主君に見立て吉良の首に手を下させるということでした。脇差を墓の石塔に置き、名乗ってから焼香をし、脇差を取って上野介の首に三度当て、脇差を元にもどして退くという「儀式」を一人ひとりがやったというのです。つまり、墓石を生きている主君に見立てて、吉良の首を取らせたということです。浅野内匠頭の辞世の歌は「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとかせん」というもので、「風にさそわれ散っていく花も春を名残惜しいと思っているだろうが、もう二度と見ることのない春を名残惜しく思う私はどうすればよいのだろうか」というような意味でしょう。吉良上野介を討ち果たすことのできなかった無念さがにじみ出ていますが、浪士たちの行動はその無念の思いに対する「返し」の行為だともとれます。

古文書一つで定説や解釈が変わることがあるのですね。もちろん、これだけでは決定的証拠とはいえないかもしれず、傍証も必要でしょう。ただ、歴史学者が証拠にこだわるのも、こういうことがあるからです。小説家なら「空想」で自由に考えられるでしょうが、学者はそうはいきません。残っている文献から、ある程度「推理」できることでも裏付けがないと、「空想」だと言われます。その意味で、たとえば井沢元彦の『逆説の日本史』は、歴史学者から見たら「空想」になるのでしょう。いくら合理的な解釈に見えても「定説」にはなりにくいのですね。

ただ記録に残してはまずいものなどは文書として残らないのが当然で、そういうものは「推理」するしかないでしょう。今の時代でも、たとえば「モリカケ」や「桜を見る会」の真相がどうなっているかはわかりません。あったと言うからには証拠をださなければなりませんし、ないと言うほうは「悪魔の証明」で、ないものは証明できないと言います。殺人事件でも冤罪があるぐらいですから、「真相」というのは容易にわかるものではありません。信長殺しの真相は永遠の謎かもしれません。大河ドラマで光秀を主人公にすると聞いたときには「真相」をどうするつもりかと思いましたが…。

あのドラマでは、新型ウィルスの影響やら、濃姫役の沢尻エリカの降板やら、いろいろトラブルがありました。沢尻エリカの代役は誰がよいか、というアンケートもよく見ましたが、なんと「安倍晋三」という答えもありました。長い髪のかつらをかぶった安部さんの姿を思い浮かべると笑えるのですが、意外に似合っていた気がしないでもありません。歌舞伎では男が女を演じるのはあたりまえですが、アップの顔が映し出されるテレビではなかなか苦しいものがあります。女が男を演じるのも同様ですが、昔、大河ドラマの『太平記』では後藤久美子が大塔宮を演じていました。きりっとした若武者という感じで評判は悪くなかったと思います。

この「大塔宮」というのは、後醍醐天皇の皇子である護良親王のことですが、「大塔護良親王」をどう読むかが問題です。「だいとうのみやもりながしんのう」で覚えていたのですが、後藤久美子は「おおとうのみやもりよししんのう」と呼ばれていました。「大塔」を「おおとう」と読むと、いわゆる湯桶読みで、やや不自然ですし、高野山の「根本大塔」も「こんぽんだいとう」ですから、「だいとう」と読みたくなります。ところが、何かの史料で「応答宮」と書かれているのが見つかって、「おおとう」が正しいということになったようです。「護良」も「良」を「なが」と読むのはよくあります。比較的新しいところでは、昭和天皇の皇后は「良子」と書いて「ながこ」だったはずです。ところが、これも何かの史料で、「護良」の兄弟でやはり「良」の字を使っている人がいて、これにたまたま「よし」というふりがなが書かれていたそうな。兄弟で読み方がちがうことはないだろうということで、「もりよし」に決まったようです。

よく幕末から維新のころを描いたドラマで、官軍の行進にあわせて「宮さん宮さん お馬の前にひらひらするのは何じゃいな あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じゃ知らないか トコトンヤレトンヤレナ」と歌うのがあります。日本最初の軍歌であり、日本最初のマーチでしょう。作詞は品川弥二郎、作曲は大村益次郎ということになっています。この歌詞に登場する「宮さん」は有栖川宮熾仁親王です。和宮と婚約していたのに、徳川幕府の公武合体政策によって、和宮は14代将軍家茂と結婚することになります。最終的には、徳川家をつぶしたい薩長の挑発に乗ってしまった旧幕府軍は戦端を開き、戊辰戦争が勃発します。このときに熾仁親王は自ら東征大総督となることを志願して、勅許を得ます。その新政府軍が東海道を下ってゆくときに歌われたのが「宮さん宮さん」ですね。のちに詐欺事件として名前が使われることになるとは、宮様、夢にも思っていなかったでしょう。

2022年7月 3日 (日)

屋久島

屋久島の海岸近くの道を歩いていると、宮浦小学校という学校があり、校門のところに、

「知恵出せ、汗出せ、力出せ」

と書いてありました。じつにいい言葉ですね。ひとつめが「知恵出せ」となっているところがとても良い。『ジョジョの奇妙な冒険』でも、主人公たちが知恵を出し工夫を凝らして難敵に立ち向かうところが面白い。あえて僕の好みでアレンジさせていただくなら、「知恵出せ、汗かけ、力ぬけ」って感じでしょうか。ここ数年の座右の銘が「肩の力をぬけ」なので。

さて、なぜ屋久島の海岸沿いの道を歩いていたかというと、当たり前の話ですが、屋久島に行ったからです。定番の縄文杉を見て、九州最高峰の宮之浦岳(1936㍍)に登りました。ちなみに、2年前には北海道の利尻山(1721㍍)に登りました。「岳」「山」のちがいが示すとおり、利尻山はほんとうに利尻山だけが単独で海から突き出しているのですが、宮之浦岳はいろいろな山に取り囲まれてびっくりするほど懐の深い山でした。

まるで大学生のような貧乏旅行が好きな私は(そうです、好きでやっているのです)、バスと船で屋久島まで行ったのですが、でもさすがにこたえました。大阪から熊本まで夜行バスに乗り、熊本から鹿児島まで高速バスに乗り、鹿児島から屋久島までフェリーに乗りました。日曜の晩に大阪を発って、火曜日の朝にようやく屋久島に着いたわけです。それだけでもうふらふらです。したがって、何時間も歩いて縄文杉の近くの山小屋に到着したときは、もうほんとうにぐったりしていました。それなのに、なんという痛恨事! ビールを買うのを忘れていました。とほほ。

山小屋に泊まったのは、僕と、ガイドつきのおじさんでした。僕がさっさと一階に陣取っていたため、ガイドのおにいさんとおじさんは二階に上がりました。もちろん、山小屋ですから、個室とかそういうのではありません、ただの板敷きが三つのフロアに分かれているだけです。上のフロアにははしごで登ります。

僕がエースコックのワンタン麺にアルファ米をつっこんでわびしく食べていると、上のフロアからガイドさんが食事の支度をする声が聞こえてきました。「今日のメインはカレーです」「ははあ、カレーですか」「で、まずはこちらですね。水菜となんとかかんとかのサラダですね」「はいはい」「それから、こちら焼きますね」「それは」「カマンベールとなんとかのなんとかかんとかです」そしておそろしくいい匂いが。

うーん。すごい差でした。ちなみに次の日の私のメインは、サッポロ一番塩ラーメンにアルファ米をつっこんだもので、その次の日の私のメインは、インスタントの焼きそばにアルファ米をつっこんでそばめし風にしたものでした。ええ、好きでやっているんです。

ガイドつきのおじさんは縄文杉の写真を撮るのが主目的だったらしく、次の日、下山していきました。私は荷物を山小屋にデポして、宮之浦岳に登りました。

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素敵でしょ? 屋久島シャクナゲの群落も素敵でした。

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そして屋久シカがおいしそうでした。(ジビエが大好きなので。)

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一応縄文杉も。よくわからないと思いますが。

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結局、山の中にのんびり三泊して下山し、冒頭の宮浦小学校前を通り過ぎて、空港まで行きました。さすがに帰りは飛行機で帰りました。空港の食堂でシカ食べました。あんなにかわいいシカを食べるなんて、と思われるかもしれませんが、おいしいんです。

2022年6月24日 (金)

対馬

高校2年生のときの担任が日本史の先生で、「対馬がすごく良い」と熱弁するので、友人と三人で夏休みに対馬に行きました。私の両親は割合あっさりと許可してくれましたが、M君はなかなか親を説得できず苦労していました。

「ソ連領だから絶対ダメだって言うんだ。」「おま、それ、千島とまちがえてるんじゃ」

誤解がとけると許可が下り、我々は喜び勇んでテントを背負って出かけました。しかし、実は私は直前の演劇部の合宿で激しい脱水症状に見舞われ(ノロにやられたときの比ではなく、あんなに吐いたのは後にも先にも経験がありません)、かなりふらふらの状態でした。

ところで、私が何で突然対馬の話をしているかというと、前回の(といってもはるか昔ですね)丹後半島の話で、「田舎の人は親切だ」ということを経験上知っていたということを書きましたが、まさにその認識の原点となる旅だったからなのです。

比田勝港で船を下り、厳原まで歩いたのですが、歩き始めてすぐに赤い車に乗ったあんちゃんに、「どこまで行くんだ、乗せてやろうか」と声をかけられました。

夕方になってテントを張る場所をさがしていたら、暇そうなおじいさんが村の人々が使用しているグラウンドまで案内してくれました。テント設営になれておらず、地面もかたくてペグダウンに苦労していたら、その辺でたむろって酒を飲んでいたらしいヤンキーな人たちが「何をしてるんだ」と近寄ってきて、すごい勢いでペグを地面に打ち込んでくれました。話を聞くと僕たちより一つ年下で、鉄工所で働いているとのことでした。

翌朝、何だか人の気配がするなあと思ってテントから顔をだすと、村の人たちがテントをぐるりと囲んでラジオ体操をしていました。

はずかしかったね、と言いながらまたもやてくてくと厳原に向かって歩いていると、向こうからスーパーカブに乗った人が近づいてきて、「君たち、昨日○×でテント張った人でしょう。おれ、ここに住んでるんだけど」と紙を渡してくれ、「近くに来たら連絡して。泊めてあげるから」と言って、Uターンして去っていきました。昨夜のおじいさんの息子さんだったのです。わざわざそれだけ伝えに、何十分もかけてスーパーカブでやって来てくれたのです。

その日テントを張ったのは神社のそばでしたが、あやしい三人組がテントを設営しているのを見た近所のおばさんが、クリームシチューの入った鍋を持って来てお裾分けしてくれました。

さらに翌日、図々しい我々はスーパーカブのお兄さんの家に泊めてもらいました。晩ご飯は皿うどんでした。おにいさんは病院の食堂で調理師として働いているとかで、とてもおいしゅうございました。風呂にも入れてくれました。朝ご飯はトーストにジャムをぬったものでした。

厳原の郵便局に立ち寄ると、局員さんが奥の部屋でアイスを食べさせてくれました。厳原のスーパーで買い物をすると、レジのおばさんが一本ずつ缶ジュースをくれました。

とにかく目眩がするほど親切なのでした。だれにも、何一つ、恩返しできていません。せめてこれから出会う人には親切にしたいものです。まあ、できる範囲で、多少は。

2022年5月22日 (日)

孝玉コンビ復活

古い言い伝えが、時代がたつにつれて「伝言ゲーム」のようになっていくことがあります。伝わるうちに、元の形とは似ても似つかないことになっているかもしれません。そういう意味で、半村良の『庄ノ内民話考』という作品は、なかなかおもしろかった。東北の「庄内」を思わせる名前ですが、実は「しょうもない」という意味の「庄ノ内」地方に伝わるいくつかの民話を紹介するという形式になっています。たとえば、妙な風体をした旅人を相手に、石ころと黄金を交換して長者になる話。いかにも「よくある」ですが…。あるいは、やはり妙な風体をした男が座っていた奇妙な腰かけに村の子供が座り、どこかに手が触れると、それが宙に浮いて飛んでいった話。村に迷い込んできた、しゃべれない男をあわれんで、走り使いをさせて食べられるようにしてやろうと用事を言いつけると、昼夜分かたず寝ないで働き、誰よりも長生きしたという話。さらに、あるところの石段の、ある石を踏むと、見知らぬ遠い場所に行けるという「どこでも石段」の話。最後に「あとがき」がついており、実はこれらは、大昔、宇宙人がやったきたことを表しているのではないかと解説されます。彼らの目的は交易であり、妙な腰掛けは彼らの乗ってきたロケットの脱出用装置だったのではないか。かれらを手伝うアンドロイドがいたり、瞬間移動装置まで持っていたりしたのではないか…。もちろん、「あとがきの仮説ありき」で、半村良は、それらに沿った、それらしい民話を創作しているのです。

実際に、神話や伝説の中に古代の事実の記憶が残されている場合もあるでしよう。神話に含まれる真実として有名なのが「ノアの方舟」の洪水ですね。記録に残らない真実というものがたくさんあったはずです。中には、当たり前すぎて書かないものもあったでしょうし、書くとまずいので書けないものもあったかもしれません。書かれていない部分は、書かれているものをもとにして、ある程度「推理」しなければならないわけですが、どこまでが「推理」で、どこまでが「想像」になるのかが難しい。つまり、歴史解釈で「想像」はどこまで許されるか、ということです。

どう解釈するかは人によってちがって当たり前でしょうし、新しい事実が発見されると解釈も変わってくることがあるでしょう。鎌倉幕府の成立をいつと見るか、というのはたしかに解釈の問題です。あるいはどう定義するかのちがいでしょう。事実は一つですが、真実は、となるとなかなか難しい。世の中には「陰謀論」というものもあります。公式のものをひっくり返すおもしろさがあるので、人をひきつけるのでしょう。いわゆる「偽史」も同様です。そもそも、小説の中には「ほら話」と言ったほうがよいものもあります。SFのおもしろさはそこにあるのでしょう。

昔、NHKでやっていた『タイムトンネル』というドラマはなかなかおもしろかった。アメリカの砂漠の地下にある研究所で、タイムトラベルができるトンネル装置がつくられます。ただ、未完成の段階で一人の科学者がトンネルに入ってしまい、それを追いかけたもう一人の科学者とともに、もどれないまま過去と未来をさまようという設定で、一話ごとに別の時代、別の国に行くことになります。この設定はイージーですが、秀逸です。毎回ちがうドラマが展開されるのですから。ふしぎなことに、古代のギリシアやイスラエルに行っても、セリフはすべて英語だったようです。日本語に吹き替えられていましたが、元々は英語だったのでしょう。つまり科学者たちは、モーセであろうが,クレオパトラであろうが、英語を使ってコミュニケーションをとるわけです。その時代は英語そのものも生まれていないと思われるのですが。しかも、なぜか歴史上の有名人に出会ってしまうのが、ご都合主義まるだしです。でも、そこがワクワクさせるツボですね。

タイムトラベルものがうけるのは、「過去を変えられたら」とか「未来を知ることができたら」とかが人間の願望の一つだからでしょう。昔あった、ドリフの「もしものコーナー」も同じかもしれません。「もしも威勢のよい銭湯があったら」とかいうテーマで、いかりや長介がずぶぬれにされて「だめだ、こりゃ」でしめるやつです。あれは、単純明快で、多くのコントの原点とも言えるものでした。理屈ではなく設定だけで笑わせるのがすごい。泣かせるのと笑わせるのとでは、どちらが楽かという話がよくありますが、やはり笑わせるのは難しいでしょう。笑わせようとして笑ってくれないと、いやな雰囲気になって、ますます笑えなくなります。

その点、合格祝賀会のお客さまはよいお客です。みんな笑ってやろうと待ち構えていますから、しょうもないダジャレでも笑ってくれます。中島らものホラーをベースにしたのをやったことがあります。ホラーと行っても中島らもなので初めのうちは笑わせるのですが、だんだん怖くなってくるというパターンです。合格祝賀会ということでホラーテイストをおさえぎみにしたせいもあって、かなり笑ってくれました。元ネタは「こどもの一生」という作品で、何度か上演されています。私はおそらく初演のものを見ていると思います。出演者はだれだったか。たしか升毅や生瀬勝久が出ていました。「山田のおじさん」役は古田新太ですね。そのときにはたいしたことのない配役のように思えても、何年かたつと実はすごかったという場合があります。「ルーキーズ」というドラマでは、佐藤隆太、佐藤健、市原隼人、桐谷健太、城田優、中尾明慶、小出恵介らが出ていましたし、ある洗剤のCMでは、松坂桃李、菅田将暉、賀来賢人、間宮祥太朗、杉野遥亮が出ています。このCMが初めて流れた頃には、そこそこ売れ出した若手俳優という位置づけだったのに、今や主演級になっています。

「こどもの一生」は上演のたびに配役も変わりましたが、歌舞伎でも当然のごとく変わります。「東海道四谷怪談」を仁左衛門と玉三郎でやる、ということになれば集客力はいかばかりか。去年再演 されたのが、なんと38年ぶりの「孝玉コンビ」復活だったのですね。東京での上演だったので、最近になってテレビで見たのですが、…二人とも年をとってしまいました。それでも、玉三郎のお岩はやはりよかった。お岩さんをやるときには、「お岩稲荷」にお参りに行くことになっているらしいですね。お岩さんは実在の人物で、この神社にお参りに行かないと祟りがあるのだとか。お岩さん、さすがに日本最強の幽霊です。玉三郎も行ったのかなあ。

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