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2019年7月の2件の記事

2019年7月21日 (日)

和製和語

「歴史」と見るにはあまりにも「トンデモ」な話は結構あります。でも、「トンデモ歴史」はおもしろい。インドの「アスカ」という土地に住んでいた人々が日本にやってきて、「飛鳥」という土地に住み着き、新しい文明を築いたあと、この人たちはさらに北上し、「アラスカ」を経由してアメリカ大陸へ渡ります。そして、メキシコあたりで「アステカ」文明を築き、さらにペルーの「ナスカ」でまたもやすごい文明を築きます。「ナスカ」という名前は、打ち消しを表す「N」をアスカに付けて、もはやアスカではないと宣言したのだ、という「説」は、単なるだじゃれとは思えないぐらいの「出来」です。義経ジンギスカン説も、かなり無理があるものの非常に魅力的です。光秀天海説も荒唐無稽とかたづけるにはしのびない。「蘇我氏はローマ人」とか「平家はペルシャ人」となると、さすがにどうかなと思いますが、夢があることはたしかです。古田武彦の「邪馬台国はなかった」は、本当になかったと言っているのではなく、「台」の字についての「つっこみ」です。「台」は「臺」の略字ですが、「壱」の旧字体(「匕」の部分が「豆」になっているやつです)を使っているので「ヤマタイ」ではなく「ヤマイチ」のはず、という説です。

そういえば、教科書に載っている志賀島の金印の実物を見ました。百姓の甚兵衛さんが発見したやつですね。いやー、実物は小さかった。金印を中国からもらうのは、国の評価としてはかなり高いはずで、奴国というのは一目置かれていたのでしょうが、それにしても小さい。展覧会では人が多すぎて近くで見られませんでした。列が二種類あって、早く見られるコースとじっくり見られるコースがあるのですね。後者は展示されている金印のそばまで行って見られるのですが、当然回転が悪いので、行列がなかなか進まず、時間がかかる。前者は早く見られる代わりに遠目で見るというコースでした。それでも、見たという満足感はあるのですね。見に来ているおばちゃんたち、歴史に興味がありそうでもなく、話のタネに見に来たという感じでしたが、この満足感はテレビでは得られないのですね。テレビならアップで細かいところまで、しかもいろんな角度で見せてくれます。おまけにくわしい解説付きです。でも、実物にはかなわない。

野球はどうでしょう。テレビで見るほうが圧倒的に情報量は多いし、スローモーションまで見せてくれます。でも、わざわざ甲子園にまで行くのですね、おろか者どもは。たまにラジオを聴きながら観戦している人がいて、この人の心理はわかります。目の前でリアルに見ているものを耳から実況中継で解説してもらえるのですから、こんなありがたいことはない。でも、歴史に残る名シーンに現場で出くわすチャンスは滅多にないので、どうしてもテレビで見たものに限定されてしまいます。伝説のバックスクリーン三連発(実は掛布のはバックスクリーンではなかったらしいのですが)もなかなかのものですが、オールスターでの9連続奪三振というのは見てて興奮しましたね。3イニングしか投げられないわけですから、この記録は破られることがないわけです。しかも、江夏は前もっての新聞取材で、9連続奪三振を予告していたらしい。その江夏が日本シリーズでやったスクイズ外しもすごかった。本にもなっているぐらいです。山際淳司の『江夏の21球』ですね。見ているときから、これはすごいと思ったわけですが、後の時代からふり返ってみれば歴史的大事件なのに、その当事者であるときには、そんな風に感じていなかったこともあるかもしれません。秀吉が中国大返しをしているときの下っ端の家来たちは、なんだかわからないままに走っていたでしょう。でも、実は「その時歴史が動いた」だったわけで、神ならぬ身の知るよしもなかった、というやつです。

この「神ならぬ身の知るよしもなかった」というような定型のことばもよく見ますね。感動モノのアメリカ映画は必ず「全米が泣いた」、「上映中」の上には必ず「絶賛」が付きます。「絶賛○○中」は、いろんな場面で使われます。「絶賛発売中」なら、なんということもないのですが、講師に注意を受けている生徒を見て、友達が「絶賛しかられ中」と報告したのは、なかなかオサレでした。こういう「定型」はよく「ステレオタイプ」と言いますが、これは「ステロタイプ」が正しいという人がいます。たしかに「ステレオ」では両方から音が出てくる感じがします。「ステロ」は「固定した」という意味であるらしく、それならば「スチール写真」の「スチール」とも関係があるかもしれません。動画のビデオカメラに対して、静的なカメラは「スチールカメラ」になります。

「スチール」は「鋼鉄」の意味もありますが、綴りはちがいますね。「ホームスチール」の「スチール」は「盗む」意味になります。「ステマ」は「ステルスマーケティング」の略ですが、「ステルス」は「隠密」とか「こっそり行うこと」という意味なので、「スチールカメラ」と関係がありそうですが、無関係なのでしょうね。「ステルスマーケティング」は、企業の人間が第三者のふりをして、自社の商品などを宣伝することで、「ステルス戦闘機」はレーダーに捕捉されず、敵に気づかれにくいということですが、「ステルス値上げ」ということばもあります。いつのまにか昔に比べて小さくなっているのに、同じ値段だったりするのは、ステルス値上げです。誰も気づかないうちに、こっそりと値上げしてしまうという、とんでもない代物です。

「ステマ」は省略形というせいもあって、耳で聞くと外来語という感じがしません。外来語と知らないで使っていることばも結構あります。「さぼる」とか「だぶる」などがそうですが、反対に外来語だと思っているものが、実は「外来」ではない「和製英語」ということもあります。野球用語などはほとんど和製らしい。「トランプ」は切り札であって、あのカード全体をさすのではないということは有名ですね。アメリカの大統領も、自分は切り札だと思っているのでしょう。「ジェットコースター」も何か噴射して加速していく、というイメージの造語であり、海外では通じません。「ノートパソコン」は「ラップトップ」でしょうね。だいたい「パソコン」ということば自体が和製英語だから、海外では通じないでしょう。和製英語は「コンセント」のような一単語のものもありますが、「アットホーム」「アフターサービス」「オーダーメイド」「スキンシップ」のような二単語のものが多いようです。「クウトプーデル」は和製和語ですかね。

2019年7月 7日 (日)

なつかしの大映ドラマ

前回のタイトルの『聊斎志異』は中国清代、蒲松齢の短編小説集です。私は高校生のころに、柴田天馬という人が訳した角川文庫版で読みました。何巻かあったと思いますが、表紙がなかなか味のある絵で、雰囲気を出していましたねぇ。芥川龍之介の『酒虫』は『聊斎志異』が元ネタになっています。ある金持ちが大酒飲みなのに、全く酔うことがない。一人の僧に、酒虫が体の中にいるせいだと言われます。退治を頼まれた僧は、水の中に酒虫を入れるとうまい酒になると言って、酒虫をもらって帰ります。一方の金持ちは酒が嫌いになったが、やがて痩せおとろえ、貧乏になった。という話。太宰治も書いています。菊の精が登場する『清貧譚』はラサールの入試にも出ました。『竹青』という、カラスと結婚する話もあります。圓生の「水神」という話は、菊田一夫が書いたものですが、やはりカラスの嫁さんをもらう話で、日本が舞台ではあるものの『聊斎志異』に元ネタがあってもおかしくないようなストーリーでした。

国枝史郎に話をもどすと、題名だけは知っていたのですが、ある時期まで入手困難でした。大正の終わりごろの作品ですから、こういう系統のものはなかなか復刊されなかったのですね。それが五十年ぐらい前に復刊されて、三島由紀夫あたりから大絶賛を受けます。それをきっかけとして、小栗虫太郎、夢野久作、久生十蘭らの「怪奇幻想もの」ブームが起こることになります。『神州纐纈城』は、青空文庫でも読めるはずです。大風呂敷を広げすぎて、未完になっていますが…。ちなみに、『銀河英雄伝説』シリーズで名高い田中芳樹にも『纐纈城綺譚』という作品があります。「宇治拾遺物語」に、慈覚大師円仁が、中国の纐纈城に行くという話があって、その後日談として書かれたものです。国枝が「神州」としたのは、「神の国」つまり「日本」にもあった纐纈城という意味にしたのでしょう。この『神州纐纈城』のようなものを書きたかったのが、SF作家とされる半村良です。

半村良の代表作と言えば、なんといっても『産霊山秘録』でしょう。主人公は「ヒ」と呼ばれる一族です。天地が開けたときに現れた三神のうちのタカミムスビの直系ということになっています。「ムスビ(産霊)」は生成を意味するので、「創造」を神格化した神と言えます。つねに皇室の危機を救ってきた一族で、室町時代には「日野家」の支配下に置かれ、やがて山科家の元で忍びの者として暗躍していきます。SF的なのは、この一族が一種のテレポーテーションの力を持っているということで、神籬をつないで飛べるんですね。神籬は「ひもろぎ」と読みます。「ひ・もろぎ」で、「ひ」は「ムス・ヒ」の「ヒ」ですね。のちには、神社で神様を祀るのですが、それ以前の、山や海、樹木や岩など自然の万物に神が宿ると信じていたころ、神が降臨するための依り代となるものが「神籬」です。

戦国末期、足利家の力が弱まり、皇室に災いが降りかからないようにするため、織田信長に天下をとらせようとして「ヒ」が動きはじめます。明智光秀は一族なんですね。ところが信長は比叡山焼き打ちという挙に出ます。「比叡」は「ヒ」にとっては最も神聖な土地だということになっています。光秀たちは、ヒが歴史に干渉しすぎたために、その反動である「ネ」という力が働いたと考えます。自分たちが支援しようとした信長をこのままにしておいては皇室にあだなすことになる、と見た光秀はやむをえず信長を殺すことになりました。光秀と兄弟である天海はヒの一族の長であり、徳川家康を補佐していきます。神籬ネットワークの中心になる「芯の山」を作ろうとして天海が選んだのが二荒山日光です。

『産霊山秘録』はさらに江戸時代に話が広がっていきます。鼠小僧もヒの一族だし、光秀の子孫である坂本龍馬も、なんと新撰組までもがヒの末裔として登場してきます。そして、昭和20年3月10日、東京大空襲のさなか、ヒの一族の若者が400年前の世界から飛んでくる…、という、最後はもう何がなんだかわけがわからない展開になってしまいます。『妖星伝』も大長編で、時は江戸時代中ごろ、田沼意次の時代です。土着的な信仰であった「鬼道」が仏教に排斥され、その怨みを晴らそうとして世を乱す、というような設定で始まるのですが、人は何のために生まれて来たのかという「哲学」的内容になっていって、その答えがなかなかひどい。これもやりたい放題やって収拾がつかなくなったという作品です。『黄金伝説』は、遮光器土偶や火焔土器を手がかりとして、政財界の黒幕の秘密をさぐっていく話ですが、十和田湖畔の大洞窟にたどりつき、そこに眠る黄金の山を発見します。そこに、キリストの墓伝説などもからんでくるのですね。

「竹内古文書」というものがあって、そこに「イスキリス・クリスマス」という名前が出てくるらしい。ゴルゴダの丘の十字架上で死んだのは弟のイスキリであり、兄は日本に逃げてきたそうですな。で、その墓を竹内巨麿が青森県の戸来村で発見したということです。「竹内古文書」には、ほかにもムー大陸やアトランティス大陸を思わせる記述もあり、太古の昔、空飛ぶ船に天皇が乗って世界中を巡行した、なんてことも書かれているそうで、完全にSFに分類できそうです。

両面宿儺(「りょうめんすくな」と読みます)は、SF作家豊田有恒の『両面宿儺』という小説にも登場しますが、もともとは日本書紀に出てきます。仁徳天皇の時代に飛騨に現れた鬼として描かれています。身の丈六尺、一つの胴体に、それぞれ反対側を向いている二つの顔があり、手足が4本あったと言います。いかにもSF的です。ただ、合理的に考えるなら、いわゆる「シャム双生児」だったのかもしれませんし、そこまでいかなくても、ふたごの頭領をいただく武装集団で、朝廷にしたがわない豪族だったのかもしれません。アテルイやシャクシャインのような存在だった可能性もありますが、ローマ神話のヤヌスに似ています。ヤヌスは一年の終わりと始まりの境界に位置し、両方を見るために顔が前後に二つあります。入り口の神、物事の始まりの神でもあるので、1月の守護神になりました。英語のJanuaryは「ヤヌスの月」ということを意味します。『ヤヌスの鏡』という漫画原作のドラマは、まじめな優等生の少女の中に隠れていた別人格が登場してくるという話でした。二つの顔が交互に現れ、不良少女が暴走族相手に大暴れしたりするのは、いかにも「大映ドラマ」でしたな。

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