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2012年5月 9日 (水)

頭がすっきりする本

その本を読むと、頭が冴え、人と話すときには言葉が、仕事をするときには考えが次々にわいてくる、そんな本がないかしらと物色中です。

実は、それに近い経験がないわけではありません。

もう十年以上前の話ですが、野家啓一先生(東北大学の哲学の教授です)の本をつづけざまに読んでいたとき、「最近、妙に調子がいいなあ」と感じました。本の内容は難しくて半分もわからないんだけど、とにかく読んでいて気持ちがいいし、人と話をしていても(比較的)切れの良い受け答えができる(ような気がする)。

そういえば、『資本論』を読むと頭が冴える、という話は昔よく聞きました。フランスの文化人類学者、レヴィ=ストロースが仕事の前に『資本論』を読んでいたとかいう話もありました。確かに、『資本論』はそういうところがありました。ただし、僕の場合、自主ゼミで3時間ぐらい「あーでもないこーでもない」とやった直後は疲労困憊してしまっていつも頭がぼんやりしていたような。

うん、でも、確かにある種の本に関しては、少なくとも読んでいて気持ちがよく、「頭が冴える」とまでは言わなくとも、「頭がすっきりする」、そういうことはありますね。

僕にとっては、ダーウィンの『種の起源』もそういう本のひとつでした。

最近読んだのでは、進化生物学者グールドの『人間の測りまちがい』とか、廣松渉の『資本論の哲学』もそういうところがありました。

『人間の測りまちがい』と『資本論の哲学』は続けて読んでヒットだったので、すっかり気を良くしてしまい、これからは、こういう本ばかり読むぞ~と決めたわけですが、次に選択したクラウゼヴィッツの『戦争論』はいまいちでした。

『戦争論』は論理的に書かれているし、体系志向だし、絶対いけてるはずだと思ったんですが、少なくとも僕にとってはあまり気持ちよくなくて、途中でやめてしまいました。

何でだろう?

で、ひとつ考えたのは、本の書き方が、対話的かどうかってことがポイントなんじゃないかということです。上述の『資本論の哲学』は実際にはじめと終わりの部分が対話形式で書かれています。『人間の測りまちがい』は形式上は対話形式ではありませんが、ある種の傾向を持つ学説に対する反論として書かれているので、とても対話的なんです。これが、僕にとっては大きいような気がします。

他の人もそうなのかどうか知りませんが、僕はものを考えるときに、対話のかたちで考えることがよくあります。

実際に相手を思いうかべ、相手の言葉―自分の言葉―相手の言葉―自分の言葉―というふうに、相手が言いそうなことを想定しながら考えていきます。思いうかべる相手は、だいたい実在の人物です。わりと親しい(優秀な)友人や、言い負かしてやりたい知人、場合によってはすごく嫌いな人など、その都度適切な相手を(いつのまにか)思いうかべて、頭のなかで会話しています。

これは小学生の頃からの癖ですね。

家のトイレでふんばっているときなんかに、もうひとりの自分と架空の対話をしていた記憶があります。

「くそう、出ねえな、おまえどう思う?」

「どう思うって言われてもねえ」

とかなんとか、たぶん、実際にぶつぶつ声を出してやっていたと思いますね。ひとりっこだったので、話し相手がおらず、そういうふうになったんでしょうね。

これは憶測ですが、そういうふうに対話的にものを考える癖のある人は、国語が得意なんじゃないでしょうか。そういう人は、少なくとも言葉と言葉のやりとりというかたちでものを考えているわけで、概念的思考がある程度発達するような気がします。もちろん、そういう人だけが国語ができるという意味ではありませんが。

この「対話」の問題は、もう少し考える価値がありそうな気がしますね。よし、今読んでる本を読み終わったら、その筋の本を読んでみようっと。確か、バフチン(というソ連の文芸評論家)の本に、その関連のことが詳しく書かれていたはず。売らずにとっておいて良かった。

でも、バフチン読んで頭すっきりしたことあったっけなあ?

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