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2019年9月の2件の記事

2019年9月22日 (日)

柏鵬時代

前回「日本料理」と書きましたが、これは「和食」とどうちがうのでしょう。「洋食」が実は「日本化した西洋風料理」をさすこともあるように、「和食」は「日本料理」とはジャンルがちがうようです。うどんは「和食」で、割烹はどちらかといえば「日本料理」という感じです。では、ラーメンはどうでしょう。「和食」なのか「中華」なのか。さらに言えば「中華料理」と「中国料理」もちがうようです。「中華」はやはり「日本化した中国の料理」をさすことが多いようです。ただ、ラーメンは欧米の人から見たら日本独特のものなので「和食」ととらえられても不思議はありません。トンカツやカレーライスも、そういう意味では「和食」かもしれません。とにかく日本は外国のものをとり入れたあと、どんどん自分たちの好みのものに変えていくので、原形がわからなくなることもあります。

以前に書いた東大寺三月堂の火祭りにしても、韃靼やペルシャから来た感じで、ゾロアスター教の影響がありそうですが、はっきりしたところはわかりません。「ゾロアスター」と言うと、いかにも異国風ですが、別の発音にすれば「ツァラトゥストラ」になります。ニーチェを翻訳するときに「ゾロアスター」にしなかったのは、何か考えがあったのでしょうか。同じことばでも、国によって発音がちがうので、一見別のことばのように思うことがあります。古代ローマの学校を「ウニベルシタス」と言った、と教科書に書かれていたときに、変なことばだと思いましたが、よく考えてみたら「ユニバーシティ」のことなので、なんの不思議もありません。ラテン語がルーツになっていることばは意外にたくさんあるのかもしれません。

旧制高校の人たちはラテン語が好きで、よく気取って使っていましたが、今はふつうのヨーロッパ人にとっても縁遠いことばなのでしょうか。ハリーポッターの呪文に使われていますね。身近なことばであれば、呪文の効果もうすれます。ラテン語は学名にも使われています。朱鷺の学名が「ニッポニア・ニッポン」であることは有名です。北京原人を「シナントロプス・ペキネンシス」と言ったのと似ています。今は「ホモ・エレクトス・ペキネンシス」に変わったらしいのですが。ジャワ原人も「ジャワントロプス・エレクトス」だったか「ピテカントロプス・エレクトス」だったか、これもたしか今は「ホモ・エレクトス・エレクトス」に変わったような。いずれにせよ、こういうのは英語ではありがたみがなさそうです。英語がメジャーすぎるというのもよしあしですね。

スペイン語の「カサブランカ」は地名にもなっていますが、「カサ」は「家」、「ブランカ」は英語の「ブランク」とも結びつくことばで、「空白」の「白」という意味です。ということは「ホワイトハウス」と同意です。モロッコあたりは、たしかにそういう家が多い。大統領官邸とは関係がありません。フランス語で「モンブラン」の「モン」は英語の「マウント」つまり「山」で、「ブラン」はやはり「白」ですが、日本の「白山」と同じ発想でしょう。喫茶店の「青山」は「ブルーマウンテン」の意味かもしれません。「モン」には「私の」の意味もあります。「マ」も「私の」で、あとに来る名詞が男性名詞か女性名詞かによって使い分けます。「ムッシュ」は「わが主」の意味の「モンシュール」がなまったものです。「私たちの」は「ノートル」なので「私の貴婦人」なら「マダム」、「私たちの貴婦人」なら「ノートルダム」で、マリアのことです。「ノートルダム大聖堂」とか学校の名前で聞くことがありますので、キリスト教関係であることはわかりやすいでしょう。漢字表記になっている「被昇天」なども字のイメージからキリスト教系の学校であることはわかりますが、キリスト教や聖書から出たことばは西洋ではよく引用されます。「酒は敵だ。しかし聖書にある、『汝の敵を愛せよ』」と言って酒を飲み続ける人もいますが、聖書の文句だと知らないで使っていることばも多いようです。「目からうろこ」とか「豚に真珠」とか「狭き門」とか。「人はパンのみにて生くるにあらず」はいかにも聖書らしい。

これとはちょっとちがいますが、古い歌の歌詞であることを知らずに、何か出典があるのだろう、ぐらいに思って使うこともあります。「どこまで続くぬかるみぞ」とか「何をこしゃくな群雀」とか「戦い済んで日が暮れて」とか「敵は幾万ありとても」なんて、昔はよく聞くことばでした。さすがに今はめったにお目にかかれません。中村草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」という句も「明治は遠くなりにけり」だけ取り出して使われていました。この句は昭和の初めに東大生だった草田男が昔通っていた小学校を訪れたときに詠んだ句と言われています。最近は「昭和は遠くなりにけり」と言われることもあったのですが、もはや「平成」も終わってしまいました。昭和生まれが古いと言われたように、平成生まれもそう言われる日が近づいています。

平成の次は令和になりました。いろいろな予想が出て大騒ぎでしたが、二字でなければならないというルールはあるのでしょうか。漢字三字というのはたしかに落ち着かない。「八百屋二年」とか「貧乏神三年」というのはいやですが、四字というのは実在しました。「天平神護」とか「神護慶雲」とか。これはなぜかかっこいい。年号は「大化」から始まるとよく言われますが、「白雉」と続いたあとは少しあいて「朱鳥」、そしてそのあと再び使われない時期があります。なぜブランクがあったのでしょうか。そもそも音読みの「タイカ」「ハクチ」のあと「シュチョウ」以外に「あけみどり」とか訓読みで読んだりすることもある年号が続くのも変といえば変です。またまた古田武彦説によると、九州王朝はずっと年号が続いていたそうな。中には「兄弟」なんて変なのもありますが、一部地域でそういう年号が使われていたことはまちがいないようで、これを「私年号」と言います。ただし、それは「大和朝廷」が「公」であるという前提なので、「九州王朝」こそ「公」であるなら、中途半端な「大化」以降の年号こそ私年号だ、と言うのです。後の時代の坊主が頭の中でこしらえただけのしろものだと言う人もいるのですが、「法興」というのはいくつかの史料にも明記されています。「白鳳」とか「朱雀」は「白雉」「朱鳥」からの派生とも言われますが、どうしてこれらだけそういう異称があるのか不思議です。「白鳳文化」なんて、堂々と名づけてよかったのかなあ。

2019年9月 8日 (日)

盗まれた神話

前回のつづきで、古田武彦説です。中国側の史書には、倭国の使者に尋ねたところ、国王には阿毎という姓があり、名前は多利思北孤、皇后もいると言ったと書かれています。ところが、当時の大和朝廷の天皇は推古ですから女性であり、つじつまがあいません。近畿の天皇家つまり大和王朝は九州王朝の分派で、そのころはまだまだしょぼい国だったのです。最初の遣隋使がやってきた年についても、中国側の史書と日本書紀では何年かのずれがあり、最後の遣隋使のやってきた年にも食い違いが見られます。第一回の遣隋使は「日本書紀」には書かれておらず、「隋書」にだけ書かれています。しかも、「日本書紀」には「隋」ではなく「大唐国」に遣いを出したとあります。有名な小野妹子の返書紛失事件も「日本書紀」にはあるけれど、「隋書」にはありません。そもそも「隋書」には小野妹子の名前そのものが出てこないらしい。

「旧唐書」には、「日本国は倭国の別種」とか「日本はもとは小国で倭国の地をあわせた」などと書かれているそうな。倭国すなわち九州王朝は、7世紀末の持統天皇のころまでは続いていたのだが、「倭の五王」のときに出兵を繰り返して弱っていき、白村江での敗戦が決定的要因となって、ついに滅亡したのですね。それ以降、大和政権は自分たちこそ日本の王朝であると主張し、倭国の歴史を日本国のものとして取り込み、歴史を「歪曲」した…というのが古田説の骨子です。磐井の乱にしても、地方豪族による中央政権への反乱どころか、磐井のほうこそ九州王朝の王者だったと言うのです。こういう強烈な説に対して、まともに反論をしているのは安本美典さんぐらいです。ほとんどの人が、異端の説は無視する、という態度をとっているのですが、たまに何か発掘されりすると、「これで古田説は崩れた」なんて言ってましたから、内心は困ったなあと思っていたのかもしれません。

日本の中心は青森だったという説もあります。「日本中央」と記した石碑もあります。鎌倉時代の本に、「つぼのいしぶみ」というものが東北の「つぼ」という土地にあり、坂上田村麻呂が字を彫ったと書かれています。「つぼのいしぶみ」は多くの歌人によって歌われているのですが、どこにあるのか長い間わかりませんでした。明治天皇もさがすように命令を出したそうですが、見つからなかったそうです。ところが、戦後になって土地の人が谷底に落ちていた巨石をひっくり返してみたところ、「日本中央」と彫られていたとか。本物かどうかはまだわかっていないようですが、東北で「日本中央」というのはおかしいと話題になりました。日本地図をながめた結果、千島列島を入れれば問題は解決すると言った人もいます。でも、蝦夷の土地を「日本」と言うこともあったようで、蝦夷の土地の中央なら「日本中央」もおかしくありません。豊臣秀吉の手紙でも、奥州を「日本」と表現した例があるようです。古田武彦説とも結びつきそうですが、日本の国号は、はじめは「倭」または「大和」であり、蝦夷地を「日本」と呼んだのかもしれません。

古史古伝というのは、ややうさんくさい史書や言い伝えですが、実は古代の東北は「田舎」どころか非常に栄えていたというのですね。藤原三代のことを考えても、ただの僻地とは言えません。安倍首相の遠い先祖であるらしい安倍氏が東北に君臨していたころからかなり栄えていたようです。鎌倉期から室町時代にかけて青森の十三湊を拠点とした安東氏も安倍氏の子孫ということになっていますが、やはり日之本将軍を名乗っています。安倍貞任・宗任兄弟が登場する小説はめったにありませんが、その時代を描いた作品が『炎立つ』で、大河ドラマにもなりました。藤原経清・泰衡の二役を渡辺謙、八幡太郎源義家を佐藤浩市が演じていました。

源義家は頼義の長男なので「太郎」というのはわかるのですが、「八幡」が上につくのは石清水八幡宮で元服したからです。「八幡神」は武芸の神で、応神天皇の神霊ですが、「南無弓矢八幡大菩薩」と唱えることもあるように仏教との結びつきも強いし、なにやら渡来系の神のイメージがあります。義家の弟、新羅三郎義光は武田家の祖先ですが、なぜ「新羅」なのか。近江の新羅明神で元服したとのことですが、実は清和源氏のルーツは渡来人ではないかという人もいます。清和源氏というからには清和天皇から出たことになっているのですが、本当はその子の陽成天皇から出たと見るのが正しいという人もいます。陽成天皇がちょっと「変」な人だったので、それをいやがって父親から出たことにしたのだとか。いずれにせよルーツはあいまいなのかもしれません。

清盛のところの平氏は桓武天皇から出たことになっています。在原氏も父は阿保親王、祖父は平城天皇ですから、元は皇族です。四大姓と言われる「源平藤橘」のうち、源氏、平氏は天皇家にさかのぼれ、藤原氏は鎌足からの家系ですが、「橘」はどうなのでしょう。敏達天皇から出たと言われ、諸兄や奈良麻呂が有名ですが、「四大姓」の中に入れるほど勢力があったとは思えません。ただ「橘」を家紋にする家は多いようで、私のところも「丸に橘」です。家紋にもいろいろあって、平将門の子孫とされる相馬家の家紋など、なかなかおしゃれです。泡坂妻夫という作家がいました。この名前はアナグラムで本名の「厚井昌男」を入れ替えたものです。この人の本職が「紋章上絵師」でした。どんな仕事なんでしょうね。着物に家紋を描くのでしょうが、オリジナルの家紋を作るということもあるのでしょうか。なんだか需要のなさそうな商売ですが、これ一本で生活できるのでしょうか。

需要があれば競争相手も多くなりますが、東京や大阪ならともかく地方の小さな町で、たとえばブータン料理の店を出しても、悪いけどだれが行くのでしょう。ブータンの悪口を言うつもりではありませんが、お客がどんどこ押し寄せるとは思えません。その町に住んでる人だって、しょっちゅう行くわけでもないでしょうし。フランス料理やイタリア料理に比べて、ロシア料理、ウクライナ料理になると店は多くありません。イギリス料理、ドイツ料理となると、あまりおいしそうなイメージもないので、店を出してもはやらないかのかもしれません。日本料理の中でも地名のつくものがあります。京料理は別格としても、加賀料理、土佐料理、沖縄料理の店はよく見かけるのに、なにわ料理とか江戸料理と書いている店はあまり多くないようです。大阪は食い倒れと言われるのに不思議です…。

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