2020年9月20日 (日)

半面半身

ふぐは海の魚なのになぜ「河豚」なのか。揚子江などの河口にいたからでしょうね。「海豚」は「いるか」にとられてしまったから、という答えは記述問題では×になるでしょう。では、イルカとクジラのちがいは何でしょう。単に大きさだけで、種としては同じものなのでしょうか。クジラとゴリラは全くちがいますが、この二つをミックスした名前が「ゴジラ」です。この映画をアメリカで作ったとき、「GODZILLA」と表記されました。「GOD」つまり「神」が含まれ、怪獣の中の怪獣にふさわしいネーミングであることが再確認されたわけです。エビラやガメラやギララなど、ゴジラにあやかって怪獣の名に「ラ」を入れるのは定番になりました。「モスラ」は蛾の「モス」に「ラ」をくっつけたものだし、「エビラ」や「ガメラ」はそのままです。「ガメラ」なんて、後肢が、中に人間がはいっていることがまるわかりの形になっていました。「キングギドラ」の「ギド」は何だったのでしょうか。

『怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか』という本もありました。「ラ」と濁音の組み合わせが多いのは確かです。だいたいラ行や濁音で始まることばは和語にはなかったので、これらの音は異形のものを表すのにふさわしいのでしょう。力強さもあって、怪獣にはぴったりです。「ピザーラ」は「ピザ」に「ラ」がついていますが、ゴジラのイメージと重ねているようです。「ン」で終わるのも多いのですが、これは恐竜のイメージでしょうか。「プテラノドン」にならって「ラドン」とつけたのかもしれません。

「ン」で終わると言えば、薬の名前もそうですね。「アリナミン」とか「パンシロン」とか「バファリン」とか。これはもともとの成分が「ン」で終わることが多いからかもしれません。アセトアミノフェンとかグリチルリチンとか。これらはなじみのないことばですが、全体的に「ン」で終わると、なんとなく親しみやすい感じもします。「ポケモン」は言うにおよばず、「くまもん」とか「ひこにゃん」とか。そのせいか、薬の名付けにもだじゃれ系が多いようです。けろりと治るから「ケロリン」、サラリと出るから「サラリン」、じきに治るから「ジキニン」はわかりやすい。「ノーシン」は「脳を鎮める」、「サリドン」は「鈍痛を去る」から来ているそうですが、このへんになったらクイズみたいなものです。前もって飲んでおけば「後が楽」になるからコーラック、とは気づきませんでした。風邪が「スーッと治る」からストナ、って言われなければわからない。

「ン」がつく理由として、もともとの薬の名前が「散」とか「丸」とか「ん」で終わるものが多かったからだという説もあります。「龍角散」とか「正露丸」とか「樋屋奇応丸」とか。「救心」とか「改源」というのもありますが、「丸」「丹」「散」で終わるものはすぐに薬だとわかります。漢方薬の中でも、粉薬になったものが「散」で、それを練って固めたものが「丸」または「丹」ですね。「丸」は「願」とも通じるので、縁起を担ぐ意味合いもありそうです。森鴎外らの意見で日露戦争に赴く兵士に飲ませたというところから「征露丸」と名付けたのが始まりで、戦争が終わってからは「征」はまずかろうということで、「正」に改めたそうな。たしか登録商標をめぐって裁判になり、結局「正露丸」は固有名詞ではなく、普通名詞であるという結果になったと思います。

「ん」の字と言えば、またまた強引に落語に結びつけますが、「ん廻し」という、ばかばかしい話があります。「寄り合い酒」という話の続きで、この「寄り合い酒」は祝賀会の劇のネタとして使ったことがあります。町内の若い者が、肴をめいめい持ち寄って飲むことになりました。ふだん料理をしたことなどないものだから、乾物屋の子供をだましてまきあげた鰹節でダシをとろうとして、二十本もいっぺんにかいてしまって、大釜でグラグラ。「うどん屋をやるんやないで」と、ぼやいていると、だしがらをざるに大盛りにして持ってきます。「これはダシやない。汁がダシや。汁はどうした」と聞くと、もったいないから痔の悪いやつが尻をつけて温めて、その後、残り湯にふんどしをつけてある、しぼって持って来ようか…。

鯛を持ってきたやつもいます。魚屋の荷から鯛をくわえて走って行く犬を追いかけ、棒で叩いて鯛を放したすきに拾ってきたという、ひどいやつです。料理しているところに犬がきて、座って動かないので、「頭を一発食らわして追っ払え」と言われて頭を食べさせ、「胴体を食らわせ」と言うから胴体をやってしまい、まだ動かないので尻尾まで食らわせて、とうとう全部犬にやってしまいます。大騒ぎしているところへ豆腐屋が焼き上がった田楽を持ってきました。

ここからが「田楽食い」または「ん廻し」という話になります。皆で田楽を食うことになったのですが、田楽は「味噌をつける」ので縁起が悪い、逆に運がつくように「ん」廻しにしよう、「ん」を一つ言うたびに一本取って食べよう、ということになります。「れんこん」「にんじん」「だいこん」と続いていくのですが、なかなか思いつかないやつがいます。野菜を言えばよいと思って、「きゅうりん」「なすびん」「トマトン」「レタスン」「キャベツン」「パセリン」「きくなん」「みぶなん」「たかなん」「こいもん」「さといもん」と、無理矢理「ん」をつけます。最後に「かぼちゃん」と言うのですが、「別の言い方があるやろ」とヒントを出されます。でも、なかなか出てこない。「ふだん言い慣れてるやつあるやろ」と言われて、「ああ」とうなずく。当然、観客は「なんきん」と答えると思いますが、そこをわざと外して、桂雀々は「パンプキン」とやって笑いをとっていました。そのうちに「てんてん天満の天神さん」のように長いものになり、とうとう「先年神泉苑の門前薬店、玄関番人間半面半身、金看板銀看板、金看板根本万金丹、銀看板根元反魂丹、瓢箪看板、灸点」と言って四十三本よこせと言います。聞き直されて、もう一度言ってさらに倍くれと言うところがおもしろい。この「玄関番人間半面半身」は「半分体を断ち切って内臓やなんかを見せた人形」と説明されています。学校の理科室にある人体模型みたいなものでしょうか。あれは個人で持っている人っているのかなあ。骨格標本も理科室によくあります。あれは模型でしょうが、実は本物だったというニュースもありました。ちょっとしたホラーですね。

2020年9月 6日 (日)

死に土産

紛らわしい名前としては、「関西大学」と「関西学院大学」があります。前者は「かんさい」、後者は「かんせい」です。アメフトで日大の監督がまちがって「かんさいがくいん」と読んでしまったのも無理ないでしょう。昔、「東京」を「とうけい」と呼んだのと同じく、ちょっと気どった言い方なのでしょうか。「西」を「サイ」「セイ」と読むのは呉音・漢音というやつです。呉音というのは4世紀ぐらいまでの大和朝廷のころに中国から伝わった読み方、漢音というのは7、8世紀ごろ、遣唐使などが持って帰ってきた読み方です。その後、遣唐使を廃止して中国からの影響がなくなりますが、再び、12、3世紀ごろ平清盛によって貿易が復活し、僧侶も大陸へ渡って新しい仏教、禅宗を持って帰ります。そのときに伝わったのが唐音です。「西瓜」を「すいか」と読みますが、「スイ」が唐音ですね。今の中国では「シー」で、昔の長安、今の西安は「シーアン」です。麻雀界では「シャー」ですな。東南西北は「トン・ナン・シャー・ペー」です。なぜ「シャー」なのか、よくわかりません。「サイ」と「セイ」では、「サイ」のほうが古いので、「西方浄土」など仏教関連では「サイ」と読んだほうが荘重な感じがするのかもしれませんね。

「関西」は、中国では函谷関より西を意味しました。日本では鈴鹿、不破、愛発(あらち)の三関がありますが、いちおう不破の関があった関ヶ原より西でしょう。「関東」という言い方がまず生まれ、都びとは、自分たちは「中心」であって「西」だと考えていなかったはずなので、「関西」という言い方はそんなに古くはないような気もします。越前の愛発の関は早くに廃止され、近江に逢坂の関が置かれます。ちなみに奥羽三関というのもあって、白河・勿来・念珠の三つです。関西大学は五代友厚の作った商科大学がもとになっていますね。五代友厚といえば、ディーン・フジオカが演じて有名になりました。ブームが過ぎると忘れ去られるのが世の習い。

ところで、この「ディーン」というのは姓か名か。「フジオカ」が姓なら、「ディーン」は名前だと思いますが、ジェームズ・ディーンという人もいました。これは名字です。ジェームズ・ディーンは『エデンの東』という映画でスターとなり、あっという間にこの世を去ったことで、永遠の青春のシンボルのようになっています。だからこそ、永ちゃんの名曲『サブウェイ特急』で「ジェームズ・ディーンは、そう、立ちふさがる白い壁にただ一人…」と歌ったのです。ところがこの歌の二番の歌詞では同じところを、ジェームズつながりで「ジェームズ・ボンドは、そう、髪の毛がはげるまで…」と歌っています。演じたショーン・コネリーの髪の毛が薄くなって話題になっていたことを踏まえたものでしょう。ただコミックソングでもないのに「はげ」ってことばが出てきて、なんだか笑ってしまいました。同じ歌に「畳じゃ死なねえぞ」というフレーズがあるのも、今どきのことばではないよなあと思いました。作詞は矢沢ではなかったのですが…。

それまでの歌詞になかったことばとしては、長渕剛の『とんぼ』の中に「ケツのすわりの悪い」という強烈なフレーズが出てきましたが、この歌なら許されるのですね。和歌の時代から、歌に使うことばは「雅語」でなければならないようなイメージがありました。「つる」ではなく「たづ」であり、「あわ」ではなく「うたかた」とした瞬間に歌の格調がぐっと上がります。「永遠」を「とこしえ」と言えば上品だし、「とこしなえ」と言えばさらに優雅になってグレードアップします。加山雄三の『君といつまでも』の中では「しとね」ということばが出てきて意味不明でした。ひらたく言えば「布団」ですね。この歌では他にも「今夜」「今晩」ではなく「今宵も日がくれて」と歌います。岩谷時子さんの頭の中では、「君といつまでも」の「君」は「君が代」の「君」だったのかも…。

谷村新司の『すばる』でも、文語というか古語を使っていますが、あれは不完全です。特に「なり」の使い方に無理矢理感がただようなり。松田聖子の『風立ちぬ』は堀辰雄をふまえているのでしょうか。一部だけ古語を使ってみました、という感じです。井上順の『お世話になりました』では「何もかも忘られないよ」と歌っていますが、「忘れられない」なら問題ありません。「忘れる」ではなく「忘る」なのでここは古語です。そうすると次の「れ」は「る」の活用したものかなと思ったら、あとに「ない」という東国方言が続く、という意味不明の構成…。と、文句をつけてみましたが、単に口調でそうなったのでしょうね。じつは古語の「忘る」はやっかいなことばで、現代語の「忘れる」につながるのは、下二段活用の「忘る」で、「れ・れ・る・るる・るれ・れよ」と活用します。ところが、四段活用の「忘る」もあるのですね。「ら・り・る・る・れ・れ」となるのですが、どうもかなり古い形のようです。「忘れたり」は自然ですが、「忘りたり」は変です。「忘られず」という形がたまに見られるのはこの古い古いことばが現代人にも「忘られない」のでしょうか。現代語に古語がまぎれこんでもそれと気づかず使っていることもあるでしょうね。桑田佳祐が『希望の轍』の中で使っているのは「忘られぬ」の形なので、まあ許せるか。

吉田拓郎は『イメージの詩』の冒頭で「これこそはと信じれるものがこの世にあるだろうか」と、いわゆる「ら抜きことば」を使っていました。昭和四十年代でしたが、もうみんな平気で使っていたのでしょう。昔の人でもまちがって変な言い方をしていることがあります。「ふぐはくいたし命はおしし」は「惜し」で十分なのですが、七音にしないとリズムがくずれるので「おしし」になってしまったのでしょう。この句を作ったのはどの地方のことでしょうか。なんとなく江戸のような気もしますが、ふぐ文化は北九州あたりの発祥でしょう。大阪人もふぐ好きです。「づぼらや」の看板でも有名でした。下関もふぐの本場で、有名な「春帆楼」も大阪に出店がいくつかあります。道頓堀の春帆楼で食べているときにとなりの部屋でおっさんたちが「死に土産、死に土産」と言いながら食っていましたが、あれはどういう意味だったのかなあ。さすがに春帆楼のふぐはそうそう食べられないから、死ぬ前に一度味わっておこう、ということか。こんなうまいものを食ったら、あたって死んでも本望だ、ということか。ふぐ食は秀吉が禁じて、伊藤博文が解禁したという話があります。春帆楼は日清戦争の講和条約の舞台になったところですから、李鴻章も食べたのかしらん。

2020年7月18日 (土)

堀口大学という学校はない

「佃祭り」の話で女が身投げをしようとしたのは吾妻橋、崩落した永代橋とともに隅田川の橋ですが、同じく隅田川にかかる言問橋という橋の名前は業平の歌がもとになっています。「伊勢物語」にある「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」ですね。優雅なものです。ただ、江戸時代か明治のころ、隅田川近くの団子屋が「言問団子」と名づけたことが元になってつけられた名前だという説もあります。

江戸で和歌といえば、太田道灌ですね。これも「道灌」という落語があります。道灌が、突然の雨に出会って、貧しい家に立ち寄り雨具を借りようとします。若い娘が出てきて山吹の枝を差し出すので、怒って帰ってしまうのですが、これは「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」の古歌をふまえたもので、「実の」と「蓑」をかけて、「お貸ししたいのですが、蓑の一つもございません」と断ったのだ、という話を聞いた八五郎。いつも傘を借りにくる友達を、この歌で追い返してやろうと、待ち構えているとちょうど雨が降ってきます。案の定友達がやってくるのですが、今日は傘は持っており、暗くなってきたので提灯を借りにきたと言います。八五郎は、雨具を貸してくれと頼めば提灯を貸すからと、無理やり雨具を借りさせようとします。それじゃあ、ということで応じた友達に、歌を書いてもらった紙を差し出すと、なんだこりゃ、といわれます。「お前は歌道に暗いな」「角が暗いから提灯を借りに来た」というイマイチな落ちです。

道灌については知名度のわりにどういう人物だったかは意外に知られていないようです。関東管領といえば上杉氏で、謙信は山内上杉家の家督を譲られたのですが、道灌は扇谷上杉家の家臣です。今川家の家督争いのときに、義元の父親、龍王丸が幼かったため、その叔父の伊勢新九郎と名乗る人物が調停案を提示し、駐留していた道灌が了承したという話があります。伊勢新九郎とは北条早雲の若い頃の名前ですね。七重八重の歌の話が載っているのは江戸時代の『常山紀談』ですが、後日談があります。 「山吹の花」の失敗に懲りて歌を熱心に学ぶようになった道灌が主君の上杉定正と戦に出て、海沿いの道を通っているときのことです。折から夜中で、あたりは真っ暗です。山が迫った道なのですが、山に近づきすぎると山上から弓を射られるかもしれず、海に近づきすぎると、もし潮が満ちていたら流されてしまいます。様子を見てきた道灌が「潮は干いている」と報告します。「遠くなり近くなるみの浜千鳥鳴く音に潮の満干をぞ知る」という歌を引いて、「千鳥の声が遠く聞こえました」と言うのですね。また、別の日のこと、やはり夜のことで、利根川を渡りたいのですが、真っ暗で浅瀬がわかりません。すると、道灌は「波音のする所を渡れ」と言います。「そこひなき淵やはさわぐ山川の浅き瀬にこそあだ波は立て」という歌を根拠として示します。このあたり、むかし授業で毎年やっていました。

道灌もそうですが、東国の人は歌がうまいというイメージは相当古くからあったようです。万葉集にも「あずま歌」と呼ばれる作品群がありますし、安倍貞任・宗任や源義家は歌の世界でも有名です。六歌仙の一人、小野小町も出羽の出身です。そのせいか「秋田美人」ということばも生まれています。日本海側の県は一つおきに「美人の産地」だという説があるそうですね。秋田がふくまれるなら、あてはまらない県も自動的にわかるわけで失礼な話です。昔は日本海側を「裏日本」と言いました。太平洋側が「表日本」ですね。これも失礼ということで今は使われなくなったようです。ただ山陰という呼び方は残っています。明るい山陽に対して山陰は暗いイメージになってしまいます。新しい呼び方を募集したことがあって、「北陽」などの案も出たそうですが、結局変わらないままです。中国では山の北側を「陰」、南側を「陽」と言うので、この呼び方も仕方のないことかもしれません。これが川なら、北が「陽」、南が「陰」になります。洛陽は洛水、濮陽は濮水の北側にあるわけです。韓信は「淮陰侯」と呼ばれますが、淮水の南を領地とした、ということですね。

「陰」のイメージはよくないのに、なぜか学校の名前には、くさかんむりがついただけでほぼ同意の「蔭」の字が使われることがあります。「松蔭」「樟蔭」「桐蔭」「桜蔭」のように、なぜか「木のかげ」です。安倍さんの母校である成蹊大学も、「桃李もの言わざれども、下おのずから蹊を成す」から来ている名前なので木のイメージですね。これに対して「甲陽」や「北陽」のように「陽」のつく学校名もあります。「甲陽」の「甲」は本来は「甲斐国」で、「甲陽軍艦」とか「甲陽鎮撫隊」というように使われます。「甲山の南」の意味の「甲陽」という地名はそれほど古くはなさそうです。こう見ると、女子校は「陰」、男子校は「陽」となって、「男は陽、女は陰」と考える陰陽二元論につながっておもしろい、と書きかけて、堺の「泉陽高校」を思い出しました。この「陽」は洛陽にあやかったものでしょう。泉州一の町という意味で堺の別名にしたわけで、北や南とは関係がないわけですが、もともと女学校ですから、女子校は「陰」という説にあてはまりません。与謝野晶子や橋田壽賀子、西加奈子、沢口靖子、と錚々たる有名女性を輩出している名門です。

学校名で言うと、学園と学院のちがいは何でしょうね。学園のほうが自由なイメージ、学院は規律あるイメージですかね。学園天国とは言いますが学院天国はなく、学園祭はあるが学院祭はない、という勝手なイメージ…。ちなみに私が思いつく「学園天国」というのは小泉今日子ではなく、もちろんフィンガー5です。これはフィンガーズなのかなあ、単数複数の区別は不要? 大学院は「大・学院」か「大学・院」か、というのも難問。学園はおそらくプラトンのアカデミアの訳で庭園のイメージでしょうが、「学苑」と書くと、服飾学園っぽくなってしまいます。「院」は建物、というより「寺院」のような気がします。日本最初の学校は「綜芸種智院」ですし。寺子屋ということからも学校と寺は結びついています。学校に行くことを「登校」、帰ることを「下校」というのは寺が山の上にあったからですね。ということは、宗教系は「学院」でしょうか。でも、星光学院はあてはまっても、東大寺学園はあてはまりません。帝塚山は「学園」と「学院」の両方があります。「学園」でも「学院」でもない東京女学館というのはおしゃれですね。二松学舎となると、これは反則技でしょうか? 

2020年7月 3日 (金)

ありの実と歯痛

伝説の世界の小栗判官となると、いったんあの世にまで行ってしまいます。「流離」にも、ほどがあります。梅原猛が猿之助劇団のために書いたスーパー歌舞伎『オグリ』はなかなかおもしろかった。歌舞伎は「古くさい」と敬遠されがちですが、『ワンピース』まで取り上げています。奇をてらいすぎ、という観もありますが、もともと「傾き」ですから、何でもあり、だったのでしょう。その意味では原点にもどったとも言えます。わが希劇団も数年前の祝賀会で「サンピース」という劇を上演しました。「海賊王」ではなく「山賊王」になる、という設定なので「サンピース」としたのですが、「サン」が「スリー」であるなら「スリーピーシーズ」なのかなあ。「ワンピース」に対して「ツーピース」と言いますが、「ピース」は複数形なのでしょうか。二人で教える個別、「マントウマン」ではなく「トゥーマン」というのを祝賀会の劇でやったのですが、文法的に言うと「トゥーメン」が正しい。

単数・複数の区別がないので楽かと思いきや、日本語には助数詞というものがあって、これがまた厄介でした。どっちがいいというものではないようです。英語では左から右に書くのに、昔の日本語の横書きは右から左で逆でした。これは横書きではないという人がいます。つまりあれは一字だけの行を縦書きしているのだ、だから右から左なのだ、という考え方で、たしかにそうですね。もちろん、西洋と東洋で逆になるものはほかにもたくさんあります。マッチを擦るとき、日本人は下へ向かって擦るのに対して西洋では手前にひくとか、人を呼ぶとき、日本人はてのひらを下に向けて動かすが、西洋ではてのひらを上に向けて動かすとか。日本人はこういう対比が好きで、西洋人はそうではない、としたらこれまた対比です。

東京VS大阪というバトルも盛り上がります。ただ東京人はこれを話題にすることもそれほど多くないようで、むしろ大阪人のコンプレックスの表れだ、と言う人もいます。ものを買った値段の自慢も、東京が高いもの自慢であるのに対して、大阪人は安く勝ったことを自慢する、というようなのは、もはや「自虐ネタ」に近いかもしれません。大阪は京都VS大阪のバトルでも負けることがよくあります。最近では神戸VS大阪が取り上げられることもあり、やはり大阪はよく負けています。大東京にに対して「大大阪」と言っていた時代もあったのですが。なにしろ東京よりも人口が多かったのですから、東洋一どころか世界一だったのかもしれません。ただ、これも人口の多さが自慢になるか、という意見もありそうです。

ケンミンショーでもやっているように、どこがすぐれているというのではなく、多様性が大事なのでしょうね。あの番組でおもしろいのは、自分たちの文化が全国的だと思っている人が意外に多いということです。下世話なものほど、比較することが少ないので、そう思ってしまうのもやむをえないでしょう。子供の遊びなど、土地ごとに細かいルールがちがいますし、名称も変わります。「ケイドロ」と言う地方もあれば、「ドロケー」と呼ぶところもあり、私のところでは「探偵ごっこ」と呼んでいました。「探偵」と言っても私立探偵ではなく、警察の業務はまさに「探偵」なので、この場合は警察を意味しています。その探偵を決めるのに「イロハ」を使うのですね。「イロハニホヘトチリヌ」と順に指していって、「ヌ」に当たった者が「ぬすっと」、「ルヲワカヨタ」で「タ」に当たった者が「探偵」なので、「探偵ごっこ」という呼び名は妥当です。

昔の子供の遊びって「かごめ」や「通りゃんせ」「花いちもんめ」など、童謡を歌うような、のどかなものがよくありました。ただ、歌詞をよく見ると「のどか」というより「無気味」なものが結構多いようです。「花いちもんめ」など「子とり」です。マザーグースも同様で、洋の東西を問わず、子供は無気味なもの、残酷なものが好きなのでしょう。グリム童話などにも残酷なものが多いようです。「ロンドン橋落ちた」という歌も、橋が落ちたことを歌にしなくてもよいでしょうに。日本でも永代橋が落ちましたが、これは歌にはなっていないようです。落語にはなっていますが、ストーリーは「粗忽長屋」のバリエーションです。船がひっくり返った事件も「佃祭り」という噺に出てきます。志ん生や前の三遊亭金馬もやっていましたが、私は春風亭柳朝の淡々とした語りが好きです。

小間物問屋の次郎兵衛という人が「暮六つの最終の渡し船に乗って帰る」と言って、佃島で開かれる祭りに出かけます。祭りもすんで船に乗ろうとすると、見知らぬ女に袖を引かれ、揉めているうちに船は出発してしまいます。女が言うには、「三年前、奉公先の金をなくして橋から身を投げようとしていたところ、見知らぬ旦那から五両のお金を恵まれて命が助かった。」それが次郎兵衛さんだったのですね。お礼をしたいと家に招かれます。料理をご馳走になっていると、急に外が騒がしくなります。聞けば、先ほどの船が客の乗せすぎで沈んでしまい、全員溺れ死んだとのこと。三年前に女を助けていなければ、そのまま船に乗って死んでいたわけです。無事に帰宅した次郎兵衛さん、みんなが喜んでいる中、与太郎は「身投げをしようとしている女にお金をあげればよいことが起こる」と思って、家財道具を売り払って工面したお金をもって、毎日橋のあたりをうろうろしています。とうとう、袂に重そうなものをつめた女が川に向かって手を合わせているのに出くわします。与太郎は大喜びで女をつかまえ、「お金をやるから身投げはよしなさい」と言うと、女は、身投げではなく、歯が痛いので神様にお願いしていたと言います。「袂に石がはいっているじゃないか」「これは、お供え物の梨だよ」

この落ちがわかりにくい。江戸時代、歯医者さんらしき人はいたようですが、治療費が高くて、なかなか通うことができなかったようです。そこで、やはり神様だのみになります。九頭龍大神をまつっている戸隠神社で、歯を患った者が三年間、梨を絶って参拝したら治った、という言い伝えがありました。江戸の人々は信州の戸隠神社に行くことができないので、梨の実に自分の名前を書いて、神社のある戸隠山の方を向いて祈り、梨の実を川へ流したのだそうな。ふつうはこういう説明を話のまくらとしてしゃべってくれるので、落ちもなるほど、と思えるのですね。

2020年6月15日 (月)

おどろおどろしい話の続き

かなり間があきましたが、前回のつづき。清水寺の話をしていました。ほかにも京都には、名前からして「おどろおどろしい」ところが多くて、「化野念仏寺」とか「帷子ノ辻」なんて、いかにも、という感じです。さりげない名前でも由来はちょっと怖いというものもあります。むかしは、死んだ人の遺骸をそのまま放置するような風葬が行われていたらしく、それを隠すために覆った布が「衣笠」で、それが地名になったとか。「千本通」も、船岡山に葬るための道に千本の卒塔婆を建てたのが始まりだとか。「西院」も、それより西は魔界と考えられ、三途の川の河原、つまり賽の河原というところから付いた名前だそうです。

「六道の辻」なんて名前もあります。「六道」とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの世界のことです。「六道の辻」とは、あの世とこの世の境界ということでしょうか。蓮台野、化野と並ぶ三大墓地の一つが鳥辺野で、その入口にあたるのが「六道の辻」です。鳥辺野への道筋にあるのが六道珍皇寺。この寺は小野篁が地獄に通ったという井戸が残っていることで有名です。小野篁の変人ぶりについては前にも書いたような気がするのでカットしますが…。小野妹子の子孫で、小野小町や小野道風の先祖ですね。

百鬼夜行を見た貴族がいます。もちろん、「百鬼夜行の政界」というような比喩的な意味ではなく、もろもろの化け物が夜中に列をなして出歩くという文字通りのものです。小野篁がある貴族といっしょにいたとき、篁は百鬼夜行を発見します。その貴族の着物に経文が縫い込まれていることを知っていた篁はあえてその貴族を百鬼夜行に会わせます。経文の力で百鬼夜行は退けられますが、そのあと、篁はにこにこしながら「謹んでお会わせいたしました」と言ったという、ひどい話が『江談抄』という本に載っています。

『大鏡』には、藤原道長の祖父の師輔がある場所で、乗っていた牛車をいきなり止めさせてお経を唱えるという話が書かれています。その場にいる者は、みんな意味不明で不思議がっていましたが、後に、師輔が「あのときは百鬼夜行に出会ったのだ」と告白する、という話です。ほんとに見たんかいなー、とも思いますが…。有名どころでは、やはり安倍晴明ですね。晴明が若い頃、師匠の賀茂忠行とともに表に出ていたときに、忠行より先に鬼を発見します。報告を受けた忠行は鬼を退けるのですが、このことで忠行は晴明の才能を見ぬき、すべての術を授けたという話。

安倍泰成は晴明の子孫で、玉藻の前の正体を泰山府君の法で見破ったということになっています。この玉藻の前のモデルは美福門院藤原得子とも言われますが、正体は九尾の狐なんですね。紂王の后、妲己として殷を滅ぼすのですが、太公望呂尚によって、正体を見破られます。その後、天竺に渡り、斑足太子の妃、華陽夫人として再登場します。ここでは耆婆という人物に見破られるのですが、なんとまた中国に戻るのですね。周の幽王のときの褒姒も、実は九尾の狐だったということになっています。それ以来、周の力は弱まり、春秋戦国時代に突入していきます。ところが、ずっと時代がたって、吉備真備の乗る遣唐使船に同乗し、日本にやってくるのですね。

国を滅ぼすような美人を「傾国の美女」と言いますが、文字通り国を傾けたわけです。ただ、中国の四大美人というのは、楊貴妃・西施・王昭君・貂蝉ということになっています。世界三大美人は、この楊貴妃にエジプトのクレオパトラ、そしてなぜか日本の小野小町がはいっています。ということは、世界三大美人と言い出したのは日本人なのでしょう。日本人は「三大なんとか」とまとめるのが好きですから。では、日本の三大美人は、と言うと、小野小町、藤原道綱母、衣通姫ですね。

それに対して美男子は、というと業平ぐらいで、「三大」にはなりません。朝廷の正式の歴史書である日本後紀に「容貌きらきらし」と書かれているぐらいなので、相当な美男子だったのでしょう。もっとも当時の基準ですから、今つれてきたらどうなのかわかりませんが。兄の行平は美男だったのですかね。地名となぜか鍋に名を残しているだけです。兄弟の父親は阿保親王と言います。頭が弱かったわけではなく、この名前は地名が元になっているのかもしれません。「阿保」という土地に住んでいたのでしょうか。墓のあったあたりの地名は「親王塚」として残っています。

業平が仕えていた「惟喬の皇子」は紀氏の妃が生んだ皇子なので古代からの名門だった紀氏の期待を担っていました。業平は妻が紀氏だった関係で、「惟喬推し」でした。イケメンを生かして、業平が藤原高子をかっさらっていくのも、入内を防ぐための策略だったようです。要するに、惟喬の皇子はアンチ藤原氏の象徴だったのですね。結局は政争に敗れ、不遇のうちに亡くなるのですが、この人はなぜか「木地師」の先祖ということになっています。ろくろを使って、椀や盆などを作る職人です。

身分的に低い木地師が自分たちの先祖として天皇家につながる人物を設定したのは納得できるのですが、なぜ惟喬なのか。薄幸の貴公子が零落して山中をさまようイメージなのでしょうか。そうなると「貴種流離譚」として一挙に物語性を帯びてきます。洋の東西を問わず、身分の高い人やその子孫が落ちぶれてさまよう、というストーリーを人々は愛しました。「貴種流離譚」と呼ばれるもので、かぐや姫、ものぐさ太郎、さらには光源氏も「須磨明石」という「ど田舎」にまで流れていきます。

山人たちの伝承の世界では「蜂子皇子」というのもあります。崇峻天皇の皇子ですが、崇峻天皇は蘇我馬子に暗殺されます。皇子は聖徳太子の助力で逃げだし、出羽国までのがれます。三本足の烏に導かれて羽黒山にやってきた皇子は出羽三山を開くことになります。残されている絵では、強烈な顔で描かれていることが多く、たくさんの人の悩みを聞いてやったために、そのような顔になったとか。ひょっとして、この人も大陸から渡ってきた西のほうの人かもしれませんな。

2020年5月22日 (金)

場外乱闘④

ついに完結! 

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「初夏の旅なつかしく ④」

山口市をあとにしたのですが、折角なのでどうしても立ち寄りたいところがありました。JR山口駅の隣駅、帰路とは反対側です。今や無人駅ですが、その名も矢原駅。読み方は「やばらえき」ですが、そこは漢字表記なので大丈夫。券売機で入場券を購入。ちゃんと矢原と書いてあります。駅名標の前で記念撮影してミッション完了。


いよいよ最後の目的地、山口県の東の端、岩国市を目指します。広島市が県の西の方にあるので広島観光のついでに訪れる方も多いそうです。

「錦帯橋」
城山を映す川には五連のアーチ
岩国のシンボル たくみの技よ
白鷺舞い降り 釣りする人いて
豊かな川には 人と自然と

岩国といえば錦帯橋です。長崎の眼鏡橋・東京の日本橋とで日本三名橋だそうですが、錦川にかかるその姿はスケールの点でも美しさの点でも群を抜いています。川の向こうの小山の上に岩国城が見えます。芸術的な反りを見せる五連のアーチは匠の技なる工芸品。向こう岸まで往復してから川原に下りると、これまた最高の眺めです。傾きかけた陽にきらめく川面。澄んだ水が豊かで鮎釣りだろうか釣り人がいます。どこかから白鷺が飛んできて舞い降りました。度重なる洪水に苦しんだ江戸時代、流されない橋を願って造られた錦帯橋。今は観光地ですが元々は暮らしと自然の中に生まれた橋なのです。


「希代の剣豪」
錦川にて ツバメを斬りて
長刀の腕を磨きし 小次郎
創作にしても さもありなん
見渡す川原に 栄達夢見て

橋の向こう岸の柳の木のそばに立て札がありました。「巌流ゆかりの柳」と書いてあります。吉川英治は小説「宮本武蔵」のなかで佐々木小次郎を岩国生まれとし、錦帯橋のたもとで柳とつばめ相手に長刀を振って険の技を磨き、つばめ返しの技を編み出したと記しました。錦帯橋の建造は巌流島の決闘より数十年もあとなので、それらは吉川英治の創作です。でも名作の味わいは色あせません。巌流島は関門海峡にあります。前日の朝、下関で武蔵と小次郎の対決をかたどった銅像を見かけました。図らずも旅の始まりと終わりが見事に重なりました。


往路と同じく高速道路をビュンと帰ります。家についてひと風呂浴びたら、あちこちの土産物屋で買った魚の練り物やらご飯物やらで晩ご飯。車で巡る旅のラストは外食よりもこのスタイルが気に入っています。さてさてメインは例のサザエ。刺身と壺焼きでいただきます。お店の大将の言葉通り、夜でもまだ生きていました。刺身は新鮮、壺焼きの醤油は香ばしく。旅先の風情をもう一度味わうのが旅の〆ご飯なのです。


長々とお付き合いありがとうございました。ステイホームを余儀なくされていますが、困ったこと、マイナス面は対応次第でプラスに転じます。たっぷりある時間は読書をする絶好の機会です。大人用の映画に挑戦するのもよいことです。アニメではなく、SFとかではなく、実写の人間ドラマです。昔ながらの名作もよいでしょう。気分転換と、疑似体験による国語力の土台作り。まさに一石二鳥ですよ。

2020年5月16日 (土)

国語科講師からのリレーメッセージ⑮「みんな大好き〇村先生!」

確かに。僕も大好きです。

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 こんにちは。国語科の木村です。
 最近皆さんお家にいることが多いと思いますので、心の底から笑うという機会はなかなかないのではないでしょうか? そんな皆さんに、先生自身が何度聞いても何度思い出しても笑ってしまうお話を紹介したいと思います。ただ、このお話を楽しむにはコツがあります。それは頭の中でイメージしながら読むということです。文学的文章を読むときと同じですね。人物や情景をイメージしながら読んでいきましょう
 さて、突然ですが、皆さんは理科のO村先生をごぞんじですか? 当然知っていますよね? いないと思いますが、もし知らないという人がいたら、希学園のホームページの講師紹介をチェックしてから、この続きを読みましょう。そうすればますますイメージしやすく、面白みも増す・・・と思います。

◆O村先生とS天王寺
何年か前になりますが、O村先生と私で、塾生をつれてS天王寺中学校の文化祭に行ったことがあります。皆さん、S天王寺中学校は知っていますね? 横にお寺がある学校ですね。谷九教室から一駅だけ地下鉄に乗って、ちょっと歩けば到着です。校門前でO村先生と私が諸注意を済ませると、塾生はどんどん校内に消えていきます。文化祭見学の時間は決まっていますから、もたもたしていては時間がもったいないですからね。谷九教室にもどる時間が来るまで、O村先生と私は待機しなくてはならないのですが、まあ女子校ですので、校門付近にいるわれわれ二人はなかなか目立つわけです。それを見かねてかどうかわかりませんが、S天王寺中学校の先生がわれわれのために、教室を用意してくれました。ありがたかったですね。ずっとジロジロ見られていましたので。その教室に向かうとちゅう、あるS天王寺中学校の生徒さんがわれわれの前で足を止めました。そして、真剣な顔でこちらを見ています。おや? 希の卒塾生かなと思いましたが、私はその子に見覚えはありませんでした。O村先生にもどうやら心当たりはなさそうです。次の瞬間、その生徒さんは何を思ったか、O村先生を拝みはじめたのです! どうやらその子はO村先生をプロのお坊さんとまちがえたようです。これはしかたがない! そしてさらになぜかO村先生もいい感じで拝み返しました! これは意味がわからない! こんな空気の中では私はもう、二人に向かって手を合わせるしかなかったのでした・・・。

 もっともっと色々なお話があるのですが、書きながら笑いつかれてしまったので、今回はこれくらいにしておきたいと思います。また機会があれば他のお話も紹介しますね。


 ちなみに、O村先生を拝んだ生徒さんは、「実は希の卒塾生です」と後から教えてくれました。私はその子を本当に知りませんでしたが、O村先生は「あ~」とおっしゃっていました。

2020年5月14日 (木)

場外乱闘③

ほんとうに最後まで書き切ることができるのか? 江口寿史級遅筆講師矢原の紀行文第3弾です。

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「初夏の旅なつかしく ③」

朝を迎えました。気がはやるのか旅先ではたいがい早起き。温泉宿の醍醐味、朝湯をいただきます。湯煙に朝日が差して、露天風呂の広い庭にはツツジが緑に映えていました。湯上がりには夏みかんジュースのサービス。海が近いせいかすっきりとした泉質、さっぱりシャキッと。朝食もたっぷりいただいて、さあ出発。今日も盛りだくさんで。

「ゴクリ爽快」
日本の夏ミカンは 萩が発祥
マーマレードにしたのは諭吉
ツツジに染まる朝湯を上がれば
ジュース美味なり綿棒心地よく


いの一番にあの「明倫館」を目指します。市役所のすぐ前にあるのにいささか驚きましたが、なんと明倫館の跡地はそのまま明倫館小学校として今なお利用されているのでした。日曜日なので生徒たちはいませんでしたが、明治か大正を思わせる木造の建物が時代物の門柱の向こうに見えます。

旧市街に向かいました。駐車場のそばの広場にぽつんと立派な銅像。昭和初期の総理大臣、田中義一の名は日本史の受験勉強以来です。山口県は現在の安倍総理まで最多8人もの総理を輩出しました。
さて、幕末の革命児、高杉晋作の生家です。展示物の中にはスミス&ウエッソンのレプリカも。高杉が贈ったこれと同じ銃が、寺田屋で坂本龍馬を救った話は有名です。
当時の区画を残す街並みを歩けば高杉や伊藤博文が学び遊んだ寺もあります。しばらく行くと桂小五郎(木戸孝允)の旧宅があります。こちらは木造家屋に上がらせてもらえます。医者の子として生まれ幼い頃から聡明であった桂はやがて維新の三傑と謳われるまでになります。

お次はわざわざ海側に回って「道の駅 萩しーまーと」へ。道の駅というより魚市場のようです。いいお土産を見つけました。活けのサザエです。小サイズなら10個で1000円ほど。発泡スチロールの入れ物なら車で運んでも今夜まで保つとのこと。これは買いです。
来た道、萩往還を通って西の京、山口市へ。途中の道の駅では忘れずに大きな網に入った夏みかんを2袋買いました。家でしばらくのあいだ100%ジュースが楽しめました。


「花の山口」
文化 花咲く 西の京うるわし
瑠璃光寺には やさしき如来
新緑に包まる 五重の塔かな
ばりそば完食 汁も飲み干して

山口市の中心部にほど近い山すそ、瑠璃光寺に到着。緑風の中に見事な五重塔がそびえます。法隆寺・醍醐寺と並ぶ日本三名塔の一つ、さすがに優美なたたずまい。もちろん国宝です。後ろを取り巻く初夏の緑が輝いてその美を増します。遠目から真下からといくら見ていても飽きません。秋の頃にもう一度訪れたいものです。
優艶なる国宝で目の保養をしたのちは遅めの昼食。山口は瓦そばも有名ですが最近はばりそばの方が人気だそうで、元祖と言われるお店に向かいました。長崎の皿うどんに似ているのですが、皿うどんは細麺・とんこつベース・とろとろ餡ですが、ばりそばは中太麺・鶏がらベース・さらさら餡です。食べているうちに麺がふやけてバリバリ麺からツルツル麺に変わり、これもまた旨し。さらにポン酢で味変します。うーん満足満腹。
さて、帰途をたどりつつ最後の目的地へと車を走らせます。

2020年5月12日 (火)

場外乱闘②

タイムトラベラー矢原の新作です!

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「初夏の旅なつかしく ②」

こんにちは。国語科の矢原です。長い時を経て、ようやく第二章に入ります。さて、下関をあとにして今度は山口県の中央部、美祢(ミネ)市に向かいました。
駐車場に車を駐めたのはちょうどお昼ごろ。食堂や土産物店が並んでいますが朝食の海の幸でお腹がいっぱい、昼食は後回しです。
小径の脇の小川が澄んでいました。カエデの青葉を過ぎたところに橋が架かっていて、その向こうにぽっかりと大きな入り口が現れました。日本一有名な鍾乳洞、秋芳洞です。「しゅうほうどう」ではなく「あきよしどう」と読みます。洞窟はヒンヤリするとかで用意よろしく薄手のシャツを羽織っています。

「彫刻の谷間」
カルストの 丘の麓に現れし
岩の裂け目を たどりてゆけば
地下水が生み出す 作品の数々
秋芳の洞穴 アーティストの業

洞穴が延々と続いています。中は意外なほどに広く、いま改めて調べたところ広さ200m、高さ80mに達するところもあるそう。十数年ぶり二度目の探検です。
神秘の造形に改めて驚きつつ地下深くへ進むと不思議なことに山や湖のようなところがあります。奥の方にエレベーターがあって地上に出られます。のどかな丘の上は冷えた体に陽射しが心地よく、青い空と草の香りがある別世界。再入場できるので自然の彫刻が並ぶ洞穴を逆にたどって戻りました。


小腹が空いたので軽くお昼を摂って次なる目的地へ。食後のソフトクリームは夏みかん味、さっぱりします。
途中、萩往還という道を通りました。関ヶ原の戦いののち長門の萩に国替えさせられた戦国の雄、毛利家の殿様が参勤交代に使うのに切り開いた道だそうです。吉田松陰がその最期に江戸に送られたのもこの道です。道の駅にも夏みかんが大きな網に入れられてキロ単位で売られていました。味見してみて帰りに買うことに決めました。
着いたところは萩の松下村塾、この夜の宿も萩です。

「松の教え」
萩ゆきて松陰先生に会いきたり
至誠の教え 天下を変えし
玄瑞 小五郎 晋作を育て
竜馬 吉之助を疾らせたるか

親戚の叔父かたの庭先を借りて、わずか八畳ほど。まさに小屋と呼ぶべき建物に驚きました。天下に聞こえた塾はこんなにも粗末な造りだったのです。至誠を貫き、志を大切にした松陰先生の人柄が偲ばれました。萩ではただに「先生」というと、それは松陰先生のことだそうです。日本の新時代の土台を作った偉人。土地のかたの尊敬には並々ならぬものがあります。
近くの土産物屋の張り紙で夏みかんについて知りました。この辺りは日本の夏みかん発祥の地で、幕末から明治にかけて財政を救うために栽培が奨励され萩の名産となったそうです。ちょうど五月が実の最盛期で香りが広がっていました。時季に訪れた皇太子時代の昭和天皇は「町に香水がまいてあるのか」とおっしゃったそうです。

松下村塾のすぐ奥、吉田松陰を祀った松陰神社を参拝してから辺りを散策。伊藤博文の旧宅を見つけました。近くに吉田松陰の生誕地もあります。この辺りは萩の町外れ。身分の低かった二人の家があったのも頷けます。周囲のお宅の庭先にも夏みかんの実が揺れていました。
日が暮れてきたので予約していたホテルにチェックイン。温泉に浸かり、これまた魚介メインの晩ご飯をいただきました。
歴史の舞台、自然の絶景を巡った一日を終えました。旅の寝床では今ここにいる不思議を感じます。本州のほぼ西端で眠りにつきました。

2020年5月10日 (日)

国語科講師からのリレーメッセージ⑭「手紙」

第14弾は山添tr! ナウいヤングです。

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拝啓

 

 行く春を惜しむ間もなく汗ばむ陽気となりましたが、皆様いかがお過ごしですか。

 

 ブログの記事だというのになぜこのような手紙めいた書き出しにしたのかというと、それはこのたびの外出自粛中に鑑賞した、とあるアニメーション作品に触発されたためなのです。

 

 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』

 

 美しいタイトルにまったく名前負けしない、すばらしい作品でした。

 主人公のヴァイオレットは、幼いころから軍隊に所属し、敵と戦うための"道具"として生きてきました。そのため彼女は、感情を持たないまま成長してしまいます。戦争が終わり、彼女に残されたのは、自分を庇護してくれた上官ギルベルト少佐が最後に告げた「愛してる」という言葉だけ。しかし、感情を持たないヴァイオレットには、この言葉の意味が理解できませんでした。そんな中、彼女は「自動手記人形」という仕事に出会います。かんたんに言えば手紙の代筆です。依頼主の気持ちを、依頼主の代わりに言葉に代えて手紙を書く。この仕事を通して、ヴァイオレットは徐々に"愛"を知っていく‥‥‥。

 手紙の代筆で愛を学ぶ。すてきなお話だと思いませんか。電子メールやLINEなどのメッセージアプリが普及した今の世の中、わざわざ手紙を書く人は激減しました。かくいう私も、最後に手紙を書いたのはいつだったか思い出せません。たかだか二十数年しか生きていないのにもう記憶に残っていないとなると、子どものころに何度か書いたくらいで、ほとんど経験がないということなのでしょう。しかし先日、久しぶりに手書きの手紙をいただく機会がありました。普段のメールの何百通分もうれしい気持ちになります。やはりメールより紙の文書のほうが、それもできれば手書きのほうが、気持ちが伝わりやすい。

 それはおそらく、こめられた思いの差なのでしょう。LINEは便利で楽で、気軽に使えてしまいます。だから人は言葉に思いをのせることを忘れてしまう。手紙を書こうとするとなんだか気が重くなります。でもだからこそ、手紙には差出人の思いが強くこめられる。差出人は相手のことを考えながら文字をしたためて、封をする。物理的な封などではとても閉じふさげないその思いは、読まれたとたんに一気にあふれだす。さらにそれは周りの人々にまで響いていく。もちろんヴァイオレットにも。たくさんの人々の思いが彼女に響いて彼女の心を揺り動かしていく様子を、美しい映像と音楽で丁寧に描き出したこの作品に、私も心を震わせられました。

 

 手紙には書き手の強い思いがこめられる。その思いは現実とフィクションの垣根をも飛び越えます。小説の中には、登場人物が書いた手紙を連ねることによってストーリーを進めていくものがあり、これを書簡体小説といいます。書簡とは手紙の別の言い方です。小説でも、手紙の形にすることで手紙の書き手の心理をありありと描き出すことができるのです。

 例えば、ドイツの文豪ゲーテの『若きウェルテルの悩み』。青年ウェルテルが婚約者のいる女性シャルロッテに恋をし、叶わぬ思いに絶望し自ら命を絶ってしまう物語です。主に主人公ウェルテルが書いた手紙によって構成されています。この本は出版当時ヨーロッパでベストセラー となり、この本に影響された若者たちがウェルテルをまねて次々と自殺するという事態にまで発展しました。それほどに、手紙は書き手の思いを読み手に届けるのだ、といえるかもしれません。

 ほかにも有名どころでいえばイギリスの作家メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』があります。あの四角い縦長の顔をした怪物の絵や写真を、だれもが一度は目にしたことがあるはずです。しかしその原作小説を読んだことのある人は案外少ないのではないでしょうか。この本も、冒頭はウォルトンという青年が姉に宛てて書いた手紙から物語がはじまります。読んでみると分かりますが、実はこわいというよりとても悲しいお話です。興味があれば読んでみてください。ちなみによく勘違いされますが、あの有名な怪物は「フランケンシュタイン」ではありません。「フランケンシュタイン」とは怪物をつくった博士の名前です。あの怪物に名前はありません。

 

 このように手紙についてあれこれと考えているうちに、なんだか私も手紙を書きたくなってきたのです。そしてちょうど今回、ありがたくも皆さんにメッセージをお伝えする機会をいただきました。ブログという形ではありますが、私なりに皆さんへの精一杯の思いをこめてしたためます。いつも希学園で元気にがんばる姿を見せてくれて、ほんとうにありがとう。君たちの一生懸命勉強している姿に、私はいつも励まされています。君たちのおかげで、私もがんばろうと思えるのです。自分のしてきた努力に誇りをもってください。私の小学生のころなど、君たちの足元にも及びませんでした。いや、もしかしたら今でも及ばないかも。学びや努力を楽しむことができる君たちは、私にとってはあこがれの存在です。今はカメラ越しにしかお会いすることができませんが、また教室で元気に学ぶ姿が見られることを楽しみにしています。そしていつか皆さんに、今度はちゃんと手書きの手紙を送る機会があればいいなあと心から思います。

 皆さんも、だれかに思いをこめた手紙を書いてみてはいかがでしょうか。友達でも、家族でも、普段は会えないおじいちゃんおばあちゃんや親戚でもかまいません。人との接触を避けなければならない今、大事なのは人と人とがコミュニケーションをとることです。言葉で思いを伝え合うことです。手紙は今は会えない人と人を結んでくれます。実際に会うよりもずっと強く結びつけてくれます。手紙を一通書くだけで、国語の授業何時間分も人として成長できると思います。ぜひ一度、相手のことを思って、じっくりと丁寧に言葉を紡いでみてください。

 

 では、また授業でお会いしましょう。

 

                                                 敬具

  令和二年五月五日

                                               山添唯斗

希学園塾生の皆様

 

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