2011年7月 7日 (木)

参ったなピコピコ

テレビから現物がコンコロリと出てくるためには、物質転送装置のようなものが必要になってきます。配送センターが商品を電線にぶらさげるという原始的な方法ではなく、物体を原子か分子かわかりませんが、そのレベルにまで分解したものを電送し、再び組み立てるとかいうようなシステムでしょうか。ただ、その際にハエがまぎれこんだりすると、「ハエ男の恐怖」というような大事件になってしまいます。人体実験で人間の体を送ろうとしたときに、装置内にハエがいたため、融合するときにハエと人間が合体してしまう、という映画がありました。リメイク版で主演したおっさんは「ジュラシックパーク」や「インデペンデンスデイ」でも変な科学者の役で出ていました。

超能力の「テレポート」というのも、原理的には同じなのでしょうか。テレポートするたんびにハエ男や蜂人間、モスキートマンになると困ります。スパイダーマンはどうして蜘蛛男になったのでしたっけ。ネズミ男ははじめからですかね。タイムスリップもののドラマ・小説が相変わらず安易につくられつづけていますが、別の時間で出現したところが海や壁の中ということにならないのが不思議です。たとえば十三教室でタイムマシンに乗って、二千年ぐらい昔に旅行したとしたら、そのころは十三のあたりは海だったでしょうから、そのままおぼれてしまうのでは? まあ、タイムマシンは親殺しのパラドックスが起こるぐらいで、過去にもどることは無理なのでしょう。透明人間なんてのも、「科学的」に考えると、透明になった瞬間、相手から見えなくなるだけでなく、自分も外部を見ることができなくなるとか。第一、透明になるのは体だけでしょ。たとえば胃にはいっているものは透明にはならないわけで、空中に消化中の食べ物が浮かんでいることになりますし、さらにそのあとのことを考えると、食べ物に下に浮かんでいるのは……。ということで、こういうのは「トンデモ科学」というやつですね。

超能力というのも、どうなれば「超」なのか、よくわかりません。さわってもいないのに物体を動かすとか、未来を予知するとか、一般に不可能とされることができるのが超能力なのでしょうが、エスパー伊東のレベルはどうなのでしょう。「高速1分間梅干し30個食い」は物理的には可能なのでしょう。「ジョッキのビール3杯一気飲み、そのあと30回転しても目が回らない」という技は体質でかたづきそうです。「小指1本突きダンボール穴あけ」は空手をやる人ならできそうだし、たこ焼きを指でひっくり返す「高熱たこ焼き、串いらず」はプロの職人ならできる人がいるかもしれません。ばかばかしいからやらないだけのものは「不可能」とは言えないのでしょう。ちなみに、「不可能を可能にする男」というのはよくいますが、国語科のKリハラ先生は、昔よく「可能を不可能にする男」と呼ばれていました。あれも一種の超能力なのかなあ。

算数オリンピックでメダルをとれるような人は、ふつうの人にはない能力をもっているのですが、超能力とは言えないのですね。妙に記憶力がいい人もいます。アスペルガー症候群の人が抜群の記憶力を持っていることがあるそうですが、これは明らかに「能力」でしょう。ただ、これも「記憶術」というのがあるぐらいなので、訓練によって伸びるものでもあり、不可能なことをしているわけではありません。これもやはり超能力とは言えないのでしょう。1分間に2万字以上読める「速読術」なんて、もはや超能力と言いたいのですが、「術」つまりテクニックらしいのです。

たしかに記憶なんて、たとえば語呂合わせでたくさん覚えている人がいますが、そう考えると超能力でもなんでもないですね。「イイクニつくろう鎌倉幕府」で1192年、というのはだれでもやっていることです。ただ、中にはまぬけな人がいて、テストのときに「いいくにツクロウ鎌倉幕府」だと思い違いして2960年と答えたり、「ヨイクニつくろう」と思って4192年と答えたりして、頼朝をタイムスリップさせて未来人にしてしまう人もいます。こうなったら「超能力」と呼びたいものです。

高校の時の日本史の先生が妙な覚え方を教えてくれました。幕末の「池田屋事件」「寺田屋事件」で池田屋という旅館は京都の町中の三条にあり、寺田屋は伏見にあります。池田屋だから池のそばかなと思うと実は寺のあるような町中にあり、寺田屋は寺のある町中にあるのかと思うと、あにはからんや水のある伏見にある、と覚えろというのですが、ひねくれた覚え方もあったものです。六月の異名が「水無月」というのも、六月は梅雨だから水がありそうだけど水がないと思って「水無月」と覚えろ、という意味不明の覚え方と同じです。

意味不明といえば「キロキロとヘクト出かけたメートルが弟子に追われてせんちミリミリ」というのがありました。基本単位「メートル」の10倍がデカ、100倍がヘクト、1000倍がキロ、逆に10分の1がデシ、100分の1がセンチ、1000分の1がミリ、これらを無理矢理おしこんで、「きょろきょろしながら、ひょいと出かけたメートルさんがなぜか弟子に追いかけられて、せんち(「せっちん」つまりトイレ)にかけこんで、なぜか○○○をミリミリと出しました」という意味不明の覚え方です。これぐらいの単位なら、このことばを覚える前に覚えられるような気もしますが、最近はキロの上のメガやその上のギガもよく使われますし、1テラバイトのように「テラ」を見ることもあります。下のほうはマイクロは当然のこと、その下のナノやらピコやら、ふざけとんのかと言いたくなるような単位も出てきました。これらを込みにして新しい覚え方を作ってくれる人はいないものでしょうか。

……と思ってネットで調べてみたら、世の中にはひまな人がいます。作っているのですな。「てきめがけ、ヘクト出かけたメートルが弟子に追われてせんちミリミリ、参ったなピコピコ」……って、これ、うーん参ったなピコピコ……ふざけとんのか!

2011年6月30日 (木)

変なぜいたく(光年のかなた④)

この『国語マニアックス』というブログを始めて1年半ほどになります。

このブログの本来の趣旨といいますのが、塾生・保護者のみならず、一般の方にも希学園の講師の顔を見えるようにするというんでしょうか、講師の人柄にふれて親しみのひとつも持っていただきたいということでした。まさかブログを読んで入塾を決めるような人はいらっしゃいますまいが、塾選びをされる際にほんの少しでもプラスに働くとええのう、うっしっしっ、という不純な動機もありました。

そういった下心から学園長に「というわけでブログをやりたいでござる」と具申したところ「いいよ」という寛大な許可がおり、始まったのが1年半前です。

しかしそれにしても、はたしていったいどれくらいの人がこのブログを読んでくださっているのでしょうか。

新しく入塾された方が、「いやー、以前からブログを読んでいけてるなあと思ってました」なんておっしゃっていたというのは聞いたことがありません。

たまに保護者の方や卒塾生から「ブログ読んでいます~」と声をかけていただくことがあり、たいへん励みになっていますが、まあ、たまにです。

どちらかというと内輪受けというのでしょうか、社内の人間がうはうは笑いながら読んでいるというケースが目立つような気がします。

「おっ、ブログ読んでますよ、あの話ほんまでっか」

「Oui!」

「あほでんな」

などという会話が社内でかわされたりしています。しかし、よく考えてみると内輪受けのために始めたブログではないわけです。こんなことでは本来の趣旨にまったくそぐわないため学園長から打ち切りが宣告されてしまうのではないか・・・・・・といった危機感が若干生じ始めている今日この頃です。

そして実は、もうひとつ、懸念していることがあります。

ご存じのようにこのブログは国語科講師3人で書いているのですが、メンバーを選んだのは私です。私がオールジャパンの合宿に連れて行く選手を決めるような心境でメンバーを選定し、山下先生と栗原先生にお願いしたわけです。

一応の心づもりとしては、博覧強記の山下先生がいわば知性担当、真面目で善良な栗原先生が良心担当って感じでした。いや、なかなか悪くない人選だったと思いますね。

ところが、最近になってふと頭をもたげてきた疑問が、俺は何担当なんだ?ということです。よく考えたら最近の俺は、貧乏の話とか風呂に入っていなかった話しかしていないわけです。

前にも少し書きましたが、「このにしかわという人はいけてないんじゃないか」などという噂がたってしまうと、クラス替えで僕のクラスになった子どもが「びんぼうがうつる~」と言って泣きだしてしまうかもしれません。

というわけで、実はここまでが前置きだったのですが、今日は少し国語講師らしい話から始めてみたい!

◆◇

先日(結構前になりますが)授業で扱った問題の中に、

「変なぜいたく」とはどのようなことをさしていますか

という設問がありました。

希学園では、このような「意外性をふくんだ内容について説明する記述」は、

・・・・・・のに・・・・・・こと(から)。

というかたちで書くよう指導しています。

国語の得意な子は言われなくても自然にそういうかたちで答えをつくるのですが、苦手な子にはこの感覚がないので、なぜこのかたちがいいのかをきちんと説明したうえで「型」を覚えさせるのが有効です。

そこで「こういう設問にはこういう型」というように整理して教えているわけです。

さて、それはともかく。というわけで、ここからが本当の本題になるわけですが、「変なぜいたく」ということで思い出したことがあります。

寮で暮らしていた極貧時代、ついにパンの耳にマーガリンをつけて食べるようになっていた頃、にもかかわらず妙なぜいたくをしていたなあと。

変なぜいたくその1

紅茶です。きちんとしたティーメーカーとティーカップを買って、フォートナム・メーソンのアール・グレイを飲んでいました。ティーカップはフィンランドのアラビヤというメーカーが出していたルスカというシリーズのものです。今は亡き天才デザイナー、ウラ・プロコッペのデザインでした。う~ん、パンの耳と両立しない、意味不明のぜいたくぶり。

変なぜいたくその2

ヨーグルトです。ヨーグルトがあまりにも好きであるため、ヨーグルトメーカーを買って、つくって食べていました。一度ただのヨーグルトではなく、なんというのでしょうか、ヨーグルトケーキといいますかそういうものをつくろうと思い、みかんの缶詰だのゼラチンだの買い込んできたことがありました。しかし、ゼラチンをどのぐらい入れるのが妥当かよくわからず、おまけに物知らずの私は、ゼラチンを入れたあと冷やさないとかたまらないということも知らなかったため、おっかしいな固まらねえなと呟きながら大量にゼラチンを投入してしまい、かちかちのケーキが出来上がってしまいました。あまりの固さにスプーンが入らなかった・・・・・・! 泣けました。

それにしてもあのパンの耳・・・・・・。サンドイッチをつくったときに残った耳だったのか、ときどき萎れたレタスの切れ端が入っていたなあ。なんだか香りまでよみがえってくるようです。

つづく。

2011年6月23日 (木)

光年のかなた③

じめじめしとしと梅雨がつづいておりますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

僕が大学に入った4月も、穀雨というのでしょうか、ずっと雨が降っていました。日照時間が少なくて寒かった覚えがあります。

音楽なしでは生きていけないと信じていた僕が大学に入ってまず購入したのはミニコンポでした。押しの強い店員に勧められるのを断り切れずに選んだものなので、今思い出してもあまり良い買い物じゃなかったですね。音も良くなかった。在仙生活の終わり頃には、くり返しチョップしないと音が出ないようになっていました。そのときのくせで、今でも調子の悪い機械はチョップしたくなります。会社から貸与されているノートパソコンも、反応が鈍いとどつきたくなるんですが、今のところ理性が勝って何とか持ちこたえています。

寮から大学まで歩くと片道1時間前後かかるので自転車を買うつもりでいたのですが、ミニコンポを買った直後に、自転車購入資金だった3万円が消えました。どこに消えたかよくわかりません。落としたのか盗られたのか、とにかくなくなっちゃったんです。自転車はあきらめざるをえませんでした。

そうして僕の苦難のキャンパスライフを象徴するような、徒歩通学の日々が始まったのです。

いやあ! 1日1食で毎日2時間歩くと痩せますねえ! 1ヵ月で8キロ体重が減りました。

寮の風呂に入るたびに、体重計の目盛りが500グラムずつ減っていくのがおもしろくて、結局、夏休みまでに13キロぐらい痩せたと思います。

風呂といえば、寮の風呂があなた。もうたまりませんよ。入浴時間が6時~10時なんですが、8時を過ぎると浴槽のお湯が豚骨スープなんです。入浴剤のせいでなく白濁してます。寮生200人弱。みんな汚いですからね。それが次々にザブンドボンとつかる浴槽ですから、あっというまに良いダシが出ちゃってねえ。入った方が汚れるやんけ、と思いました。

そんなわけで当時風呂に入るのがいやになり、しばらく入らなかったことがあります。

何日間入らなかったか?

それは言えません。それを書くと、保護者の方が僕と懇談してくれなくなる可能性があるので。あの、今は入ってるのでだいじょうぶです。

えーと、それはともかく、とにかくすごく痩せたわけです。

夏休みに帰省したとき、父母に嫌そうな顔で「貧相になった、みっともない」と罵倒され、その夏はひたすら食わされました。

そもそも寮は2食付きだったんですが、大学に入ってまもないというのに、僕は、決まった時間に朝飯を食べることができない体になってしまっていました。目覚ましが鳴って、ああ、早くご飯を食べに行かなければと思うんですが、なかなか起きられないんです。そこをぐっとこらえて必死で寝床から身を引き剥がし、ふらふらしながらなんとか食堂にたどり着き、やっとの思いで朝ご飯を食べている・・・・・・ところで目が覚めちゃうんです。当然、そのときはすでに朝食タイムが過ぎ去っています。それですぐに朝食費を払うのはやめました。

夢は願望充足だ、というフロイトの理論は僕にとっては実にうなずけるものでした。

さて、そんなわけで、朝飯抜きで1時間歩いて学校に行きます。

午前の講義が終わったあたりがいちばんつらいです。みんな生協に昼ご飯を食べに行くんですが、僕は昼飯代をけちって、何も食べずベンチに転がっていました。

午後の講義のあと、用もないのに街中をうろつき、低血糖状態で寮に戻ってきてご飯を食べ風呂に入ると、もうすることがありません。いや、勉強すればいいんでしょうけれど、そこは何といいますか、大学生ですからね!

もちろんテレビもないので、ひたすら音楽を聴いてました。シベリウスの『悲しき円舞曲』とか『トゥオネラの白鳥』とか、そういう暗いやつです。

えもいわれず陰気なキャンパスライフの始まりでした。

青春が明るいものだなんてだれが言ったんでしょう。

青春とは憂鬱なものです。

僕だけっすか?

ちっ。

                                            つづく。ちっ。

2011年6月16日 (木)

現物がコンコロリ

「前回のつづきでとりとめもなく」というスタイルで書き続けているので、大岡越前のつづきです。子どもをめぐって、二人の女性が母親であると名乗り出て争うという有名な話があります。大岡越前は二人の女性に子供の手の引っ張り合いをさせるのですが、痛さのあまり泣き叫ぶ子どもの声を聞いて手をはなした方を本当の母親だと認定します。

……これも無茶苦茶な話ですよね。腕がちぎれそうになる子供をかわいそうに思って手をはなすのが本当の親だと決めつけてよいのか。本当に自分の子どもであるにもかかわらず、引っ張って自分のものにすることができなければ一生はなれて暮らさなければならない、それぐらいならたとえここで腕がちぎれようと、なんとしてでも自分のものにしなければならない、と思う母親はいないのでしょうか。どちらがよいか悪いか、ということではありません。ひとの心を決めつけられるか、ということです。大岡越前は、本当の愛情があれば、自分のエゴを優先させず、子どもの幸せを考えるはずだと思ったのかもしれません。ただ、ひとの心を一面だけでとらえて、こうであるはずだ、なんて決めつけるのは「おごり」以外のなにものでもないと思うのですが。

本来、日本の文化ではこういう決めつけはきらうようで、大岡越前の名裁判も中国の話を下敷きにして作られたものが多いようです。勝手に決めつけたりしない、世の中は○と×だけでなく△もある、人それぞれの考えがあるのだから相手の心を気づかうことを優先しよう、という日本文化は特異なものなのでしょう。

たとえば、パソコンのような「ろくでもないガラクタ」を売ってしまうのはアメリカならでは、という感じがします。本来なら売ろうとは思わない、というより売ってはいけないものですから、もしパソコンが日本で発明されていたなら、いまだに開発途中でしょうね。日本人なら、こんな欠陥商品に値段をつけて売るような「あこぎ」なことは絶対にしないでしょうな。作業中にフリーズすることがあるような段階で商品として売り出そうとする神経はどうなっているのでしょうか。フリーズなんて、原則的にはあってはならない状態です。自動車の運転中にフリーズするとしたら販売はありえないでしょう。バグりまくるテレビをだれが買いますか。にもかかわらず、パソコンだけが、そんな未完成の状態で売られています。さすがにこれにはクレームをつける人も多いようですが、売り手側としては「ユーザーとともに開発していく」という、ねぼけたことを言って正当化しているそうです。それなら、ユーザーにも利益を還元しろよ、と思います。ほんとかどうかは知りませんが、ビル・ゲイツの邸宅の敷地面積が大阪市ぐらいとかいうのを聞くと、そのうちの淀川区ぐらいはユーザーによこせ、と言いたくなります。USJがあるので此花区でもよしとします。

でも、いつかはパソコンもクレームをつける人がいなくなるときが来るのかもしれません。「毀誉褒貶世の習い」と言いますし。……ちょっとちがいますか。ただ、最近のマスコミの無責任さは目に余るものがありますね。もともとマスコミというものがそういう性質を持っているのでしょうが、持ち上げるときには思い切り持ち上げて、落ち目になった瞬間バッシングの嵐です。ホリエモンとか亀田兄弟とか、ひどかったですね。朝青竜なんて、意図的に悪役をつくりあげ、みんなで攻撃しようという、現代の悪しき風潮の象徴のようでした。開発された当初は夢の化学物質と言われたのに、今は完全に悪役に成り下がったフロンガスと同じです。

かと思うと、マイケルジャクソンは、逆に死んだとたん、ほめちぎっていましたな。生きてるときにほめたれや。マスコミ、てのひらを返しすぎです。政治家に対してもそうですね。最近の総理大臣すべて、なった瞬間マスコミは派手に盛り上げようとしたくせに、ちょっと失敗するとボロクソにこきおろして、それが国民の総意であるかのように言います。本当にそうなんですかねえ。テレビのワイドショーで取り上げている話題でも、「おまえたちだけが盛り上がってるのとちがうの?」とつっこみたくなることが多いような気がします。ひところ「盛り上がった」のりピー騒動なんて、ひどかったですね。どのチャンネルもそれのみでした。そんなに騒ぐほど、その「のりピー」って人は大スターだったのかなあ。その点、サンテレビは偉大でした。どんな大事件があっても野球中継をつづけ、昼間は古い時代劇の再放送、というスタンスをくずしません。ポリシーがあります。素敵やん。

要するに、日本全体の幼児化現象を批判すべきマスコミが最も幼児化してしまっているのですな。視聴者のほうがまだましです。マスコミが年少組なのに対して、一般人は年長さんです。だからテレビ離れが起こるのも必然でしょう。いまでも本当におもしろい番組なら視聴率はかせげます。「JIN-仁-」などはそのよい例でしょう。マンガが原作だし、設定も安易ですが、ツボを心得ています。それにひきかえ、紅白歌合戦の低視聴率などは、当然といえば当然でしょう。いまのようなパーソナル化の時代にターゲットを拡散しすぎているから、だれも見なくなるのだろうな。背の高い人も背の低い人もお客さんとして来るのだから、その中間の大きさのベッドを用意しました、というやり方ですね。

テレビが娯楽の王様だった時代は終わっているということに気づいていないのは、テレビの制作者だけなのかもしれません。ひょっとして気づいているのかな、やたら再放送ばかりしているのは、新しいものをつくる力がなくなってきたのか、お金がなくなってきたのか。元気なのは通販番組のみです。ただ、これもそのうち飽きられてくるかもしれません。あとは、画像が3Dになって、さらに「物質転送装置」が開発されることを期待しましょう。通販番組で立体的にうつしだされた商品をほしいなと思ったら、画面横のボタンを押すと、物質転送装置から現物がコンコロリと出てくるのです。はやくそうなってほしいな。ラーメンなんか、出てきた瞬間、汁がこぼれたりなんかして。

2011年6月 9日 (木)

光年のかなた②

みなさんは「学生寮」で暮らしたことがありますか。

僕は大学の初めの2年間を教養部生専用の学生寮で過ごしました。

T北大学には学生寮がいくつかありまして、僕としては、「比較的新しい鉄筋コンクリート建てで、しかも完全個室であるM寮」に入りたかったんですが、くじ引きか何かわかりませんが選考にもれて、「築三十有余年の木造2階建てで、しかも二人部屋であるところの有朋(ゆうほう)寮」に回されました。消防署の「早く建て替えろ」という再三の勧告を無視し、大学当局の「建て替えてあげようか、鉄筋コンクリートに、プライバシーが守られる一人部屋に」という誘惑も頑強に拒んで、草茫々の敷地内に泰然として屹立する古式ゆかしい質実剛健な自治寮でした。

つまり、汚い寮でした。

隣接する中学校の先生が授業中、窓から我が三神峯(みかみね)有朋寮を見下ろし、「見たまえ諸君、まるでゴキブリホイホイのようではないか」と言ったとか。

なにい。寮がゴキブリホイホイなら、わしらはゴキブリか? 

悔しいが言い得て妙だ。

そんな寮ですから、遠くから初めてこの木造の細長い建物を望んだとき、「あれは養鶏場かな? 寮の近くに養鶏場があるのかな?」と一瞬思ってしまったのも無理からぬことです。

近づくにつれて養鶏場ではないらしいとわかってきたものの、「倉庫かな? 倉庫だよね?」という希望的観測を捨てることがなかなかできませんでした。

やがてすべてが理解され、その養鶏場のような倉庫のような時代錯誤な建物のそばにたどり着いたときには、ものを考えるのもイヤになり、「ここに2年間住むのね」という情けない諦念だけが頭の中をぐるぐるしているのでした。

しかし、そんな僕がはるか後年、寮が取り潰されたあとの更地を見て茫然自失、寂しさのあまり不覚にも落涙することになろうとは。寮とは不思議なものです。

寮にはいくつかのサークルがあり、寮生は必ずいずれかのサークルに所属することになっていました。サークルといってもいわゆるテニスサークルなどのような活動をするわけではなく、言ってみれば「班」ですね。ただ、人数を均等に割って第何班というふうに分けられるのではなく、ちゃんとサークルの特徴やメンバーを紹介した冊子を渡され、自分で所属したいサークルを選べるのです。

僕は『砂時計』という名前のサークルに所属することになりました。なぜそこを選んだかというと、入寮が遅かったため、人気のあるサークルが埋まってしまい、人気のなかった砂時計を寮委員長に勧められたからですね。要するに、僕としてはどこでも良かったわけです。

委員長といえば、入寮する際には、ちゃんと委員長による面談がありました。「この寮は学生による自治寮です」と言われたことしか覚えていませんが。そして、自治寮というのはつまり何を意味するのかということもよくわかりませんでしたが。

自治寮とはいえ、大人(つまり学生でない人)がいなかったわけではありません。

まず、公務員炊夫さんが3人いて、当番で宿直を務めてくださっていました。この炊夫さんたちのことを考えると本当に今でも頭が下がります。仙台弁で「おじんちゃん」と呼ばれていましたね。

それから、炊事の手伝いをしてくれるパートのおばんちゃんがいました。

最後に、寮内の清掃をしてくれる方がいました。雨の日なんか、何も考えていない寮生が自転車やバイクで帰ってきて、水をぽたぽた垂らしながら廊下を歩くので、この痛ましい木造建築を守るために、ひたすら油をひきまくってくださっていました。だから、寮の廊下はやけによく滑りました。

しかし、この人たち以外にいわゆる大学から派遣された寮長のような存在はおらず、寮費の管理から何からすべて寮生が運営していました。上述した寮委員長というのも寮生です。寮委員会には、委員長=BOSS、副委員長=SUB、会計幹事=GEL幹、厚生委員、あと何でしたかな、庶務みたいなのと印刷係みたいなのがいました。委員長と副委員長が同じ部屋で、あとは各委員が二人ずつ同じ部屋になります。委員会は、BOSSの名前を冠して「◎◎内閣」と呼ばれ、任期は4ヵ月でした。

僕は確か「第99期山田内閣」の厚生委員だったと思います。第98期だったかな? よく覚えていません。いずれにせよ、当時、寮は築32年だったということですね。

厚生委員の主たる仕事はトイレットペーパーの配備です。これを怠ると、深夜でも容赦なく「厚生! トレペねえぞ!」という怒声でたたき起こされます。敵は必死でお尻をおさえ便意をこらえながら厚生委員の部屋まで怒鳴り込みに来ている状態ですから、相当真剣に怒っています。したがって口ごたえは許されません。僕はうっかり者で忘れん坊なので、よく怒鳴られました。

寮生(尻をおさえながら)「ふざけんなよ、西川、てめえこの前も忘れてただろう!」

ぼく(目をこすりながら)「そういうきみはこの前も夜中にうんちに行ってたねえ」

などという牧歌的な場面がよく展開されていました。懐かしいなあ。

トイレットペーパーの備蓄がなくなると大学の本部にもらいに行きます。巨大な段ボール箱につまったトイレットペーパーを運ぶので、このときだけはタクシーに乗ってもよいということになっていました。もちろんトイレットペーパーをゲットした帰りだけです。領収書をもらって、ゲル幹のところに持っていくと、お金をわたしてくれるのです。

ゲル幹というのはかなりしっかりしていました。なんせ膨大な額の寮費の管理をしていましたから、有能でないと務まりません。任期の終わりにはちゃんと会計監査が入るのです。監査役ももちろん寮生です。1期前のゲル幹と2期前のゲル幹、合わせて4人が監査をするのですが、これが大仕事です。2晩ぐらいやってたんじゃないかな。へとへとになってました。

厚生委員時代、よく隣のゲル幹部屋に遊びに行きました。どの部屋も基本的に鍵らしい鍵はついていないのですが(下手につけようものなら破壊される)、ゲル幹の部屋だけ立派な鍵がついていました。

なぜなら大きな金庫があったからです。ゲル幹が金庫を開けるときは、必ず部屋から追い出されるので、中を見たことはありませんでしたが、どうも500万ぐらいはあったらしいです。

「万が一、寮が火事になったらどうするか?」

先輩が、ゲル幹の心得を教えてくれたことがあります。

「壁を破壊して金庫を外に放り出すんだ。こんな薄い壁すぐに壊れるからな。」

なんせ油をひきまくっている木造建築ですから、火がついたら、3分程度で燃えつきるだろうと言われていました。重たい金庫を持ち出す暇はない、ということですね。それにしても、そんなすぐに壊れる壁で大丈夫なのか? 鍵をつけても意味ないのでは?

「こんな汚い寮のこんな汚い部屋に500万あるなんて、誰も思わないだろ?」

まあ、そのとおりなんですが、さてそれでは、そんな汚い寮の汚い部屋にどうしてそれほどの大金がうなっていたのか?

実は、寮って、泊まれるんですよね。すごく安く。

もちろんふとんは煎餅だし、汚い大部屋ですが、一応泊まれるんです。で、相当昔に、がんがん他の大学生を泊まらせて儲けたらしいんです。当時の厚生委員で、後にT北大学の教授になった人が、そう自慢していたそうです。

が、僕が厚生委員になった頃には、そのようなことは全然ありませんでした。厚生委員の仕事はトレペの配備。あと、クリーニングの受付というのもありましたが、すでに有名無実化しつつありました。

それでも厚生委員になったときに業者の人から「これでジュースでも飲んでよ」と500円わたされ、激しく思い悩んだ記憶があります。

「これがあの有名なリベート・・・・・・」

こうして人は穢れていくのか、と本気で考えて悶々としました。

あの500円はどこにいったのかなあ? しばらく机の引き出しにしまっていたんだけど、たぶん極貧に陥ったときにつかっちゃったにちがいない。

そうやって僕は穢れてしまったんですね(>_<)

          つづく。

2011年6月 1日 (水)

ソコソコ

西川先生は「徹底」ということばが大好きであると以前のたまわっておりました。

その言動をつぶさに見ていて、うなずける面も多いわけです。

山登りにしても、映画にしても、音楽にしても、その徹底精神はいかんなく発揮されているようです。

その反面(対比の目印というやつですね。今ベーシックで教えているところ)、私は。

たとえば、映画が趣味とは言うものの、

アラン・タネールなんて通なカントクの名前など知りませぬし、

そもそも「ハリウッド」「ロードショー」「ハッピーエンド」の三つが基準ですから、

「映画通」だなんてとんでもなく、単にちょっと映画が好きなおっさんです。

他にも、将棋が趣味とこのブログの紹介にも書いているくせに、

せいぜい自称アマ初段の腕前。

ケータイのアプリの将棋ゲームを電車内でやっていたり、NHKの将棋トーナメントを毎週録画してほほーっとなっている程度。

「徹底」にはほど遠いわけです。

私は「美術の先生」になるべく、教員養成系の大学に進んだ訳ですが、

肝腎の作品制作はほとんどせず、大学に行ってはトランペットを吹いていて、

すっかり音楽科の学生だと思われていたようなのです。

しかも、学生時代から「塾の先生」でもあったので、スーツを着て大学に通い、

いつも「こいつは何者じゃ」のような顔で見られていました。

「大学に入ったら、古いジーパンとTシャツを着て油絵の具と木炭にまみれ、

食パンの耳をみちみちとかじっているかっこいい貧乏学生になるのじゃ」

という夢も、その夢にぴったりすぎる汚い大学の校舎をみてすっかり萎えてしまいました。

貧乏な暮らしも経験したのですが、西川先生のような「赤貧」を経験したでもなし。

バイトも結構いろいろやったんですが、人に聞かせるエピソードもなし。

幅広く器用だがそれまで。

「徹底」の二字は私にはないのであろうか。

……とここまで書いてみて、実はそんな生ぬるい自分が大好きであることに気づきました。

深淵を覗くのがこわいんですね。何かを究めようとすると、とてつもない苦労が待っているような気がして。

「徹底して」、幅広い「そこそこ」を目指すぞう!

オチもそこそこでした。

2011年5月24日 (火)

光年のかなた①

月日がたつのははやいですね。この前記事を書いたばかりで、そのあと山下trと栗原trが書いてくれたから俺しばらく書かなくていいやと思っていたら大変なことに。

実は、『国語まにあっくす』を開始するにあたって、週に1度は更新すると宣言していた、そのタイムリミットが昨日だったのです。約束を破ってしまった・・・! しかし、よく考えてみたら、べつに初めてのことじゃないし、いいですよね。

とにかく月日が過ぎ行くのははやいわけです。松尾芭蕉も言うてます、月日は百代の過客にして云々と。僕が大学生であったあの青春の日々も、もはや光年のかなたです。

※ちなみに『光年のかなた』というのは、スイス映画ですね。アラン・タネールという監督の作品です。鳥の研究をし、翼を自分のからだにくくりつけて空を飛ぼうとしている老人が出てくる映画です。すご~くおもしろかったんですけど、今は手に入らないですねえ。

さて、というわけで、今回から学生時代のアホな話を書こうかと思っていたのですが、吉野弘の『夕焼け』について書いた栗原trの文章を読んで、「アホな話ばかり書いとってはいかんかもなー」といつになく反省モードに。このままでは、「山下trや栗原trにくらべてこの西川というヒトは・・・」みたいな気まずい評価が定着してしまうかもしれないなー、貧乏の話とか低血糖の話とかしてるバヤイじゃないかも・・・なんて考えて、いまいち気乗りがしないままに時間が過ぎてしまったわけです。 

しかしながら、じゃあ何を書けばいいんだとなるとさっぱり思いうかばず、仕方なくやはり学生時代のアホな話を書くことにした私です。人生は短くタイムはマネーなのにこんな駄文に付き合ってられるかとお思いの方もいらっしゃいましょうが、ここまで読んだんなら諦めて最後まで読んでくだされ。しかもこれは連載化する予定なので次回以降も続きますが、毒を食らわば皿までとも言うし、更新されていないかこまめにチェックして最後まで気を抜かずにお読みくだされ。

さて、先日小4の授業で、家の間取りがどうこうという文章が出てきたので、学生時代に僕が住んでいた家の話をしました。

幼少のみぎりから今にいたるまで、基本的に団地あるいはマンション(アパート?)住まいの僕ですが、学生およびプータロー時代のみ、ぜいたくにも一軒家に住んでいたのです。

それはそれは素敵な家でした。松尾芭蕉が訪れ『おくのほそ道』にも記したという亀岡天満宮の鳥居をくぐり、小さな赤い太鼓橋を渡って、神社の本殿へとつづく石段の手前で右に折れ、春にはユキヤナギが、梅雨にはあじさいが咲く細い道を下っていくと、その家がありました。

六畳間が三つ、四畳半が一つ、縁側もあって、庭には白モクレンの大木が立っていました。裏手には竹林があり、小さな川が流れているため、夜のあいだずっと川音が静かに響いているのでした。

そういう素敵な家に、男3人で住むことになったのです。北海道出身の理学部Iくん、福岡出身の工学部Yくん、そして大阪出身の文学部わしです。何故こんなばらばらな3人が同居することになったのか? 3人の出会いは、大学に入学した4月にさかのぼるのであります。

僕が入学した大学はT北大学といいまして、仙台にあります。しかし、地理に疎かった僕は実際に入学するまで、仙台市が宮城県の県庁所在地であることをよく理解していませんでした。

「にしかわ、おまえ大学どこ受けんねん」

「T北大学」

「T北大学ってどこにあんねん」

「仙台」

「仙台って何県や?」

「そんなんも知らんのか、岩手や」

などという会話が友人とのあいだに交わされていたのであります。

だいたい関西の人は東北地方や関東北部の地理に疎いですね。逆に、関東や東北の人は九州・四国の地理に疎いです。

忘れられる県、というのがありまして、関東では「栃木」、九州では「佐賀」、四国では「香川」あるいは「徳島」、関西方面では「三重」でしょうか。

大学時代、テスト中、時間があまって暇だったので、テスト用紙の裏に日本の都道府県を書き出していったことがありますが、最後まで出て来なかったのが、僕の場合は「徳島」でした。県庁所在地は思い出せたのに、県名が出てこないのです。不思議でしょう。「徳島市って何県にあるんだっけ?」と必死で考えていたんですよね。もはやうっかりの域をこえているかもしれません。

閑話休題、とにかく19××年4月上旬のある夕刻、私は、岩手県と信じて疑わない仙台市の長町駅にひとりで降り立ったわけです。

つづく!

2011年5月16日 (月)

三方一両得

テレビのバラエテイ番組で、こんなときのマナーはどうすりゃいいの、という設定で、バナナをナイフとフォークで食べるにはどうすればよいか、というのをやっていました。マナーの先生がお皿に載った皮付きのバナナの両端をナイフで切り落としたあと、縦に一直線、皮に切れ目を入れて、ナイフとフォークで皮をむき、それから輪切りにするという「マナー」を紹介していました。そのときは「なるほど」と思ったのですが、よく考えると皮付きのバナナ一本を皿に載せて出してくる「料理」なんてありえないのでは?

焼香のマナーというのも、よくわかりません。お香をつまんだあと額のところでおしいただくのかどうか、それは一回でよいのか何回かしなければいけないのか、宗派によってちがうという説もありそうで、ひとのするのを見て真似しようと思うのですが、後ろから見ていると食べているように見えて、TKOのねたは笑いながらも、納得させられます。おくやみもどう言えばよいのやら。はっきりと口跡さわやかに言うものではないのだから、ゴニョゴニョ言えばよいのでしょうが、それでも言うことばに困ります。場合が場合だけにうっかりしたことは言えません。結婚式なら、うっかり「それでは乾杯三唱」とか言いまちがっても笑って許してくれそうですが……。

ひとにものをあげるときのことばも難しい。恩着せがましくなるとまずいし、「つまらないものですが」というのも、相手との間柄次第で、かなり親しいときなど意外に使い勝手が悪い。私は「これやる」とか「持ってけ泥棒」と言って、ごまかします。ホワイトデーのときのフレーズも困りますな。「お返しです」というのもなんか変だし、私はよく「仕返しじゃ」と言って渡していました。最近はチョコレートももらわなくなったので、気が楽です…って、なんかくやしいです。

ちょっとした一言というのは、なんでも結構難しいようです。受験生によく言う「がんばれ」なんか、どうなのでしょう。「がんばれ」は最近ひじょうに評判が悪いようです。人を傷つける「がんばれ」もある、と言われると、うっかり言えなくなりました。「がんばらない」を売りにするのはあざとくていやですけどね。でも、受験生には「がんばれ」と言うしかないでしょう。「がんばるな」と言うわけにはいかない。とくに塾講師は「がんばれ」と言うことが多いようです。最近は聞かなくなりましたが、「勉強しすぎて死んだ奴はおらん」ということばはちょっと抵抗がありますね。「それって本当? ひょっとして一人くらいいてるんとちゃう」と思ってしまうのですが。なんでも「…しすぎ」はあかんでしょう。

ただ国語の勉強はずっと続きます。起きている間すべて、じつは国語の勉強をしてるんですね、本人が気づかないだけで。ものの考え方、生き方、人とのふれ合い……、全部国語の勉強です。世の中にはこんな人がいてるんや、という驚きも、吉本新喜劇を見ていてアハハと笑うことも国語につながります。ひととしゃべるだけで勉強しているわけだし、何か考えるだけでも国語の勉強です。昨日と今日を比べても、格段に国語の力がついているはずです。一年前の自分と比べれば、ことば数は増えているし、経験値は増えているし、いろいろな呪文も覚えているし。ということは、「国語が嫌い」というひとは「生きてるのが嫌い」と言っていることになります。みなさん、今後は「国語が嫌い」と言わないようにしましょうね。

毎年出ているベストエッセイ集のタイトルに「信長嫌い」というのがあったことを思い出しました。藤沢周平の書いた同名のエッセイを本のタイトルにしたものです。信長嫌いの理由は、比叡山延暦寺の焼き討ちや本願寺の弾圧だと書いていました。非戦闘員を大勢殺した信長の残虐性が許せないという内容で、読んだときにはやはり「なるほど」と思いました。書いているのが藤沢周平だけに、「やっぱりこの人はするどい」なんて思ってしまったのですが、それに対する反論を書いている人もいます。いわく、信長はいきなり焼き打ちしたわけではなく、何度も降伏勧告しているし、当時の延暦寺や本願寺はいまのお寺とはちがって武装集団だった。信長は、日本をより良い国にするという目的を持っており、そのためには、宗教勢力の武装解除を行い、多くの利権を剥奪する必要があった。比叡山の焼き討ちは、敵対する武装集団を屈伏させる方法であり、その結果、いまのような「平和」なお寺になったのだ、そういう事実を無視して、「嫌い」と言うのはおかしい……。うーん、なるほど。もしそうであるなら、信長嫌いは「無知のため」ということになりそうです。

とはいうものの、本当のことを知らないで結論を下したり、無知ゆえ毛嫌いしたりするのはよくあることです。逆に、賛美されているために見えなくなるものもあるかもしれません。みんながほめるものにあえて異を唱えるのはへそ曲がりのひねくれ者です。でも、みんながそろってほめるほどすごいものなのか、というとそうとは限らないものもありそうです。大岡越前の「三方一両損」など、名裁判とされていますが、本当にそうでしょうか。三両の落とし主は二両もどってきたので一両の損、拾ったほうは猫ばばしていれば三両の得だったのに、二両になったから一両の損、三両に一両足した大岡越前は一両の損、みんな一両の損ということで納得しろ、というのはあまりかしこくないような気がします。大岡越前は三両を三つに割って、落とし主、拾い主、そして自分が一両ずつとるというお裁きをすべきだったのではないでしょうか。落とし主は三両失っていたところ、一両もどってきたのだから一両の得、拾い主はもともと他人のお金で自分のものではなかったのに一両手にはいったのだから一両の得、大岡越前は裁判にかかわったおかげで一両もらえたのだから一両の得、つまり「三方一両得」のほうがよいに決まっているではありませんか。どうして「損」をわざわざ選んだのでしょう。大岡越前って、評判ほどかしこくなかったのかもしれませんね。

2011年5月10日 (火)

「夕焼け」とあんぱんまん

吉野弘さんの詩に「夕焼け」という美しい一篇があります。

はるか昔、灘中学校の入試で出題されたこともありました。

かいつまんでしまうと詩の良さは台無しなのですが、しかたなく。

    (時間・場所)夕暮れのラッシュアワーの満員電車の中。

    (人物)立っていた老人に席をゆずるわかい娘さんとそれを見る「わたし」。

    席をゆずった老人が降り、娘さんがすわるとまた別の老人が前に。

    「うつむいていた」娘さんはまた席をゆずり、その老人も別の駅で降りる。

    三度め。娘さんはうつむいたまま、席をゆずらない。

    わたしは娘さんの気持ちを慮りながら、電車を降りる。

とまあこういうストーリーなのです。

さあ、いよいよ「国語の問題」です。

◆娘さんは、なぜ三度目には席をゆずらなかったのでしょうか?

まさか、「自分だって疲れていたんだもん」なんて娘さんに言わせるような解答を出してはいけないですよね。

 当然、詩中のいろいろな表現から整合性のある答えを出すわけです。ここではそれには触れず、ちょっと想像を広げてみます。

 「善行ゆえのむなしさ」「善行ゆえのうしろめたさ」みたいな感情が「娘さん」にあったのじゃないか、と考えてみたいのです。

 心理学者の河合隼雄さんは、著書の中で、善行を趣味としているはた迷惑な人について触れています。善行を「させていただいている」という自覚のない人は困ったもんだ、という趣旨です。

 昔の「あんぱんまん」をご存じでしょうか。「アンパンマン」ではありません。私が小学生のころ、図書館で開いたそれは、今の二頭身キャラのかわいい健全なヒーローではなく、実に陰惨な感じのするシュールな絵本でした。作者は同じやなせさんなんですが。

 うろ覚えで不確かですが、お腹が空いてぐったりしたり泣いたりしている子どもたちに、あんぱんまんは自分の顔を食べさせるのです。その飢えた子供たちへの施しが、実にきりがないんですね。子供心に「むなしい」という言葉の意味が実感できた私にとって衝撃の一書でした。

 顔のなくなった首なしあんぱんまんは、もはやヒーローらしからぬ「陰惨さ」を放っていました。

 私の記憶がおかしいのか? 大人になって、テレビの「アンパンマン」を見たときには、同じものとは思えませんでした。

 まちがいなく、昔の「あんぱんまん」の方が深いわけです。

 私が「夕焼け」の詩を読むとき、どうしても「あんぱんまん」を読み終えたときの気持ちが結びついてしまいます。

 席をゆずられたほうの人は、「ああ、これで座れる。助かった」と思う人も、思うときもあるでしょうし、「老人扱いされてしまった」とがっかりしたり気を悪くしたりする人も、するときもあるでしょう。

 そういう「ゆずられる人」の気持ちまで考慮に入れてしまう人は、「善行」に対してむしろ慎重になり、二の足を踏んでしまうはずです。

 無神経に「善行なんだから善は急げ」とやってしまう人を責めるわけではないんですが、そういう人もいますし、かくいう私はそういう「おせっかい」をやってしまう人です。

私は、自分のために「善行」しようと思っています。自分が「いい人」でいられるために、自分が「ひどい人間」だと思わなくてすむように。結局勇気がないんでしょうか。

 詩の中で、「やさしい心の持ち主は、われにもあらず受難者となる」と吉野さんは書いています。

 善行に目的などいらない。ましてや報酬などない。報酬はと言えば、席を立って窓の外から見える、「夕焼け」の美しさshine。満員電車で座っていては見えない夕焼けなのだ。そうこの詩を私は読むようにしています。

2011年5月 3日 (火)

バイトの日々④

さて、大学時代およびプータロー時代に私が体験した二十種類ものアルバイトの日々についてしみじみと語るシリーズの最終回です。

最も長く私が勤めたバイト先、それは、「官報販売所」です。

みなさんは「官報」をご存じでしょうか。

官報とは、

『法律、政令、条約等の公布をはじめとして、国の機関としての諸報告や資料を公表する「国の広報紙」「国民の公告紙」としての使命を持っています。さらに、法令の規定に基づく各種の公告を掲載するなど、国が発行する機関紙として極めて重要な役割を果たしています。』(国立印刷局HPより)

てな感じのものです。

その販売所で官報をはじめとする政府刊行物その他の配達業務に携わっておりました。昔ながらの頑丈な業務用自転車をこいで仙台市内を走り回っていたわけです。雨の日がつらかったなあ。雪が積もったときも大変だったけど。

官報自体は、私なんかが読んでも正直まったくおもしろいものではありませんでした。それでも、若干不謹慎ではありますが、「行旅死亡人」の欄にはよく目を通していました。「行旅死亡人」というのは、要するに行き倒れの方のことで、官報に公告として掲載されるのです。なんとなくその欄から目が離せず、しんみりした気持ちで読んでいました。前にも少し書きましたが、いつか自分も・・・・・・という気持ちが心の底にあったからでしょう。いつもしんみりしていたわけではなく、都下八王子で亡くなった女性の方について「自称;おく・たまこ」と書かれていたのに吹き出したりしたこともありましたが・・・・・・。

たぶん、ほんとうに怖かったんだと思います。他人ごととは思えなくて。怖いと目が離せなくなるタイプなんですね。たとえば、新聞にひどく残虐な事件の記事が掲載されていたりしますよね。それがツボにはまってしまうときがあるんです。そうすると、もう調べずにはいられなくなります。いったい何でこんな事件が起きちゃったんだ、どういう動機なんだ、とか。でも、興味がわいたという感じではなくて、怖くてしかたがないから知らずにはいられないという感じです。未知が恐怖の源なんだから、未知の部分を減らさなきゃ耐えられん、そんな気持ちです。もちろん、調べるといっても新聞に載っている以上のことはわからないわけですが、ずっと心の片隅に残っていて、何年かしてからその事件のルポなんかが出たときについ買って読んでしまったりします。あの横溝正史の『八つ墓村』のモデルになった事件なんかいくつも関連書籍を読みました。

これは、怖い物好きとはちがいます。怖いものはキライです。お化け屋敷もホラー映画も大嫌いですから、絶対に入らないし見ません。

だから、そういった事件についての文章を読んでいても楽しくもなんともありませんし、ましてやカタルシスなんて少しも得られず、いつも後味の悪い思いしかしません。でも、調べずにはいられないんですね。怖いから。

◇◆

さて、話がそれましたが、バイトの話です。僕が勤めていたころの販売所は居心地がよかったです。よく遅刻しましたが、なんとなく「しかたないなあ、西川くんは」みたいな雰囲気で許してもらえて。

所長さんがもう八十近かったんじゃないかと思うんですが、矍鑠とした方で、時間のあるときにいろいろお話を聞かせていただくのが楽しかったです。

「ぼくはね、結核のおかげで命拾いしたんだよ」

「結核になったせいで徴兵を免れてね、でも結核で死ぬ前に戦争が終わってマイシンが入ってきたからね」

なんて話をきくとすごく新鮮でした。歯が痛くて苦しんでいると、

「西川くん、そういうときは塩をつめるといいんだ、塩は万能だ」

と言われ、口の中に大量の塩を詰め込む羽目に。じんじんしてつらかったなあ。

「どうだ、痛くなくなってきただろう」

「あの、しょっぱくて麻痺してきました」

昔から、お年寄りの話をきくのが好きなんです。僕の伯父が関東軍の将校だったんですが、この伯父さんの話もおもしろかったですねぇ。ノモンハンの話とかね。

「だってさ、とんでくるの向こうの弾ばっかりなんだもん、勝てるわけないっての」

なんて、飄々と言ってました。

「部下を動かすにはね、まず自分が動かなきゃだめなんだ」

なんていう立派なことも言ってましたねえ。

「たとえばさ、遮蔽物から遮蔽物まで移動するとするだろ。そのときに、部下に『お前たち行け』って言ったって、だれも行けないよ、みんな怖いんだから。だから、そういうときは、まず自分が行くんだ。自分が行ってから、『よし来い』って言うと、みんな来るんだよ」

一緒に話を聞いていた僕の兄はいたく感心していましたが、

「それにさ、先に行った方が実は弾にあたらないんだ。俺の姿を見てはじめて敵は人が出てくることに気づくからさ。」

というオチをしれっとした顔でつけてくれましたっけ。

◇◆

所長さんちは、あの『荒城の月』の詩をつくった高名な土井晩翠の親戚だということでした。地元の名家だったんですね。

結局仙台を去るまで、この官報販売所にお世話になりました。

ご存命ならもう100歳近いと思いますが、所長さん、奥さん、ありがとうございました。

◇◆◇◆◇◆

緊急予告!

いよいよ新シリーズスタート!

にしかわが仙台で過ごした7年半の青春の日々について、そのどうでもよい些末な部分についてだけ熱く語る!

夢も希望もなく、ただただ貧乏だった日々!

汗も涙も流すことなく、ただただ低血糖だった日々!

第1回『養鶏場かと思ったら寮だった(仮)』の巻

乞うご期待!

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