2011年2月15日 (火)

納豆がとまらない

最近、納豆ばかり食べています。

なんだか妙に美味しく感じるようになったんですよね。それも、ある日突然。もともとパラノイアックな食欲傾向があり、何かがおいしいとそればかり食べてしまうんですが、それがついに納豆に及んだわけです。去年は、ひたすらチーズばかり食べていました。

チーズもそうですが、納豆はなおのこと栄養価の高さが魅力的です。

納豆の栄養価を説明した文章を読んでから納豆を食べると2割増しで美味しく感じられます。

『ああ、俺はいま良質なタンパク質を摂取しているのだ』

『おお、どんどん血がさらさらになっていく・・・・・・』

『それなのにカロリーが低いなんて~』

『・・・・・・もう1パック食べちゃおう』

『納豆だけに後を引くぜ』

と、うっとり。

先日、どこのクラスだったか忘れましたが、子どもたちに

「納豆が食べられない人」

と訊いたら、なんと手をあげる子どもが0!

時代は変わりましたね。僕が小学生のころは、おそらくクラスの大半は納豆嫌いだったと思うんだけど。

かく言う僕も「納豆なんて」と思ってました。食べられませんでしたね。

食べられるようになったのは、大学生のときです。

うどん屋の出前持ちをやっていたとき、賄いで「納豆うどん」が出てきたんですね。で、食べられないなんて言うのも申し訳ないし、だいたい腹はへってるしで、思いきって食べたらまあ食べられたんで、それから少しずつ食べるようになって、近ごろでは上記のような状態にまで立ち至ったわけです。

当時僕は仙台に住んでいたんですが、仙台で「うどん屋」というのは結構めずらしいです。やはり東日本はそばの方がメインになります。駅の立ち食いでも、関西は「うどん・そば」と書いてあるのが一般的ですが、あちらは「そば・うどん」です。

僕が出前持ちをした「恭菜」といううどん屋は、ちゃんと修業を積んだ主人が手打ちしたうどんを出すんです。こしがあって美味しかったんですが、奥さんが云うには、

「残念だけど、うどんはこっちじゃあんまり人気がないんだよね・・・・・・」

ということでした。すごく美味しいうどんだったんですが、なかなかわかってもらえなかったようです。

2年ほど前に恩師の古稀を祝う会があって、不良学生だった僕も、仙台に行きたいのが半分で顔を出しました。恩師が覚えていてくれたのでとても感激。ああ、もう少しまじめに卒論書いておけばよかったと後悔しました。それはともかく。

昼間少し時間があったので、ふと思い立って「恭菜」を訪ねてみました。移転したという噂を聞いていたので、電話帳でさがして行ってみたら、ちょうどお昼の時間が終わったところで客はだれもおらず、僕がふらりと入っていくと、懐かしい顔のご夫婦が「だれやこいつ」みたいな胡乱な表情で出迎えてくださいました。

でも、残念ながら、うどんは手打ちじゃなくなっていました。場所がせまくて、手打ちの台を置けないとのこと。

場所柄、客は安定して来るみたいで商売的にはまずまずのようでしたが、ちょっとさびしそうでした。僕が出前持ちしていたころすでに子どもさんが3人いましたが、その後また2、3人生まれたということなので、大変だったにちがいありません。

この世の中、食っていくのは厳しいぜとしみじみしながら、うどんをつるっと呑みこむ僕でした。

おお、納豆の話がいつのまにかうどんの話に!

では、脱線ついでに。

何年かに一度、といった割合で仙台に行きますが、駅を出てペデストリアンデッキの上から町を見わたした瞬間に、いつも頭がくらっときます。

懐かしい風景が、懐かしい風景なのに記憶と少しずれているというのが、眩暈感の原因みたいです。

青春時代の7年半を過ごした街なので、いつまでも僕にとって特別です。

・・・・・・しかしそれにしてもなぜ7年半もいたのか?

四年制大学なのになぜ?

その謎はまたいずれ。

2011年2月 8日 (火)

ポイントは三つある

かなりのブランクがありますが、何事もなかったかのように、前回のつづきです。プロの話でした。

話術のプロといえば、芸人ばかりではなく、塾の講師もそうです。というより、芸人みたいな講師も多い。中にはM-1グランプリに出てる講師もいるそうです、よく知りませんが。M-1が終わって、どうするんでしょうね。心なしか、頭のかがやきも寂しげです。頭のつながりで思い出しました。坊さんにも上手な人が多いようですね。一般庶民に仏の道を説くためにおもしろおかしく話をする必要があったのでしょう。「説経」が落語などの話芸のルーツだそうです。でも、落語家といっても上手下手があります。はっきり言って、下手なやつは下手。ネタは同じなのになぜあんなにちがってくるのでしょう。師匠の話すことばを完全にコピーしても、何かがちがうのですね。月亭八光が言っていました。笑福亭仁鶴のテープで話をおぼえたものの、テープの中で笑いがドッカンドッカン出ているのに、八光が同じところをやっても、客席はクスリともしないとか。

アナウンサーは原稿を読むことについては最高のプロです。だからといって文学作品を朗読しても魅力的とはかぎらない。俳優の朗読のほうがむしろ魅力的なことがあります。何がちがうのでしょうか。たとえば、稲川淳二というタレントがいます。夏になるとよく出てきて怪談を聞かせてくれる人です。あの人、はっきり言って滑舌はかなり悪い。それなのに「聞かせる」のですね。内容・間・リズムなど、独特の魅力があります。「やだな、やだな」なんて、物真似されています。笑福亭鶴瓶も声は悪いのですが、「聞かせ」ます。内容に意外な展開が多いのですが、じつは話の組み立て方がうまいのですね。武田鉄矢も上手です。この人の場合は声の質が心地よいのですが、若い頃はやや甲高い早口のトークでした。ところが、映画で共演した高倉健の影響を強く受けたらしく、意識して、ゆっくりめの低い声で話すようになってきました。聞いていて、安心感を与えるような話し方というのも魅力的なようです。でも、それはなかなか模倣できない。

「魅力」というのは「花」のことでしょうか。もって生まれた「花」もありますし、ふとしたきっかけで開花するものもあります。訓練したからといって、すぐに魅力的になるとはかぎらないのがつらいところです。テクニック的なものは訓練できるでしょう。「弁論術」みたいなものはとくに西欧では訓練するみたいです。彼らは相手を説得するということに大きな価値を見いだしてきました。場合によっては「詭弁」であっても、相手が反論できなければ評価されるのですね。「自分がされていやなことは、ひとにもするな」「ほなら自分がされていやでなければ、ひとにしてもええんやね」……、「××くんの秘密を知っているか」「秘密なら知ってるわけないやないか」……、「お金こそ最も価値あるものだ」「そしたら、なんでお金を物にかえてしまうねん」……、「チョコレートを毎回半分食べてれば一生なくならへん」……、アホです。

こんな話もあります。弁論術がうまくなったら礼金を払うという約束で弟子入りした男が、習い終わったあとも礼金を払わなかったので裁判になった。師匠が「おまえがこの裁判に負けたなら、判決どおり礼金を払え。裁判に勝ったなら、弁論術がうまくなった証拠だから、約束どおり礼金を払え」、そうすると男は、「おれが裁判に負けたなら、弁論術がうまくならなかったのだから、礼金を払う必要はない。裁判に勝ったなら、判決どおり礼金を払う必要はない」……、西洋の人はこんなのが好きなんですね。

ディベートというのも変なものです。「カレーとラーメンとどちらがおいしいか」というテーマで、自分はカレーだと思っていても、ラーメン派に入れられたら、無理矢理でも理屈をつけていくわけですね。こういうものが成立するということは、「どんな意見でも反論される。世の中に唯一絶対の理屈や意見はない」という前提に立っているということですよね。要するに「自分の意見は必ずしも正しくない」ということになります。なんだか論争すること自体、無意味になってしまいそうです。「理屈と膏薬はどこへでもつく」というすばらしいことわざを西洋の人におくってやりたいなあ。

詭弁ではないのですが、すごくいやみに感じるのが「ポイントは三つある」とか言って、「一つは……」とやり出す話し方です。アメリカの映画などで主人公がよくやります。自分はすでにそれだけの分析ができていると言わんばかりなのが、鼻につきますね、いかにも自信満々で、しかも説得力がありそうなのがむかつきます。ところが、「三つあるのだ」と言って、相手をびびらしておきながら、実は二つしか思いついていないらしい。そうやって、相手を恐れ入らせるのが目的なので、言いながら三つ目を考えていることが多いそうです。日本人には思いつかない発想ですね。

西洋の人がよくやる(本当にやるかどうかわからない、映画や小説でよく見るだけです。単なるアメリカンジョーク?)「グッドニュース、バッドニュース」というのもあざとくて、いやみです。医者と患者の会話。「いい知らせと悪い知らせがあります。悪い知らせですが、あなたの心臓とまちがえて、肺のほうを手術してしまいました」「なんですって。じゃあ、いい知らせというのは?」「あなたの心臓は正常で、手術の必要はありませんでした」みたいなやつです。これなんかも、日本的ではなさそうです。一つの物事には両面があるとか、見方によって真実はかわるなんて、むしろ、日本では当然すぎて「笑い」にならなかったのかもしれません。

では、なぜアメリカ人の「二分法」が日本で生まれなかったのでしょうか。私が思うに、そのポイントは三つあるのです。一つは……。

2011年2月 2日 (水)

首都圏の思い出

関西の入試は一段落しましたが、首都圏は今がたけなわです。

実はわたくし、かつて首都圏で授業をしていたことがあります(最近は行ってません)。

関西人が首都圏で授業をする場合、最大の障壁は「言葉」です。

吉本芸人のおかげで関西弁は全国区になっているというものの、やはり関西弁は嫌いという人も多いのです。べつに嫌わなくてもいいじゃん、と思いますが、まあ、標準語なんて気持ち悪いという関西人も結構いますから、どっちもどっちですね。

大学時代、関西を離れていたころは、僕も関西弁があまり好きではありませんでした。べつに標準語がかっこいいとは思いませんでしたが、関西人はどこに行っても声が大きいような気がして、なんとなく気がひけてしまうんですね。

で、首都圏に週1回出向いていたころは、極力標準語で授業するよう心がけていました。関西弁でしゃべったら生徒も怖がるんじゃないかなと慮ったわけですが、これが思っていたより難しい。

かつては「西川ほど大阪弁の痕跡を消せる人間は見たことがない」と言われるほど標準語になじんでいたのですが、こちらに戻って十数年たつと、もうだめですねぇ。

特に勢いよく叱るときなどは、つい関西弁が出てしまいます。

高野長英は、たしか「日本語でしゃべったら罰金」というゲームをしていた酒の席で階段から突き落とされたとき、オランダ語で「危ない!」と叫んだそうですが、とても真似できません。

さて。

首都圏の塾生で、何を話しかけてもとりあえず「ニャー」と返事する6年生の男の子がいました。

ぼく「では、◎◎くん」

◎◎「にゃー」

ぼく「きみは『ハイ』と言えないのかい?」

◎◎「にゃー」

ぼく(ちょっとムッとする)「ほんとに?」

◎◎「にゃー」

ぼく(あきらめる)「で、問3の答えは?」

◎◎「ウ」

ぼく「『にゃー』以外のことも言えるじゃないか」

◎◎(うなずいて)「にゃー」

といった調子です。

ある日のこと。授業中板書していると、落ち着きのない◎◎くんが背後で何か意味不明のことをつぶやいている。意味不明というのは文字通り意味不明なのであって、とりあえず日本語ではない。大声ではないけれど、とにかくずっとひとりごとのようにごにょごにょつぶやいている。

『うるせえなこのやろう泣かしてやる』と思って、振り向きざまガツンと叱りつけようとしたのですが、その瞬間『いや待てよ、このまま大阪弁で「おんどれ、ええかげんにせんかい!」などと叫んだらもしかして大変なことになるのでは・・・・・・』と考えてしまったわけです。

しかし、光速で振り返ったその勢いは止められないわけです。どうしたらいいんだ!

で、どういうわけか、思わず、つい、うっかり、

「ニャー!」

と怒鳴りつけてしまう僕なのであった。

『しまった』と思ったときにはもう遅く、すっかり興奮した◎◎くん、『ここにもネコ語を解する人間がいた!』とばかりに、

「にゃにゃにゃ、にゃにゃにゃにゃにゃー!」

とすごい勢いで叫びはじめ、収拾のつかない事態に。

『やってしもうた~』と頭をかかえる僕なのであった。

なつかしい思い出です。

首都圏の塾生諸君、がんばれ~!

2011年1月24日 (月)

明けの星

入試の激励に毎朝でかけるわけですが、

駅までの道中、空を見上げると、否が応でも目に飛び込んでくる明るい星がありました。

明らかに恒星(自分で光を出す星。太陽系外にある、太陽と同じような星)ではないな、

「明けの明星」(金星)かな、と思ったのですが、金星は太陽の近くを回っている星なので、あんなに天高く昇っているのは妙では? と違和感を覚えました。高層マンションの上くらいに見えているのです。

小学生のころに読んだ天文雑誌の中の「西方最大離角」ということばが頭にひらめいて、調べてみると、やはり、今年の1月9日が「西方最大離角」にあたる日だったようです。

「西方最大離角」は、太陽と金星と地球で三角形を成し、地球から見た太陽と金星の間の角度が最も大きくなる位置関係のことです。

夕暮れ前・日没後に見えるのは「宵の明星」で、最も太陽から離れる宵の明星が「東方最大離角」の金星ということになります。

金星や水星は太陽に近い軌道を回るために、地平線すれすれに近いところでしか見えないと思い込んでいたので、冒頭のような「違和感」があったわけです。

水星の場合、「最大離角」は約28度しかなく、金星のそれが47度もあるのとは違って、空高く見えることはありません。本当にすれすれです。そのため、初めて望遠鏡で天体観測をしたと言われるガリレオ・ガリレイですら、生涯の間水星をみたことがなかった、という逸話があるそうです。

今の金星はとっても見やすく、冬の星空を彩る一等星たちが西の地平線に沈んで、その後に真打ち登場、といった趣もあります。

この冬は、早起きして南東の空を見上げてみてください。一月いっぱいくらいは、東天高く昇った金星を見ることができそうです。

思いの外お高くとまったヴィーナスに、「塾生たちの勝利の女神であってよね」となんとなく不遜に願いを込めつつ、駅への道を急ぐ私でした。

2011年1月 8日 (土)

よい国語の問題

いよいよ6年生は入試期間に入っています。

実力を遺憾なく発揮してくれることを切に切に望みつつ、私は小3~5生の授業をしています。

できる限り、受験生の皆さんには、適度な緊張と、そして今まで希学園で鍛えた日々への自信を持って、入試に臨んで頂きたいと思います。

国語の問題というと、「答えがいっぱいある」という人も多いです。

ですが、テスト問題である以上、どうしても模範解答、出題者が想定している解答、というのがあるわけですね。

「出題者のねらいを見抜くゲーム」だと思って、出題者との心の中での対話をしてほしいなあ、と私はよく言います。

出題の意図が見えれば、おのずと答えも見えてくるはずですから。

そうなると、出題者側には「意図のある出題」をしてくださいね、とお願いしたくなります。

よい国語の問題、(と僭越ながら私が考える)とは、

①ねらいがはっきりある問題

②文章に根拠があり、文章のここを見れば答えが決まる、という問題

③国語力のある人がきちんと答えを出せる問題

です。

国語の先生が何人も侃々諤々話し合っても答えが決まらない問題というのは、正直、悪問かなと思います。

クイズでも、「いい問題」は存在しますよね。

早押しクイズなどの場合は、問題を読み上げている途中で、答えが見えるようになっているものが多く、全部聞かずにわかる人が勝つようになっています。まるで百人一首の「むすめふさほせ」の一字決まりみたいに。出題者としては、問題の途中で、「ここまで読めば慣れた人なら答えが出るだろう、というようなポイントを作っているのでしょう。

「ベートーヴェンの『交響曲第五番』の……」で「運命!」と答えるのはさすがに早とちり。

「ベートーヴェンの『交響曲第五番』の第一楽章などでは、同じ旋律がくり返され……」で音楽に詳しいひとならば「ソナタ形式」という答えが見えるわけです。

何と言うんでしょうか。運の勝負、になるようなものは入試問題としてはやめてほしいなと。

もう入試問題の作成はすべて終了しているとは思いますが、受験生を送り出す我々講師の願いの一つでもあります。

2010年12月31日 (金)

星空まにあっくす

泣いてなどおらぬ! これは涙ではない!

なんだか北斗の拳のラオウのような台詞になってしまいましたが、

西川先生のプレッシャーに実は負けている私ではあります。

入試期間が明けるまで、この国語まにあっくすを預かることになりましたので、

ここは自分の得意分野か、シリーズもので逃げ切りたいと。

むかしむかし、私は「天文少年」でした。

「天才少年」ではなく、星空を眺めては想像も及ばぬ宇宙の広大さに思いを馳せていたのでした。

折しも今は冬。星空観望には最適の季節です。

何しろ、全天球で21個しかない(日本で普通に見えるのはうち15個)一等星以上の明るい星が、

シリウス・プロキオン・ベテルギウス・リゲル・アルデバラン・ポルックス・カペラ

と、7つも見えるのです。15個中7個です。実に豪儀な星空ですね。

冬が観望には最適だというもう一つの理由は、冬の空気が澄んでいてきれいなことです。

空気が澄んでいる→よく晴れている→上空の気流が速い→星がよく瞬く

ちょっとわかりにくいですが、冬の星はよく瞬きます。それもきれいですね。

今頃の南天を見上げると目に飛び込んでくるのが有名なオリオン座です。

きれいにならんだ三つ星はすべて二等星。

それを囲む四つの星の左上に赤く輝くのがベテルギウス、右下に青白く輝くのがリゲル。

和名ではベテルギウスを平家星、リゲルを源氏星というそうです。

ベテルギウスは太陽の何百倍もある大きな星で、地球からの距離は640光年。

リゲルはとても明るい星で、地球からの距離は700光年なので、もしもっと近くにあれば確実にシリウスより明るい星になるそうです。

なんだか理科まにあっくすな感じになってしまいましたので、こじつけに。

よく、「幕末の日本では、坂本龍馬などの英雄がきら星のごとくいた」などという表現をみますが、「きら星のごとく」は「綺羅、星のごとく」が正しいとか。

「綺羅」は、美しい衣服のこと、転じて高貴な人々の意だそうです。

個人的には「きらきら星」という美しい歌もあるので、「きら星」でもいいように思いますね。

一等星が競い輝く空を眺めていると、そんな穏やかな気持ちになります。

2010年12月27日 (月)

阪急電車での憩いのひととき

栗原trがなかなか書いてくれないので、少しだけ。

入試対策のこの時期、朝は電車の中で本を読む元気がまだあるんですが、帰りは気が抜けていてなかなか読めません。

で、往々にして、ただぼんやりと車内のモニター画面を見ていたりするんですが、みなさん、あの、ピタパのCMはご覧になったことありますか? 阪急電車以外でも流しているのかどうか知りませんが、これからデートにむかう男の子と女の子のやつです。

あれ、いいですねえ。もう結構長いあいだやっているんですが、見るたびに「うっ」となります。どういうわけかものすごく僕のツボにはまっていて、無防備な状態で見ているとじわっと涙がわくことさえあります。

うーむ。

他の国語講師に〈ドS〉と呼ばれているこの僕なのに。

で、いろいろ考えてみたんですが、おそらく、《間》がいいんじゃないかなと思います。

これからデートだってんで、男の子はうかれていろいろ妄想しながら、逆に女の子はちょっと警戒しながら待ち合わせ場所に向かっているんだけれども、二人ともに「自分は相手に気に入られないのではないか」と、ふと不安になる瞬間の《間》が絶妙な気がします。

編集が上手いんでしょうね。

いい仕事してるなあと思いました。

2010年12月19日 (日)

入試対策に入っているので

小6を中心に担当している西川および山下はなかなか記事を書くことができません。

楽しみにしてくださっている方・・・・・・・がどのくらいいらっしゃるのか、甲子園球場の左翼外野席で阪神VSヤクルト戦を見ているスワローズファンより多いのか少ないのか、あるいはそもそもまったくいないのかわかりませんが、申し訳ありません。

栗原が鬼のように書いてくれるのではないかと思いますので、どうか過大な期待をお寄せください。

などとプレッシャーをかけると栗原先生泣くかもしれないので、私がこう書いたことは内緒にしておこう。

2010年12月12日 (日)

中か外か

今は昔。

もう十数年も前のことになります。

塾生の保護者から、一通のお手紙を頂いたことがあります。

「お尋ねしたい事があります。

先日、菓子の中に入っていた説明書きで

『……餡にまかれた餅が絶品……』と書かれていたのを見つけて、息子と頭をひねりました。……」

というような内容でした。

質問の骨子はこうです。

A 餅が餡をつつんでいる。→いわゆる大福タイプ。

B 餡が餅をつつんでいる。→こちらはおはぎタイプ。

さて、「餡にまかれた餅」はA・Bどちらなのか?

 餅が餡によってまかれている のならば、おはぎタイプですよね。

 でも、

 餅が餡の上にまかれている ととれば、大福タイプです!

 これは「に」という助詞と「~れる」という受け身の助動詞が織りなすミステリーですね。

 ??となっている方のためにもう少し。

 「このおにぎりは、ご飯に巻かれている海苔の風味を味わって頂きたい」

 のような場合、「おにぎり」の先入観というか前提となる知識があるので、違和感なく海苔が外側だとだれもが了解するでしょう。

 この例をもって、「日本語は非論理的な言語だ」なんて言う気は毛頭ありません。

 どんな言語でも、完全に一意に決まらない場合があるはずです。

 むしろ、その二重性みたいなものを楽しむ方が、建設的でいいんではないかと。

 え? 結局その銘菓はどっちだったのか、ですか?

 確認したはずなのですが、肝腎の結論は忘れてしまいましたとさ。

2010年12月 5日 (日)

入試対策

ついに入試対策が始まってしまいました。

志望校別特訓も残り1回。

今日の志別から。

ぼく「この程度のこともわからんのか! まさか、こんな簡単な質問で授業が止まると思わへんかったわ! 全員一致で即答してくれると思ってたわ! 緊張感が足りんのちゃうか!? あ~あ、ショックだショックだ」

塾生「先生、ドンマイ」

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