2018年3月11日 (日)

語源俗解

同じNHKでも、大河よりも「ブラタモリ」がおもしろいですね。タモリがあちこちをブラブラする、という安易な企画の番組名なので、地井武男が散歩するだけの「ちい散歩」のレベルかと思いきや、なかなか格調が高い。一つの場所を歴史的、地学的に掘り下げていくのですが、たとえば平泉がなぜ栄えたかという謎を北上川の地質から探っていった回はなかなかおもしろかった。北上川の東と西とで地質が異なるというのですね。北上川の東の北上山地からアンモナイトの化石が出てきます。つまり、そのあたりの地質はデボン紀のものだというのです。で、このあたりは日本有数の花崗岩地帯であるらしく、花崗岩のあるところに金が見つかるそうです。地下深くの、金を含んだ岩石がやがて地表に現れ、風化されて砂金になる。これが平泉の繁栄の基盤になったということです。つまり、奥州藤原氏の栄華はデボン紀の地質がもとになっていた…。こういうのは学校のどの科目で教えてくれるのでしょうか。「国際」ならぬ「学際」ということばもありますが、一つの科目にしぼらなければ興味深く学べることって、結構ありそうです。

「ブラタモリの呪い」というのもあります。「ブラタモリ」で訪れたロケ地で、天災や人災が起こるというやつです。大分に行ったら集中豪雨でやられ、熊本へ行ったら地震でやられ、と災難続きです。逆に言えば、熊本城の石垣が崩れる直前の貴重な映像を残しているということですが…。奄美に行ったときの奄美固有種の動物もおもしろかった。「西」がなぜ「入」なのかということにも触れていました。「西表山猫」は「いりおもてやまねこ」ですね。これは当然、「日の入り」の場所が「西」だからで、そうすると「東」は日が上がるということで「あがり」になります。
奄美や沖縄は日本の古語が残っていることで有名ですが、昔は「ひがし」を「ひんがし」と発音することもあったようです。「日向かし」から「ひんがし」になって「ひがし」になったということでしょうか。「西」は「去にし」の省略形という説もあります。昔、万葉集の柿本人麻呂の歌「東野炎立所見而反見為者月西渡」をどう読むかでもめた結果、「ひんがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」に落ち着きました。「西渡」は「東野」との対比なので「にしにわたる」でもよさそうですが、これを「かたぶきぬ」と読むのもなかなかのものです。賀茂真淵か契沖か、だれだったか忘れましたが…。いずれにせよ、一つの場所で日がのぼるのが見え、反対側では月が沈もうとするのが見える、という光景です。実景というよりも、権力者の交代を暗示しているらしいのですが、蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」とも似ているイメージです。ただし、人麻呂のほうは朝の情景で、すごく雄大な感じがします。実際にはこの歌の舞台となった安騎野という場所は小さな盆地で行ってみると期待はずれらしいですね。たしか万葉の旅ツアーをしていた犬養孝先生が言っていたと思います。

「ひんがし」が「ひがし」になったということと無理やり結びつけると、「うなぎ」をなぜ「うなぎ」と言うか、という問題があります。鵜という鳥は、とった魚をそのまま噛まずに飲み込むので、「鵜のみ」ということばができました。鵜飼はこの習性を利用したものですね。そんな鵜でも、さすがにうなぎは飲み込みにくい。飲み込むのに鵜が難儀するから「鵜難儀」つまり「うなんぎ」がなまって「うなぎ」になった、という、嘘に決まっている話があります。もともと気色が悪くてきらわていたうなぎを「ひしまた」という料理屋さんが苦労して料理にしあげたという落語もあります。店の「お内儀」を呼んだのがなまった「うなぎ」という名前になり、魚へんに「日四又」と書いて「鰻」になったという落語もあります。だれの話で聞いたのかなあ。

天然うなぎか養殖かの見分け方として、天然のうなぎは腹が黄色い、というのがあります。「胸」が黄色いから「むなぎ」、それがなまって「うなぎ」になった、というのがオーソドックスな語源らしい。語源というのは何か魅力があるようで、「俗説」が多く生まれています。キラキラネーム全盛の今の時代にはなくなりましたが、昔のお婆さんの名前で「むめ」というのがちょくちょくありました。「ムメ」って何? これはもともと「んめ」だったのですね。「ん」の音が次の「め」にひかれてM音になるので「む」と発音されることもあったのでしょう。もっといいかげんに発音すると「う」になります。つまり「むめ」さんは「うめ」さんだったのですね。「梅」の音読みは「バイ」または「メイ」です。「メイ」を発音しやすくするために軽く「ン」という音を前につけたのかもしれません。

「さくら」はなぜ「さくら」なのでしょうか。「咲く」と関係があるのではないかという人もいますが、そうすると「ら」がよくわかりません。「サ・クラ」のように分けるという魅力的な説もあります。昔の日本人は、大きな岩や大きな木に神が降り立つと考えたようです。神がいる場所を「くら」と呼びます。漢字としては「座」をあてることになります。「高御座」と書いて「たかみくら」と読みます。ラーメン屋にも「神座」というのがありますな。京都の「岩倉」という地名もそういう意味かもしれません。「さくら」は神の宿る木だというのですね。では「さ」とは何か。どうも山の神を「さ」と言ったらしい。この山の神が山からおりてきて田を守る神様になります。これを「さおり」と言って、女の子の名前にも使われます。役目を終わって山に戻ることを「さのぼり」、なまって「さなぶり」とか言ったりします。「さ」の神が来るときが「さつき」であり、苗は「さなえ」で、苗を植える女の子が「さおとめ」です。ただ、そうすると「さくら」の咲く季節とずれてしまうのが「さ・くら」説の難点でしょう。

「つる」はなぜ「つる」か。これも落語にすばらしい説があります。「つー」とやってきて「るー」ととまるから「つる」という、ふざけたやつです。落語では受け売りをして人に話そうとして「『つるー』とやってきて」と言ってしまいます。「で?」と聞かれて、「だまってとまった」という落ち。「すずめ」はなかなかおもしろい。チュンチュンなくから「ちゅんちゅんめ」→「ちゅちゅめ」→「すずめ」という強引な説。これも「め」は何? と言われそうですが、「つばめ」というのもあります。岩渕悦太郎か池田弥三郎か忘れましたが、「☓☓め」という形は鳥を表すという説を唱えていました。「つば」は「つぶ」「たぶ」の変化したもの、「たぶ」には「二」の意味があり、「たぶの木」というのもあります。つばめは「つばくらめ」の省略形とも言われています。尾の先の黒いところが二つに分かれているところから来たものではないか、というなかなか説得力のある説です。「つば」が「二」を表すのは当然です。ドイツ語でも一・二をアイン・ツバイと言うもの。

2018年2月25日 (日)

クマと私

はーるばるーきたぜー函館~。

函館とは何の関係もありませんが、入試が一段落したので、何か少しでものんびりしたことがしたい!と思い、家でゆっくりDVDを観ました。何年も前に買ったきり本棚に眠ってるのがいくつもあって、いつもちらちら横目でタイトルだけ眺めては、「うーむ」と唸っているのです。今回観たのは『蜂の旅人』というギリシャ映画で、アンゲロプロス監督の作品ですが、希学園には知っている人があまりいないと思われます(知っているのは国語科の齋藤先生だけかもしれません。この人はけっこう映画を観ていて、以前に私が「タイだかベトナムだかの『光りの墓』って映画観たかったんだけどとっくの昔に上映終わってたわ~」と愚痴ったら、「ブルーレイ持ってますよ~」なんて言って貸してくれました。かっこいいですね。甲田直美の本を持っていったきりなかなか返してくれなかったトミー・スマイリー氏とは大違いです。『光りの墓』というのは、タイのアピチャッポン=ウィーラセタクン監督の作品ですが、この監督の名前がなかなか覚えられなくて苦労しました。でもとにかくなかなか良い映画でした。だいたい題がいい。思わず観たくなる題です。こういう題の映画は良いと相場が決まっているのです。話がそれまくってますね、『蜂の旅人』の話でした)。主演はマルチェロ=マストロヤンニで、この人はアンゲロプロスの『こうのとり、たちずさんで』にも主演しています。たくさんの映画に出演されていますが、映画に詳しくないのであまり知りません。エットーレ=スコラの『マカロニ』に出ていたのは覚えています。これもおもしろかったなあ。泣けました。エットーレ=スコラを知っている人がこのブログの読者にどのくらいいるのかわかりませんが(もしご存知の方がいらっしゃれば何かの機会にぜひ声をおかけくだされ)、いい監督だと思うんです。はじめて観たのは高校生のときで、『バッション・ダモーレ』という映画でした。いろんな見方があり、いろんな感想をお持ちの方がいらっしゃると思いますが、私は悲しい映画だと思いました。です。主人公のイケメンの将校(ベルナール=ジロドー、ダニエル=シュミットの『ヘカテ』に出ていた二枚目ですな)が、骸骨みたいな顔の女性(上官である大佐の姪)に恋されて往生するという筋立てで、私が語るとまったく悲しい感じがしませんが、悲しいんです。この悲しさをきちんと説明できない自分が残念です。わかってくれる人と語り合いたいと熱望しているんですが、そんな人とは会ったことがありません。それはともかく、ええと、『蜂の旅人』の話でした。音楽はいつものエレニ=カラインドルーで、サックスはやはりヤン=ガルバレクが演奏していました。一時期ガルバレクにはまってよく聴いていましたが、カラインドルーとのコンビが一番いい気がします。ああいう、とりとめのない感じの曲が好きなのですが、ガルバレクが自分でやっているときは、けっこう俗っぽい、安っぽいポップさが前面に出てしまうことがあって、ちょっと不満です。

さて、私がどんな映画や音楽が好きかなんてどうでもいいですね。でもとにかく映画はいい!ですねえ。ぜひ子どもたちにも映画を見せたいなあと思います。子どもたちというのは、すなわち塾生ですね。あるいは今後塾生になるかもしれないお子たち。これは国語的見地です。みんな勉強のし過ぎじゃないでしょうか。いや、させているのは私らなんですが。受験学年になるとなかなか難しいけれど、小2~小5にはぜひ見せてあげたい。問題は何を見せるかですが、上述したように私も映画に詳しいわけではないので、ぱっと思いつきません。観てついていける映画は学年によってちがうと思うので、そんなことも含めて研究が必要ですね。それこそ小5だったら『マカロニ』ぐらい観てほしいところですが、低学年には不可能でしょうね。チャップリンの『独裁者』は無理でも、『キッド』ならどうでしょう。映画ではありませんが、NHKでやっている『超入門!落語ザ・ムービー』でしたっけ、これなんていいなあと思っています。NHKはいいですよ~。『歴史にドキリ』もいいですね。社会を選択していない人ほど見てほしいと思います。常識のない子は文章読めないですからね。

前回(はるか昔ですが)のブログ記事をアップした後、希学園の某職員から、「ブログ見ましたよ」と声をかけられました。ほめてくれるのかと思ったら、「クマが出てこないとつまんないですね」とのことでした。それで、よしわかった、クマについて書いてやろうじゃないかと思って書き始めたのですが、構成ミスによりクマの話にたどりつく前に力つきてしまいました。というか、よく考えたら、もはやクマについて書くことは何も残っていないのでした。そうそうクマに遭うことないですからね。

2018年2月 6日 (火)

三谷センセイはさすが

長いこと書いていませんでしたが、読み返すと「思い込み」について書いていたようですね。で、話を「思い込み」にもどすと、思い込みを裏切られる快感というのも存在します。期待を外されてしまいながらも、「そういうことか」という「発見の喜び」があります。推理小説の意外な犯人というのもそうですし、トリックを見破れずに、まんまとひっかかったりするのも楽しいものです。

クイズでもよくありますね。たとえば、生年月日も同じで、顔もそっくり、名字までいっしょという2人に「ふたごか」とたずねると、そうではないと言う。なぜでしょう、という問題です。答えはみつごのうちの2人だった、というもの。あるいは、交通事故にあった見知らぬ子供を助けて、病院に連れて行ったら、「なんということだ、これは私の息子だ」と医者が言った。子供は意識があるので、「この人はおとうさんか」と聞くと「ちがう」と言う。なぜか。答えは、お母さんだった、というもの。こういう場面では、なんとなく男の医者を想像してしまうものですが、女医であっても不自然ではないはずです。これも思い込みですね。でも、いじわるクイズとはちがって、答えを聞いたときに、なるほど、と思います。「スッキリ!」と言って、ボールを投げ込みたくなります。何のこっちゃわからん人も多いと思いますが。

答えを聞いたら快感というのは、視点を変えたり、発想の転換をしたりすることで解決策が見えてくるからですね。トイレの消臭剤というのがありますが、私はあれが気にくわない。あれは、匂い消しではないのですね。妙に甘ったるい匂いで、トイレにこもった匂いをごまかそうとしているのですが、なんというか、「甘ったるいウ○コの匂い」になってしまうのですね。強烈な匂いを、より強烈な匂いで消そう、という発想では解決できないのではないか。匂いの成分はインドールとかスカトールというやつですから、こいつらと化学反応させて別の無臭の物質(もちろん無毒でなければなりませんな)に変えてしまうような消臭剤というのが開発できないのでしょうか。これぐらいのことはだれでも思いつきそうなので、すでに開発済みなのかもしれませんが…。「上書き」ではなく、別物にすることで匂いを消す、というのは「発想の転換」なのですがね。

発想の転換どころか、逆転の発想というのもありますね。落語の『地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)』の中で、三途の川をわたる途中、「川にはまるなよ」と注意される場面があります。そこのせりふが「おぼれたら生きるぞ」というやつ。ジワジワとおもしろい。『煮売屋』という落語の中でも、店の主が売っている酒について説明するところがあります。「村さめ」「庭さめ」「じきさめ」という酒で、その店で飲むとホロッと酔いが回って何ともいえない気持ちになるのですが、村を出外れるころにさめるので「村さめ」、店で飲んで庭へ出るとさめるのが「庭さめ」、飲んでる尻からさめるのが「じきさめ」。「酒の中に水を混ぜるんやろ」と言われて、主は「そんなことしやせん、水の中へ酒混ぜます」「水くさい酒やなあ」「酒くさい水です」。

イヌイットに冷蔵庫を売る方法というのもありました。北極に住んでいて天然の冷凍庫を持っている彼らに、「凍らないから食材をおいしく保てます」と言って売るという有名な話です。アフリカに靴を売りに行くセールスマンという話もありました。そのころのアフリカでは誰も靴をはいておらず、はだしで歩いていたという設定です。二人のセールスマンが、それぞれ自分の会社に報告をするのですが、一人は「みんなはだしなので、アフリカには靴のニーズがありません」、もう一人は「みんなはだしなので、アフリカは大きなマーケットになります。ビッグチャンスです」と言った、という話。酒飲みが飲みかけでおいたままの酒ビンを発見して、「ああ、もう半分しか残っていない」ととらえるか、「やった、まだ半分残っている」ととらえるか、というのもありました。これはどちらに焦点をあてるかということで、老婆に見えるか若い娘に見えるかというような「だまし絵」もそうですね。

同じ条件でもどちら側から見るかによって、大きく印象が変わっていきます。幕末史など、その典型かもしれません。会津方から見るか、朝廷側、薩長側から見るか。推理小説でも、探偵側からではなく、犯人の側の視点に立つ「倒叙型」のストーリーもあります。「刑事コロンボ」とか、コロンボを真似た「古畑任三郎」とかですね。3分の1は、1を3等分したものなのか、3つに分けたうちの1つと見るのか。0は何もないということを意味するのか、0という状態が存在しているということを意味するのか。あるいは0はすべてがなくなったのか、それともこれから何かが生まれるのか。解釈次第で変わるのなら、プラスになる方向でとらえたいですね。ただし、プラスを極限にまで推し進めるとマイナスになることもあるので厄介です。吸血鬼がすべての人間の血を吸って、みんなが吸血鬼になったら、吸血鬼の天下のように見えますが、実は吸える血がなくなってしまいます。うそつきが100パーセントうそをつけば、真実の情報を伝えることになり、結局うそがつけなくなってしまう。シェークスピアも言っています。「きれいはきたない、きたないはきれい」と。

ちょっとちがいますが、一つのストーリーを逆から組み立て直すというのもあります。たとえば桃太郎の紙芝居があったとして、絵を最後の一枚から順に出していって意味の通るストーリーにする、というやり方です。家にある宝物が邪魔なので、鬼ヶ島に行って無理矢理鬼に押しつけた桃太郎ですが、帰る途中、家来たちに愛想を尽かされ、犬・猿・雉はきびだんごを餞別に渡して去って行きます。家に帰った桃太郎はなぜかどんどん小さくなっていき…、とここまではなんとかなるのですが、最後に桃太郎をどうやって桃に押し込むかが問題です。

同じ逆パターンでも、桃太郎側の視点ではなく鬼の視点からストーリーを組み立てることもできるでしょうし、これは何人かが試みているようです。芥川龍之介も「性悪な桃太郎が楽園で暮らす鬼たちを理不尽に襲う話として描いていますが、こういう設定もありでしょう。こんな風に反対側の視点からとらえてみると新鮮な見方ができます。大河ドラマ「真田丸」の終わりのほうで、幸村の守る真田丸に攻め寄せてくる井伊勢を見た幸村が「我ら同様、あちらにもここに至るまでの物語があったにちがいない」というような台詞を言うシーンがありました。もちろん、次に「井伊直虎」をやることがすでに決まっていましたから、その含みを持たせたさりげない「予告」になっているわけで、さすが三谷幸喜、いろんなところで遊びがありましたな。

2017年12月 3日 (日)

平和な山登りでいいのか?

何年も前のことですが、とある温泉で話をした見知らぬじいさんに、「天気が良くて楽しかった登山より、天候が荒れて楽しくなかった登山の方が思い出に残るよな!」というようなことを言われましたが、まことにそのとおりです。ふと目を閉じ、山に思いを馳せればまぶたの裏によみがえる悲惨な山行の数々・・・・・・。あるときは風に吹き飛ばされないよう岩に抱きつき、あるときは吹雪のなか必死でテントをおさえつけ、またあるときは大雨でテントの中が水びたしになり・・・・・・。いったい何がうれしくて山なんかに来てしまったのか? 毎度毎度びしょびしょになってこごえて臭くなって、俺はバカなのか?

ところが! どうも様子が変わってきました。・・・・・・この前登ったのどこの山だっけ? と数秒間考えこむ、ということが最近よくあります。記憶力が低下したわけではありません。(もともとあまりない。)

これは、かつて「嵐(台風)を呼ぶ男」と呼ばれたほどの雨男の私が最近絶好調だということに他ならないのです! あのおじいさんの言葉がまさにこの事態を表していたと言っても良いでしょう!

先日、中央アルプスを縦走した折も、なんだか天気が良くて不気味でした。ヤマテン(山の天気予報)の不吉な予報にもかかわらず、三泊四日の縦走で雨に降られたのは最終日だけ(さすがに三泊四日だと一日も降られないということはまずないです)。三日目の宝剣岳直下からの登りの際にはそこそこ風雪に見舞われましたが、まあその程度です。二日目なんて、あまりにもぽかぽかといい陽気なので、空木岳と木曽駒ヶ岳を結ぶ稜線のとちゅうにある檜尾岳の山頂でワイン飲んで昼寝してしまいました。

確かに幸せでした。しかし、何ていうんでしょう、いまひとつインパクトに欠けるというか、うーん、そのときは確かに幸せだったんですが、思い出して幸せになるかというとべつにそうはならず、むしろ現在の不幸が際立つだけというか・・・・・・人に話してもおもしろいわけじゃなし、せいぜいY田M平をうらやましがらせるぐらいしか楽しみがありません。そういうことなのです。

かといってじゃあ次の山行は荒れてほしいかというと、それもどうなのか。うーむ。

しかしここでさらに考えてしまうわけですが、僕が山に登っている姿を傍(はた)から見た人はどのような印象をうけるのか? あるいはその姿を僕自身映像として見たときにどう見えるのか?

燦々と降りそそぐ陽射しのなか、乾いた登山道を楽しげに登っているわしの映像と、激しい風雨(雷鳴付き)のなかこごえる手で岩を掴み歯を食いしばって登っているわしの映像を想像するに、これは明らかに後者の方がかっこいい!と思ってしまうわけです。そういえば6年生の子たちにも言ったことがあります。きみたち、確かにユニバーサルなスタジオで遊んでいる人たちはキャッキャキャッキャと楽しそうでうらやましく思えるかもしれない。でも、「かっこよくはない」だろう? その点どうだ、真剣な眼差しで文章を追い、必死で考えて問題を解こうとしている人の姿は、ちょっとばかりかっこいいではないか。だろう? なに、そんなことない? いやそんなことないはずはないはずだ、そういう方がかっこいいんだ、考えてみたまえ、少なくとも男子諸君にはわかるはずだ、仮面ライダーだって傷つきながらも全力を尽くして戦っている姿こそがかっこいいだろう? それにくらべれば「◎◎ジャー」のシリーズは、ちょいちょい主人公サイドが敵を楽しそうにいたぶっているときがあるが、あれははっきり言って醜い、いくら相手が悪者だとしても生き物だ、それを傷つけて喜ぶなんて人間としてどうかと思うだろう? な、な? ちょっと後半話がずれたかもしれないが、わかるだろう?

僕が小学生のとき、『八甲田山』という邦画がヒットし、その予告篇がわれわれ小学生に多大なインパクトを与えていました。当時、小学生(男子)たちは、ちょっと風が強かったり寒かったりするとすぐに「天はわれわれを見放した!」と叫んではバタッと倒れるまねをしていたものです。つまり、そういう「悲壮」さの美学みたいなものが子どもにもあったと思うんですね。苦悩とか満身創痍とかがかっこよく見える、というような。といって、だから若者よ平和を満喫して楽しく青春を謳歌していないで兵隊になってお国のために戦って玉と散れ~なんて言われるのもぞっとしてしまう話なので、まあそんなヒロイズムはちょっと論外としても、楽しくてにやけてばっかりいる顔よりは真剣にものごとに取り組んでいる姿の方がたしかにかっこいいかもしれないというのは、だれしも感じるところではないでしょうか。いつもへらへらと手をぬいている人間より、真剣に仕事やら何やらに打ち込んでいる人の方がもてますよね、きっと。

というわけで、希学園の受験生諸君にも、そういうかっこいい人になってほしいと心から願っている私でありました。これぞ克己だ!

 

2017年11月19日 (日)

「初夏の旅なつかしく ①」

ご無沙汰しております。国語科の矢原です。国語科員ですので筆無精だとの認識はないのですが、ほかの先生がたに任せっきりのおんぶに抱っこになっていました。
その時どきの感慨を数行にしたためたりしております。その書き付けを頼りに数年前を思い出しながら初夏の旅の様子を振り返ってみます。写真もあまり撮りませんので文字ばかりですが、それもまた一興かと。


「Driving in May」
ビューン Go Go Expressway!
夜明けの出発 初夏の快適
サービスエリアで朝のコーヒー
目的地まで あと300キロ!

うまく休めそうだったので珍しく宿まで取って出かけました。折角の機会を有効に使うため、前日は寝たこともない時間に床に就きまして。まだまだ夜明けとは言いがたいころに出発です。
暗いうちにどんどん進みます。なんと今回は、初日の朝ご飯を旅先で食するという大胆な作戦です。もちろん行き先は決まっていますがどこを訪れるかは大まかにしか決めていません。静かなところでゆっくりするなどという思想も全くもって持ち合わせません。当地を味わい尽くすつもりで盛りだくさんにメニューを詰め込みます。
中国自動車道をしばらく走ったところで珈琲タイム。さらにどんどん走って、海に下れば広島県の宮島という辺りでプチ仮眠。だんだん明るくなったところでさらに西へと進みます。


「命運の海峡」
初夏の関門海峡 光と陰よ
八艘飛びに 義経 踊れば
長州藩には 苦難と栄光
巌流島見ゆ 武蔵 見参!

そうです。旅先は山口県。まずは下関の海端にある唐戸(カラト)市場で絶品の朝ご飯。
本物の魚市場ですがもはや観光地です。まずは、市場で働く方々も利用する2階の食堂で定食をいただきます。新鮮なのを揚げたり煮たりしたのや刺身がどっさり。朝ご飯にお刺身は最高ですが焼き物や煮物も抜群です。鮮度がよいものは火を通しても味が違います。
食べ終わってから1階をぐるっと回ると魚介の卸の店舗でお寿司コーナーが始まります。小分けのパックに入ったのを買って、あちこちに置かれたテーブルとベンチでいただきます。美味しい握り寿司は別腹ですね。

満足したところで目の前の海峡を眺めながら腹ごなしのお散歩タイム。大小多くの船が行き交います。この海峡の通行料が長州藩の財政を支えたそうです。そのすぐ向こう届きそうで届かない距離に九州が見えます。海峡には物語が付きものですが、ここ関門海峡は数々の大がかりなドラマの舞台です。
朝の潮風を受けながら東向きに歩くと旧式の大砲が並んでいます。関門海峡の昔の名は壇ノ浦。幕末の長州藩が列強相手に攘夷の戦を敢行した場所であり、長州征伐の幕府軍を返り討ちにした場所です。古戦場である壇ノ浦砲台跡。車輪付きの木組みの上の西洋式大砲をさわると長州藩の難渋と歓喜が伝わってきます。旧式の大砲を捨て、最新鋭の火器と軍艦を手に入れた長州軍は生まれ変わりました。藩を窮地に陥れた大敗、歴史の転換点となった大勝利は共にこの海峡での出来事です。
砲台の脇には八艘飛びの源義経と、イカリをかついだ平知盛の像が向き合うように置かれています。振り返って唐戸市場の向こう側、関門海峡の西の端には巌流島が浮かんでいます。あの宮本武蔵と佐々木小次郎が戦った島です。若い頃に初めて九州を訪れた際にここを通って知りました。吉川英治の名作は高校生のころに読んだはずなのですが、巌流島の場所を意識していませんでした。

さあ車に乗りこんで出発。数分も走らずに「るるぶ」で見つけた赤間(アカマ)神宮に立ち寄ります。尼に抱かれて壇ノ浦に入水した安徳天皇を祀ったところです。ついでに訪れる場所はこうやって現地に来てから見つけていきます。
海峡に望む立派な神社はお寺のような風情。人も少ない静かな境内を奥へと進むと平家一門を祀る塚がありました。栄華を極めた一門がこの地で滅んだことがよく分かりました。その傍らには耳なし芳一を祀った芳一堂。こんなものが実際にあるとは思いもよりませんでした。

赤間神宮を出て少し進むと何やら施設がありまた車を停めました。いま調べると関門プラザというところでした。表示を見ていると関門トンネル人道というのがありました。なんとエレベーターで地下に降り、徒歩や自転車で九州に渡れるのです。時間の都合でほんの少し地下を歩いてみただけですが、非常に面白い体験でした。これまたいま調べてみると距離は780メートルで、海底の歩道の途中に県境の線があります。歩行者無料、自転車20円。

さてまだまだ午前中がたっぷり残っていたかと思います。次の目的地に向け出発します。
たかだか一泊旅行の話ですのですぐに終わるかと思って書き始めましたが、思い出すことや懐かしくて調べ直したことを書き始めると結構な量になりました。今日の所はこの辺で。
この調子であちこち見歩くのですが、盛りだくさんとはいえ駆け足で見て回るようなことはしません。食べたり飲んだりのぞき込んだり笑ったり感心したり、旅は楽しんでナンボです。

 


 

2017年11月 8日 (水)

またしても風呂で本を落とす

早いもので、秋になってもはやひと月たちました。まだ暑いんですけど夏はとっくに終わっています。秋です。

と書き出してから一ヶ月近くたちました。まさに光陰矢の如しですね。

と書き足してから早くも二ヶ月が過ぎ去りました。もはや光陰矢の如しというような悠長な言葉では言い尽くせない迫力がありますね。

♪夏が過ぎ風あざみ・・・・・・という曲がありますね。恥ずかしいことに私はあの曲を聴いて「風薊」という名前の薊があるのかしらと思っていました。ついでにいえば、赤い靴を履いていた女の子を連れて行ったのは「ひいじいさん」だと思っていました。これは私だけではないのではないでしょうか。「いいじいさん」だと思っていた人さえいるかもしれません。そういうかんちがいは誰しもありますよね。

なんて話を書こうと思っていたのがすなわち三ヶ月前です。でも何だかもうこの話題自体が私にとって古びて新鮮さを失ってしまいました。むかし、いただいたすいかを冷蔵庫に入れたまま半年以上放置していたことを思い出します。大学のときいっしょに暮らしていた友人からきた年賀状に「今年は大阪に遊びに行きたい」と書いてあり、「おお、ぜひ来てくれ。いつ来るんだね」と返事を送ったのがゴールデンウィーク過ぎで、友人に「何の話だ?」と言われたことも思い出します。

それはともかく、先日また本を風呂に落としてしまいました。風呂というのはこの場合浴槽内という意味です。しかもばしゃんと音をたてて文庫本が落ちたとき私は頭を洗っていました。それもシャンプーを洗い流しているときで、いわゆる最悪のタイミングでした。しわしわになったその本はとっくに読み終えましたが、古本屋に売れないのが残念です。多岐川恭という、もはや知っている人も少なくなったのではないかと思われる作家の時代小説です。とてもおもしろいんですが、そもそもこの本も古本屋で買ったものなのでまた古本屋で売ろうというのがせこい話ではあります。風呂に本を落としたのはこれがはじめてではありません。何年も前にこちらに書きましたが、五千円ぐらいする本を落としたときはさすがにショックでした。で、それからは、風呂では高い本は読まないようにしています。だいたい古本屋で買った時代小説とか推理小説なんかを読んでいます。これらは風呂専用です。

しかし、二束三文で買った娯楽小説を風呂に落とすのはともかく、先日、眼鏡を街中で落として紛失したのはさすがにショックでした。幼稚園の卒園アルバムに「落とし物と忘れ物の名人でしたね」と書かれただけのことはありますね。なんせ一日中眼鏡をかけているので、歩いているときぐらいはずそうと思って、胸にひっかけて歩いてたんです。で、ふと気づいたらなかったんです。あわわわわと慌ててさがしまわりましたが、なんせ眼鏡をしていないのでよく見えない。約百メートルにおよぶあやしい区間を3往復か4往復しましたが見つかりませんでした。落としたことに気づいた場所の百メートルほど手前の地点で、空き地に落ちているボールがくっきり見えていたという記憶があり、そこより前で落とした可能性はないので、ないはずがないのですが、どうしても見つからず、やがて薄暗くなってますます見えなくなってきたためにその日はあきらめて帰りました。翌日、とりあえず使い捨てのコンタクトレンズをして再捜索に行きましたが、何往復しても見つからない。もしかして、カラスとか野良猫とかが持って行ったのか? あるいはこの車の下に・・・・・・などと考えて通行人に怪しまれつつ軽トラの下をのぞき込んだりしましたがダメでした。で、しかたなく新しい眼鏡を買いました。

しかし、やはりどうしても前の眼鏡のことがあきらめきれません。思い入れがあるのです。なんせ二十年近く使っていたのです(もちろんレンズは交換しましたが)。その間、一度たりともネジが緩むことすらなかったきわめて優秀な眼鏡なのです(京都の眼鏡研究社で買ったんです、ミーハー?)。二三日してまた探しに行きました。ありませんでした。そうして台風22号が襲来しました。その翌日、やっぱり諦められずに探しに行くと、ありました。なぜだ? さがしたはずの場所なんですがね。もしや大雨のせいで、眼鏡がうずもれていたところのゴミが流された? というわけで、仕事の日は新しくつくった眼鏡を、そうでない日は古いつきあいの眼鏡を使用する毎日です。

2017年7月 9日 (日)

ほめられるとうれしい

先日、といってももう二ヶ月近く前ですが、西宮北口教室で「灘・甲陽・神女をめざす低学年児童のための読書案内」という講演会を実施いたしました。たくさんの方がおこしくださいました。ありがとうございました。会終了後、どきどきしながらアンケートを拝見したところ、「内容はもちろんですが、時間をわすれるくらいの惹きつけられるお話で、子どもの授業もそうなんだろうなと授業にも興味がわきました。」という過分のお言葉があり、激しく感動しました。がんばろう、また講演会やろう、何なら毎月でもやるぞ、授業もがんばろう、やるぞやるんだ、と燃えに燃えました。火がついてしまった私は、希学園の創立記念日の2日間、ほんとうは比良か奈良に山登りに行くつもりだったんですが、そしてそのために角形のハンゴーや強烈な虫除け(2年前に比良でぶよにやられたので)や鴨だしそばまで買って用意していたんですが、あっさり中止して、図書館でずっと教材作りの仕事をしていました。そのぐらい燃えてしまいました。ほめられると本当にうれしいものですねえ・・・。このブログだってごくたまにではありますが「読んでますよ」とか「楽しみにしてますよ」なんて声をかけられることがあり、何だかもういてもたってもいられないぐらいうれしくなります。子どもたちのことももっとほめまくらないといけないですね。良い答えを言ってくれた子には「なんて優秀なんだ!」、まちがった答えを言った子には「優秀な君でさえ!」、あまりにも論外な答えには「今日もギャグが冴えてるね!」。よし、これからはこれでいこう!

というわけで、ほめられて浮かれてしまったたために創立記念日には山に行き損ねた私ですが、実をいうと、残雪期にはちゃっかり北アルプスに行っていたのであります(創立記念日より前です)。今年は上高地から蝶ヶ岳に登り、常念岳まで縦走したのですが、またクマに会ってしまいました。

私のクマ遭遇率はすごく高い気がします。大雪山系ではヒグマに接近遭遇しましたし(何年か前にこのブログに書きました)、五色ヶ原でもハイマツ帯で若いツキノワグマにばったり出会って遁走させました。西穂高に行ったときはロープウェイから子グマを目撃しました。そして今年は上高地です。あの観光地の上高地でクマ! これはびっくりです。観光客がさほど多くない奥の方ではありますが、登山道ではなく遊歩道から見えるところにクマがいるなんてなかなかないことです。ふと見上げた急な斜面の中腹にいらっしゃって、思わず「まじか」と呟いてしまいました。もう、めっちゃ急ぎ足で通り過ぎました。途中で追い抜いた登山者に「さっきクマがいました!はあはあ」と報告したら、「えっ、見なくてよかった!はあはあ」とよくわからないコメントが返ってきました。でも何となく気持ちはわかります。確かに見なければ平穏な気持ちでいられます。

クマ遭遇率が高いのは、一人で山登りするからだと思います。かっこよくいうと、「単独行」です。いやそんないいものじゃないですけどね。友達がいないだけですからね。かつては「希学園山岳部」や、その分会であるところの「希学園シャワークライミング同好会」なるものがあったのですが(非公認組織)、Y田M平氏の体重増加および体力低下とともに活動休止に追い込まれました。したがって今後も否応なく一人で山登りせざるをえないわけです。何としても本格的なクマ対策が必要です。私としては東北の山に行ってみたいんですが、なんせ秋田から青森にかけてのあたりは去年から人食い熊が出没しているので、手も足も出ません。世の中にはクマ除けスプレーなるものもありますが、心がすぐに動揺する私は、クマが「がおー」と現れた瞬間うろたえてしまい、スプレー缶をふりまわして対抗するというような誤った対処法に陥りそうな気がします。クマよけの鈴が役立たずであるということは北海道でヒグマに遭遇したときに証明済みです。歌をうたいながら歩くときもありますが、息が上がってくるといつのまにか「はあはあ」と言うてるだけになります。

これはもうY田M平氏にダイエットを強要するしかありません。もともとY田氏のぜい肉は私が「秘技肉移しの術」によって私の腹部から移転させたものなので、彼が現在のような体形になってしまった責任の一端は私にあります。一ヶ月に8キロやせたことが3度もあるダイエットの天才たる私が指導すれば、Y田氏の体重などはあっというまに浅丘ルリ子なみになるはずです。問題はY田氏をいかにしてその気にさせるかということでありますが、これはもう「ほめる」しかないですね。ときどき思い出したようにヨイショはしているつもりでありますが、そのぐらいでは彼のビッグウォールのような心は動きません。彼のことをご存じの方は、彼を見かけたら「よっ、天才クライマー!」の一言をぜひともよろしくお願い致します。なんといっても彼は8000メートル峰にくり返し挑んだ(そして敗退した)経験を持つ、1.5流くらいのクライマーです。「天才クライマー」と呼んでも、まるっきり根も葉もないお世辞というわけでは(いやまあお世辞にちがいはありませんが)ありますまい。気をよくした彼がダイエットにいそしみ、私のクマ除けとなってくれることを祈りつつ、本日は筆をおきたいと思います。

あっ、大事なことを忘れていました。

7月15日土曜日の午前、西宮北口教室で『通塾前の家庭学習』というテーマで講演会的なことを実施致します。なんといっても「通塾前」なので塾生の方にはあまり関係ないのですが、もし知り合いの方で興味を持たれそうな方がいらっしゃいましたら、ぜひぜひご紹介ください。今回は国語の話だけではなく、全教科的にお話ししたいという野望を持っております。よろしくお願いします~。

2017年6月11日 (日)

六甲山から見える夜の夜景について~トミー・スマイリー試論~

トミー・スマイリーといえば希学園国語科では知らぬ者とてないナイス・ガイです。トミー・スマイリーという芸名はもちろん私が勝手に付けたもので、いつも口元が緩んで何かうれしそうにニマニマしているように見えることと、須磨に住んでいることとをかけて「スマイリー」、「トミー」は言わずもがなというか、まあそのまんまですね。

はじめて出会った頃から私はトミー・スマイリーに注目していましたが、それは彼が天下の名門灘校卒だからではなく、、不注意かつ不用意、何とも言えずうかつな人物だからです。彼の名がメイ・デーの『インターナショナル』のように国語科の中に轟きわたったのは、忘れもしない豊中教室で授業前に彼が「いやあ、ぼくが昔、彼女と六甲山に夜の夜景を見に行ったとき・・・・・・」とのたまったときでありました。

「夜の夜景!?」

これはいわゆる重複表現、「馬から落馬する」「骨を骨折する」「ピッチャー第一球目投げました」「違和感を感じる」のより壮絶なバージョンではなかろうか? 文章というのは冗長度があまり低いと理解しづらくなるものなので、ある程度の重複表現はしかたないというか、あってもいいと思うわけですが(「まるで雪のように白い」なんて言い方も重複をふくんでいると見ることができますよね)、それにしても「夜の夜景」はひどい。安倍首相が言ったとされる「諸君たち」とどっこいどっこい、あるいはもっと拙劣かもしれません。

そのとき、トミー・スマイリーの人生はたしかに変わったのでした。以来、つねに彼の背後ではひそひそと声がするようになりました。

「灘校?」「うそでしょ?」「だって」「え?」「夜の夜景?」「朝のモーニングコーヒー?」「お昼のランチ?」

疑惑をいつまでも疑惑のままにしていてはいけないと思い、私は本人に確認することにしました。

「ヘイ、トミー。君が灘校卒っていうのはほんとうかい?」

「ホワッツ?」

その後彼は疑いを晴らすべく、在校中の学生証(であると彼が言い張る物体)をみんなに見せびらかしたり、住吉近辺のおいしいラーメン屋について語ったり、灘校の先生の名前をいかにも知ったげに話に織り交ぜたりと、涙ぐましい努力をしていたのですが、ある日、決定的な出来事が起こってしまったのです。

文化祭見学で灘中学校に塾生を引率したときのこと、任務を終え、私はひとり住吉川をぶらぶらと散歩しておりました。私はふと、奇妙なことに気づきました。住吉川はJR住吉駅と灘校のあいだを、北から南へと流れています。私は灘校に来るときはいつも大阪方面から電車で住吉駅に着き、東へと引き返すようなかっこうで灘校まで来ます。しかし、電車から住吉川を見た記憶がまったくないのです。これはどういうことか? 答えは簡単でありまして、住吉川はJRの線路の上を流れているから、電車から見ることはできないわけです。川底がどんどん高くなっていく、いわゆる天井川というやつですね。何だか不思議です。

この話をしたら、トミー・スマイリー氏はきょとんとし、

「え? まじですか?」

「知らなかったのかい?」

「はあ」

「灘校卒なのに?」

「いや、まあ」

「ほんとに灘校?」

というわけで、疑惑は深まって今に至っているわけです。

「良いイメージはすぐに底をつく貯蓄のようなもの、悪いイメージはいつまでも返しきれない借金のようなもの」というのは今考えた私の名言ですが、トミー・スマイリーがこの借金を完済できる日は果たして来るのでしょうか?

2017年5月31日 (水)

コンダラって何?

肩がこらないのでミステリー系が好きなのですが、伊坂幸太郎の『死神の精度』か何かに出ていた「雨男」と「雪男」の違いというのは、なかなかおもしろい。ことばの形式としては同じなのに、全く違う意味になります。ここまでの違いでなくてよいのなら「たこ焼き」と「目玉焼き」のような例がいくつもあります。「たこ焼き」はたこそのものを焼いているわけではないのですが、たこは入っています。一方の「目玉焼き」は目玉を焼いているのではありません。

「ないものはない」が二通りの意味にとれることは前にも書いたと思うのですが、西野カナの「あなたの好きなところ」という曲名は「あなたのよい点」という意味でしょう。でも「あなたが好む場所」ととれなくもない。「歌っていいな」と言うと、歌のすばらしさについてのつぶやきともとれますし、相手に自分の歌を聞くことを強要しているようにもとれます。文に書いたものを読む場合には、あきらかに二通りにとれるものでなくても、一瞬迷うものがあります。「この先生きてはいけない」は、特定の先生が来ることを拒否しているのか。「とんねるずらも同行した」というのは、静岡弁を喋ったのかと思ってしまいます。「青色っぽい自動車」は見た瞬間、「色っぽいって?」と思います。かんちがいと言えばかんちがいですが。

「出汁」を「でじる」と言う人がいますが、それは変だ、「だし」ではないかと思ったあと、でも「出汁」と書いて「だし」と読むのも妙と言えば妙、「出」の部分が「だし」なのだから「だしじる」と読んでもよいのではないかとも思えます。ただ、語感としては汚い感じがあって、自分が言うときには「だし」、読むときには「だしじる」と区別したり。結局その人の心理が「まちがい」にも反映されるのでしょうね。「ひわまり」や「おさがわせ」など、発音しやすい方を選ぼうとする万人共通の心理でしょう。「米朝会談」とあればアメリカと北朝鮮ですが、落語ファンなら思わず「桂米朝」だとかんちがいするのは「思い込み」のせいです。

朝日新聞のだれかの寄稿で、「コーラをどうぞ」と言われて出された麦茶を飲んだら思わず吐き出してしまう、というのがありました。ことばもともに飲んだり食ったりしているのだという結論だったように思いますが、これもコーラだと思い込んでいたからですね。その思い込みの盲点をつかれるとうろたえます。「玉手箱をあけたら煙が出て浦島太郎はじいさんになった。なぜか?」と問われたら、煙の正体を考えますが、答えは「太郎が男だったから」と言われて、「えっ、そこ?」と思います。でも思い込みから外れると、そういう答えもあり、ということに気づきます。自分の思い込みだけで考えようとすると、煙とじいさんの結びつきを別の発想でとらえることができなくなります。

有名な「重いコンダラ」というのも思い込みですね。『巨人の星』のテーマソングの「思い込んだら」をグラウンドの整備に使うローラーを引く姿と重ね合わせて「重いコンダラ」と「思い込んだ」のです。落語にも、「一つき百円で食べる方法」の答えが「心太を食え」というのがあります。ところてんは箱に入れて、後ろから突くと、前の金網を張ったところからニュルニュルと出てきます。「一月」と思ったら「一突き」だったということです。「心太」はもともと「こころふと」で、「こころ」は「凝る」、「ふと」は太い海藻の意味だったのが、「こころたい」→「こころてい」→「こころてん」→「ところてん」になったとか。

それはさておき、国語が弱い人って、設問の狙いを見抜けずに、思い込みで答えようとするのですね。浦島太郎の例で言えば逆に、用意されている答えは「煙の正体は浦島太郎から奪われていた時間だったのだ」のようなものなのに、「男だから」と答えて笑われてしまうのです。「どうして学校に行くの?」「学校が来てくれないから」のパターンです。国語の場合は傍線の引き方に注目すると、何が要求されているのかわかることもあるのですが、やはり不注意な人が多いようです。

こうなると思っていた、というのは思い込みと言うより「決めつけ」ですね。「カレーの口になっていたのに」という言い回しを聞くことがあります。カレーを食べるつもりになっていたのに、それを外されたときのガッカリ感は大きいものがあります。期待を裏切られるとつらいのです。これは出題者側にもありますね。「あの店はセイキョウだ」という書き取りを出題して「生協」と書かれたら、これはつらい。「サイコウのよい部屋」を「最高」と答えられてもペケにはできません。問題の出し方がまずい場合も多いのですね。「サイコウがよい部屋」としておけば答えは一つに決まります。

こういうのは仲間はずれを答えさせる問題でもよくあります。お入学の試験で「ウマ・ウシ・ウサギ・トラ」と出して「ウで始まる」という基準で選ばせようとしたら、字数に注目して「トラ」と答えられるかもしれません。「ネコ・ウマ・ウシ・ヘビ」は「哺乳類」かどうかでしょうが、「十二支にはいっているかどうか」という観点でも答えられます。「シマウマ・ウミネコ・アナグマ・ムササビ」なら、鳥がまじっているというのが素直ですが、ムササビだけは二字の組み合わせのことばではないという高尚な答えも考えられます。「カバ・トラ・カッパ・ヤギ」なんてのは、実在するかどうかなのか、漢字に直したときの字数なのか。「ウサギ・キツネ・タヌキ・スパゲッテイ」で「スパゲッテイ」と答えたら、「残念でした。ウサギ以外は麺類です」と言われるかもしれません。

何を基準にするか、というのは重要ですね。「服従」の反対は、一人の人間の態度として考えれば「抵抗」ですが、「服従」する側の反対、と考えれば「支配」でもいけます。いじわるクイズでもよくありますね。「エッグはなにご?」と聞いて「英語」と答えれば「たまご」と言い、「ストロベリーはなにご?」と聞いて「いちご」と答えれば「英語」と言い、「コーヒーは?」と聞いて相手が首をかしげれば「食後」と言います。「きょうきて、けさよむものは?」の答えは「朝刊」でも「坊さん」でも、相手の答えとはちがうほうを言います。折紙の「だまし舟」みたいなものですが、最近は折紙なんかするのかなあ。

「折紙つき」の「折紙」の実物はなかなか見る機会がないのですが、最近の刀剣ブームで見ることができるかもしれません。実物を見ておくことは大切です。昔、脚本の授業のとき、本物のシナリオを持ってきてくれた生徒がいました。映画の子役をやっていて、自分が出た映画やドラマの脚本を持ってきてくれたのです。ちょうどサンテレビの再放送の「大奥なんちゃら」というドラマで、徳川将軍のあとつぎの役で出ていました。灘中に行ったけど、その後どうしてるのかなあ。

2017年5月14日 (日)

読まずに死ねるか!

横溝の名前が出てきたので、久しぶりに最近読んだ本について書きましょう。

法坂一広『弁護士探偵物語・天使の分け前』。作者は現役の弁護士だそうですが、チャンドラーのパロディみたいで、正直言って「つくりもの感」濃厚でした。いくらハードボイルドと言っても、これはないわーという印象でした。懲戒された弁護士の「私」が、アルバイトとして探偵事務所の手伝いをしているときに殺人事件に巻き込まれ、容疑者として逮捕されるというストーリーは悪くないのに、文体がネックになってしまいました。

塩田武士『盤上のアルファ』。神戸の新聞社で警察担当だった記者が「おまえは嫌われている」と言われて、なぜか将棋担当に「左遷」されます。そこで知り合った真田信繁は33歳からプロの棋士を目指そうとしています。将棋を題材としていておもしろいのですが、新人賞の受賞作らしく、やはり粗削りな感じがします。この人の作品は先に『女神のタクト』を読んだのですが、これも引退した世界的な指揮者を探し出して、経営難の神戸のオーケストラを再建させるという、マンガっぽい話で、これはこれでおもしろかった。グリコ・森永事件を題材にした『罪の声』は読んでいないのですが、いろいろな賞をとっているようです。

原田マハ『奇跡の人』。ヘレン・ケラーとアン・サリヴァンの話です。三重苦の少女、介良(けら)れん、岩倉使節団の留学生として渡米した弱視の去場安(さりばあん)という名前がわざとらしいのが気になりますが、もう一人盲目の旅芸人をからめて、筋の運びとしては読みやすいものになっています。去場安は津田梅子のイメージですかね。「感動」というほどではなかったのが残念。この人の作品は『本日はお日柄もよく』もそうですが、読みやすい分、深みがないという感じがします。

恩田陸『夜の底は柔らかな幻』。直木賞作家です。日本の中にある治外法権の土地「途鎖」には、「イロ」という特殊能力を持つ者が多く存在しており…という、外国のSFによくある、詳しい説明もなく、最後まで何のことかわからないパターンでした。コッポラの『地獄の黙示録』をイメージしたとかいうのも納得です。とくに後半はグダグダで着地失敗という感じでした。恩田陸はたまにこういうことをやらかしますね。好きな作家なのですが。

サラ・グラン『探偵は壊れた街で』。「最高にクールな女性私立探偵」という謳い文句だったので、ハードボイルドを期待したのですが、探偵とは何ぞやみたいなところに力点を置いて、内面に入り込み過ぎています。読んでいて楽しいものではなかったなあ。

ダニエル・フリードマン『もう過去はいらない』。シリーズの二作目です。軽度の認知症がある88歳の要介護老人が主人公のハードボイルド。元殺人課の名刑事が歩行器を使って活躍するというアクションもので、イメージはクリント・イーストウッドです。ユダヤ人としてのアイデンティティもテーマの一つですが、とにかく荒っぽすぎるバイオレンスじじいです。そのため読後感はさわやかではありませんし、過去と現在が不規則に入れ替わる組み立てがわずらわしい感じでした。

スティーブン・キングの作品も久しぶりにたてつづけに読みました。「ダーク・タワー」のシリーズでドッと疲れて、ご無沙汰していましたが、『アンダー・ザ・ドーム』『11/22/63』『ドクター・スリープ』『ミスター・メルセデス』を一挙に読みました。『アンダー・ザ・ドーム』はアメリカの小さな町がなぜか見えないドーム状の障壁に囲まれて、外の世界と隔絶されるという、「設定だけ」の作品です。それを大長編に仕立てあげるキングの力業で読ませます。小松左京と同じように、「もし~たら」という発想をふくらませるテクニックはやはりさすがです。見ていませんが、テレビ・ドラマにもなっています。『11/22/63』は平凡な高校教師がタイムトンネルを通って、1958年の世界に行き、そこで過ごしながら、1963年11月22日のケネディ大統領暗殺を止めようとする、という話です。タイムトンネルは1958年のある日にしか行けません。ただし、そこでなんらかの行動をすると、現在に影響を及ぼします。過去にもどって過去を変えたら、時の流れはどう変わっていくのかという、よくあるパターンをやはりキングはうまく読ませてくれます。これもテレビ・ドラマになっています。『ドクター・スリープ』は名作『シャイニング』の続編です。『シャイニング』が未読であると、ちょっとしんどいかもしれませんが、長い話を一気に読ませてくれます。これは映画化されるそうな。『ミスター・メルセデス』はホラーではなくミステリーで、エドガー賞もとっています。就職フェアの行列にメルセデス・ベンツが突っ込み、8人の死者と多数の負傷者を出します。担当刑事は定年退職するのですが、その犯人からの挑戦状が来るという発端です。ミステリーとしてはいまいちだったような気もするのですが、三部作の一作目なので、続きもまた読むんだろうなあ。

阿部智里『烏に単は似合わない』『烏は主を選ばない』『黄金の烏』。評判のよいシリーズですが、小野不由美の「十二国記」に比べると、読むスピードがなかなか上がらない。文章はけっして下手ではないのですが…。

中村ふみ『裏閻魔』。長州藩士の主人公が新撰組に潜入するところから始まって、昭和の時代まで続くシリーズものです。主人公は刺青によって不老不死の呪いを背負ってしまうというラノベ系です。当然読みやすく、そこそこおもしろい。アニメになりそうな気配も濃厚です。

古野まほろ『ぐるりよざ殺人事件』。鬱墓村を舞台とした、横溝正史オマージュ作品なのですが、「セーラー服と黙示録」のシリーズなので、おっさんの読むものとしては大きな声では言いにくい。秋吉理香子の『暗黒女子』もだいぶ前に読んで、「イヤミス」としてはなかなかおもしろかったのですが、これもおっさんの読むものとしては…。

ちなみに最近見た映画は『相棒』です。「人質は50万人!」というやつです。読むものも映画もかたよってますなあ。あ、ちょっと古めのものですが、『リチャード二世』というのも見ました。BBCの「嘆きの王冠 ホロウ・クラウン」の劇場版です。シェークスピアの原作を下敷きにしており、セリフにリアルさのかけらもないところがなかなかよかった。でも、このシリーズを全部見ようと思ったら、一万円以上かかってしまう。見るべきか見ざるべきか。

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