入試対策
ついに入試対策が始まってしまいました。
志望校別特訓も残り1回。
今日の志別から。
ぼく「この程度のこともわからんのか! まさか、こんな簡単な質問で授業が止まると思わへんかったわ! 全員一致で即答してくれると思ってたわ! 緊張感が足りんのちゃうか!? あ~あ、ショックだショックだ」
塾生「先生、ドンマイ」
ついに入試対策が始まってしまいました。
志望校別特訓も残り1回。
今日の志別から。
ぼく「この程度のこともわからんのか! まさか、こんな簡単な質問で授業が止まると思わへんかったわ! 全員一致で即答してくれると思ってたわ! 緊張感が足りんのちゃうか!? あ~あ、ショックだショックだ」
塾生「先生、ドンマイ」
11/23は、小6合否判定テスト・小5志望校判定テストが実施されました。
翌日からの、希学園国語教育講演会『国語の学び方・教え方の秘訣』(11/24~11/26)に臨む西川先生は、採点場で生徒の答案を涼しい顔で採点する合間にも、講演会の予習にいそしんでおりました。
先日のブログでは、「姜尚中氏のような渋い声でしゃべりたいものだと思って、低い声を出す練習をしてみた」などと述懐していましたが、そんな声を出す西川氏を想像すると、姜尚中氏ではなく、戦場カメラマンの渡部陽一氏のようなしゃべり方を想像して夜中に一人吹いてしましまいした。
くだんの回のブログでもうひとつ、「いやあ、これが、あの有名なteacher’s highと呼ばれる現象ですね。」なんて書いていましたが、ランナーズ・ハイは有名でもティチャーズ・ハイは有名じゃないだろ、と突っ込んでおくべきでしょうか。業界内でしか通用しないのです。でも、かくいう私も、17:00ごろは「あかん、もうだめです。今日の授業は急ピン(これも希用語)です、代わってくれる人いませんくわぁ~~~」など弱音を吐いていたのが、22:20ごろには引率から戻り、事務所にいる人をだれかれ構わずつかまえてはベラベラと親父ギャグを炸裂させながらしゃべりまくり、「ほんまに体調悪かったんですかぁ?」とたしなめられた経験は数知れず。ティーチャーズ・ハイは実在する! 信じるか信じないかは、あなた次第です!
さて、長い前置きはさておき。
昨日実施しました小6合否判定テスト国語Sについて。
大問2の9で、共通点を問う問題がありました。
この、「どういう点が同じですか」という問いは、数ある記述の中でもなかなか答えにくい問題です。
「AとBはどういう点で同じですか。」だったら、
「Aの~という点とBの~という点。」では共通点を示したことにはなりません。
ちょっとこれでは具体性がなくわかりづらいので、例題を示します。
例題)日時計と銭湯はどういう点で共通していますか?
という問題があったとして、
「日時計が、太陽が出ていない時や夜間には時間を知ることができない点と、銭湯が、営業時間内に行かなければ風呂に入れないという点。」
という答えは、日時計と銭湯の共通点を示したことにはならないということです。
「自分の好きなときに使用できない点。」や「利用できる時間帯が限られる点。」
また、「公共性を重んじていて、個人の便をあまり重視していない点。」
のような一段階抽象的な解答になるはずです。
本文のことばをそのまま用いると、どちらか一方のことだけになってしまうので、自力で共通点を抽出したことば、抽象的なことばを考え出さねばならないのが難しい点です。もちろん、本文中に使える(A・Bどちらにもあてはまる)ことばがあれば、それは使うべきです。
共通点を答える問題と対照的な問題、つまり相違点を答える記述問題の場合は、
「Aは~だが、Bは~であるというちがい。」のようにA・B個別に説明して答えるのですが、これも、相違点を明確にするために「反対語的な部分」をきちんと入れておくのがよい解答の条件になるでしょう。
「日時計は太陽が出ていなければ時間を知ることができず、使用できる時間帯が限られているが、機械式の時計は、昼夜・晴雨を問わず時間を知ることができ、どの時間帯でも使用できるというちがい。」
この解答では「時間帯が限られている←→どの時間帯でも」という明確な対立軸が示されているので、よい説明だと言えます。
小5生は小5ベーシックコース国語の講義テキスト№38「変化・異同の記述」の「異の解答パターン」と「同の解答パターン」を参照のこと!
うーん。「国語まにあっくす」の趣旨と少しずれてしまいました。入試が近づいていますので、悪しからずご了承ください。
希学園国語教育講演会『国語の学び方・教え方の秘訣』が、いよいよ数日後に迫ってまいりました。
資料も完成し、リハーサルに余念がない西川です。
手始めに、姜尚中氏のような渋い声でしゃべりたいものだと思って、低い声を出す練習をしてみたものの、ふざけているようにしか聞こえず、却下。
それはまあ冗談ですが、にしても昔にくらべて滑舌が悪くなりました。
「この竹垣に竹立てかけたのは竹立てかけたかったから竹立てかけたのです」を一息で3回言えるというのが私の誇りだったのですが、このあいだひさしぶりにやってみたらもうぼろぼろ。
「姜尚中氏のような渋い声」などという浮かれた考えは捨て、電車の中で小さく「あめんぼ赤いなあいうえお」と口にしてみる今日このごろです。
なんにせよ、きちんとしたお話ができるよう体調をととのえてまいりたいと思っております。
ところで、体調といえば、先日の話。
その日は、朝起きたときから肩こりがひどく、頭が重かったのですが、昼過ぎにはそれが頭痛になり、薬をのんでもまったく効かず、それどころかどんどん悪化し、眼鏡をかけているだけでも頭が曲がりそうなぐらい痛いという、なんだかふらふらの状態で授業に入るはめになりました。
関節痛も熱もなく、喉の痛み、咳、くしゃみといった症状もなかったので、肩こりのせいなのはまちがいないと思いましたが、それにしてもこれほど痛いのはそうそうないことなので、痛みに弱く根性ナッシング・アット・オールlな私は半泣き。
ところがぎっちょんちょんですね。不思議なものです。授業開始のチャイムが鳴ったところで、自暴自棄(やけくそ)な気持ちになって、思いっきり気合いの入った声で「起立」と叫び、いつもどおり「まっすぐ立って前を見ろ、気をつけえ!」とやっているうちに、なんとなく痛みがやわらいだような気が。
これは・・・・・・! と思ってさらに声を張り上げ、「宿プリを出せえ~!」「はよ出せ~!」「忘れたやつはえぐりえぐりぽてぐりぷっしゅんだ~!」とわめいているうちに、不思議なほどすう~っと頭痛が消えていくのでした。
いやあ、これが、あの有名なteacher’s highと呼ばれる現象ですね。
そしてやはり思ったとおり、授業および引率が終了すると同時に、抜け殻のようになってしまうのでありました。
私の頭痛は肩こりが原因なのでどうってことないですが、近ごろあちこちで風邪が流行っているみたいです。百日咳が流行っているとか、おたふくが流行っているとかいう噂もちらほら聞こえてきますので、みなさまどうぞお気を付けください。
それにしても、昔から思うんですが、なぜ風邪をひいてる子にかぎって「しぇんしぇ~」とか「てんてえ~」とか言いながら寄ってくるんでしょうか? 風邪をひいているときだけ懐いてくる子っているような気がするんですが、私の気のせい? 風邪のときって心細いから大人にひっつきたくなるのかしら。
謎だ。
昔からそういうものがあることはあったのですが、最近のドラマは漫画が原作のものばかりのようです。ドラマにするだけの値打ちのあるものなら、漫画であろうと小説であろうと関係ありません。よいものはよい、悪いものは悪いということですから。ただ、最近の風潮は、人気のある漫画が原作なんだから視聴率がとれるだろうという安易な発想に立ったものが多いような気がします。中には、漫画特有のキャラクターの表情やリアクションをそのまま人間に演じさせるという、ばかばかしいものもよく見ます。この安易さはなんかかなしいなあ。少し前のNHKの朝ドラマでも、漫画原作ではなかったようですが、漫画的シチュエーションで某女優が漫画的演技をさせられていました。
この安易さは何でしょう。「一億総子ども化」のせいでしょうか? とくにテレビの世界の幼児化現象はひどすぎます。スタジオの観客に声をそろえて受け答えさせるタモリなどは、おそらく確信犯でしょうが、それに乗せられて、うれしそうに声をそろえている人は幼児そのものです。紹介されたスイーツをゲストが食べるときの、「おいしそうー」とか言う、ほんとにスタジオにいるのかわからない人たちのさまざまな声も同様です。こういった手法は、むかしからテレビ局の手法として使われていたのですが、最近は制作サイドにいる人たち自身、同じレベルに下がってきているようです。大げさな擬音の挿入や画面にスーパーを入れるのは、視聴者を子供あつかいすることで、それをわかっていながらわざとやっていたのでしよう。でも、今はそういう意識もなく、そうすることが当然だと思っているようです。スタッフの笑い声を入れるというやり口も、最初は効果的だったのですが、今では単なる間抜けです。全然おもしろくない場面でスタッフだけが笑っているのですから。
ドラマの場合は、仕事として割り切ってはいるのでしょうが、きちんとした俳優がかわいそうです。そういえば一時期はやったケータイ小説というのはどうなったのでしょう。「泣かせる」小説・ドラマのブームはまだ消えてはいないのでしょうか。「はやっているから」ということで安易に書かれたものは、やはりすぐにすたれるのでしょうか。「(笑)」なんて表現のはいった小説は、こまったものです。座談などではありですが、第三者の記録でもなく、ほんとに笑っているわけでもない、むしろ「笑いの強要」としか思えません。「そんな安易な手段にたよるな、プロが」と思います。死んでしまいましたが、ある女性作家のエッセイで「(笑)」というのを見たとき、やっぱりと思いました。デビューのときから時代に迎合することのうまい人で、いかにもそういうことをしそうな人でした。擬声語・擬態語にたよるような小説も多そうです。プロなら、安易な表現にたよらず、工夫してほしいなと思います。笑福亭鶴瓶のしゃべりも擬声語・擬態語ばっかりですが、これは許す。芸にまでなっていたら、むしろ評価すべきかもしれません。
話をもとにもどすと、とにかく漫画の影響おそるべし、です。ただ、最近の漫画はキャラの区別のつかないものがあります。これもかなしいなあ。髪の毛の色がグリーンや紫なので区別できるのですが、顔は同じです。たしかに顔を線で表現するのは難しいのですが、たとえば山藤章二の似顔絵なんて、線だけでもモデルの人間の特徴を見事につかんでいます。顔文字でも、「顔」に見えるだから、プロだったら、もう少しなんとかせえよ、と思います。昔は「へのへのもへの」「へのへのもへじ」なんてのもありました。最近の子どもはあまり知らないようです。「つるにはまるまるむし」も知らないようだし、ましてや広東料理の「ハマムラ」なんて知るよしもありません。逆三角形状に打った点三つでも、よくよく見ていると顔に見えてきます。
三次元を二次元で表すプロの技というのは、すごいものだったのですが…。何にせよ、本来プロというのはすごいものです。法隆寺の修理の話など、感動します。昔の図面通りに地上で組み立てると、五重塔の屋根の釣り合いがとれないので、妙だなと思いながらも、その通り造ってみて、空高く上げると、屋根自体の重みで、バランスがぴたっと決まったといいます。そこまで計算して図面をかいているんですね。見るからにヤンキー風の金髪のにいちゃんたちが、釘の種類をたちどころに見分けて、「N釘よりNCにして、ツーバイに合わせて……」なんて、専門用語を交えて話しているのを聞くと、思わず尊敬してしまいます。あまりお会いしたくもないし、ふだん接する「チャンス」がないのが残念ですが、プロの掏摸(すり)や詐欺師もきっとすごいんだろうな。
バナナのたたき売りなんて、昔はけっこういましたが、考えてみれば、道ばたで通りすがりの人をつかまえてバナナを売ってしまうのだから、たいしたものです。へびを使って薬を売るおじさんを子供の頃見ましたが、この人はうまいなあと思いました。いきなり地面に棒で大きく○をえがき、こちらを見るともなく見ながら、「この中にはいったらあかんで、へびにかまれるでー」とつぶやいた瞬間、われわれ子供は○の周りに並んでいました。だんだん人が集まってくると、片隅に積んである箱らしきもの(風呂敷がかけられてあって中身が見えない)を見ながら、「この中には猛毒を持った大蛇がはいってる。あとで見せる」と言うものだから、子供はますます離れられなくなる。ところが、このおっさん、毒のない、しょーもない蛇をとり出して、なんやかんや言うのですが、なかなかその毒蛇を見せてくれません。そのうち、飽きてきた大人が立ち去りかけようとすると、「動くな、この中に掏摸がおる。今動いたやつが犯人や」と言うので、誰も動けなくなる。そうこうするうちに、結局おっさんはなんかわけのわからない薬を取り出してきて、それを売りつけるのです。で、最後まで「大蛇」は見せてもらえずでした。でも、みんな満足そうに薬を買って帰るのです。得体のしれない薬がほんとうに欲しかったとは思えません。今思えば、あれはおもしろい話芸に対する木戸銭だったのですね。昔はプロがいたのに、今は「一億総しろうと時代」でしょうか。
先日、教室に入るときのこと。
サービス精神旺盛な私は、ふとした思いつきで、朝からがんばっている塾生諸君をほんの少しだけ笑いで癒してあげようなんて考えてしまったわけです。
で、手始めに、ドアの隙間に顔半分だけ押しつけて、教室内をのぞきこんでみました。
くすくす笑い声が起きます。
そこで次に、ドアの隙間から右足だけ入れてみました。
さらにくすくす笑いが広がっているので調子に乗って、その右足をくねくねさせてみたりして。
ますますうけているみたいなのでようやく満足し、「こんちは~」てな感じで教室に入って、さっと血の気がひく私。
やってしもうた・・・・・・。
保護者の方が見学に入っていらっしゃったのでした。
しばらくのあいだ授業はしどろもどろになりました。
月末に『国語の学び方・教え方の秘訣』というタイトルで、教育講演会みたいなことをやります。
で、今、その準備にいそしんでいるところです。
「いっちょ、そういう講演会をやるか」という話になったときには、「話すことなんていくらでもあるぜ、おいらにまかしときな」と強気に考えていたんですが、いざ準備を始めてみると、話したいことがあり過ぎてまとまらないという事態に。
だいたい講師なんて教えたがりですから、次から次へと話したいことが湧いて出てくるんですよね。
希学園の進学説明会その他にお越しになったことがある方ならば、講師が明らかに自分の持ち時間を超過してしゃべりまくり、満足そうに出ていくのを目撃されたことがあるはず。
私もこの春の入試分析会では散々やらかしました~。いつもは時間通りに終わることが多いんですけれど、入試分析会のときはちょっと。時間設定が苦しかったです。
その点、今回は国語だけ、私だけで1時間! ついに私の時代が来た! 夢のビッグ・ショーだ!
と興奮してあれこれネタを考えていたら収拾がつかなくなってしまいました。とほほ~。
とにかく役に立つ、そして元気の出る話にしたいと思っています。
時間オーバーしないように気をつけますのでぜひ足をお運び下さい。
ぼく(プリントを配りながら)「来年の1月、灘中の2日目にはまちがいなくこの詩が出題される!」
塾生「また言うとる」「前にも同じこと言うてたがな」
ぼく「今度こそまちがいな~い! なぜなら昨日夢のなかで神様がそうお告げになったからだ!」
塾生「前にもそれ言うとったな」
ぼく「白い服を着た、髪の長い人やった」
塾生「はいはい」
ぼく「『あなたはキリストですか?』って聞いたら『イエス』って言うてた」
塾生「・・・・・・」
前回、ホームズ派とルパン派がいたという話を書きましたが、その後十三の事務系職員の若い女性で、ジェレミー・ブレッドのホームズシリーズのDVD集めてます! という人が現れました。ホームズのイメージにぴったりなんだそうです。僕の友人も確か同じことを言ってました。やはり、ジェレミー・ホームズは人気が高いですねぇ。
これってすごいことですよね。ふつう、人気のあるマンガや小説を映画化ないしドラマ化した場合、イメージがちがうっっ、という非難がごうごうとまきおこるんですけどね。
金田一耕助なんていくつも映画化されましたが、あまりぴったりの人っていなかった気がするんですけど。
石坂浩二はちょっと清潔感がありすぎかなあ? 金田一耕助ってもっとばっちい人だったはず。
僕は個人的に『悪霊島』?でしたっけ、鹿賀丈史のが好みでした。岩下志麻の女学生姿にはびっくりしましたが。
渥美清の金田一耕助というのもありましたが、「おにいちゃん、こんなところで何してるの?」とか言いながら倍賞千恵子が出てきそうでこわいですね。
藤沢周平に『用心棒日月抄』というとてもおもしろい連作があり、僕の知る限り、2度テレビドラマ化されていますが、2度めにドラマ化されたときの主演が小林稔侍でずっこけました。いや小林稔侍さんが悪いんじゃないんですが、最初にドラマ化されたときは村上弘明だったんですよ。それが小林稔侍? いったいどんな主人公なんだ?
歴史上の人物を演じるのも大変そうです。人それぞれに勝手なイメージを持ってるでしょうから、みんなが認めるキャスティングというのはなかなか難しいでしょうね。
かつてはNHKの大河ドラマをよく見ましたが、織田信長の役はだれがいちばんよかったかという話を友人とよくしました。『おんな太閤記』のときに藤岡弘さんがやってたのが怖くてでも怖いだけでもなくてなかなかよかった気がしますね。役所広司の信長はどうなんでしょう。もっと美男子でなければ信長っぽくないような。緒形直人の信長にいたっては、う~ん。あの人っていつまでも垢抜けなくて不思議。このときは配役がすごくて、確か明智光秀の役をマイケル富岡が演じ、徳川家康の役を郷ひろみがやって、びっくり仰天。でもマイケル富岡の追い詰められ方がよくて結構好きでした。かなり古いですが『黄金の日々』で石田三成の役を近藤正臣がやっていたのもすごくよかったですね。神経質そうな感じで。
先日、テレビで『陰陽師』やってましたけど、確かに安倍晴明役って野村萬斎しかいないって気がします。キツネ顔だし。ずっと前に野村萬斎が『釣り狐』という演目を踊っているのをテレビでみましたが、彼が出てくるとすごい勢いで空間が締まりますね。生花なんかでもほんとうにいいものは、磁場とか重力場とかいった言葉がぴったりで、それが置かれた空間の構造を変えてしまうような気さえしますが、舞踊は動きがあるのでより劇的で、迫力があります。
日本舞踊の発表会で照明のアルバイトをしたことがありますが、やはりえらい先生のは全然ちがいました。しかし残念ながら、僕のスポットがうまくあたらなくて悪いことをしました。いやはや。
大学にいたころの知り合いに、朝鮮舞踊をやってる女の子がいて、あまりに動きがきれいなのに感心してしばらく僕もならったことがあります。鶴橋に教室があって、行ってみるときているのはおばちゃんばかりでした。「女舞しかやってへんけど?」ということで、なぜかひとりオモニたちにまじって踊ってました。バランス感覚がすごく悪いためいつも先生に「男のくせにふらふらするな!」と叱られていました。もちろん、チマチョゴリ着たりはしませんでしたが。
日舞と朝鮮舞踊はまず重心の高さがちがいます。日舞はかなり低いです。やはり農耕民族だからかな?と思っていました。それから、件の女の子によれば、日本のは日舞にしろ歌舞伎にしろ、決めのポーズといいますか、そのぴたっと停止したところの美しさを見せるんだけれど、朝鮮舞踊は動きそのものの美しさなんだとか。これもなるほどと思いました。そこに空気がある、と感じさせるような動きですね。
日舞にしろ朝鮮舞踊にしろ、修練を積んだ人の動きはすばらしいです。
僕は舞踊の才能が皆無なんでもう踊りをならうことはありませんが、国語の授業だけは修練を積んで、より良いものにしていきたいと思っています。
これを読まれている方で、いま塾選びをされている方がいらっしゃいましたら、ぜひ希学園の授業を見学にいらしてくださいまし。
と、むりやりまとめてみるのであった。
アルセーヌ・ルパン シリーズ
小学生向けに、怪人二十面相とかシャーロックホームズとかアルセーヌルパンのシリーズが出ていて、かなり高い人気を誇っていました。
で、子どもたちはだいたいホームズ派とルパン派に分かれるんですね。
理屈っぽいやつとか理系のやつはたいがいホームズ派だったような気がします。
大学時代に一緒に住んでいた理学部の友人は圧倒的にホームズ派でした。彼はテレビでジェレミー・ブレッド?が主演したホームズのシリーズもずっとみてましたね。『太陽にほえろ』で「山さん」の役をやっていた露口茂が吹き替えをしていました。長いパイプを吸っていて、神経質そうな、ちょっと病的な感じで。あれは阿片だよね、ろくなもんじゃねえな、とか言いながらみてたような気がします。
僕はもうまったくホームズなんかは読まず、ルパンでした。
大人になってから、「ルパンのシリーズはおもしろかったから、子供向けでなく大人向けのを読んでみたいものだ」と思って、堀口大学訳のやつを買いました。
堀口大学といえば、
泣き笑いしてわがピエロ
秋じゃ! 秋じゃ! と歌うなり。
0(オー)の形の口をして
秋じゃ! 秋じゃ! と歌うなり!
なんていうかっこいい詩を書いている人ですから、この人の訳ならまちがいないと思ったんですね。
ところがですね、まず題が『強盗紳士』になっていてですね、なんだか不吉な予感が。
ルパンは「怪盗」だったはずだが・・・・・・。強盗ルパン・・・・・・。出刃包丁とか持ってそうで嫌だな。口のまわりに丸いひげとかはやしてたりして。
しかもですね、中をちらちらみてみると、ルパンが自分のことをですね、
「わし」
と言っているんです。あのおしゃれできざなルパンが「わし」! ありえない! 仁義なき戦いじゃないんだ! どうなっとるんだ、堀口大学!
というわけで、長い間読まずに放置してしまいました。
読んでみたらまあそれなりにおもしろかったですけれど。
やはり訳は大事ですね。
『愛と青春の旅立ち』は確か直訳すれば『士官学校』でしたっけ。まあ、そんな地味な題だったらあんなにヒットしなかったかもしれません。いずれにせよ僕はみていませんが。
『星の王子さま』も本来の題には「星」というのはないですね。小さな王子、かな。でも、これは圧倒的に内藤濯の『星の王子さま』という訳が定着しちゃいましたね。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は『ライ麦畑でつかまえて』というタイトルがすごく定着してしまいましたが、村上春樹が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』というそのままの題で新訳を出しましたね。かなり気に入らなかったんでしょうか。『おおきな木』という絵本は直訳すれば『与える木』とでもなるべきところだったんでしょうが、村上春樹の新訳でも『おおきな木』ですから、やはり『ライ麦・・・・・・』は相当気に入らなかったんだろうなあ。
だいぶ前に村上春樹が、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は関西弁で訳したらぴったりだと思うと言っていたので楽しみにしていたんですが、新訳は残念ながら関西弁じゃなかったですね。ちぇっ。
直訳でも素敵な題はあります。
アンリ・コルピの『かくも長き不在』なんて良かったですねえ。すごくいい映画だったし。
やたらと「泣ける映画」や「泣ける小説」をもてはやす風潮がありますが、どうなんでしょう。『かくも長き不在』はべつに泣ける映画ではありませんでしたけれど、とてもいい映画で、深く深く感動しましたがね。
北村太郎という詩人が『ぼくの現代詩入門』という本の中で、森川義信の『あるるかんの死』という詩を紹介していまして、確か「深い沈黙に引き込まれるような感動」といった意味のことを書いていたと記憶しています(例によってあやふやな記憶ですが)。
この表現がすごくいいなあと思います。「泣ける」映画や文学より、「深い沈黙に引き込まれる」映画や文学の方が僕は好きです。
『かくも長き不在』をみたあとは、だれとも何もしゃべりたくない、ずっと黙っていたい気持ちになったように記憶しています。
前に書いた『白痴』を読んだときもそうでしたし、それこそ森川義信の『あるるかんの死』を読んだときも、シルヴァスタインの『おおきな木』を読んだときもそうでした。
「泣ける」話って、結局浅いんだろうと思うんです。なぜ「浅い」と感じるかというと、答えが書かれてしまっているからだと思います。
映画にも文学にも答えはいらないんじゃないかなと僕は思うんですね。重たい問いかけがあればそれでいいんじゃないかなと。重たい問いかけを心に残してくれる作品が良いように思います。
僕がシルヴァスタインの『おおきな木』や『ぼくを探しに』をほんとうに好きなのは、そういうところです。『おおきな木』よりも『ぼくを探しに』の方が読んでいてちょっと泣きそうになってしまい、そしてそのぶんだけ『おおきな木』のほうが好きなのは、『ぼくを探しに』には答えが少し顔をのぞかせているからじゃないかな。
ところで。
だいぶ前にビール酒造組合の広告について書きましたが、最近また新しいのが出ていますね。阪急電車のドアのところに貼ってありますが、こんなのです。
10代の飲酒。
どんなに価値観が多様化しても
全員一致で×です。
前回はですね、「勧められたらきっぱり断ろう/自分はまだ未成年なんで」というのが全然きっぱり断ってないんじゃないかということで茶々を入れてみたわけですが、今回はべつに揚げ足をとるようなところはなさそうです。
さすがに、「なに、10代の飲酒? ということは10歳未満ならいいのか?」というのは屁理屈が過ぎるように思います。
というようなことを考えていて、ずっと昔にみた、『路』というトルコ映画の一場面を思い出しました。
ユルマズ・ギュネイという人が獄中から監督したとかいうことで話題になった作品です。
クルド人の政治犯が一時的に仮釈放されて自分の生まれ育った村に帰ってくるんですが、5歳か6歳くらいの男の子たちにタバコをお土産にあげるんですね。すると、その子たちがいそいそとそのタバコをふかしている、そんな場面でした。かわいくて笑ってしまうんですが、でもやはりちょっと暗然とした気持ちにもなる、印象的なシーンでした。
この映画もやはり重たい問いかけを残す、「沈黙系」の映画だったなあ、となつかしく思い出します。
厳密に言うと、アクセントとイントネーションはちがうのでしょうが、要するに日本語の場合は音の強弱というより高低ですね。最近は高低がどんどんなくなっていくような傾向にあります。とくに、外来語が妙なことになっていて、たとえば「ネット」は「網」の意味のときと「インターネット」の意味のときではイントネーションがちがってきます。「ファイル」もパソコンの場合には、書類をまとめる文房具のときとはちがいます。こういうことばがニュースに出てきたら、NHKのアナウンサーはどう発音するように教えられているのでしょうか。きちんと区別しろと言われているのかなあ。
NHK大河ドラマや、「そのとき歴史は動かなかった…」なんかのナレーションで違和感を感じるのは「河内」のイントネーションです。「天正何年、信長は河内へ進攻した」なんて格調高いナレーションなんですが、「か」が高い発音が関西人には気色悪いです。強くは発音するのですが、高くはないんですね、われわれは。あの発音では、「信長どこへ行ったー?」と聞き返したくなります。
大阪が舞台のドラマで登場人物が大阪弁を使っているという場合に、大阪以外の土地出身の人のイントネーションはつらいですね。もちろん、これはどの土地を舞台にしたドラマでも同じことでしょう。逆に、たとえば鹿児島を舞台にしたドラマで鹿児島弁をパーフェクトにやられると、意味不明です。鹿児島はもともとわかりにくい方言だったのに、関ヶ原で負けて以来、幕府の密偵をすぐに見破るために、わざといっそうわかりにくいことばにしたという話もあるぐらいです。大河ドラマで西郷と大久保が会話するシーンをリアル薩摩弁でやると、ドイツ語にしか聞こえないような気がします。純粋津軽弁はフランス語にしか聞こえないらしいです。
実際、幕末の志士たちの会話はどうだったのでしょうね。教養のある武士なら、単語そのものは書物を通じて知っていたでしょうから、なんとかなったかもしれません。だいたい、方言の中には、もともと都で使われていた古いことばも多いようです。たとえば岡山など中国地方で使われる「きょーとい」ということばなど、「こわい」という意味らしいのですが、「気疎い」という古語から出たものです。博多などでは「大便をする」ことを「あぼまる」と言うそうで、この「まる」もいわゆる「おまる」の語源になった古語です。方言の代名詞のような「だべー」「だんべ」だって、「べ」は「べし」が「べい」になって変化していったものですからね。ですから、困るのは単語そのものより、おそらく発音つまり訛りへのとまどい、聞き取りにくさにあったのでしょう。「す」と「し」がごっちゃになるような地方の人は、「寿司」と「獅子」と「煤」は区別できるのでしょうが、他の地方の人が聞いたら、わけがわかりません。江戸っ子だって、「ひ」の発音ができずに「し」になってしまうし、大阪人はその反対に「ふとんを敷く」とは言わずに「ふとんひく」です。「質屋」は「ひちや」です。江戸っ子が「買っちゃった」と言うのに、大阪人は「買うてもた」です。
これ、いわゆるウ音便ですね。「買う」+「た」で「買いた」が、東京では「買った」、大阪では「買うた」になります。ということで方言あつかいされ、参考書などではウ音便が無視されています。ところが、「ありがたい」+「ございます」のような、格調高いことばを使おうと思った瞬間、「ありがたくございます」が「ありがとうございます」となって、ウ音便を使わざるを得ません。江戸のことばはここまで成熟していなかったのですね。敬語が使えないことばです。また、「買う」は「買わない・買います・買う・買うとき・買えば・買え・買おう」のように、ワ行で活用します。「会う」「言う」なども同じで、これらは「買った」のように、「っ」つまり、いわゆる促音便になります。ところが、「問う」は「問った」とは言いません。ウ音便を借りてきて「問うた」と言うしかないのです。大阪弁なら、すべてウ音便でいけます。こういうところからも、江戸のことばの「未開性」は明らかですな、はっは。やつらに言っておきましょう。韓流スターの名前のようなウオンビンをばかにすなーい。
そうそう、時代劇の安易な田舎弁もいやですね。「おら畑耕してただ」とか「こうなりゃ一揆するしかないべ」のような言い回しがどの地方を舞台にしていても聞かれます。これは方言というより「役割語」ですね。こういう言い方をすれば、「江戸時代の農民」を表す、というような働きをしています。「わしはのう、こう言ってやったんじゃ」になると「老人語」、「あら、私はそうは思わなくってよ」と来たら「女性語」。ただし、じつはこれらは小説の中のみにしか見られないという指摘もあります。たしかに、実際の現代女性の話し方は文字にしてしまえば、男性のことばとほとんど変わりません。逆に、だからこそ小説では「女性語」にしないと、だれの会話かわからなくなるのでしょう。ステレオタイプは便利です。昔は「ハウ、インディアンうそつかない」とか「××あるよ」とか安易に使っていました。そう言えば、宇宙人もなぜか、のどのところを軽くたたいて、声をふるわせながら「ワレワレハウチュウジンダ」と言います。きっと、一人でやってきても「ワレワレハ…」と言うのですね。
最近あまりテレビのドラマを見ないのですが、ドラマの電話シーンの相手のことばの反復、というのはまだやっているのでしょうか。刑事ドラマで電話を受けた刑事が、「えっ、××町3丁目6番地で、はたちぐらいの女の人が何者かに殺されたって?」と聞き返すやつです。現実には絶対にありえないやりとりですね。食事のシーンでも、昔は口にごはんを入れたまましゃべるということはありませんでしたが、最近はリアルにやっているのでしょうか。現実にはごはんつぶを飛ばしたりしながらしゃべって、怒られたりするのですが、そこまではやらないのかなあ。向田邦子のホームドラマはその点、けっこうリアルな部分がありました。たしか西城秀樹は親子げんかのシーンでほんとに骨折してしまったのではなかったかな……。
|