2011年5月24日 (火)

光年のかなた①

月日がたつのははやいですね。この前記事を書いたばかりで、そのあと山下trと栗原trが書いてくれたから俺しばらく書かなくていいやと思っていたら大変なことに。

実は、『国語まにあっくす』を開始するにあたって、週に1度は更新すると宣言していた、そのタイムリミットが昨日だったのです。約束を破ってしまった・・・! しかし、よく考えてみたら、べつに初めてのことじゃないし、いいですよね。

とにかく月日が過ぎ行くのははやいわけです。松尾芭蕉も言うてます、月日は百代の過客にして云々と。僕が大学生であったあの青春の日々も、もはや光年のかなたです。

※ちなみに『光年のかなた』というのは、スイス映画ですね。アラン・タネールという監督の作品です。鳥の研究をし、翼を自分のからだにくくりつけて空を飛ぼうとしている老人が出てくる映画です。すご~くおもしろかったんですけど、今は手に入らないですねえ。

さて、というわけで、今回から学生時代のアホな話を書こうかと思っていたのですが、吉野弘の『夕焼け』について書いた栗原trの文章を読んで、「アホな話ばかり書いとってはいかんかもなー」といつになく反省モードに。このままでは、「山下trや栗原trにくらべてこの西川というヒトは・・・」みたいな気まずい評価が定着してしまうかもしれないなー、貧乏の話とか低血糖の話とかしてるバヤイじゃないかも・・・なんて考えて、いまいち気乗りがしないままに時間が過ぎてしまったわけです。 

しかしながら、じゃあ何を書けばいいんだとなるとさっぱり思いうかばず、仕方なくやはり学生時代のアホな話を書くことにした私です。人生は短くタイムはマネーなのにこんな駄文に付き合ってられるかとお思いの方もいらっしゃいましょうが、ここまで読んだんなら諦めて最後まで読んでくだされ。しかもこれは連載化する予定なので次回以降も続きますが、毒を食らわば皿までとも言うし、更新されていないかこまめにチェックして最後まで気を抜かずにお読みくだされ。

さて、先日小4の授業で、家の間取りがどうこうという文章が出てきたので、学生時代に僕が住んでいた家の話をしました。

幼少のみぎりから今にいたるまで、基本的に団地あるいはマンション(アパート?)住まいの僕ですが、学生およびプータロー時代のみ、ぜいたくにも一軒家に住んでいたのです。

それはそれは素敵な家でした。松尾芭蕉が訪れ『おくのほそ道』にも記したという亀岡天満宮の鳥居をくぐり、小さな赤い太鼓橋を渡って、神社の本殿へとつづく石段の手前で右に折れ、春にはユキヤナギが、梅雨にはあじさいが咲く細い道を下っていくと、その家がありました。

六畳間が三つ、四畳半が一つ、縁側もあって、庭には白モクレンの大木が立っていました。裏手には竹林があり、小さな川が流れているため、夜のあいだずっと川音が静かに響いているのでした。

そういう素敵な家に、男3人で住むことになったのです。北海道出身の理学部Iくん、福岡出身の工学部Yくん、そして大阪出身の文学部わしです。何故こんなばらばらな3人が同居することになったのか? 3人の出会いは、大学に入学した4月にさかのぼるのであります。

僕が入学した大学はT北大学といいまして、仙台にあります。しかし、地理に疎かった僕は実際に入学するまで、仙台市が宮城県の県庁所在地であることをよく理解していませんでした。

「にしかわ、おまえ大学どこ受けんねん」

「T北大学」

「T北大学ってどこにあんねん」

「仙台」

「仙台って何県や?」

「そんなんも知らんのか、岩手や」

などという会話が友人とのあいだに交わされていたのであります。

だいたい関西の人は東北地方や関東北部の地理に疎いですね。逆に、関東や東北の人は九州・四国の地理に疎いです。

忘れられる県、というのがありまして、関東では「栃木」、九州では「佐賀」、四国では「香川」あるいは「徳島」、関西方面では「三重」でしょうか。

大学時代、テスト中、時間があまって暇だったので、テスト用紙の裏に日本の都道府県を書き出していったことがありますが、最後まで出て来なかったのが、僕の場合は「徳島」でした。県庁所在地は思い出せたのに、県名が出てこないのです。不思議でしょう。「徳島市って何県にあるんだっけ?」と必死で考えていたんですよね。もはやうっかりの域をこえているかもしれません。

閑話休題、とにかく19××年4月上旬のある夕刻、私は、岩手県と信じて疑わない仙台市の長町駅にひとりで降り立ったわけです。

つづく!

2011年5月16日 (月)

三方一両得

テレビのバラエテイ番組で、こんなときのマナーはどうすりゃいいの、という設定で、バナナをナイフとフォークで食べるにはどうすればよいか、というのをやっていました。マナーの先生がお皿に載った皮付きのバナナの両端をナイフで切り落としたあと、縦に一直線、皮に切れ目を入れて、ナイフとフォークで皮をむき、それから輪切りにするという「マナー」を紹介していました。そのときは「なるほど」と思ったのですが、よく考えると皮付きのバナナ一本を皿に載せて出してくる「料理」なんてありえないのでは?

焼香のマナーというのも、よくわかりません。お香をつまんだあと額のところでおしいただくのかどうか、それは一回でよいのか何回かしなければいけないのか、宗派によってちがうという説もありそうで、ひとのするのを見て真似しようと思うのですが、後ろから見ていると食べているように見えて、TKOのねたは笑いながらも、納得させられます。おくやみもどう言えばよいのやら。はっきりと口跡さわやかに言うものではないのだから、ゴニョゴニョ言えばよいのでしょうが、それでも言うことばに困ります。場合が場合だけにうっかりしたことは言えません。結婚式なら、うっかり「それでは乾杯三唱」とか言いまちがっても笑って許してくれそうですが……。

ひとにものをあげるときのことばも難しい。恩着せがましくなるとまずいし、「つまらないものですが」というのも、相手との間柄次第で、かなり親しいときなど意外に使い勝手が悪い。私は「これやる」とか「持ってけ泥棒」と言って、ごまかします。ホワイトデーのときのフレーズも困りますな。「お返しです」というのもなんか変だし、私はよく「仕返しじゃ」と言って渡していました。最近はチョコレートももらわなくなったので、気が楽です…って、なんかくやしいです。

ちょっとした一言というのは、なんでも結構難しいようです。受験生によく言う「がんばれ」なんか、どうなのでしょう。「がんばれ」は最近ひじょうに評判が悪いようです。人を傷つける「がんばれ」もある、と言われると、うっかり言えなくなりました。「がんばらない」を売りにするのはあざとくていやですけどね。でも、受験生には「がんばれ」と言うしかないでしょう。「がんばるな」と言うわけにはいかない。とくに塾講師は「がんばれ」と言うことが多いようです。最近は聞かなくなりましたが、「勉強しすぎて死んだ奴はおらん」ということばはちょっと抵抗がありますね。「それって本当? ひょっとして一人くらいいてるんとちゃう」と思ってしまうのですが。なんでも「…しすぎ」はあかんでしょう。

ただ国語の勉強はずっと続きます。起きている間すべて、じつは国語の勉強をしてるんですね、本人が気づかないだけで。ものの考え方、生き方、人とのふれ合い……、全部国語の勉強です。世の中にはこんな人がいてるんや、という驚きも、吉本新喜劇を見ていてアハハと笑うことも国語につながります。ひととしゃべるだけで勉強しているわけだし、何か考えるだけでも国語の勉強です。昨日と今日を比べても、格段に国語の力がついているはずです。一年前の自分と比べれば、ことば数は増えているし、経験値は増えているし、いろいろな呪文も覚えているし。ということは、「国語が嫌い」というひとは「生きてるのが嫌い」と言っていることになります。みなさん、今後は「国語が嫌い」と言わないようにしましょうね。

毎年出ているベストエッセイ集のタイトルに「信長嫌い」というのがあったことを思い出しました。藤沢周平の書いた同名のエッセイを本のタイトルにしたものです。信長嫌いの理由は、比叡山延暦寺の焼き討ちや本願寺の弾圧だと書いていました。非戦闘員を大勢殺した信長の残虐性が許せないという内容で、読んだときにはやはり「なるほど」と思いました。書いているのが藤沢周平だけに、「やっぱりこの人はするどい」なんて思ってしまったのですが、それに対する反論を書いている人もいます。いわく、信長はいきなり焼き打ちしたわけではなく、何度も降伏勧告しているし、当時の延暦寺や本願寺はいまのお寺とはちがって武装集団だった。信長は、日本をより良い国にするという目的を持っており、そのためには、宗教勢力の武装解除を行い、多くの利権を剥奪する必要があった。比叡山の焼き討ちは、敵対する武装集団を屈伏させる方法であり、その結果、いまのような「平和」なお寺になったのだ、そういう事実を無視して、「嫌い」と言うのはおかしい……。うーん、なるほど。もしそうであるなら、信長嫌いは「無知のため」ということになりそうです。

とはいうものの、本当のことを知らないで結論を下したり、無知ゆえ毛嫌いしたりするのはよくあることです。逆に、賛美されているために見えなくなるものもあるかもしれません。みんながほめるものにあえて異を唱えるのはへそ曲がりのひねくれ者です。でも、みんながそろってほめるほどすごいものなのか、というとそうとは限らないものもありそうです。大岡越前の「三方一両損」など、名裁判とされていますが、本当にそうでしょうか。三両の落とし主は二両もどってきたので一両の損、拾ったほうは猫ばばしていれば三両の得だったのに、二両になったから一両の損、三両に一両足した大岡越前は一両の損、みんな一両の損ということで納得しろ、というのはあまりかしこくないような気がします。大岡越前は三両を三つに割って、落とし主、拾い主、そして自分が一両ずつとるというお裁きをすべきだったのではないでしょうか。落とし主は三両失っていたところ、一両もどってきたのだから一両の得、拾い主はもともと他人のお金で自分のものではなかったのに一両手にはいったのだから一両の得、大岡越前は裁判にかかわったおかげで一両もらえたのだから一両の得、つまり「三方一両得」のほうがよいに決まっているではありませんか。どうして「損」をわざわざ選んだのでしょう。大岡越前って、評判ほどかしこくなかったのかもしれませんね。

2011年5月10日 (火)

「夕焼け」とあんぱんまん

吉野弘さんの詩に「夕焼け」という美しい一篇があります。

はるか昔、灘中学校の入試で出題されたこともありました。

かいつまんでしまうと詩の良さは台無しなのですが、しかたなく。

    (時間・場所)夕暮れのラッシュアワーの満員電車の中。

    (人物)立っていた老人に席をゆずるわかい娘さんとそれを見る「わたし」。

    席をゆずった老人が降り、娘さんがすわるとまた別の老人が前に。

    「うつむいていた」娘さんはまた席をゆずり、その老人も別の駅で降りる。

    三度め。娘さんはうつむいたまま、席をゆずらない。

    わたしは娘さんの気持ちを慮りながら、電車を降りる。

とまあこういうストーリーなのです。

さあ、いよいよ「国語の問題」です。

◆娘さんは、なぜ三度目には席をゆずらなかったのでしょうか?

まさか、「自分だって疲れていたんだもん」なんて娘さんに言わせるような解答を出してはいけないですよね。

 当然、詩中のいろいろな表現から整合性のある答えを出すわけです。ここではそれには触れず、ちょっと想像を広げてみます。

 「善行ゆえのむなしさ」「善行ゆえのうしろめたさ」みたいな感情が「娘さん」にあったのじゃないか、と考えてみたいのです。

 心理学者の河合隼雄さんは、著書の中で、善行を趣味としているはた迷惑な人について触れています。善行を「させていただいている」という自覚のない人は困ったもんだ、という趣旨です。

 昔の「あんぱんまん」をご存じでしょうか。「アンパンマン」ではありません。私が小学生のころ、図書館で開いたそれは、今の二頭身キャラのかわいい健全なヒーローではなく、実に陰惨な感じのするシュールな絵本でした。作者は同じやなせさんなんですが。

 うろ覚えで不確かですが、お腹が空いてぐったりしたり泣いたりしている子どもたちに、あんぱんまんは自分の顔を食べさせるのです。その飢えた子供たちへの施しが、実にきりがないんですね。子供心に「むなしい」という言葉の意味が実感できた私にとって衝撃の一書でした。

 顔のなくなった首なしあんぱんまんは、もはやヒーローらしからぬ「陰惨さ」を放っていました。

 私の記憶がおかしいのか? 大人になって、テレビの「アンパンマン」を見たときには、同じものとは思えませんでした。

 まちがいなく、昔の「あんぱんまん」の方が深いわけです。

 私が「夕焼け」の詩を読むとき、どうしても「あんぱんまん」を読み終えたときの気持ちが結びついてしまいます。

 席をゆずられたほうの人は、「ああ、これで座れる。助かった」と思う人も、思うときもあるでしょうし、「老人扱いされてしまった」とがっかりしたり気を悪くしたりする人も、するときもあるでしょう。

 そういう「ゆずられる人」の気持ちまで考慮に入れてしまう人は、「善行」に対してむしろ慎重になり、二の足を踏んでしまうはずです。

 無神経に「善行なんだから善は急げ」とやってしまう人を責めるわけではないんですが、そういう人もいますし、かくいう私はそういう「おせっかい」をやってしまう人です。

私は、自分のために「善行」しようと思っています。自分が「いい人」でいられるために、自分が「ひどい人間」だと思わなくてすむように。結局勇気がないんでしょうか。

 詩の中で、「やさしい心の持ち主は、われにもあらず受難者となる」と吉野さんは書いています。

 善行に目的などいらない。ましてや報酬などない。報酬はと言えば、席を立って窓の外から見える、「夕焼け」の美しさshine。満員電車で座っていては見えない夕焼けなのだ。そうこの詩を私は読むようにしています。

2011年5月 3日 (火)

バイトの日々④

さて、大学時代およびプータロー時代に私が体験した二十種類ものアルバイトの日々についてしみじみと語るシリーズの最終回です。

最も長く私が勤めたバイト先、それは、「官報販売所」です。

みなさんは「官報」をご存じでしょうか。

官報とは、

『法律、政令、条約等の公布をはじめとして、国の機関としての諸報告や資料を公表する「国の広報紙」「国民の公告紙」としての使命を持っています。さらに、法令の規定に基づく各種の公告を掲載するなど、国が発行する機関紙として極めて重要な役割を果たしています。』(国立印刷局HPより)

てな感じのものです。

その販売所で官報をはじめとする政府刊行物その他の配達業務に携わっておりました。昔ながらの頑丈な業務用自転車をこいで仙台市内を走り回っていたわけです。雨の日がつらかったなあ。雪が積もったときも大変だったけど。

官報自体は、私なんかが読んでも正直まったくおもしろいものではありませんでした。それでも、若干不謹慎ではありますが、「行旅死亡人」の欄にはよく目を通していました。「行旅死亡人」というのは、要するに行き倒れの方のことで、官報に公告として掲載されるのです。なんとなくその欄から目が離せず、しんみりした気持ちで読んでいました。前にも少し書きましたが、いつか自分も・・・・・・という気持ちが心の底にあったからでしょう。いつもしんみりしていたわけではなく、都下八王子で亡くなった女性の方について「自称;おく・たまこ」と書かれていたのに吹き出したりしたこともありましたが・・・・・・。

たぶん、ほんとうに怖かったんだと思います。他人ごととは思えなくて。怖いと目が離せなくなるタイプなんですね。たとえば、新聞にひどく残虐な事件の記事が掲載されていたりしますよね。それがツボにはまってしまうときがあるんです。そうすると、もう調べずにはいられなくなります。いったい何でこんな事件が起きちゃったんだ、どういう動機なんだ、とか。でも、興味がわいたという感じではなくて、怖くてしかたがないから知らずにはいられないという感じです。未知が恐怖の源なんだから、未知の部分を減らさなきゃ耐えられん、そんな気持ちです。もちろん、調べるといっても新聞に載っている以上のことはわからないわけですが、ずっと心の片隅に残っていて、何年かしてからその事件のルポなんかが出たときについ買って読んでしまったりします。あの横溝正史の『八つ墓村』のモデルになった事件なんかいくつも関連書籍を読みました。

これは、怖い物好きとはちがいます。怖いものはキライです。お化け屋敷もホラー映画も大嫌いですから、絶対に入らないし見ません。

だから、そういった事件についての文章を読んでいても楽しくもなんともありませんし、ましてやカタルシスなんて少しも得られず、いつも後味の悪い思いしかしません。でも、調べずにはいられないんですね。怖いから。

◇◆

さて、話がそれましたが、バイトの話です。僕が勤めていたころの販売所は居心地がよかったです。よく遅刻しましたが、なんとなく「しかたないなあ、西川くんは」みたいな雰囲気で許してもらえて。

所長さんがもう八十近かったんじゃないかと思うんですが、矍鑠とした方で、時間のあるときにいろいろお話を聞かせていただくのが楽しかったです。

「ぼくはね、結核のおかげで命拾いしたんだよ」

「結核になったせいで徴兵を免れてね、でも結核で死ぬ前に戦争が終わってマイシンが入ってきたからね」

なんて話をきくとすごく新鮮でした。歯が痛くて苦しんでいると、

「西川くん、そういうときは塩をつめるといいんだ、塩は万能だ」

と言われ、口の中に大量の塩を詰め込む羽目に。じんじんしてつらかったなあ。

「どうだ、痛くなくなってきただろう」

「あの、しょっぱくて麻痺してきました」

昔から、お年寄りの話をきくのが好きなんです。僕の伯父が関東軍の将校だったんですが、この伯父さんの話もおもしろかったですねぇ。ノモンハンの話とかね。

「だってさ、とんでくるの向こうの弾ばっかりなんだもん、勝てるわけないっての」

なんて、飄々と言ってました。

「部下を動かすにはね、まず自分が動かなきゃだめなんだ」

なんていう立派なことも言ってましたねえ。

「たとえばさ、遮蔽物から遮蔽物まで移動するとするだろ。そのときに、部下に『お前たち行け』って言ったって、だれも行けないよ、みんな怖いんだから。だから、そういうときは、まず自分が行くんだ。自分が行ってから、『よし来い』って言うと、みんな来るんだよ」

一緒に話を聞いていた僕の兄はいたく感心していましたが、

「それにさ、先に行った方が実は弾にあたらないんだ。俺の姿を見てはじめて敵は人が出てくることに気づくからさ。」

というオチをしれっとした顔でつけてくれましたっけ。

◇◆

所長さんちは、あの『荒城の月』の詩をつくった高名な土井晩翠の親戚だということでした。地元の名家だったんですね。

結局仙台を去るまで、この官報販売所にお世話になりました。

ご存命ならもう100歳近いと思いますが、所長さん、奥さん、ありがとうございました。

◇◆◇◆◇◆

緊急予告!

いよいよ新シリーズスタート!

にしかわが仙台で過ごした7年半の青春の日々について、そのどうでもよい些末な部分についてだけ熱く語る!

夢も希望もなく、ただただ貧乏だった日々!

汗も涙も流すことなく、ただただ低血糖だった日々!

第1回『養鶏場かと思ったら寮だった(仮)』の巻

乞うご期待!

2011年4月27日 (水)

伊丹十三は目玉焼きをどう食べたか

知らない間に名前が変わるというのは、実は意外によくあることかもしれません。明治になって生まれた「牛鍋」なるものは、いつのまにか「すき焼き」に変わりました。ただし、これは関西と関東での違いが関係するかもしれません。関西でははじめから「牛鍋」ではなく、「すき焼き」だったような気もします。「おでん」も関西で「田楽」と言われたものがルーツなのでしょうが、「味噌田楽」とは似ても似つかないものだから、関西人は「関東だき」と言っていたのではないでしょうか。でも、「関東だき」も死語になり、関西でも「おでん」になってしまいました。「関東炊き」は煮込んでいるので「炊く」ということばがあいますが、「すき焼き」は焼くのでしょうか。高い店では最初に肉だけを「焼く」(正確に言うと「焼いてくれる」)ので、なるほどなと思いますが。「すきなべ」ということばもありますな。これは牛肉ではなく、魚介類を使った物で、要するに「すき焼き」のパチモンということでしょうか。

だいたい、「焼く」とか「炊く」とか「煮る」とか、区別がつきにくいようです。「…焼き」の造語法からして無茶苦茶です。「玉子焼き」は玉子を焼いていますが、「たこ焼き」はタコそのものを焼いているわけではありません。「いか焼き」の場合は、「たこ焼き」の親戚みたいなやつをさす場合もあり、イカそのものを焼いた場合もあります。「たい焼き」は鯛の形をしているだけです。これは「人形焼き」も同じでしょう。「鉄板焼き」は「鉄板」で焼いたものです。「広島焼き」は、広島で生まれたものでしょう。「モダン焼き」は何なのでしょう。「目玉焼き」はもちろん「目玉」を焼いたものではありません。

また、「焼く」と「炒める」の違いは何でしょうか。イメージ的には鍋やフライパンを使えば「炒める」であり、「焼く」は直接火に接する感じがします。しかし、それならば「焼き飯」はまちがいで、「炒飯(チャーハン)」が正しいことになります。ピラフはスープで炊いたものであり、「炒飯」は油で炒めています。「焼き飯」も油で炒めているのですが、「炒飯」とはどこが違うのでしょうか。玉子をいつ入れるかで区別する、という説を聞いたこともあるのですが、なんかうさんくさいですね。

では、「炊く」と「煮る」のちがいは何でしょうか。関東では、ご飯だけが「炊く」でほかは「煮る」と言うようです。関西では「煮る」はあまり使わないような気がしますが、どうでしょう。「大根の炊いたん」という言い回しが関西では普通です。他にも「魚の焼いたん」「豆腐の腐ったん」というのもありますな。ただ、「煮るなり焼くなり好きにしろ」なんてことばもありますから、「焼く」に対応する調理法としては「煮る」が正しいかもしれません。でも、カレーは「煮る」ではなく、「炊く」で決まりのような感じがします。ということは、やはり「炊く」と「煮る」は違うのでしょうね。

カレーといえば、ふつうはビーフカレーですが、これも東京では豚肉を使うらしい。東京は牛肉が高いので、豚肉がメインになり、肉じゃがも豚肉だとか。関西では、「肉」=「牛肉」であり、豚肉はわざわざ「豚肉」と言います。551の「ぶたまん」も、東京では「肉まん」というのですね。とはいうものの、さすがに「焼き肉」は東京でも「牛肉」でしょう。「しゃぶしゃぶ」は牛肉があたりまえだと思っていたのが、最近では「ぶたしゃぶ」のほうがおいしいとさえ感じられるようになってきました。豚肉入りのカレーはまだ抵抗がありますが、食べてみたら意外においしいかもしれません。

そもそも、カレーは本来インドなのだから、牛肉というのは変だったのですね。ビーフカレーはインドの人にしてみたら、許せない料理なのでしょう。いや、インド人から見たら、日本の「カレーライス」は完全な日本の料理です(カレーライス」も昔は「ライスカレー」という言い方がありましたが、これも死語でしょうか)。ラーメンと同じく、もとは外来のものであったとしても日本にしかない料理になっているようです。トンカツやコロッケなども「和食化した洋食」なのですね。オムライスなんて、西洋にはなさそうです。いくら皿にのせたって、日本風の「ごはん」は本格的なフランス料理には出てくるはずがありません。「本格」ではない「洋食」には、皿にのせた、いわゆる「ライス」なるものが出てきます。ファミレスで「洋食」を注文したあと、「それにごはんつけて」と言うと「ライスでございますね」と言われるので、「いや、ごはんです」と言うと「ライスでございますね」「いや、ごはんです」「だからライスですね」と泣きそうな顔で言われます。そのくせ、最近はお箸を使って食べられるようになりました。昔はナイフとフォークしか出てこなかったのです。この凶器のような代物を使って、皿にのった「ライス」をどうやって食べればよいのでしょうか。昔の日本人は、なんと左手にもったフォークの背中に、ナイフを利用しながら「ライス」をのせて食べるのが「マナー」だと思っていたのです。そんな「器用」なことはなかなかできないですが、それができないと、「上品」な人たちから、「マナーを知らない」とバカにされたものでした。今から考えると、西洋コンプレックスのかなしい三流国民でしたな。どこのアホが考え出した「マナー」だったのでしょう。

でも西洋でも「目玉焼き」は食べるのですね。片面のみ焼いた「サニーサイドアップ」はナイフとフォークを使って、どのように食べるのが「マナー」なのでしょうか。だれも見ていなければ、黄身に直接口をつけて、チューチュー吸いたいのですが、さすがに人前ではそうもいきません。パンにつけて食べるのがよさそうな気もしますが、本当に「マナー」として正しいのでしょうか。なんか汚らしい感じがします。「スプーンをくれー」とさけぶのもどうかなあ。ひょっとして、気の利いたところなら、はじめからスプーンを出してくれるのかもしれません。伊丹十三は、「目玉焼きって食べ方に困るよね、ほら、こんな風にすると汚らしいし、こうしてチューチュー吸うと子供みたいだし……」と言いながら、結局全部食べてしまうという、達人らしい食べ方を紹介していました。この人は大江健三郎の義理の兄で、俳優や映画監督として有名でしたが、実はエッセイストとしての才能が最も優れていたように思います。「日本世間噺大系」というのがたいへんおもしろうございました。文庫でも出ているので一読をすすめます。ただし、あの味がわかる大人になってから。

2011年4月21日 (木)

バイトの日々③

さて、少し前に、仙台在住であった学生時代およびプータロー時代にさまざまなバイトをしたという話をしました。

その中でも比較的長くつづいたバイトについて紹介する第2回!

ジャカジャーン、第2位は、

放送局の夜勤!

です。

宿直の記者およびカメラマンのためにお茶を出したり、コンビニへ買い出しに行ったりします。

茶筒にお茶が少ししか残っておらず、ほぼ粉末と化した茶葉で渋そうなのを淹れて出したら「馬鹿野郎、こんなのが飲めるか」と怒鳴られたりしました。Kさんという切れキャラの記者で、みんなに恐れられていましたが、昼間のバイト君が、「Kさんておもしろくて良い人だよね~」などとのたまうのでびっくり。どうも宿直のときは異様に機嫌が悪くなるみたいでした。

そんなKさんも、Mさんという先輩のカメラマンと泊まりのときはご機嫌うるわしく、いつまでもふたりで酒を飲んで宴会状態。機嫌がいいのは結構なことですが、朝起こすのもバイトの仕事なんですよね。で、起きない。さんざん飲んで寝てるからまったく起きない。困り果てていると、若くて好感度№1だったアナウンサーのIさんが代わりに起こしてくださったのですが、気持ちよく寝ているところを起こされて怒り狂ったKさんにヘッドロックされてさわやかIさんもさすがに激怒、放送局内は一触即発のやばい空気に。そりゃ我々だっていつまでも寝ていてほしいけど(怖いから)、起こさないと朝のニュースの原稿ができないですからねぇ。

放送局というのもなかなか変な人が多かったです。

名前は忘れましたが、小太りのベテランの記者の方がいらっしゃって、ある日机に手をつきながら歩いているので、「どうしたんですか?」と訊ねると、「うん、昨日、酔っぱらってコサックダンスしたら腰をいためちゃってさ」

「あんたアホですか」とも言えず、それはそれは・・・・・・などと曖昧な返事をした覚えがあります。

また、カメラマンの、こちらも名前は失念しましたが、やはりベテランの方で独特な人がいました。事件や事故が起きると、カメラマンと記者が出動するわけですが、これにバイトも同行します。簡易照明セットを持ってカメラマンについて回り、カメラマンが照らせと言ったところを照らすのが仕事です。

ふつう、事件が発生すると、三人一組の我々はタクシーに乗って現場に急行するのですが、このカメラマンの方は運転が好きなので、必ず自分の車で現場に向かいます。そして、運転についてひとくさり講釈をぶってくれるのです。

「渋滞なんてのはさ、あれは、鈍くさいやつがいるから発生するのよ」

「そうなんすか?」

「なんで渋滞が起きるかっていうと、信号が青になってスタートするときにさ、はじめの車がスタートしてから、列の最後の車がスタートするまでに時間差があるでしょ。だから渋滞になんのよ」

「はあ」

「だからさ、信号が青に変わるでしょ、その瞬間に全員がアクセル踏めばいいのよ。でも鈍くさいやつがいるからそれができないわけ。わかった?」

「はあ」

「ところで、バイトくんさ、ビールにいちばん合うおつまみって何かわかる?」

「いや、何ですか」

「バナナ!」

「え~?」

みたいな感じで楽しかったですねえ。

東北自動車道で、サービスエリアへの側道と本道の分離帯に突っ込んでしまった車がひっくり返るという事故が起こったときですけれど、事故を起こした子かな、若い男の子が道路脇に座り込んで頭を抱えていたんですね。かわいそうだな~と思っていると、このカメラマンのおっちゃんが手真似で「あれを照らせ」と云うんです。いやさすがにそれはかわいそうじゃないかと思ったんですが、だめださっさと照らせと。だって撮ったって使えないでしょと思いつつ、仕方なく照らしました。じ~っと撮ってましたね。もちろんニュースで流せるはずもないんですけどね。

ここのバイトは一年間ぐらいやってました。結構気に入っていたんですが、一年以上は働けないという決まりだったのです。

今回の地震で、当時のことを頻繁に思い出します。

ご存じのように西日本とちがって東日本は地震が多いです。僕が夜勤に入っているときに地震が起こったこともあります。といってもせいぜい震度3くらいだったんですが。

で、あちらは、地震が起こるとまず「津波は?」となります。三陸での津波の苦い経験があるし、とにかくまずは「津波」なんですね。何はさておき、津波に関する情報をアナウンスしなきゃいけないっていう感覚です。大阪生まれの大阪育ちである僕にはそういう感覚がなかったから新鮮でした。そうか、そうだよなと思って。

あんなに気をつけてたのにな。

あんなに気にしてたのに。

なんともいえず悲しいです。

2011年4月15日 (金)

うっかりする日々

すでにお気づきの方もひょっとするといらっしゃるかもしれませんが、私は相当なうっかり者であります。

日々うっかりし続けてウン十年。さすがにちょっとまずいなあと思う今日この頃ですが、あえて断言します、今さらなおりません。気をつけようと思っていないわけではないような気もしないではないが、なおる気はまったくしな~い!

先だってもかなりうっかりしてしまいました。

ご存じのように、希学園では、授業を欠席された方用にWEB講義というものを配信しており、私は小4PコースのWEB講義を担当しています。

この撮影が。慣れないうちはなかなかやりにくくて。

ふだんは子どもたちとキャッキャッ楽しく漫才しながら授業を展開していくんですが、このWEB講義は、だれもいない教室でカメラに向かってしゃべっているので、当然のことながら何の反応もありません。NHK教育のなんとか講座みたいになってはいかーんと自分を戒めてはいますが、なんせ手応えがないので毎度毎度不得要領な気持ちで撮影を終えることになります。

さて、そんなある日。

切りのいいところまでしゃべり終えていったんカメラを止めようと、リモコンのスイッチを押してもカメラが止まらない。撮影が終了すると赤く光っているインジケーターが消えるはずなんですが、消えない。おっかしいなあ、と思ってリモコンをよくみると、スイッチをまちがえていたんですね。あ、なんだ、押すとこまちがえてたよ~と思ってスイッチを切ったんですが、まちがえて押したスイッチが何のスイッチで、それがどんな結果をもたらすかについてはまったく考えなかったんですね。ここらへんが私のだめなところです。

私が押していたのは、ズームボタンだったのです。

つづいて次のパートの撮影を開始したとき、ん? なんだかおかしいな・・・・・・という違和感を覚えたんですが、その違和感の正体が何かは考えませんでした。くり返しになりますが、このあたりが私のだめなところです。

で、いざ編集作業という段階になって、

「西川先生、板書の端が切れてますよ」

「え?」

「至急撮り直してください」

「ええ~っ?」

というわけで、急遽撮り直すことになったんですが、

服がちがう。

この№だけ途中で私の服が変わり、また元に戻ります。

もうこうなったらやけくそで、

「お色直ししてきました~」

とかなんとか言おうと思ったんですが、

「やめたほうがいいと思います」

と止められてしまいました。

そうそう、それで思い出しましたが、最近どうもかつてのようなアグレッシブさがなくなった気がするんですよね。

昔は後輩に、

「西川さんてさあ」

「なんだい」

「口では何かひどいことを人にしてやろうみたいなこと言うけどそれは口だけでふつう実際にはそんなことしないよねっていうようなことを、ほんとにするよねannoy

とよく言われたものですが、最近すっかり丸くなっちゃって。

先日の合格祝賀会でも、自分の勇気のなさにがっかりしました。

全講師が壇上から卒塾生にむかってひとことずつ言葉をおくったんですが、何をしゃべろうかなあと考えているときに、ふと、理科の江見先生がバク宙をやるという噂を耳にしたんです。

なに? バク宙?

これはまずいと思いましたね。(このままでは江見先生に主役の座を奪われる。さいわい、ボクの出番は江見先生の少しあとだ。江見先生のバク宙に対抗し、主役の座を一気に奪い取る妙案はないものか?)

そうだ! 

江見先生がバク宙をする。→会場が「おお~っ」という雰囲気に包まれる。→その直後、ボクが前に出て、

「江見先生のバク宙に対抗して、私は前転をします!」

と高らかに宣言しその場でぽてっとでんぐり返りしたらうけるんじゃないだろうか?

で、何人かの先生に、「というのはどうでしょう」と訊いてみたら、やはり「やめた方がいいんじゃない?」とたしなめられて。僕も昔とちがって弱気なもんですから、「そうか、やっぱりだめか、そうだよね、うけなかったらはずかしいよね」とつぶやきながら、すごすごと諦めてしまったのでした。

このままではいけませんね。なんとかアグレッシブな自分を取り戻したいものです。

ついでに、うっかりもなおるといいなあ。

2011年4月 9日 (土)

ショートショートの日々

小学校5年生のとき。

星 新一氏の小説をむさぼり読んでいました。

小学生である自分が文庫本を読むということ自体に「かっこよさ」を感じていたのもあるのですが、

星氏の持つ世界観に魅力を感じていたのも大きいようです。

「ショートショート」といえば星新一と、「代名詞」にもなっていますし、星新一に影響を受けた作家も少なからずいます。

私はというと、その「透明な」文体にひかれたという記憶があります。

学校の図書館にある、「推薦図書的」な本には、なんだか「友情」だの「努力」だのを植え付けようとするおしつけがましさがあって、どうにも鼻持ちならない感じがしていて、星作品のブラックな不健全なにおいのする作風が気に入ったものです。

なんとなく、読んでいることを母親に知られたくなく、こっそり読んでいました。中学生になってからは堂々とコレクションをしていましたが。

よくもまあ、こんなにたくさんのストーリーを思いつくことができるものだと感心しました。

無理にでも読者の予想を裏切ろうとしているようなどんでん返しに、子供心にも、作者がかわいく思えた、というのは事実なのですが、何とも生意気な感想でした。

私の好きな作品を一つ挙げるのは難しいのですが、「鍵」という題名の作品があります。

あまりSF的ではなく、宇宙人も悪魔も出てきません。

一人の男が、異国風の鍵を拾い、その鍵に合う鍵穴を探し求めて、人知れずその鍵を持ち歩いて鍵穴に差し込んでみる。旅先でもその鍵の合う扉や箱を探し続けていくが、まったく見つからない。もはや人生の目的が鍵穴探しのようになる。

 男は、人生の最後に、一つのアイディアを思いつく。

それは、その鍵に合う錠のついた扉を作らせることだった。その錠が完成し、死期に近づいた男は、その鍵を差し込み、扉を開ける。

ここまで書いてしまうと読む楽しみがなくなるので、結末は書かないことにします。

最後の「男」のセリフに、しびれてしまうわけです。なんて言うか、ハードボイルドな感じです。

こういう決めぜりふを残して死にたいよな、なんてことを中学生に思わせる作品でした。

星新一の作品には「ディテール」というものが清々しく排除されていて、その男がどのような鍵穴探しの人生を送ったかは事細かに書かれていません。だからこそ、自分の人生と重ね合わせたり(といっても中学生程度の人生ではなく、想像ですね)、空想を広げたりができる余地が残されるのですが、小学生の時の読後感と、中学生になってからの読後感が、違っていることにも安心感と寂しさの両方を味わいました。

2011年4月 3日 (日)

ディープな町、十三

歩くのが好きなので、足腰の鍛錬を兼ねてひたすら町を歩くときがあります。

谷町九丁目~梅田とか。(大阪城が美しいです)

梅田~天六~淡路とか。(淀川見ながら来し方行く末のことなど考えますね~)

四条烏丸~桂とか。(桂離宮に住みたいけど掃除が・・・・・・)

四条烏丸~丹波橋とか。(昔のことなので忘れました)

もちろん北アルプスの縦走というのがいちばん楽しいわけですが、町歩きもなかなか悪くありません。特にごちゃごちゃした町はいいですね。

十三なんて最高です。

十三近辺を歩いていて最大の衝撃だったのは、とある囲碁将棋道場の看板を見つけたときです。

「囲碁」

「将棋」

に続いて、なんと、

「弓道」!

それだけならまだしも、

「手裏剣」!!

おまけに、

「吹き矢」!!!

・・・・・・。

忍者養成所?

2011年3月25日 (金)

Y田M平氏に関する重大な疑惑その②

『バイトの日々③』を書こうと思っていたのですが、これは仙台の思い出でもありますから、ちょっと今は書く気になれません。

そこで、代わりといっては何ですが、私の師匠Y田M平氏(個人情報保護の観点から実名は伏せさせていただきます)について再び少しく述べさせていただきたい。

Y田M平氏といえば、かつて8000メートル峰に2度(3度?)も挑みかつ敗退したことがあるほどの本格的なアルピニストであります。8000メートル峰に「敗退した」と胸を張って言えるところまで登れる人なんてそうそういませんから、これはやはり凄いことです。

8000メートル峰の頂に立ったことがないという点で、私とY田氏は共通点を有しているわけですが、その内実には大きな差があるわけです。

私は素直な人間でありますから、その点、Y田氏に対して大きな敬意を持つものであります。

しかしながら。

ことここにいたって重大な疑惑が浮上してきたのであります。

みなさんはSpO2というものをご存じでしょうか。

「動脈血酸素飽和度」と呼ばれているものです。

下界にいる健常な人間であれば、この値は100%に近いものになります。下界で、仮にこの値が80%まで下がれば重大な呼吸障害が生じているのであって、いわゆる集中治療室行きのレベルであるとされているそうです。

高山に登ると、個人差はありますが、だいたい標高4000メートルでこの値が80%まで下がると言われています。すなわち、これが確実に高山病になる値ですね。

標高8000メートルともなると、SpO2は30%まで低下します。人間が生きてはいけない領域です。

そこで、ふつうの登山家はそういうところに登るときは酸素ボンベを背負って行くわけですが、それでも、高山病は避けられません。

中にはとんでもない人がいて、超人と呼ばれたラインホルト・メスナーは世界に14座ある8000メートル峰のすべてに、酸素ボンベなしで、単独で登っています。その話を聞いて、「そいつは人間じゃないな」と私は直感しましたが、後にメスナーの写真を見て、「やはりイエティだったか」と思ったものです。

ちなみに、私は山に登るときは、「カズンホルト・ニシナー」という名前を使用することにしているのですが、誰もそう呼んでくれないのが残念です。

さて、Y田氏の話では、そういう死の領域に踏み込むには二つの方法があって、ひとつは、メスナー氏のような無酸素登山家が登るやり方、簡単にいうと、「さっと行ってさっと帰る」というやり方です。要するに、そんなところには長くいられないので、ちゃっちゃと登ってちゃっちゃと下りるわけです。もちろん、ちょっとでも愚図ってしまえば、怖ろしい結末が待っています。

もうひとつの方法は、以前にY田氏が「週刊のぞみ(現・のぞみの広場)」で紹介されていましたが、ちょっと登ってはちょっと下り、またちょっと登ってはちょっと下りて、少しずつ体を高所に慣らしていくやり方です(とはいえ、最後の最後は長くいられないのでちゃっと登ってちゃっと下りるのですが)。

Y田氏はイエティではないので、この後者のやり方で8000メートル峰に挑まれたということですが、それにしてもなんせ8000メートルですから、通常の体力、通常のSpO2値であるはずがない。ご本人も、曰く「いや、僕は高地には強くてね。6000まで高度障害が出なくて、隊のみんなに驚かれたものですよ」とのことでしたが、それにしては不審な点が・・・・・・。

それも2度続けて・・・・・・。

最初は、涸沢ヒュッテという山小屋に泊まったときのこと。ここは標高が確か2000メートル前後だったと思うのですが、誰もが寝静まった深夜、私のとなりで「・・・プッ、・・・プッ」と不気味な鼾を立てていたY田氏が突然「うっ」と呻くのです。

何事かと見ると、Y田氏が鼻をおさえて起き上がり、

「うう、鼻血が・・・・・・」

夜中に突然鼻血を出すなんて、どうなんでしょう? 私は寡聞にしてそういった話はあまり聞いたことがないのですが・・・・・・。

次が、先日、希学園山岳部で北アルプスの「唐松岳」に行ったときのこと。テントを張ったのがやはり標高2000メートルほどのところ。Y田氏がハアハア荒い息をしているので、どうしたのかなと思っていると、

「うう、頭が痛い」

まさか標高2000そこそこで高度障害が出るはずないんで、風邪ですかね、なんて言ってたのですが、翌日スキー場まで下山し、かつリフトで山麓まで下りてくると、妙に元気になったY田氏が、

「さあ、風呂だ風呂だ、温泉だ」

とはしゃぎ出すのです。

ぼく「風邪は? 大丈夫?」

Y田「いやあ、下りてきたら治りましたね」

横川「ふつう逆じゃないんですか?」

Y田「ん?」

ぼく「山の方がウイルスはいないはずですよね」

Y田「ん?」

横川「もしかして、高度障害?」

Y田「?」

たかだか2000メートルで高度障害に陥る男が、ほんとうに標高8000メートルに登れるものなのでしょうか?

ここにY田氏の輝かしい経歴に対する重大な疑惑が生じた所以であります。

この疑惑につきましては、私が責任をもって追跡調査し、必ずや近いうちに真実を究明するでありましょう。

続報を期待してお待ちください。

          ◇◆◇◆◇◆

ところで。

登山口がスキー場にあるのって何だか哀しいです。

ナウなヤングがたくさんいて、スキーやスノボで、シューッとかっこよく滑走しているところに、80リットルのザックをかついだ、汚くて臭いわしらがとぼとぼと歩いて下りていくのです。

ものすごく浮いています。

だいたい、スキー場で、下りのリフトに乗るやつなんていないじゃないですか。

下りのリフトに乗っているやつがいるってだけでとっても目立つんですよね。

すれ違うとき、カラフルなウェアーに身を包んだ若者たちに、すごく胡乱な目で見られました。

Y田氏の証言によると、次のような失礼な発言をするギャルまでいたらしいです。

「何、あの人たち、こわ~い」

「係の人じゃない?」

いったい何係なんだ!

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