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2020年12月の2件の記事

2020年12月20日 (日)

モヤモヤーとして臭い

落語は、もともと正式な題名がないものもあったようで、だんだんと自然発生的についていったのでしょう。ですから複数の題名がついているものもあります。ネタバレになるものもあって、たとえば「肝つぶし」などは別の題名にしたほうがよさそうです。吉松という男が恋患い、友達がどこの娘だと聞くと、先日、呉服屋に買い物に行ったところ、番頭に邪険な客扱いをされた。店の娘が番頭を叱りつけ、買った物のほかに、反物を仕立てて長屋まで持って来てくれる。その夜、呉服屋の娘がやってきて、番頭のたくらみで、今晩仮祝言を挙げさせられると言う。娘の父親が死んでいるのをいいことに、娘を他家へ嫁がせ、店を乗っ取ろうとしている、今夜はここでかくまってくれと言うのだが、そこへ若い者を連れてやって来た番頭が、娘を引っ張って行ってしまう。手出しもできないまま、娘を奪われたくやしさに涙がこぼれる。そのとき、チーン、チーンという音で目が覚めたら二時やった、ということで、なんと全部夢の話。吉松が医者に聞くと、唐土の古い本に、夢の中の女に惚れて命が危うくなったときに、辰年の辰の月、辰の日、辰の刻のように年月揃って生まれた女の生き肝を煎じて飲ましたら、スッと治ったという話が書いてあると言う。両親を早くなくした友達は、吉松の親父からは息子同様に育てられた恩義があり、なんとか助けてやりたい。家へ戻って飯を食う気にもなれず酒を飲みだすのだが、妹のお花が年月揃った女であることに気づいてしまう。先に寝たお花の顔を見ながら、台所から持ってきた包丁を振り上げるが、妹のあわれさに涙をこぼすと、お花の顔に。目覚めた妹に、「仲間内で芝居をすることになって、寝てる女を出刃で殺す役が当たって稽古をしようと思うたんや」と言い訳をすると、お花は「ああ、びっくりした、肝が潰れた」「肝が潰れた? 薬にならんがな」という下げです。

下げの部分で聞き手はカタルシスを感じるので、前もってわかっているのはよくありません。もちろん、マニアになると、題名も下げも全部わかったうえで、話芸を楽しんでいるのでしょうが…。同じ落語で「死ぬなら今」というのは、その点、実に秀逸なタイトルです。演者は、なぜこの題名なのかは、しまいまで聴いたらわかるという仕組みになっていると強調してから始めることになっています。人を泣かせる阿漕な商いで身代を築いた船場の大店の赤螺屋ケチ兵衛さん、病となり、死を覚悟する。地獄行きは免れないとわかっているので、せがれに「三途の川の渡し賃を入れる頭陀袋に六文銭のほか百両入れてくれ」と頼みます。百両を閻魔大王への賄賂に使って、地獄から極楽に行かせてもらおうという魂胆です。ところが、葬式の時に親戚の叔父さんに見つかり、天下のお宝を土に埋めたらあかんと言われます。そこで芝居で使う小判を手に入れて、頭陀袋に入れます。ケチ兵衛さんは、閻魔大王に地獄行きを宣告されますが、例の百両を閻魔さんの袖の下に。閻魔さんの態度は一変して、「一代でこれほどの身代をなしたのはあっぱれ」と、極楽行きにしてしまいます。ところが、赤鬼や青鬼らも分け前をくれと騒ぎ出し、弱みを握られた閻魔さんは、赤鬼、青鬼らを引き連れて、冥土のキタとミナミで小判を使って遊び回ります。そのうち、その小判が極楽へと回ってきて偽小判とわかり、奉行所へ訴えられます。奉行はただちに特別機動隊を地獄へ派遣します。キタのバー「血の池」で盛り上がっていた閻魔さんたちは全員逮捕され、監獄行きとなりました。というわけで、地獄はいま閉店休業、「死ぬなら今」。下げをあらかじめ言っているのに、最後まで予想がつかない。最後の最後でタイトルが下げになるという鮮やかさ。米朝さんもやっていましたが、先代の文我でも聞いた覚えがあります。

「下げでカタルシス」と言いましたが、「延陽伯」の下げはいまでは通用しなくなって、カタルシスどころかきょとんとしてしまう人もいるかもしれません。東京では「たらちね」という題で演じられる話ですが、長屋に住む独り者のところに縁談がもちこまれます。京都のお公家さんのところへ奉公していたということで、ことばが丁寧すぎるという女の人。「わらわこんちょう、たかつがやしろにさんけいなし、まえなるはくしゅばいさてんにやすろう。はるかさいほうをながむれば、むつのかぶとのいただきより、どふうはげしゅうしてしょうしゃがんにゅうす」という具合。そのあと男は銭湯に行くのですが、このあたりの描写は枝雀がやはり面白い。夜に女がやってきて、名前を聞くと、「なになに、わらわの姓名なるや?」「あんた、わらやの清兵衛はんちゅうんですか? 男みたいな名前でんなぁ」「これは異なことをのたもう。わらわ父は元京都の産にして、姓は安藤、名は慶三、あざなを五光と申せしが、我が母、三十三歳の折、ある夜丹頂を夢見て、わらわを孕みしが故に、たらちねの胎内をいでし頃は鶴女、鶴女と申せしが、これは幼名、成長ののちこれを改め延陽伯と申すなり」というやりとりも面白い。翌朝、枕元に手をついて、「あ~ら我が君、もはや日も東天に輝きませば、お起きあって、うがい手水に身を清め、神前仏前に御あかしをあげられ、朝餉の膳につき給うべし。恐惶謹言」「飯を食うことが恐惶謹言か。そしたら、酒飲んだら酔ってくだんの如しやな」という下げ。いまどき、「恐惶謹言」も通じないし、「よってくだんのごとし」も意味不明でしょう。もともと関西弁にもなっていません。かといって「酔うて」とすると、ますます意味がわかりにくくなります。下げが通じにくくなった話は演者によって、いろいろ変更を加えられています。

「頭山」の下げはシュールで今でも通用する魅力的なものです。ケチな男が、もったいないとさくらんぼの種まで食べたところ、そのさくらんぼの種は腹の中で根をはり、やがて頭の上に芽を出して大きく育っていきます。春になると花が咲いたので、大勢人が集まり、頭の上で花見を始めました。ドンチャン騒ぎに怒った男は桜の木を引っこ抜いてしまいます。すると頭の真ん中に大きな窪みができてしまい、表で夕立にあったとき、穴に水が溜まって池になりますが、ケチな男はその水を捨てようとしません。やがて、その水にボウフラが湧き、それを餌にして鮒やら鯉やら湧いてきました。それを聞きつけて大勢釣りにやってきます。朝から晩まで大騒ぎ、ケチな男はこんなにうるさくてはたまらんと、その池にドッボーン。上方では、「さくらんぼ」という題で枝雀がやっていましたが、「おい、芳、いてるか」というセリフで始まる細かい場面を積み重ねるという凝った作りで、結構長い話にしていました。下げも夫婦で飛び込む形になっています。これは枝雀の理論「緊張の緩和で下げになる」があてはまりません。むしろモヤモヤ感が残ります。

2020年12月 9日 (水)

意味不明

「ギャグ」ということばも本来の意味とはちがう使い方をしていますね。「面白いフレーズ」ぐらいの意味で使っています。中には「インガスンガスン」のような意味不明のことばもありますが…。吉本の漫才などの芸人は全国区になっている人が多いのに、新喜劇の知名度が低く、東京に進出できないのは、吉本新喜劇の面白さが東京人にはわからないからだ、と言う人もいます。いやいや、実は面白くないことが多いのですよ、新喜劇は。「反復の面白さ」「マンネリゆえの面白さ」で、これはたしかに関西人は好きです。しつこく繰り返すのをよしとするのですね。では、なぜ繰り返すとおもしろいのか? 逆説的ですが、「また出た」というのは「意外」につながるからかもしれません。同じことが二度続くのはないわけではないのですが、三度となるとめずらしい。忘れたころにまた出てくると、意表をつかれて「また出た」と思って笑ってしまう、というのが元々あったのでしょう。そして、それが一つのパターンになると、吉本の場合は「ほら、また出た」となって、熟達した観客は「ここ笑うとこよ」というシグナルを感受するのでしょう。

「意外」というのは笑いにつながります。きどった女性がバナナの皮をふんでスッテンコロリンと転ぶのは「意外」です。「そっくりさん」も意外さなのでしょう。ちがう人なのに共通点が多いことに気づいて笑うのです。これは「だじゃれ」も同じです。ちがうはずのことばなのに、音がよく似ていて結びつきが生まれるという意外さです。笑福亭たまの小咄で「B29」というタイトルのものがあります。「この鉛筆濃いなあ」これだけです。このフレーズそのものはべつに面白いわけではありません。タイトルと組み合わさると面白くなるのですね。意外な組み合わせなのに結びついてしまうから笑いが起こります。

タイトルとセットになってはじめて面白くなるものとして、写真で出された「お題」に対して「ボケ」を投稿するサイトがありました。たとえばミレーの『落ち穂拾い』の絵に、「集団ぎっくり腰」とか「ポップコーン開けるの下手すぎやろ」とかつけるようなものです。的確であるから笑うのですが、同時に「そう来るか」という意外性ですね。意外な切り口というのは、オッと思って楽しくなり、笑いにつながります。突飛さは笑いを生みます。予想もしなかったときの驚きや楽しさが笑いなのだ、と言ってもよいかもしれません。「屁をひって面白くもなしひとりもの」という川柳がありますが、自分のおならは自分で予想できますから面白くもなんともありません。シーンとしているときにだれがプーとやると笑いが起こります。特にテスト中という「緊張感」とまぬけな音の組み合わせはまさに笑いのタイミングになります。

ブラックユーモアと呼ばれるものは、意外さを生み出すものがやや不健康なものなので大笑いになりませんが、ジワッと笑えます。もう三年ぐらい前になりますか、面白いなと思って、いまだに覚えている四コマ漫画があります。朝日新聞の『ののちゃん』です。「幽霊屋敷」から出てきたののちゃんたちが「つまんなかったねー」「ぼろくて床が揺れてた」「カネかえせ。どこが幽霊やねん」と言っているのですが、最後のコマで「幽霊屋敷」と書かれた看板の横の屋敷が、かすかに地面から浮きあがっていることがわかります。つまり「幽霊の出る屋敷」ではなく、屋敷そのものが「幽霊」だったのですね。これはダブルミーニングのおもしろさでもあります。『おさるの日記』のように秀逸なものは少ないのですが、ダブルミーニングのことばはたしかに面白い。「よくきえる消しゴム」なんてね。「帰ってきた兵隊やくざ」も「日本に帰ってきた」と「復活した」の二つの意味になります。

題名だけで心ひかれるものってありますよね。エドガー・アラン・ポオの『ナイト・ウォーク』を直訳しただけの『夜歩く』は秀逸なタイトルです。インパクトがすごい。『緋文字』なんて魅力的なタイトルです。題名だけで勝手に中身を想像していて、実は全然ちがうということもあります。新感覚派の巨匠、横光利一の『日輪』なんて、だれが卑弥呼の話と思うでしょうか。『細雪』も魅力的なタイトルですが、もともとあったことばなのか作者の造語なのか。

古典作品には安易なネーミングのものもあります。「枕草子」は「枕元に置いて読む本」という意味のようですし、「今昔物語」や「徒然草」は冒頭のことばがそのまま題名になっています。作者がつけたものではなく、後の時代の人が「つれづれ」ということばで始まる本、ということで勝手に「つれづれ草」と呼んだのかもしれません。もちろん「行く河の…」で始まっても「方丈記」というのもあります。「方丈」というのは「一丈四方」つまり小さな掘っ立て小屋のことで、元祖プレハブ住宅のようなもので仮住まいをしていて書いたのでつけられたのでしょう。「祇園精舎の…」で始まっても、平家一門の興亡を描いているから「平家物語」という王道タイトルもあります。でも、明治以降だって、漱石の「猫」は冒頭の一文がそのままタイトルになっています。漱石はわりと安易にタイトルをつけていたようで、「先生、次の作品はいつごろできますか」と問われて「そうさなあ、彼岸過ぎまでには…」と言ってそのまま題名にしたものもあります。

映画の題名も、昔は邦題として「哀愁」のようなことばをひねり出して、無味乾燥な原題より、ずっと魅力的にしていました。題名がちがえばヒットしなかった作品もいっぱいありそうです。「俺たちに明日はない」や「明日に向かって撃て」は二人の登場人物の名前を並べただけの原題では見に行く気がしなかったかもしれません。原題は『一番長い日』という意味なのに「史上最大の作戦』にしたのは水野晴郎でした。「華麗なる…」や「怒りの…」などはヒットした作品にあやかってつけるのですが、たいていつまらないものになっています。「ロシアより愛をこめて」や「風と共に去りぬ」は直訳なのにオシャレです。最近では原題を単にカタカナにしているだけで意味不明のものが結構あります。「エイリアン」「マトリックス」「ターミネーター」などもはじめは意味不明でした。中には原題とはちがうカタカナのことばもあるらしい。しかも意味不明。意味不明はだめでしょ。もっとも音楽でも、バッハの「主よ人の望みの喜びよ」のような意味不明のタイトルのものもありますが…。

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