« 2011年5月 | メイン | 2011年7月 »

2011年6月の5件の記事

2011年6月30日 (木)

変なぜいたく(光年のかなた④)

この『国語マニアックス』というブログを始めて1年半ほどになります。

このブログの本来の趣旨といいますのが、塾生・保護者のみならず、一般の方にも希学園の講師の顔を見えるようにするというんでしょうか、講師の人柄にふれて親しみのひとつも持っていただきたいということでした。まさかブログを読んで入塾を決めるような人はいらっしゃいますまいが、塾選びをされる際にほんの少しでもプラスに働くとええのう、うっしっしっ、という不純な動機もありました。

そういった下心から学園長に「というわけでブログをやりたいでござる」と具申したところ「いいよ」という寛大な許可がおり、始まったのが1年半前です。

しかしそれにしても、はたしていったいどれくらいの人がこのブログを読んでくださっているのでしょうか。

新しく入塾された方が、「いやー、以前からブログを読んでいけてるなあと思ってました」なんておっしゃっていたというのは聞いたことがありません。

たまに保護者の方や卒塾生から「ブログ読んでいます~」と声をかけていただくことがあり、たいへん励みになっていますが、まあ、たまにです。

どちらかというと内輪受けというのでしょうか、社内の人間がうはうは笑いながら読んでいるというケースが目立つような気がします。

「おっ、ブログ読んでますよ、あの話ほんまでっか」

「Oui!」

「あほでんな」

などという会話が社内でかわされたりしています。しかし、よく考えてみると内輪受けのために始めたブログではないわけです。こんなことでは本来の趣旨にまったくそぐわないため学園長から打ち切りが宣告されてしまうのではないか・・・・・・といった危機感が若干生じ始めている今日この頃です。

そして実は、もうひとつ、懸念していることがあります。

ご存じのようにこのブログは国語科講師3人で書いているのですが、メンバーを選んだのは私です。私がオールジャパンの合宿に連れて行く選手を決めるような心境でメンバーを選定し、山下先生と栗原先生にお願いしたわけです。

一応の心づもりとしては、博覧強記の山下先生がいわば知性担当、真面目で善良な栗原先生が良心担当って感じでした。いや、なかなか悪くない人選だったと思いますね。

ところが、最近になってふと頭をもたげてきた疑問が、俺は何担当なんだ?ということです。よく考えたら最近の俺は、貧乏の話とか風呂に入っていなかった話しかしていないわけです。

前にも少し書きましたが、「このにしかわという人はいけてないんじゃないか」などという噂がたってしまうと、クラス替えで僕のクラスになった子どもが「びんぼうがうつる~」と言って泣きだしてしまうかもしれません。

というわけで、実はここまでが前置きだったのですが、今日は少し国語講師らしい話から始めてみたい!

◆◇

先日(結構前になりますが)授業で扱った問題の中に、

「変なぜいたく」とはどのようなことをさしていますか

という設問がありました。

希学園では、このような「意外性をふくんだ内容について説明する記述」は、

・・・・・・のに・・・・・・こと(から)。

というかたちで書くよう指導しています。

国語の得意な子は言われなくても自然にそういうかたちで答えをつくるのですが、苦手な子にはこの感覚がないので、なぜこのかたちがいいのかをきちんと説明したうえで「型」を覚えさせるのが有効です。

そこで「こういう設問にはこういう型」というように整理して教えているわけです。

さて、それはともかく。というわけで、ここからが本当の本題になるわけですが、「変なぜいたく」ということで思い出したことがあります。

寮で暮らしていた極貧時代、ついにパンの耳にマーガリンをつけて食べるようになっていた頃、にもかかわらず妙なぜいたくをしていたなあと。

変なぜいたくその1

紅茶です。きちんとしたティーメーカーとティーカップを買って、フォートナム・メーソンのアール・グレイを飲んでいました。ティーカップはフィンランドのアラビヤというメーカーが出していたルスカというシリーズのものです。今は亡き天才デザイナー、ウラ・プロコッペのデザインでした。う~ん、パンの耳と両立しない、意味不明のぜいたくぶり。

変なぜいたくその2

ヨーグルトです。ヨーグルトがあまりにも好きであるため、ヨーグルトメーカーを買って、つくって食べていました。一度ただのヨーグルトではなく、なんというのでしょうか、ヨーグルトケーキといいますかそういうものをつくろうと思い、みかんの缶詰だのゼラチンだの買い込んできたことがありました。しかし、ゼラチンをどのぐらい入れるのが妥当かよくわからず、おまけに物知らずの私は、ゼラチンを入れたあと冷やさないとかたまらないということも知らなかったため、おっかしいな固まらねえなと呟きながら大量にゼラチンを投入してしまい、かちかちのケーキが出来上がってしまいました。あまりの固さにスプーンが入らなかった・・・・・・! 泣けました。

それにしてもあのパンの耳・・・・・・。サンドイッチをつくったときに残った耳だったのか、ときどき萎れたレタスの切れ端が入っていたなあ。なんだか香りまでよみがえってくるようです。

つづく。

2011年6月23日 (木)

光年のかなた③

じめじめしとしと梅雨がつづいておりますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

僕が大学に入った4月も、穀雨というのでしょうか、ずっと雨が降っていました。日照時間が少なくて寒かった覚えがあります。

音楽なしでは生きていけないと信じていた僕が大学に入ってまず購入したのはミニコンポでした。押しの強い店員に勧められるのを断り切れずに選んだものなので、今思い出してもあまり良い買い物じゃなかったですね。音も良くなかった。在仙生活の終わり頃には、くり返しチョップしないと音が出ないようになっていました。そのときのくせで、今でも調子の悪い機械はチョップしたくなります。会社から貸与されているノートパソコンも、反応が鈍いとどつきたくなるんですが、今のところ理性が勝って何とか持ちこたえています。

寮から大学まで歩くと片道1時間前後かかるので自転車を買うつもりでいたのですが、ミニコンポを買った直後に、自転車購入資金だった3万円が消えました。どこに消えたかよくわかりません。落としたのか盗られたのか、とにかくなくなっちゃったんです。自転車はあきらめざるをえませんでした。

そうして僕の苦難のキャンパスライフを象徴するような、徒歩通学の日々が始まったのです。

いやあ! 1日1食で毎日2時間歩くと痩せますねえ! 1ヵ月で8キロ体重が減りました。

寮の風呂に入るたびに、体重計の目盛りが500グラムずつ減っていくのがおもしろくて、結局、夏休みまでに13キロぐらい痩せたと思います。

風呂といえば、寮の風呂があなた。もうたまりませんよ。入浴時間が6時~10時なんですが、8時を過ぎると浴槽のお湯が豚骨スープなんです。入浴剤のせいでなく白濁してます。寮生200人弱。みんな汚いですからね。それが次々にザブンドボンとつかる浴槽ですから、あっというまに良いダシが出ちゃってねえ。入った方が汚れるやんけ、と思いました。

そんなわけで当時風呂に入るのがいやになり、しばらく入らなかったことがあります。

何日間入らなかったか?

それは言えません。それを書くと、保護者の方が僕と懇談してくれなくなる可能性があるので。あの、今は入ってるのでだいじょうぶです。

えーと、それはともかく、とにかくすごく痩せたわけです。

夏休みに帰省したとき、父母に嫌そうな顔で「貧相になった、みっともない」と罵倒され、その夏はひたすら食わされました。

そもそも寮は2食付きだったんですが、大学に入ってまもないというのに、僕は、決まった時間に朝飯を食べることができない体になってしまっていました。目覚ましが鳴って、ああ、早くご飯を食べに行かなければと思うんですが、なかなか起きられないんです。そこをぐっとこらえて必死で寝床から身を引き剥がし、ふらふらしながらなんとか食堂にたどり着き、やっとの思いで朝ご飯を食べている・・・・・・ところで目が覚めちゃうんです。当然、そのときはすでに朝食タイムが過ぎ去っています。それですぐに朝食費を払うのはやめました。

夢は願望充足だ、というフロイトの理論は僕にとっては実にうなずけるものでした。

さて、そんなわけで、朝飯抜きで1時間歩いて学校に行きます。

午前の講義が終わったあたりがいちばんつらいです。みんな生協に昼ご飯を食べに行くんですが、僕は昼飯代をけちって、何も食べずベンチに転がっていました。

午後の講義のあと、用もないのに街中をうろつき、低血糖状態で寮に戻ってきてご飯を食べ風呂に入ると、もうすることがありません。いや、勉強すればいいんでしょうけれど、そこは何といいますか、大学生ですからね!

もちろんテレビもないので、ひたすら音楽を聴いてました。シベリウスの『悲しき円舞曲』とか『トゥオネラの白鳥』とか、そういう暗いやつです。

えもいわれず陰気なキャンパスライフの始まりでした。

青春が明るいものだなんてだれが言ったんでしょう。

青春とは憂鬱なものです。

僕だけっすか?

ちっ。

                                            つづく。ちっ。

2011年6月16日 (木)

現物がコンコロリ

「前回のつづきでとりとめもなく」というスタイルで書き続けているので、大岡越前のつづきです。子どもをめぐって、二人の女性が母親であると名乗り出て争うという有名な話があります。大岡越前は二人の女性に子供の手の引っ張り合いをさせるのですが、痛さのあまり泣き叫ぶ子どもの声を聞いて手をはなした方を本当の母親だと認定します。

……これも無茶苦茶な話ですよね。腕がちぎれそうになる子供をかわいそうに思って手をはなすのが本当の親だと決めつけてよいのか。本当に自分の子どもであるにもかかわらず、引っ張って自分のものにすることができなければ一生はなれて暮らさなければならない、それぐらいならたとえここで腕がちぎれようと、なんとしてでも自分のものにしなければならない、と思う母親はいないのでしょうか。どちらがよいか悪いか、ということではありません。ひとの心を決めつけられるか、ということです。大岡越前は、本当の愛情があれば、自分のエゴを優先させず、子どもの幸せを考えるはずだと思ったのかもしれません。ただ、ひとの心を一面だけでとらえて、こうであるはずだ、なんて決めつけるのは「おごり」以外のなにものでもないと思うのですが。

本来、日本の文化ではこういう決めつけはきらうようで、大岡越前の名裁判も中国の話を下敷きにして作られたものが多いようです。勝手に決めつけたりしない、世の中は○と×だけでなく△もある、人それぞれの考えがあるのだから相手の心を気づかうことを優先しよう、という日本文化は特異なものなのでしょう。

たとえば、パソコンのような「ろくでもないガラクタ」を売ってしまうのはアメリカならでは、という感じがします。本来なら売ろうとは思わない、というより売ってはいけないものですから、もしパソコンが日本で発明されていたなら、いまだに開発途中でしょうね。日本人なら、こんな欠陥商品に値段をつけて売るような「あこぎ」なことは絶対にしないでしょうな。作業中にフリーズすることがあるような段階で商品として売り出そうとする神経はどうなっているのでしょうか。フリーズなんて、原則的にはあってはならない状態です。自動車の運転中にフリーズするとしたら販売はありえないでしょう。バグりまくるテレビをだれが買いますか。にもかかわらず、パソコンだけが、そんな未完成の状態で売られています。さすがにこれにはクレームをつける人も多いようですが、売り手側としては「ユーザーとともに開発していく」という、ねぼけたことを言って正当化しているそうです。それなら、ユーザーにも利益を還元しろよ、と思います。ほんとかどうかは知りませんが、ビル・ゲイツの邸宅の敷地面積が大阪市ぐらいとかいうのを聞くと、そのうちの淀川区ぐらいはユーザーによこせ、と言いたくなります。USJがあるので此花区でもよしとします。

でも、いつかはパソコンもクレームをつける人がいなくなるときが来るのかもしれません。「毀誉褒貶世の習い」と言いますし。……ちょっとちがいますか。ただ、最近のマスコミの無責任さは目に余るものがありますね。もともとマスコミというものがそういう性質を持っているのでしょうが、持ち上げるときには思い切り持ち上げて、落ち目になった瞬間バッシングの嵐です。ホリエモンとか亀田兄弟とか、ひどかったですね。朝青竜なんて、意図的に悪役をつくりあげ、みんなで攻撃しようという、現代の悪しき風潮の象徴のようでした。開発された当初は夢の化学物質と言われたのに、今は完全に悪役に成り下がったフロンガスと同じです。

かと思うと、マイケルジャクソンは、逆に死んだとたん、ほめちぎっていましたな。生きてるときにほめたれや。マスコミ、てのひらを返しすぎです。政治家に対してもそうですね。最近の総理大臣すべて、なった瞬間マスコミは派手に盛り上げようとしたくせに、ちょっと失敗するとボロクソにこきおろして、それが国民の総意であるかのように言います。本当にそうなんですかねえ。テレビのワイドショーで取り上げている話題でも、「おまえたちだけが盛り上がってるのとちがうの?」とつっこみたくなることが多いような気がします。ひところ「盛り上がった」のりピー騒動なんて、ひどかったですね。どのチャンネルもそれのみでした。そんなに騒ぐほど、その「のりピー」って人は大スターだったのかなあ。その点、サンテレビは偉大でした。どんな大事件があっても野球中継をつづけ、昼間は古い時代劇の再放送、というスタンスをくずしません。ポリシーがあります。素敵やん。

要するに、日本全体の幼児化現象を批判すべきマスコミが最も幼児化してしまっているのですな。視聴者のほうがまだましです。マスコミが年少組なのに対して、一般人は年長さんです。だからテレビ離れが起こるのも必然でしょう。いまでも本当におもしろい番組なら視聴率はかせげます。「JIN-仁-」などはそのよい例でしょう。マンガが原作だし、設定も安易ですが、ツボを心得ています。それにひきかえ、紅白歌合戦の低視聴率などは、当然といえば当然でしょう。いまのようなパーソナル化の時代にターゲットを拡散しすぎているから、だれも見なくなるのだろうな。背の高い人も背の低い人もお客さんとして来るのだから、その中間の大きさのベッドを用意しました、というやり方ですね。

テレビが娯楽の王様だった時代は終わっているということに気づいていないのは、テレビの制作者だけなのかもしれません。ひょっとして気づいているのかな、やたら再放送ばかりしているのは、新しいものをつくる力がなくなってきたのか、お金がなくなってきたのか。元気なのは通販番組のみです。ただ、これもそのうち飽きられてくるかもしれません。あとは、画像が3Dになって、さらに「物質転送装置」が開発されることを期待しましょう。通販番組で立体的にうつしだされた商品をほしいなと思ったら、画面横のボタンを押すと、物質転送装置から現物がコンコロリと出てくるのです。はやくそうなってほしいな。ラーメンなんか、出てきた瞬間、汁がこぼれたりなんかして。

2011年6月 9日 (木)

光年のかなた②

みなさんは「学生寮」で暮らしたことがありますか。

僕は大学の初めの2年間を教養部生専用の学生寮で過ごしました。

T北大学には学生寮がいくつかありまして、僕としては、「比較的新しい鉄筋コンクリート建てで、しかも完全個室であるM寮」に入りたかったんですが、くじ引きか何かわかりませんが選考にもれて、「築三十有余年の木造2階建てで、しかも二人部屋であるところの有朋(ゆうほう)寮」に回されました。消防署の「早く建て替えろ」という再三の勧告を無視し、大学当局の「建て替えてあげようか、鉄筋コンクリートに、プライバシーが守られる一人部屋に」という誘惑も頑強に拒んで、草茫々の敷地内に泰然として屹立する古式ゆかしい質実剛健な自治寮でした。

つまり、汚い寮でした。

隣接する中学校の先生が授業中、窓から我が三神峯(みかみね)有朋寮を見下ろし、「見たまえ諸君、まるでゴキブリホイホイのようではないか」と言ったとか。

なにい。寮がゴキブリホイホイなら、わしらはゴキブリか? 

悔しいが言い得て妙だ。

そんな寮ですから、遠くから初めてこの木造の細長い建物を望んだとき、「あれは養鶏場かな? 寮の近くに養鶏場があるのかな?」と一瞬思ってしまったのも無理からぬことです。

近づくにつれて養鶏場ではないらしいとわかってきたものの、「倉庫かな? 倉庫だよね?」という希望的観測を捨てることがなかなかできませんでした。

やがてすべてが理解され、その養鶏場のような倉庫のような時代錯誤な建物のそばにたどり着いたときには、ものを考えるのもイヤになり、「ここに2年間住むのね」という情けない諦念だけが頭の中をぐるぐるしているのでした。

しかし、そんな僕がはるか後年、寮が取り潰されたあとの更地を見て茫然自失、寂しさのあまり不覚にも落涙することになろうとは。寮とは不思議なものです。

寮にはいくつかのサークルがあり、寮生は必ずいずれかのサークルに所属することになっていました。サークルといってもいわゆるテニスサークルなどのような活動をするわけではなく、言ってみれば「班」ですね。ただ、人数を均等に割って第何班というふうに分けられるのではなく、ちゃんとサークルの特徴やメンバーを紹介した冊子を渡され、自分で所属したいサークルを選べるのです。

僕は『砂時計』という名前のサークルに所属することになりました。なぜそこを選んだかというと、入寮が遅かったため、人気のあるサークルが埋まってしまい、人気のなかった砂時計を寮委員長に勧められたからですね。要するに、僕としてはどこでも良かったわけです。

委員長といえば、入寮する際には、ちゃんと委員長による面談がありました。「この寮は学生による自治寮です」と言われたことしか覚えていませんが。そして、自治寮というのはつまり何を意味するのかということもよくわかりませんでしたが。

自治寮とはいえ、大人(つまり学生でない人)がいなかったわけではありません。

まず、公務員炊夫さんが3人いて、当番で宿直を務めてくださっていました。この炊夫さんたちのことを考えると本当に今でも頭が下がります。仙台弁で「おじんちゃん」と呼ばれていましたね。

それから、炊事の手伝いをしてくれるパートのおばんちゃんがいました。

最後に、寮内の清掃をしてくれる方がいました。雨の日なんか、何も考えていない寮生が自転車やバイクで帰ってきて、水をぽたぽた垂らしながら廊下を歩くので、この痛ましい木造建築を守るために、ひたすら油をひきまくってくださっていました。だから、寮の廊下はやけによく滑りました。

しかし、この人たち以外にいわゆる大学から派遣された寮長のような存在はおらず、寮費の管理から何からすべて寮生が運営していました。上述した寮委員長というのも寮生です。寮委員会には、委員長=BOSS、副委員長=SUB、会計幹事=GEL幹、厚生委員、あと何でしたかな、庶務みたいなのと印刷係みたいなのがいました。委員長と副委員長が同じ部屋で、あとは各委員が二人ずつ同じ部屋になります。委員会は、BOSSの名前を冠して「◎◎内閣」と呼ばれ、任期は4ヵ月でした。

僕は確か「第99期山田内閣」の厚生委員だったと思います。第98期だったかな? よく覚えていません。いずれにせよ、当時、寮は築32年だったということですね。

厚生委員の主たる仕事はトイレットペーパーの配備です。これを怠ると、深夜でも容赦なく「厚生! トレペねえぞ!」という怒声でたたき起こされます。敵は必死でお尻をおさえ便意をこらえながら厚生委員の部屋まで怒鳴り込みに来ている状態ですから、相当真剣に怒っています。したがって口ごたえは許されません。僕はうっかり者で忘れん坊なので、よく怒鳴られました。

寮生(尻をおさえながら)「ふざけんなよ、西川、てめえこの前も忘れてただろう!」

ぼく(目をこすりながら)「そういうきみはこの前も夜中にうんちに行ってたねえ」

などという牧歌的な場面がよく展開されていました。懐かしいなあ。

トイレットペーパーの備蓄がなくなると大学の本部にもらいに行きます。巨大な段ボール箱につまったトイレットペーパーを運ぶので、このときだけはタクシーに乗ってもよいということになっていました。もちろんトイレットペーパーをゲットした帰りだけです。領収書をもらって、ゲル幹のところに持っていくと、お金をわたしてくれるのです。

ゲル幹というのはかなりしっかりしていました。なんせ膨大な額の寮費の管理をしていましたから、有能でないと務まりません。任期の終わりにはちゃんと会計監査が入るのです。監査役ももちろん寮生です。1期前のゲル幹と2期前のゲル幹、合わせて4人が監査をするのですが、これが大仕事です。2晩ぐらいやってたんじゃないかな。へとへとになってました。

厚生委員時代、よく隣のゲル幹部屋に遊びに行きました。どの部屋も基本的に鍵らしい鍵はついていないのですが(下手につけようものなら破壊される)、ゲル幹の部屋だけ立派な鍵がついていました。

なぜなら大きな金庫があったからです。ゲル幹が金庫を開けるときは、必ず部屋から追い出されるので、中を見たことはありませんでしたが、どうも500万ぐらいはあったらしいです。

「万が一、寮が火事になったらどうするか?」

先輩が、ゲル幹の心得を教えてくれたことがあります。

「壁を破壊して金庫を外に放り出すんだ。こんな薄い壁すぐに壊れるからな。」

なんせ油をひきまくっている木造建築ですから、火がついたら、3分程度で燃えつきるだろうと言われていました。重たい金庫を持ち出す暇はない、ということですね。それにしても、そんなすぐに壊れる壁で大丈夫なのか? 鍵をつけても意味ないのでは?

「こんな汚い寮のこんな汚い部屋に500万あるなんて、誰も思わないだろ?」

まあ、そのとおりなんですが、さてそれでは、そんな汚い寮の汚い部屋にどうしてそれほどの大金がうなっていたのか?

実は、寮って、泊まれるんですよね。すごく安く。

もちろんふとんは煎餅だし、汚い大部屋ですが、一応泊まれるんです。で、相当昔に、がんがん他の大学生を泊まらせて儲けたらしいんです。当時の厚生委員で、後にT北大学の教授になった人が、そう自慢していたそうです。

が、僕が厚生委員になった頃には、そのようなことは全然ありませんでした。厚生委員の仕事はトレペの配備。あと、クリーニングの受付というのもありましたが、すでに有名無実化しつつありました。

それでも厚生委員になったときに業者の人から「これでジュースでも飲んでよ」と500円わたされ、激しく思い悩んだ記憶があります。

「これがあの有名なリベート・・・・・・」

こうして人は穢れていくのか、と本気で考えて悶々としました。

あの500円はどこにいったのかなあ? しばらく机の引き出しにしまっていたんだけど、たぶん極貧に陥ったときにつかっちゃったにちがいない。

そうやって僕は穢れてしまったんですね(>_<)

          つづく。

2011年6月 1日 (水)

ソコソコ

西川先生は「徹底」ということばが大好きであると以前のたまわっておりました。

その言動をつぶさに見ていて、うなずける面も多いわけです。

山登りにしても、映画にしても、音楽にしても、その徹底精神はいかんなく発揮されているようです。

その反面(対比の目印というやつですね。今ベーシックで教えているところ)、私は。

たとえば、映画が趣味とは言うものの、

アラン・タネールなんて通なカントクの名前など知りませぬし、

そもそも「ハリウッド」「ロードショー」「ハッピーエンド」の三つが基準ですから、

「映画通」だなんてとんでもなく、単にちょっと映画が好きなおっさんです。

他にも、将棋が趣味とこのブログの紹介にも書いているくせに、

せいぜい自称アマ初段の腕前。

ケータイのアプリの将棋ゲームを電車内でやっていたり、NHKの将棋トーナメントを毎週録画してほほーっとなっている程度。

「徹底」にはほど遠いわけです。

私は「美術の先生」になるべく、教員養成系の大学に進んだ訳ですが、

肝腎の作品制作はほとんどせず、大学に行ってはトランペットを吹いていて、

すっかり音楽科の学生だと思われていたようなのです。

しかも、学生時代から「塾の先生」でもあったので、スーツを着て大学に通い、

いつも「こいつは何者じゃ」のような顔で見られていました。

「大学に入ったら、古いジーパンとTシャツを着て油絵の具と木炭にまみれ、

食パンの耳をみちみちとかじっているかっこいい貧乏学生になるのじゃ」

という夢も、その夢にぴったりすぎる汚い大学の校舎をみてすっかり萎えてしまいました。

貧乏な暮らしも経験したのですが、西川先生のような「赤貧」を経験したでもなし。

バイトも結構いろいろやったんですが、人に聞かせるエピソードもなし。

幅広く器用だがそれまで。

「徹底」の二字は私にはないのであろうか。

……とここまで書いてみて、実はそんな生ぬるい自分が大好きであることに気づきました。

深淵を覗くのがこわいんですね。何かを究めようとすると、とてつもない苦労が待っているような気がして。

「徹底して」、幅広い「そこそこ」を目指すぞう!

オチもそこそこでした。

このブログについて

  • 希学園国語科講師によるブログです。
  • このブログの主な投稿者
    無題ドキュメント
    【名前】 西川 和人(国語科主管)
    【趣味】 なし

    【名前】 矢原 宏昭
    【趣味】 検討中

    【名前】 山下 正明
    【趣味】 読書

    【名前】 栗原 宣弘
    【趣味】 将棋

リンク