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2019年6月の2件の記事

2019年6月22日 (土)

聊斎志異もおもしろい

「ハイブロー」は実は「ハイブラウ」が正しい、と細かいことを言う人がいます。外来語の正しさというのは微妙で、「スムーズ」は「スムース」と言う人もいます。「スムーズ」が元の発音に近いようですが、綴りからは「スムース」もいけそうです。どちらにしてもカタカナで書いた時点で元の発音とはズレているので、そっちはまちがいだという批判は通用しません。外来語を減らして、日本語を作ってでも言いかえていこう、という動きがありましたが、あれはどうなったのでしょう。結局外来語はなかなかやめられません。世の中には小池百合子さんのように外来語好きが多いようです。もちろんPC用語のように、外来語を使わざるを得ないというものもあります。それでも、「インストール」とか「リストア」なんてことばを初めて聞いたときには意味不明でした。「バイト」と「ビット」も区別がつけにくかった。でも、使うしかない。日本語にない概念は外来語でなければ表現のしようがなかったのでしょう。

日本語でも、そのことばでなければ表現できないという場合があります。「せつない」は「悲しい」では感じが出ないし、「わびしい」は「さびしい」とはちがいます。「わびさび」とひとまとめにしますが、明石散人によると「幽玄・わび・さび」がセットになるそうで、それぞれ「誕生・経過・滅びの美」を表すのだとか。「幽玄」というのは、ものが生まれたときの新しい状態のことで、金閣のように金を使っていて古びないものもあてはまるらしい。それがだんだん古びていく状態が「わび」で、イメージとしては銀閣でしょうか。「さび」は、その古びてきたものが朽ちてゆく状態なので、「荒れ寺」のイメージだと言います。いずれにせよ、共通する要素は「変化」ですね。どうも日本人は「変化」が好きなのかもしれません。移ろいやすいもの、無常を感じさせるものに心ひかれるようです。

「時間」を定義すると「変化の量」だと言った人がいました。たしかに「時間」は定義しにくい。「生命」も定義がむずかしいかもしれません。「物質」ではなく、いわば「過程」みたいなものですし、自然科学的な定義と哲学的な定義とではちがってくるでしょう。「自己を維持しようとして代謝をするもの」が生物だとしたら、コンピュータウイルスはあてはまらないようですが、「同じようなタイプのものを自ら再生産するもの」とするなら、コンピュータウイルスも生物なのかもしれません。ホーキングは「コンピュータウイルスは人間が作った生命体だ」と言っていたような気がします。サイボーグは脳の死で終わるという意味で生命があると言えそうですが、完全なロボットはどうなのでしょう。人工知能、AIという言い方をすると生物ではないようですが、いわゆる鉄腕アトム型のアンドロイドのように、人間にしかできなかったような高度に知的な作業や判断ができるようになっても「生きている」とは言えないのでしょうか。アトムが動けなくなったら、それは「死」なのか。「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」という疑問が生まれるのも当然でしょう。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』は、フィリップ・K・ディックの五十年ぐらい前の作品です。第三次世界大戦後という設定で、火星から逃げてきた何体かのアンドロイドを賞金稼ぎの男が発見して廃棄処分にするという話です。その時代、自然が壊滅的な状態になっていて、わずかに残った生物は保護されているのですが、本物そっくりの機械生物も作られています。そして、「人造人間」までもが生み出されています。この「人造人間」には「感情」や「記憶」があり、自分が機械であることに気づいていないものもいるのですが、これは「生きている」と言ってよいのでしょうか。ちなみに、この作品が原作になっているのが、リドリー・スコットの『ブレードランナー』という映画で、ハリソン・フォードが主役でした。ただ、原作とは内容的にかなりちがっています。リドリー・スコットは『エイリアン』の監督ですが、『ブラック・レイン』も撮っています。あちこちで水が滴り、蒸気が噴き出る演出はどちらにも共通してますが、『ブラック・レイン』では、十三の栄町商店街も効果的に使われていて、見慣れた街ではないような感じでした。

同じ監督の『プロメテウス』は、『エイリアン』の前日譚という設定でした。古代遺跡を調査するうちに、人類の起源と結びつくかもしれない謎の惑星の存在が浮かび上がり、宇宙船プロメテウス号に乗った科学者たちは、その惑星で切断された巨人の死体を発見します。調査の結果、巨人のDNAが人類のDNAと同じであることがわかるのですが、果たしてこの巨人が人類の創造主であるのか…というところから話が始まります。生物の起源は宇宙からやってきたものなのでしょうか。ミトコンドリアというのはもともと独立した細菌だったのが、別の原始的な細胞に飲み込まれ、複雑な生命に進化したという説がありますが、ミトコンドリアがじつは宇宙生物つまりエイリアンだったというSFがあったような…。

SFは「サイエンス・フィクション」ですが、「科学的要素」は絶対に必要なのでしょうか。「伝奇小説」というものがあります。本来、中国の唐から宋の時代にかけて書かれた短編小説のことを言いました。それ以前は志怪小説と呼ばれていました。超自然的な話を記録的に記したものなので、「取るに足りない話」という意味で「小説」と言われたのですね。それが複雑な物語となっていったのが「伝奇小説」で、そのうちに必ずしも「怪」を描かないものも登場してきます。日本でも、その影響を受けて伝奇物語が生まれます。その最初のものが現存最古の物語『竹取物語』で、これはまさにSFと言ってよいでしょう。『宇津保物語』は琴の秘曲にまつわる物語ですが、主人公が杉の木のうつぼで生活していたという妙な設定が「伝奇性」でしょう。『落窪物語』は継子いじめの話で、伝奇的要素は薄くなります。

近代においては国枝史郎の「伝奇小説」が有名です。正確に言えば、一部には有名です。知る人ぞ知る、という感じかもしれません。たとえば『神州纐纈(こうけつ)城』は、武田信玄の家来である主人公が老人から、「纐纈布」と言う、人血で染めたという布を売りつけられます。この布が発する妖気に操られ、主人公は富士山麓の湖底にある「纐纈城」や神秘的な宗教団体「富士教団」などのあやかしの世界に誘い込まれます。うーん、書いていて、また読みたくなったなあ。

2019年6月 2日 (日)

おまえモカ

プレミアムが付くどころか、お金そのものの値打ちがなくなることがあります。江戸時代にそれぞれの藩が領内だけで通用する紙幣として発行したものが藩札ですが、こんなもの、藩がなくなれば紙くずでしょう。大名なんて、いつ改易になるかわからないのですから。松本清張の小説に『西郷札』というのもありました。西南戦争のときに、軍費を調達するために発行された軍票ですね。軍票なんてのも、商店街の金券と同じで、一夜で価値がなくなってしまいます。西郷札も、西郷軍が敗れたあと、明治政府に没収され、廃棄されます。そのせいで現存するものは少ないために、コレクターの間では高額で取引されているそうですが…。

逆に、一夜で有名人やスターになるということも世の中にはよくあります。マスコミ、今はユーチューブでしょうか、そういったものに取り上げられた瞬間、日本中、場合によっては世界中から注目されることもあります。ペン・パイナッポー・アッポー・ペンで一躍有名になったピコ太郎なんてのもいました。一夜とまで言わずとも、時代による価値の変遷というのもあります。足利尊氏などはその典型でしょうか。食べ物にもそういうのはあります。ホルモン焼きなどは、昔は小腸や大腸などは廃棄していた部位なので、「ホルモン」の語源は大阪弁の「放るもん」であるという俗説があります。トロもそうですね。これもやはり昔は捨てていたわけですから。冷蔵庫がなかったころは、脂身はとくに傷みが早かったので捨てるしかなかったのでしょう。赤身なら醤油に漬け込んで「ヅケ」にできますが、脂身は水分を弾くのでヅケにすることもできません。どこかの老舗の寿司屋の常連のサラリーマンが、口の中でとろけるから「トロ」と名付けたことから、人気が出てきたそうな。

クロマグロもだんだんとれなくなって、ますます「希少価値」の度合いも高まっていきます。ありふれたものがなくなると高価で取引されるようになるのですね。メダカでさえも絶滅危惧種に指定されています。雀も急激に少なくなっているとか。何年か前の新聞に90パーセント減少と書いてありました。百羽いたはずのものが十羽になっているということですよね。ウナギは今やレッドリスト入りです。近大にがんばってもらうしかありません。近畿大学は完全養殖に成功した「近大マグロ」が有名ですが、最近はウナギに限りなく近い味をめざして「近大ナマズ」を鋭意研究中です。

庶民の味の代名詞の「さば」でさえ、乱獲で減りつつあります。食卓にのぼるのはノルウェー産が多いらしい。さばの缶詰も人気で、品切れになることもしばしばだとか。親しい人に「元気?」と言う感じのフランス語「サヴァ」とかけた、オリーブオイル漬けの「サヴァ缶」もあるようです。もやしは珍しいものではありませんが、あまりに安すぎて作り手がどんどん減っているそうな。ということは将来的には気軽に食べられなくなるかもしれません。同じ食卓の優等生バナナも相変わらず安い。需要供給のバランスはどうなっているのでしょうか? 

最近ちょくちょくテレビでやっているのが、「客のいない店がやっていけるのはなぜ?」という企画です。やはり需要があるのですね。餃子のみに特化した店はそれなりに客がはいります。たこ焼きのみ、というのは昔からありますね。堺にはプノンペンそばのみ、という店があります。判子屋さんはどうでしょう。ハンコだけでやっていけるのか。実際には会社の書類や表札などの注文があるようです。ただし、表札はあまりもうからないらしい。新京極に「下手な表札屋」というのがありました。今でもつぶれずにあるのかなあ。「下手」というの自虐ネタで、じつは人気の店だったのかもしれません。「日本一」というのは誇大広告と言われそうですが、これは誇大広告ではないのでしょうかね。「うまいラーメン」というレベルなら誇大広告とは言えないでしょうが、もしもムチャクチャまずかったとしたら、誇大広告だ金返せ、となるかもしれません。

「まずいラーメン」と銘打って、実はうまかったら、これも誇大広告なのか虚偽の広告なのか。ラーメンなのに「カレーライス」と命名したらどうなるでしょう。カレーライスが出てくると思って注文したらラーメンが出てくる。文句を言ったら、「いや、ウチではラーメンのことをカレーライスと言うんです」というのは許されるのか。「百円ラーメン」と看板をかかげておいて、値段が二百円なら、いくら「百円ラーメンとはあくまでもウチのラーメンの名前であって、値段が百円だとは言ってません」と抗弁してもだめでしょう。きちんとしたラーメンを出しているのに、看板に「ラーヌン」と書いてあるのは? 「ラーメン」と書いていたのに、だれかが付け足して「メ」を「ヌ」に変えたのだ、といういいわけをすれば許されるのか。ひらがなで「らーめん」にしても「らーぬん」にされそうですが…。

「うどん」を「うろん」と称したら看板に偽りあり? 大坂では「けつねうろん」と言いましたけど、やはり「うろん」な商品と思われそうです。「オニオンスライス」を注文して、たまねぎを酢につけたものがのっているごはんが出てきたら、これはやられましたと言うしかないかもしれません。ラーメン屋が密集している横丁で、一番手前の店が「日本一うまいラーメン屋」という看板を出したら、負けじと次の店が「世界一うまいラーメン屋」と出した。さらに次の店は「宇宙一うまいラーメン屋」という看板。困った一番奥の店が思案の末に出した看板が「入り口はこちら」。こういう積み重ねの小咄はなかなか味があります。

カエサル(シーザーがいつのまにかカエサルになっているんですね)がみんなにコーヒーをいれるという小咄があります。カエサルはコーヒー通なので、それぞれに合わせて豆を変え、「クレオパトラ、おまえにはこのキリマンジャロ」、オクタビアヌスには「おまえにはブルーマウンテン」、クレオパトラとの間にできた息子シーザーリオン(これはカエサリオンとは言わないのかな)には「おまえにはコロンビア」、最後にひかえていた男に向かって、「ブルータス、おまえモカ」…という落ちは教養のある人にしか通じない。積み重ねていって落とす快感、しかも出典がやや知的でハイブローです。

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