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2020年3月15日 (日)

竹鶴の思ひ出

関西の入試は一段落し、新年度が始まりました。

と書いてから早いもので1か月半過ぎました。このブログ空間には不思議な時間が流れており、いつのまにか時間が経っています。

先日(といっても1月のなかばぐらい?)、ニッカウヰスキーが、年代物の「竹鶴」(ウイスキーの銘柄です)の販売を終了すると発表していました。わたしは未成年なので「竹鶴」を飲んだことはありませんが、かつて所持していたことがあります。白い陶器に入った、確か17年ものだったと思います。しかも、なんと、ニッカウヰスキーの社長から直々に手渡されたサイン入りのものです。なぜ私のようなスチャラカチャな人間がニッカの社長から直々に!? そしてその「竹鶴」はいずこへ? 話せば長いことではありますがぜひにとおっしゃるならば話しましょう。

もうずいぶん昔のことですが、週に一度ぐらいのペースで、京都は木屋町の、とあるバーに通っていました(その頃は未成年ではありませんでした)。同じ名前のバーが京都市内に当時あと二軒あり、一族の方がそれぞれ独立して経営されていました。ちなみに大阪にも同じ名前のバーがいくつかありましたが、マスターから聞いたところでは、もともと神戸かどこかにあった有名なお店からのれん分けのような形で、京都と大阪に同じ名前のバーができたそうです(大阪の方は一族ではなく、どんどんのれん分けをして増えているという話でした)。わたしが通っていたのは、京都にお店を出された初代の方のご子息がマスターをされていたお店です(ご子息といっても私よりかなり年上でいらっしゃいました)。初代の方のお店は、作家の池波正太郎が通っていたとかで有名です。若かった私は、そのお店でいろいろ教わりました。いい気分になってちょこっと声が大きくなりすぎたりしようものなら「帰りよし」などと言われかねないお店でしたから、るんるん楽しい気分になってもできるだけきりりと(少なくとも主観的にはきりりと)した顔で自制してました。

さて、そのバーが神戸にはじめてできてから八十周年、というお祝いを大阪と京都でそれぞれやることになりました。若造の私などは到底そういう場にふさわしくなかったわけですが、枯れ木も山のにぎわいというのでしょうか、優しいマスターが声をかけてくださったんです。招待状には、「平服でおこしください」と書かれていました。「平服……?」常識が皆無だった私は平服というのがどういうものかわかりませんでした。それで、きっと普段着のことだろうと早合点気味に高を括りました。そういう性格なんです。そして、おそろしいことに、Tシャツに短パンというかっこうで、京都の二条城前にある「◎◎ホテル」で行われたパーティーにのこのこと出かけていったのです。そうしたらみなさんスーツ着ていらっしゃるじゃないですか、当たり前ですが。最低でもジャケット着用で。もう、恥ずかしくて恥ずかしくて死ぬかと思いました。他にも俺みたいにやらかしてるやつはいないかと必死でさがしました。すると、アロハシャツを着た、浮かれた感じの一団が。何としてもお近づきにならねばと思ってにじり寄っていくと、その人たちは、アトラクションに出演するハワイアン・バンドの人たちでした。

会が始まりました。針のむしろでした。いろいろな人が壇上に上がりいろいろなことを話していらっしゃったような記憶がありますが、上の空だったのでよく覚えていません。やがて記念品贈呈の抽選会が始まりました。そういえば、受付で番号の書かれたカードを渡されていました。当選した人が拍手を浴びて次々に壇上に上がります。これは当たるわけにはいかないと思いました。そして、そういうときにかぎってなぜか当たってしまうのでした。まさに『英雄たちの選択』です。①知らんぷりする。②しれっと壇上に上がる。磯田道史先生ならどうされるんでしょうか。まごまごしていると、となりにいた比較的カジュアルなかっこうの女性(初対面でしたが肩身の狭い者どうしで寄り添っていました)が、「あら、当たってるじゃないですか」とうれしそうに言うのでした。

もうおわかりかと思いますが、そのときです。壇上で、ニッカウヰスキーの社長から直々に『竹鶴』をいただいのは。まちがいなく人生で最も恥ずかしかった一瞬でした。

見るだけでも辛い気持ちになるその『竹鶴』を、私は実家に預けました。手元に置いておくとまだ未成年じゃなかった僕はあっさり飲んでしまうかもしれないけれど、何といってもこれはニッカウヰスキーの社長から直々にいただいたものであるから、大事に取っておきたい、と言って預けたんです。

ところがあっさりなくなりました。北海道在住の伯父が持っていってしまったんです。

この伯父は、ずっと昔にこのブログで紹介したことがありますが、もともと関東軍の中尉で、ノモンハンのときも戦場にいた人です。「こりゃ勝てねえと思ったよ、飛んでるのは敵の鉄砲の弾ばかりなんだからさあ」「遮蔽物から遮蔽物まで移動するときはさ、部下に『行け』って言ったってだめなんだよ、みんなおっかないんだから。『よし、俺が行くからついてこい』って言って、先に飛び出すのさ。すると、みんなついてくるわけよ。それにさ、じつは最初に出た方が弾に当たりにくいんだ。まず一人飛び出すだろ、そうすっと敵が見つけて狙うだろう。だから後から出た方が弾に当たるんだよ」なんて教えてくれた人です。

基本的に私の母は(したがってまた父もその夫として)、この伯父さんに頭が上がらないのです。若い頃に伯父さんにお世話になっているからです。敗戦のあと、ハルピンから命からがら長崎に逃げてきた母は諫早の女学校に通うことになるのですが、女学校を出てもまともな仕事がない。それで、タイピストになろうと考えたわけです。でもとにかく貧乏だから学校に通う金もない。北海道に住む姉(つまり私の伯母)に手紙を書いたら、「うちの旦那(これが伯父さんなんですが)に直接手紙を書いて頼め」と。で、母があらためて伯父さんに手紙を書くと、学費と、学費だけじゃどうにもならんだろうからといってお小遣いを、何ヶ月分もまとめて送ってくれたらしいんです。そのおかげで母はタイピストになることができたわけですが、じつは、そのときのお金を返していないというのです。ずいぶん後になってから、じつはあのときの……と切り出すと、伯父さんは「んあ? そんなことあったか?」と覚えてなかったそうなんです。でも、もしかしたら伯父さんは覚えてないふりをしただけかもしれません。……というわけで、伯父さんにはちょっと頭が上がらない。したがって、泊まりに来た伯父さんが、浴槽にお湯を注ぎながら、そのお湯で入れ歯を洗うという、信じられないほどばっちいことをしていても、目をつぶるしかないのでした。ましてや、白い陶器に入った、ニッカウヰスキーの社長からじきじきに手渡された、サイン入りの17年ものの竹鶴を、「お、なんだ、これはウイスキーか、もらうぞ」とぐびぐび飲まれ、余った分を持ち帰られても、だれも何もいえないのでありました。

竹鶴のニュースを聞き、今は亡き伯父さんのことを思い出してほのぼのとしてしまいました。

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