2015年2月22日 (日)

2015入試分析会1

ブログの更新を徹底的にさぼっているあいだに入試が終わり新年度がはじまり、入試分析会が近づいています。いや~、さぼったさぼった。気になっていなかったわけではないんですが、また今度ね、みたいな感じで後回しにしているうちに今日の良き日になってしまった次第です。

1月にはよく淀川の河川敷を散歩しました。激励のあととか、会議の前後とか、まあなんやかんやでちょっと空き時間ができるときがあって、そういうときにブログ書かずに(頭がぼんやりしているので文章なんか書けない)、十三教室を出て、阪急電車の高架下あたりからぶらぶら河川敷を歩くわけです。アンゲロプロス監督の『ユリシーズの瞳』というギリシャ映画がありますが、あれのサントラを聴きながら、どんより曇った空の下、鈍色の水面と枯れ草を眺め歩いていると、なんていうか、えもいわれぬ玄妙な気分でした。河川敷在住のおじいちゃんと立ち話をしたこともあります。ある日、このときは確かヤン・ガルバレクのソプラノサックスを聴きながら河川敷の小屋の前を通りかかると、大量の空き缶でぱんぱんになったぼろ布の袋を、自転車の荷台に載せようとして四苦八苦しているじいさんに、「手伝ってくれ」と声をかけられたんです。手伝ってあげたらにこにこと喜んでくれて、それからしばらく話をしました。小屋を取り囲むさまざまなオブジェに、いろいろな歴史上の人物の辞世の句を書き付けている、ちょっと興味深いおじいさんです。歴史と川端康成が好きなんだそうです。猫がいっぱい住みついているんですが、どれもけっこう美猫で、いいもの食ってそうな感じでした。自転車のかごに本が入っていて、『できる人の時間の使い方』という題でした。

べつの小屋の前を通りかかったときには飛び出してきた二頭の犬に前後をはさまれて吠えられ、血の気が引きました。あとでY原先生にこの話をすると、「うーん、まるで熊を襲う猟犬のようだ」と。つくづくクマに縁があるなあと感無量です。

またさらにべつの小屋の前を通りかかったときには、巨大なニワトリが迫ってきて、必死で逃げました。なぜこんなところにニワトリがいるんだあ! 

凄すぎるぜ、淀川の河川敷。

あ、忘れていました。入試分析会があります。

3月5日谷九

3月6日四条

3月11日西北

です!!

ぜひぜひみなさまお誘い合わせのうえ、お越し下さい!

2015年2月16日 (月)

「国語まにあっくす」サイトドメイン変更のお知らせ

いつも国語まにあっくすをご覧いただきありがとうございます。

この度、国語まにあっくすはサイトドメインの変更をいたしました。

誠に恐れ入りますが、「お気に入り」「ブックマーク」等にご登録いただいております皆様は新しいURLアドレス(https://nozomigakuen.lekumo.biz/)で登録し直していただけますようお願いいたします。

■新URLアドレス

https://nozomigakuen.lekumo.biz/  

※旧URLにアクセスいただきましても、自動的に新URLに転送されます。(2015年3月末まで)

希学園

2014年12月14日 (日)

12月

12月もすでに中旬ですね。寒いです。寒さのあまり、最近寝相がめっきり良くなっています。もともと寝相は悪くなくて、眠りに落ちたときの姿勢のまま目覚めます。だから、長時間眠れず熟睡できません。簡単にいうと、「眠ったまま寝返りを打つ」ということができないみたいなんです。寝返りが必要なタイミングになると目が覚めて、意識的に姿勢を変更して、そしてまた眠る、みたいな感じです。いや、もちろん、寝返りを打つときもきっとあるんだとは思いますが、明らかに少ないと思います。で、寒くなるとますますその傾向が助長されます。

なぜこんなことになったのか? 思いあたるのは大学生のときで、これは前にも書いたことがあるような気がしますが、友だちと一軒家を借りて3人で住んでいたときに、ひと夏過ぎたら、押入に放りこんでおいた掛け布団や毛布が黴びていたことがあったんですね。で、敷き布団の上で寝袋にもぐりこんで眠っていました。ご存じのように寝袋は狭いんです。それで私はまっすぐ上を向いて、手をからだの前で組み合わせ、まるでツタンカーメンみたいなかたちになって眠っていました。そのせいだと思うんです。実に劣悪な学生&プー太郎時代でした。

教育講演会があり、その実践編があり、僕にとってはなんだか怒濤のような10月11月でしたが、入試対策がはじまるこれからがほんとうの怒濤の日々です。毎年、入試が終わったら雪山に・・・・・・などと思うわけですが、最近めっきり寒がりになり、結局億劫で行きません。温泉にでもゆっくり・・・・・・などと口走ることもありますが、よく考えたらべつにそんなに温泉好きでもないので、それほど魅力的じゃなかったりします。ウィンタースポーツは、スキーもスケートもまったくできません。できないだけでなく憎悪しています。できないから逆恨みしてるんです。八方尾根から下山するときに強風でリフトが止まり、しかたなくスキー場を歩いて下りたことがありますが、横をスキーヤーたちがびゅんびゅんと滑り下りていき、とても怖かったことがあります。そんなこともあってますます嫌いになりました。冬とは関係ありませんが、カラオケも嫌いです。知っている歌が少ないし、だれも聴いてくれないからです。だれも聴いていないと知りながら歌いつづける・・・・・・なんだか立原道造の詩の一節みたいですね。「そして私は/見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を/ だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた・・・・・・」とかなんとか。

すみません、そんないいものじゃありません。歌ってるのも『ひょっこりひょうたん島』か『新造人間キャシャーン』ですしね。

それではみなさま、風邪など召さぬよう、気をつけてお過ごしください。つぎの更新はいつになるやら!

2014年11月 3日 (月)

イチゴパンツの変

世の中には「自慢したがり」がいます。みんなが知っていることがらについて、「あれは俺がやった」と自慢する人がたまにいますね。実際に多少はかかわったのかもしれませんが、全面的に自分のおかげでうまくいったかのように、「あれは俺がやった」と言う人は「アレオレ詐欺」と言われます。と言うと、「あの言葉は俺が作った」と言う人が出てきて、どこまで行ってもきりがありません。

遠藤周作の奥さんが書いたものをもとに描いたドラマをテレビでやっていましたが、遠藤周作が子どものころ通っていた学校の場面が出てきます。灘ですね。学校にロケに来ていたと、灘の生徒たちがうれしそうに言っていました。その中の遠藤周作のとなりで笑ってた子どもをテレビで見ていた灘の出身者が、「あっ、これ俺やがな」と思ったかもしれません。事実を元にしているわけですから、当然遠藤周作のとなりに座っていた人はいるでしょう。

こういうのは、ちょっと自慢できるし、その自慢もかわいいものですが、世の中には変な人がいて、「小説」の主人公が自分だと思ってしまう人もいるようです。で、作家にストーカーのようにつきまとうんですね。「私のこと書いた?」とか言われたら作家も困るでしょうね。これは北杜夫が書いていたのではないかな。たしか傘をさしながら電柱のかげから北杜夫の家をじっと見つめていたとか。そこまでいかなくても、作中の人物に実在のモデルがいるかどうかでもめることもあります。山崎豊子は結構あったのではないでしょうか。裁判になったのもあったはずです。これが歴史上の人物なら問題ないんですね。なにしろ相手はとっくの昔に死んでいるわけですから。むちゃくちゃ書いたってかまわない。信長が女であってもシェフがついていても。

そういえば、及川ミッチーが信長をやっていましたね。最初は笑っちゃいましたが、意外にありかなと思うようになりました。幸若舞の「人間五十年」は見ててちょっとはずかしかったのですが、本能寺ではイチゴパンツをはいて華麗にダンスでもしてくれるかなと期待してしまいました。でも、やっぱり高橋幸治やなと今ごろになって思います。秀吉が緒形拳であるように、信長は高橋幸治でしょう。「助命嘆願」が山ほど来たのもうなずけます。たしか朝ドラの『おはなはん』に出たときも「助命嘆願」が来たはずです。髙橋幸治は『太閤記』で信長をやったあと、武田信玄と源頼朝をやって、『黄金の日々』でもう一度信長をやっています。表向きは「静」で内面の激しさは感じられないようでいながら三白眼のあの「目つき」が何かすごみを感じさせました。最近大はやりのタイムスリップもので小栗旬も信長をやっており、「こんなん出ましたけど」という感じですが、悪くはありません。架空の人物は人それぞれのイメージがあります。松平容保は綾野剛、徳川慶喜は小泉孝太郎でいいと言う人も結構いるはずです。徳川慶喜は『龍馬伝』の田中哲司も眉毛のない無気味な感じでおもしろかったのですが。

アニメの実写版でも、ぴったりと思える人とうーんと言う人がいます。ルパンの小栗旬は許せても、「不二子ちゃーん」は黒木メイサやないで、と言う人が多かったようです。深田恭子のドロンジョ様は太すぎるという声もありましたな。小説のドラマ化でも、キャスティングは難しいようです。金田一耕助は石坂浩二で決まりというふうになってしまいました。山下智久ではイケメンすぎると文句を言う人もいます。まあ、同じ山下の一族としては「イケメンは一族の特徴なので許してくれたまえ」と言うしかありませんが。金田一は古谷一行も有名ですが、豊川悦司や稲垣吾郎もやっています。中井貴一、鹿賀丈史、役所広司のも見た記憶があります。変わったところでは中尾彬とか高倉健さん、なんと西田敏行や渥美清までもが演じていました。あの片岡鶴太郎もやっていますね。 同じ片岡でも千恵蔵となると、いまや知らない人のほうが多くなってしまったのかなあ。『本陣殺人事件』を原作とした『三本指の男』には原節子も出ていました。

千恵蔵は多羅尾伴内のほうが有名ですね、とはいうものの、みんな知らんやろなあ。「七つの顔の男」なんですけどね。「ある時は私立探偵多羅尾伴内、ある時は片目の運転手、またある時はインドの魔術師、しかしてその実体は正義と真実の使徒、藤村大造だ」という、ほら、あの有名な台詞。木久蔵がよく真似してたでしょ、ってそれも知らんやろな。千恵蔵さんは、その台詞のあと、着ている扮装をはぎとると、藤村大造の姿になるんですね。魔術師の服の下になぜか背広(スーツではない)を着込んでるのがオシャレ。ただ、別人に扮してはいるんだけど、どう見ても片岡千恵蔵なんですね。バレバレです。東京でインドの魔術師に化ける意味もわかりません。なんにも必然性がないんですね。で、一生懸命犯人に向かって事件の真相を解説するんですけど、「そんなん聞かんでもわかっとるわ」と犯人も言わないでおとなしく聞いてます。ところが解説終了後、予定通りではありますが、やはりなぜか銃撃戦が展開されます。警察が駆けつけるころ、ちょうど銃撃戦も終了して、正義と真実の使徒、藤村大造は姿を消しているんですね。この「正義と真実の使徒」は、最初「正義と真実の人」だと思ってました。「シト」とは聞こえるのですが、そのころはそういうことばも知りませんでした。江戸っ子の藤村大造は「ヒ」の発音が「シ」になるんだろうぐらいに思っていたのかなあ。

小説を読むときに、これがドラマ化されたら、配役はどうなるかなあ、と考えながら読む人って意外に多いようです。脳内キャストというやつですね。こんなのはお気楽ですが、わたしの場合は、毎年ほんとうにキャストを考えなければなりません。合格祝賀会の講師劇はすべて私の独断と偏見で配役を決めています。一部キャラクターを決められている先生(国語科のY原先生や算数のM山先生など)を除くと、とりあえず脚本を書いたあと配役を考えて、その上でこの先生ならこの台詞に変えようとか、この先生をこの役にしたからには、もっとはずかしい台詞を言わせようとか(どの先生かはナイショ。O方先生であるとは言えないでしょ)手直しをします。でも、実際に演技をさせてみると、思ったとおりのイメージにならない先生もいらっしゃるのがおもしろい。国語のN川先生が毎年予想通りになるのは、ありがたいことです(と言っておいて、次はひどい役にしてしまおう)。

2014年10月31日 (金)

国語教育講演会終了!

お越しくださったみ皆様、ありがとうございました。

谷九がいっぱいで、お申し込みくださったのにお断りせざるを得なかった皆様、申し訳ございません。

今月23日と24日(たしか)に、『国語の学び方・教え方の秘訣 実践編』を実施いたします。よろしかったらぜひお越しください!

講演会告知のために長々とブログを占拠して申し訳ありませんでした。山下ファンの皆様! お待たせしました。近日中に山下先生の記事公開!

2014年10月27日 (月)

国語教育講演会の告知その3

本日、標記講演会にお越しくださった皆様、ありがとうございました。当初は、まさか200名もの方々に聞いていただけるとは思っていなかったので、感謝感激です。予定どおり1時間半ですべての話を終わらせることができるか、ということを実は最も心配していたんですが、なんとか4分オーバーで切り抜けられ、胸をなでおろしております。リハーサルはおろか、自分で時間を計りながら話の内容を確認するということすらやっていなかったので、ちょっとドキドキでしたが、そこはさすが(自分で言うのも何ですが)授業時間をオーバーしない男、ぬかりはないのでありました。

次は10月30日(木)の四条と、10月31日(金)の谷九です。残念ながら谷九はすでに定員の100名を超えていて新しいお申し込みはできないそうですが、四条の方はまだ多少余裕があるとのことなので、よろしかったらぜひお友達とお誘い合わせのうえお越しください。ママ友といっしょに来て、そのままランチというのも楽しいですよね! え、大きなお世話ですか。そうですね、いいアイデアだと思ったんですが。

四条でランチというと、どこがありましたか(え、しつこいですか?)。御池まで行けばタルカがありますね。ちょっと遠いし南インド料理の店ですけど。じつは僕は基本的にそういう民族料理系の店が好きなんです。いわゆる、くさくて辛い系です。もちろん、この「くさい」というのはほめ言葉で、僕にとってはたまらなくかぐわしい香りです。エスニック料理にはまるかどうかの一つの指標が、香菜で、香菜を受けつけない人は、辺境中華とかタイ料理とかダメですよね。ええと、何の話をしてるんでしたっけ。あ、ランチの話でした。いや、ちがいました、講演会の話でした。

今日はいっしょうけんめい話したよな~おれ、なんて思って、自分へのご褒美としてジュンク堂に行って本を買ってしまいました。しかし、あと2回あるというのに、これはちょっと自分に甘すぎました。反省しています、本は返品しませんが。本を読みつつ気合いを入れ直して、あと2回、何としても「来てよかった」と思っていただけるような話をすべくがんばりますので、ぜひぜひお運びください。講演のあとは、そのあたりを所在なげにうろうろしていますので、何かご疑問の点やご相談などございましたら、お気軽に声をおかけください。

2014年10月24日 (金)

国語教育講演会の告知その2

ついに来週です。

まず27日(月)に、西宮北口のプレラホール

28日(火)と29日(水)は深く反省して、

30日(木)四条烏丸教室、そして反省する間もなく、

31日(金)谷九教室です。

準備はOKです! 散髪もしました! 2ヶ月ぶりに。いつものおにいさんに「寝癖がつかないように2ヶ月分切って」と適当なお願いをして切ってもらいました。このおにいさんに切ってもらうと、睡眠中どんなに七転八倒してもほんとうにその後1ヶ月は寝癖がつきません。

しかし、散髪なんかしたせいか、かえってちょっと緊張してきました。なんてったって本日(24日)夕方の段階で、367名のお申し込みをいただいており、国語の教育講演会としては過去最多です。

ああ、劇団時代にこんなにお客さんが来てくれていたらなあ! 客より出演者の方が多かったらどうしようと、戦々恐々としていたあの日々! 

お申し込みくださったみなさま、ほんとうにありがとうございます。

塾生でないお知り合いの方で興味を持たれそうな方がいらっしゃったら、ぜひご一緒にお越しください。

いつもブログにあほなことばかり書いているあのニシカワが・・・・・・! というギャップをお楽しみいただくべく、心をこめて準備しました、はい。

台風18号の暴風が吹き荒れるなか、北アルプスの稜線を歩いていたときも、よろめきながら、生きてもどれなかったら、だれが僕の代わりにしゃべるんだろう? なんてちらちら考えていました。この講演会で話す内容をメモするノートまでリュックに入れてたんです! そしたら暴風雨でびしょぬれになってしまったんです! とほほ。

それでは斎戒沐浴してお待ちしております。

2014年10月13日 (月)

国語教育講演会の告知その1

つい先だっても書きましたが、どの本をザックに入れて山に登るかは、きわめて重要かつデリケートな問題です。8月は白川静先生の『孔子伝』で、これはすごく良かった。で、このたびは熟考のすえ思いきって宮本常一『忘れられた日本人』(岩波文庫)をザックに放りこみました。ちなみに他の候補は、ミルチャ・エリアーデ『世界宗教史』、マイスター・エックハルト『神の慰めの書』、キルケゴール『イエスの招き』、ルドルフ・オットー『聖なるもの』といったあたりだったんですが、・・・・・・何か偏ってますね。まるでクリスチャンみたいです。でもちがいます。大学生のときに、哲学科で宗教学宗教史を専攻していたからです。大学生のときにろくすっぽ勉強しなかった呪いでしょうか、この歳になって妙にそういう本を手元に置いておきたくなります。

宗教学を専攻していた、というと、あまりご存じでない方は、当方が何らかの信仰を持っているのではないかと思われるようです。もちろん、そういう学生ないし研究者もいらっしゃいました。クリスチャンで神学を勉強している人もいたし、お寺の息子さんもいました。でも、だいたいは無宗教の人が多かったような気がします。ちなみに、僕は、『サンタマリアガーデン』という幼稚園に半年ほど通っていたので、キリスト教に対して、うまく言えませんが、何とはなしにこだわりがありました。それで、当時、「宗教学実習」という講座があり(実習!)、キリスト教班に配属されました。この謎の講座は何をするかというと、イモリの黒焼きやマンドラゴラを用意して怪しげな儀式を執り行うとかいうことではなく、先輩とコンビを組んで仙台市内の宗教施設をまわりアンケートをとってくるんです。僕を指導してくれたのはアンチ・キリストを標榜する、キルケゴールの研究をしていた院生でしたが、彼がどういうわけか「西川がいるあいだに、あやしげなところにはすべて行くぜ」と力強く宣言し、なぜか僕たちはふつうのカトリックとかプロテスタントの教会ではなく、ちょっと変わった、マイノリティ系のキリスト教系施設をひたすらまわりまくりました。しかし、なぜ「西川のいるあいだに」なんでしょうか? 僕はいったいどんな人間だと思われたんでしょう? でも、ある日しみじみ先輩は言いました。「お前ほど人見知りするやつを俺は見たことがない」

そうなんです。僕はものすごい人見知りなんです。今でこそ、説明会などにおいでくださった方に対して、顔面の筋肉をしかるべき方法で緊張させることによってそれなりに笑顔らしきものを見せることもできるようになりましたが、当時は教会にアポをとって訪れてもにこりともせず、こわばった表情でぶすっと話を聞くという、向こうからすれば「何しに来たんだお前は」的な若造だったわけです。今でも基本的な性格は変わっていませんので、はじめての授業、はじめての懇談のときは緊張で頭がぐらぐらしています。べつに悪意があるわけではありません。ほんとうにただただ緊張しているだけです。

ところで、宮本常一『忘れられた日本人』です。どんな本かというと、

「日本全国をくまなく歩き,各地の民間伝承を克明に調査した著者(1907-81)が,辺境の地で黙々と生きてきた古老たちの存在を生き生きと描き,歴史の舞台に浮かび上がらせた宮本民俗学の代表作.」

というものです。これ、良かったです。明治から昭和前期にかけての山村や小さな漁村の生活のようすがありありと思い描けて、下手なファンタジーなんか及びもつきません。登場するすべての古老たちが、テレビ番組に出てくるコメンテーターなんかとは格が違います。橋の下に住む盲目の老人が、自分の半生について語ったあとで、こう言います。「女は男の気持ちになっていたわってくれるが、男は女の気持ちになってかわいがる者がめったにないけえのう。」

感動的じゃないですか? 僕は昔からわりとお年寄りの話を聞くのが好きなので、実にはまりました。山で読むのにぴったり、我ながら良い選択でした。しかも、ちょうど帰りの深夜バスのなかで読み終わりました。

あほなことを言うようですが、やはり名作と言われているものには名作が多いです。今年リニューアルしている小5ベーシック国語のテキストにも、「トレーニング」の各ナンバーの後ろに『ちょっと古い名作』を掲載しています。

第1分冊は太宰治の『畜犬談』でした。太宰治というと、『人間失格』のイメージで、なんだかやりきれないぐらい暗い、とお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、そういう方はぜひご一読ください。「さわやか」とまではいきませんが、なかなか悪くない読後感です。ずっと以前にも紹介したことがあるかもしれません。太宰治でお勧めは『畜犬談』『黄金風景』『駆け込み訴え』『竹青』『清貧譚』といったあたりでしょうか。『黄金風景』は選択肢の鬱陶しい問題と化してテキストに載っています。

第2分冊には森鷗外の『山椒大夫』を掲載しました。僕はこの話が大好きで、埴谷雄高の『死霊』という小説に出てくる「安寿子」(地味だけどとても魅力的なキャラクターです)は『山椒大夫』の「安寿」と関係あるのかなあなんてぼんやり思っていました。

第3分冊はなんと、『野菊の墓』伊藤左千夫でした。私の世代の人であれば、当時(?年前)人気絶頂であった松田聖子が主演した映画のことを覚えていらっしゃるかもしれません。私はべつに松田聖子ファンではなかったので見に行きませんでしたが、「おでこを出した聖子ちゃんがあんなに××だったとは・・・・・・!」と衝撃を受けたファンが多数いたのを覚えています。それ以来、おでこを出しても綺麗な人こそがほんとうの美人なのだな、という固定観念ができあがってしまいました。

あのころはアイドル全盛期でしたが、アイドルというものにまったく興味がありませんでした。中学生のときにいちばん好きだったのは古手川祐子さんで、高校生のころいちばん好きだったのは戸川純ちゃんでした。大学生のときにレオス・カラックスの『汚れた血』という映画を観て、ジュリエット・ビノシュのあまりの綺麗さに一時的に錯乱して「ふ、ふらんすへ行きたしと思へども金はなし」などと口走っていましたが、じきにおさまりました。

『野菊の墓』をとおして読んだことがおありの方はあまりいらっしゃらないのではないかと思います。はっきり言って、すごくシンプルな話です。でも、そこはそれ、やはり名作。なんだかわからないけど、じーんとくるものがあります。ラストの文句も、ふつうといえばふつうですが、しみじみ良い感じがします。

中学生の頃でしたか、名作のラストがどうなっているのかということばかり調べたことがあります。その大半はもうわすれてしまいましたが、たとえばあの『吾輩は猫である』のラストは、

「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。」です。

『坊っちゃん』は
「だから清の墓は小日向こびなたの養源寺にある。」ですね。このラストもしみじみします。

映画もラストシーンが何と言ってもやはり心に残ります。いちばんびっくりしたラストシーンは、アラン・パーカー監督の『バーディ』でしょうか。ここに紹介できないのが残念ですが(紹介しても何が良いのかさっぱりわからないでしょうから)、とにかくびっくりしましたし、感動しました。もしも観たことがある、という人がいらっしゃったら、ぜひあのラストについて語り合いたいです。

最もラストシーンの悲痛なものと言われればやはりアンリ・コルピ監督の『かくも長き不在』ですか。誰も死なないエンディングにもかかわらずのあの痛ましさ。いつまでも心に残るラストです。これは昔、だらだらと過ごしていたお昼にふとテレビをつけたら放映されていたんです。ほんとうに良い映画というのは、何気なく見たその瞬間に惹きつけられ、目が離せなくなってしまうことがありますね。そのときも、べつに観る気なんかなかったんですが、目が離せなくなってずっと最後まで観てしまいました。そういうことがたまにあります。『シェーン』もそうでした。なんだ、この西部劇は?と思ってしばらく見ていたらもう目が離せなくなり、とちゅうで、「お、これはあの有名な『シェーン』なんじゃないか」と気づき、そして最後まで観てしまいました。『天井桟敷の人々』も同様です。「なんだかわからないけど古い映画だのう」と思い、チャンネル変える気まんまんで、リモコン持ったまま最後まで観てしまいました。めっちゃ長い映画だったんですが。

さて、実に今、私は困っておりまして、何に困っているかというと、こうして書いてきた文章が『国語教育講演会の告知』にまったくつながっていかないという点なのであります。適当に書いてればそのうちなんとかなるさ、と高をくくって書き始めたところ、まったくつながらないという想像もしなかった事態に陥ってしまいました。すなわち、今月の下旬、『国語の学び方・教え方の秘訣』という題でいわゆる教育講演会を実施するので、その告知活動を行いたかったんですが、どういうわけか、全然そこに話がつながっていかないという、いけてない事態なわけです。

そこで例によって例のごとく無理矢理告知します。

標記の教育講演会を、西北と四条と谷九で実施します。谷九会場については、すでに定員をオーバーしたとかで、西北会場に行っていただくか、キャンセルを待っていただくかという状態になっているようです。なんだかすごい勢いで申込みをいただいているそうで、人見知りの私はかなり及び腰というか逃げ腰になっていますが、小心ゆえの完璧さ、をご覧いただく所存であります。

ぜひぜひ他塾とくらべてください。

2014年9月14日 (日)

合宿の話をしたかったんですが・・・・・・

ご存じの方が多いと思いますが、この夏休み、希学園の灘コースはついに「合宿」を敢行いたしました。南港だったかどこだったか忘れましたが、いかにも埋め立て地らしい殺風景な街の何とかいう研修施設で、2泊3日でした。しかし、自分で言うのも何ですが、まだ一カ月しか経っていないのにこの忘れっぷりがすごいですね。僕はほんとうに記憶力が良くなくて、過ぎ去ったことはあっというまに次々と忘れてしまいます。高校のときの同級生の名前なんかもうまるっきりですね。会わなくなったらすぐ忘れます。はずかしいです。たまに、卒塾生に話しかけられることがありますが、何となく顔に見覚えがあっても名前はまったく出てこず、申し訳ない気持ちでいっぱいです。

「先生、おひさしぶりです。おぼえてますか」

「お、おお、きみは、そう、たしかに、みおぼえがあるよ、うん、そうそう」

などと言いつつ、うつろな目になってしまいます。

というわけで、合宿の報告をせねばと思いつつ、一カ月も経過してしまったために、何を報告したらいいものやら、もはやあまり思い出せないという情けない事態に陥りつつあります。

でも、とにかく、彼らはがんばっていました! 走り回っていました!

何を走り回っていたかというと、いわゆる「スパルタ」と呼ばれる形式の演習です。プリントを一枚仕上げたら、講師のところに持って行って採点してもらいます。全問正解したら次のプリントに進めますが、1問でもまちがえていたら、次には進めません。席にもどって考え直しです。解説もヒントもなしです。早く仕上げて先に進みたいので、みんなすごい勢いでプリントを手に講師のところへ突進してくるわけです。いつもスローライフを満喫しているのんびりした子も血相を変えて走り回っておりなかなかの壮観でした。もはやスポーツの領域と申しても過言ではない、というとやはり言い過ぎかもしれませんが、とにかく私も目をみはる勢いでした。

保護者の方にいちばん見せたかったのはあの走り回る姿です。だらだらしている姿を見なれているお家の方も、あれを見ると瞠目されたんじゃないかなと思います。

僕にとって合宿といえば、高校生のときの部活の合宿ですね。演劇部にいたんです。ひや~はずかしい。で、高校1年のときは、男子部員が僕だけでした。ひや~。合宿でどんな稽古をしたかなんてまったく覚えておりませんが、なぜか僕も大部屋で女の子たちといっしょに就寝したことは記憶に新しいです。花のようにかわいらしい先輩が、横ですごい寝相でのたうち回っていたのが印象的でした。2年生のときには男子の後輩ができましたが、なんだか空気読めない感じの理系っぽい子で同学年の女子たちと折り合いが悪く、よくわからないうちに間にはさまれてしまった僕はよく右往左往しておりました。この年の合宿では、OBの先輩に、きみは水太りだから水を飲むなと言われ、がんばって飲まないでいたら体調が悪くなり、こりゃあかんと思って水分をとったら深夜に大量に嘔吐するという悲惨な事態になりました。この合宿から帰った翌日に友人たちと対馬にテントを背負って行く予定だったのですが、家でリュックに荷物を詰めているときに、またしてもいきなり嘔吐してしまい、出発を1日延長してもらいました。1年目の合宿とくらべると、天国と地獄でした。

大学では「文化ゼミナール」といういかがわしい名前の自主ゼミのサークルにいたんですが、合宿というか、大学の研究施設に泊まって勉強会をやったりしました。勉強会のあと、みんなで「大貧民」というカードゲームをやるんですが、なんせ「資本論」を読んでいるメンバーなので、これが実に盛り上がります。あのゲームは「大富豪>小富豪>平民>貧民>ど貧民」というような分け方をしていたと思いますが、われわれがやるときには「ブルジョワ>プチブル>プロレタリアート>ルンペンプロレタリアート」というような分け方をし、かつ、身分が下の者は上の者に対して敬語を使わねばならず、上の者は下の者にどれだけえらそうにしてもよいというルールでした。僕がブルジョワになったときのえらそばり方が、シャレですまないくらい腹立たしかったみたいで、みんな何だか打倒ニシカワでえらく燃えていましたね。楽しかったなあ。

でも合宿って楽しいですね。自分を追い込むのって、ある意味リフレッシュになるような気がします。リフレッシュするにはいったん死なないといけないんじゃないかと思うんですが、自分を追い込むことにはそういう意味があるような気がします。ほんとうにへとへとになるまでやる。もうこれ以上できないようという限界までやってみることに意味があるんじゃないでしょうか。

山登りに行くのもそんな感じです。死にに行くといいますか、ほんとには死ねないので、擬似的に死ぬというか、ちょっと死をイメージするところまで自分を追い込むとリフレッシュできるというような、そういうことを求めている感じです。だから、もうとことん疲れるまで歩くとか、ちょっと怖い思いをするとか、そういう経験ができないと山に行っても物足りないです。

でもあんまり怖いと、何やってるんだろう俺、って思います。だいたいからしてひどい怖がりですからね。高いところも暗いところもスピードのあるものも全部ダメです。ついでに回るものもダメなので、もう遊園地なんか行っても何も楽しくない。ゲームセンターでコイン落としするだけです。

先日剱岳に行ったときは、いろいろ準備不足が露呈して、そのせいでだいぶドキドキしました。

北方稜線という、あまり人が来ないルートから登ったんですが、その前夜、山小屋に泊まっていると、おばちゃんたちを連れた登山ガイドと山小屋の主人がずっと話をしてるんですね。何をしゃべっているかというと、いまどきの安易な山登りの危険性について憤慨し糾弾しているわけです。

「4本爪のアイゼンなんて、おもちゃといっしょですよ、あんなもの何の役にも立たない」

「そうだよ、そのとおり」

「××なんて雑誌があおるから、素人があんなおもちゃを持って雪渓を登りにやってくる、とても危険です」

「そうだよね」

北方稜線に二カ所ほどあるかなり急な斜度の雪渓をトラバースするために「4本爪アイゼン」を持ってきていた僕はふとんの中で脂汗です。そ、そんなやばかったっけな、あの雪渓。去年あそこを通ったときも俺4本爪だったけど・・・・・・いや、12本だっけ? 結構怖かったのは確かだけど、どっちだっけ? 確か4本だったよな、だから大丈夫だよな。いや、待てよ、去年は10月のはじめだったから、今よりかなり雪はとけていたはずだ、明日は去年よりも雪が多いにちがいない、ということは、雪渓の距離も長く斜度も急なのでは? やばい? 俺やばい?

結論としては、去年よりも雪が少なくて全然怖くなかったんですけど、前夜は相当びびってました。びびりなので。でも、これがリフレッシュにつながるんです! 2月の八ヶ岳のテント場で寒くて体が硬直したとか、笠ヶ岳でシャリバテになって動けなくなったとか、ヒグマに遭ったけど、見つめられただけで追いかけられずに済んだとか、ツキノワグマに遭ったけど、向こうが逃げてくれたとか、新雪の積もった山中を十時間彷徨したとか、そういうことがリフレッシュのためには必要なんです!

今回の灘コース合宿の目的は、「死ぬほど勉強したけど、死なないもんだなあ」「やろうと思えばあそこまで追い込めるものなんだなあ」ということを感じてもらうことだったんですけれど、まだあの感じを彼らは覚えてくれているでしょうか。

2014年9月 4日 (木)

山に持ってく本

山にどんな本を持って行くか? これは非常にデリケートかつ重大な問題であります。

読み始めたが最後もう目が離せなくなって読み終わるまで眠れない、というような本はダメです。山登りのときは早出早着が原則なので、だいたい18時か19時には眠り、午前3時頃起きてごそごそしはじめ、まだ暗いうちに出発するものなんです。遅くとも15時までには山小屋あるいはテント場に到着せねばなりません。だから、夜更かしして睡眠不足になりかねない本はいけません。そもそも僕は山に4泊ぐらいすることが多いので、1日目で読み終わってしまったら困ります。

以前、冬の比良(滋賀の湖西にある山系です)に登ったとき、ポール・オースターの何だったかな、『孤独の発明』だったか『ミスター・ヴァーティゴ』だったか持って行ったらおもしろくておもしろくて全然眠れず、次の日しんどかったおぼえがあります。ああいうのはいけません。

かといって、つまらない本は持って行く意味がない。結局読まないから。

怖い本もダメです。怖がりだから。昔、山ではありませんが、旅行に(前職を辞めたときに、ウイグル、つまりシルクロード方面に行ったんです)島田荘司の『暗闇坂の人食いの木』を持って行ったら怖くて怖くて、ホテルの部屋でひとり眠るのが苦痛でした。それでバーでお酒ばかり飲んでいました。恥ずかしながら、高いところだけじゃなくてオカルト系も苦手です。大学生の頃、お化け屋敷に入ってパニックを起こしたことがありますからね。

ウイグルには2週間近く滞在したので、他の本も用意してました。『暗闇坂の人食いの木』とはえらいちがいますが、旧約聖書の『ヨブ記』を携帯しておりました。でも、バスや列車に乗って『ヨブ記』をひらくと、すぐに眠くなりました。おもしろくないわけじゃないんですけど、

この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、「無知の言葉をもって、 神の計りごとを暗くするこの者はだれか。あなたは腰に帯して、男らしくせよ。 わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。 もしあなたが知っているなら言え。 あなたがもし知っているなら、 だれがその度量を定めたか。 だれが測りなわを地の上に張ったか。 その土台は何の上に置かれたか。 その隅の石はだれがすえたか。 かの時には明けの星は相共に歌い、 神の子たちはみな喜び呼ばわった。海の水が流れいで、胎内からわき出たとき、 だれが戸をもって、これを閉じこめたか。・・・・・・・・」

てな感じでずっと続くわけです。これは、ヨブを襲った不幸に関連して、ヨブと友人たちが議論をしていると神の声がヨブたちを糾弾する、というかっこいい場面なんですけど、でも、ずっとこの調子でつづくと、ヨブには申し訳ないけどどうしても眠くなります。

そういえば、カシュガルでバスを待っていたら、白人の若い女性がヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』を読んでいて何だか格好良かったな~。すげえ、洋書読んでる、みたいな。

ヨブ記の良いところは、薄いところですね。ズボンの尻ポッケにすっと入ります。大学時代、寮で一緒だったTくんは、「旅に出るときは、文庫本を半分にちぎってポケットに入れて持って行くよ」なんて言ってました。「残りの半分はどうするんだい?」

「次の旅に持って行くのさ」

気障なやつでした。

さて。先日、またしても山登りに行ってしまった私ですが、このときの本の選択は、考えに考え抜いたあげく、白川静の『孔子伝』! これが大正解でした。適度におもしろく、適度に眠い!分量的にもちょうど良く、帰阪した翌日にちょうど読み終わるというジャストフィットぶり。『孔子伝』は、酒見賢一さんの超絶おもしろい『陋巷にあり』という長編小説の世界観に多大な影響をあたえた本でありまして、『陋巷にあり』にかつてめちゃくちゃはまっていた僕にはうってつけでした。この小説は、孔子とその弟子の顔回(「一を聞いて十を知る」と言われた俊秀ですね)が主人公のファンタジー歴史小説とでもいった趣の話なんですが、13巻まであって、読み応えも十分です。受験生諸君は中学生になったらぜひ読んでほしいですね。文庫本も出ています。でも山に持って行ったらダメですね。眠れません。

今回行った山は、なんと、またしても剱岳であります。もう4回目です。剱岳と富山が大好きです。しかし、山登りあるいは心から愛する富山市新富町のことを書いている時間的余裕はなくなってしまいました。この話はまた今度にしましょう。っていうか、その前に、灘コースの合宿について書こうと思っていたんですけど、なかなか・・・・・・。

すべてはまた今度!

 

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