2011年12月22日 (木)

入試対策に突入

いよいよ明日から6年生は入試対策に突入です。

毎年のことではありますが、12月~1月はこのブログの更新が滞りますが、ご容赦ください。

そしてこれも例年どおりのことではありますが、

え~楽しみにしてるのにィ!

という声のあがらないところが、このブログの良いところというか残念なところというか、まあ、そんなところです。

と思わせておいて実は! これまでの反省をいかして、事前に若干書きためてあったりして。

ふふふ。というわけで、それをたまに小出しにしていきたいと思っています。

◇◆◇次回以降予告◇◆◇

「本格サスペンス、点と線、そして面」

「N川和T・ダイエットの軌跡~その壮絶な体重増減の歴史をたどる~」

などなど、続々掲載予定!

予定は未定!

2011年12月10日 (土)

さんぞくのわらじ

問いかけの意味が明らかなようでありながら、いくつかの解釈ができてしまうことがあります。「希学園では何人の子どもが勉強しているのですか」と聞かれたら「希学園には何人在籍しているのか」の意味ですが、「そうですね。だいたい5%くらいかな」という「まぬけ」な答えが出てくるかもしれません。問いのどこに重点があるかの解釈のちがいですね。「希学園には何人」に重点があると解釈すれば在籍者数を答えるでしょうが、「何人が勉強」に重点があると解釈すれば、真剣に勉強している人の数になります。

これを応用すると、「ナポレオンは赤いズボンつりをしていた。なぜか」という問いになります。「赤い」ということばがあると、それにミスリードされて、なぜ「赤」なのだろうと考えてしまいますが、答えは「ズボンがずれないようにするため」というもので、「赤」にはたいして意味がないのですね。国語で問題を作るときにも、こういうことが起こります。「ズボンがずれないようにするため」を模範解答にしているのに、「ナポレオンは赤い色が好きだったから」という答えを書く人が出てきて、採点するときに困ることがあります。まあ、ほとんどの場合は文脈からそういう答えは認められないということになるのですが、たまには別解として認めなければならない場合も出てきます。

六年生の女の子が質問として持ってきた問題で、「『チョメチョメ(  )』の(  )に適当なことばを入れて、言い回しを完成させなさい」というものがありました。答えは(  )の中にはいる「ペケペケ」ということばだけになっているのですが、その子は「チョメチョメペケペケ」と答えているのですね。解答欄に書くことばとしてはちがってくるので×なのでしょうか。問いは「言い回しを完成させなさい」なので、その子は完成したことばを書いたのです。これなどは、問い方があまいのであって、×にすることはできませんね。

「なぜ」「どうして」という問いも困ったものです。原因・理由だけでなく目的を答えてもよい場合があるのですね。「君はどうして学校へ行くの」は「行かないと叱られるから」「立派な人間になるため」のどちらもありです。原因・理由にしたって、「義務教育だから」「友だちと遊ぶのが楽しいから」「給食が食べられるから」など、何を基準とするかによって、いろいろ出てきます。中には「歩いて」という答えもあります。この答えを防ぐには「どうして」ではなく「なぜ」と言っておけばよいのですが。それでも「学校が来てくれないから」というすごい答えもあります。

「どうして交通事故が起こったのですか」「車が発明されたからです」という、「ごもっとも」という答えを書かれたら、採点者も困ります。「どうして車が発明されたのですか」「人類が文明をつくったからです」「どうして人類は文明をつくったのですか」「人類が猿から進化したからです」「どうして…」とさかのぼるうちに、「宇宙が誕生したから」というところまでさかのぼれるのですね。ということは、国語のどんな問題でも、根本的原因は「宇宙の誕生」ということになります。「どうして、主人公はこんな気持ちになったのですか」「宇宙が誕生したから」…。哲学的ですな。「そうでなければ」でごまかす手もあります。あたりまえすぎて答えにくいような問いの場合には有効です。「どうして人は食べるのですか」「食べなければ死んでしまうから」というパターンです。これも、だんだんめんどくさくなると、ひどい答えも出てきます。「おかあちゃん、なんで夏は暑いの」「うるさいな、この子は。寒かったら冬とまちがえるがな」…大阪のおかあちゃん、おそるべしです。

とにかく二通りに解釈されないようにするというのは、意外に難しいようです。読売テレビのアナウンサーに道浦俊彦という人がいて、この人のことばの感覚はすばらしいなと感心させられることが多いのですが、ブログでこんなことを書いておられました。ある直木賞作家の文章です。「平太が会社を出たのは、ちょうど六時四十五分だ。代々木駅まで歩き、四ツ谷で中央線に乗り換えた平太が新幹線のホームに辿り着いたのは、七時二十分前。」という文を引用して、ここの「七時二十分前」がいつを意味しているか、ということをとりあげているのですが、おわかりでしょうか。私などは、「六時四十分」以外考えられないのですが、最近の若い人はどうなのでしょうか(「近ごろの若い者は…」の口調になってしまったのがかなしい)。これ、実は「七時十八分頃」の意味らしいのですね。というのは、出発した時刻が「六時四十五分」ですから、「六時四十分」ということはありません。つまり、「七時になる二十分前」ではなく、「七時二十分の前」ということで、「七時十八分頃」を表しているのです。道浦さんは「私より少し若いぐらいの年齢の直木賞作家がこの使い方をするのだなと思って、ちょっとビックリしました」と書いておられましたが、たしかにまぎらわしい言い方です。

ちなみに、同じブログに、学園長のことを取り上げた新聞記事について触れている文章があります。記事には、「黒田耕平さん(36)は講師250人を率いる『運営責任者』であり、週4日は算数の授業を受け持つ『看板講師』でもある」として、「有名塾のトップとして経営実務をこなし、看板教師として授業や数多くの講演に立つ。多忙な二足のわらじも『子どもをぐいぐい引っ張るのはパワーがいる。30代の今だから、まだできる』と意に介さない。」と書いてあります。道浦さんが取り上げているのは「二足のわらじ」ということばの使い方です。「運営責任者」と「看板講師」で「二足のわらじ」と表現するのは、私の語感でもなんだかなあという気がします。「塾の運営責任者」で「漫才師」とか、「看板講師」で「占い師(さあー、手相はいかがでしょーか)」というのであればともかく、「プレイングマネージャー」は「二足のわらじ」ではないでしょう。「塾の運営責任者」でありながら、山の中で追いはぎをするのなら「さんぞくのわらじ」ですが。あちゃー、駄洒落で終わってもた。

2011年12月 4日 (日)

月食まにあっくす

ご無沙汰しております。栗原です。

少年時代に天文学を志していたこともあって、いまだに夜昼を問わず空を眺めるのが好きです。

宇宙戦艦ヤマト→銀河鉄道999→スターウォーズ→ガンダムの世代ですので、宇宙には格別のロマンを感じるわけです。

なのになぜか、あの「はやぶさ」では盛り上がれませんでした。なぜでしょう。まったくもって自分が分かりません。

今回の記事の目的はshine「緊急告知!」shineです。

来たる2011年12月10日は、

全国的に皆既月食fullmoonnewmoonfullmoonが観測できるのです!!!!

しかもしかも。

  ① 土曜日! (小学生が夜ふかししても大丈夫)

  ② 食の始まりが21時台で皆既は23時台! (夜中や明け方でないベストな時間帯)

  ③ 雨の少ない冬!(今年6月11日の月食は明け方かつ梅雨だった)

という、まれにしかみない、またとない好条件なのです。

これに近い条件は2018年1月までありません。6年後なのですね。

ここはぜひにぜひに、皆既月食という天文ショーを親子でみて頂きたいっ。

望遠鏡など要りませぬ。双眼鏡があるとなお楽しいですが。

ついでに正しい望遠鏡の選び方を。

①倍率で選ばない!どちらかといえば口径の大きさで選ぶ。

 200倍以上!などの高倍率をうたっているものはまずダメannoy

 解像度の低い写真を拡大コピーしたと思って下さい。見られたものではありません。

 レンズ・鏡(光学系といいます)が精密で、高品質なものがよろしいです。

②架台が課題!グラグラするものは使えない。

 星や月は動くものなので、安定していて、かつ、調整のしやすい三脚が必須です。

③大がかりなものは逆に使いにくい。倉庫に眠ってしまう……。

 星を見よう!と思ったらすぐに出して使えるのがいいに決まっています。

というわけで、私がお勧めするのは(多くの天文マニアの皆さんと同じになるはずですが)やはり双眼鏡です。レンズの口径が5センチ以上であればベストです。倍率は8~12倍程度。

12倍でも、月はかなり大きく見えます。クレーターなどをくわしく見たいのであれば、40~50倍は必要ですが、そうなると手で持ったままでは揺れてとてもとても見えません。やはり三脚に載せた望遠鏡が必要です。

携帯のカメラでは、月食は撮影できてもとても小さいものになります。

せっかくの数年に一度のショーなので、温かい格好で、空をじっくり見上げて目に焼き付けてみてはいかがでしょうか。

2011年11月28日 (月)

睡眠および夢について

なかなか熟睡できません。

寝る前にみかんを3つぐらいぱくぱくぱくと食べてしまって夜中にトイレに行くはめになるため、というだけでなく、年老いるにしたがって、長時間ぐっすり眠るということができなくなりつつあります。原因をいろいろ考えていますが、ひとつに、寝返りの問題があるような気がします。

ずっと同じ向きで寝ているとからだに負担がかかるため、ふつう眠っているあいだに人は頻繁に寝返りをうつそうですが、どうもこの寝返りが上手にうてないというか、そもそもあまり寝返りをうっていないみたいなんですね。で、からだに負担がかかってこれはどうでも寝返りをうたなければならないという点までやってくると、目がさめてしまいます。要するに、眠ったまま寝返りをうつのが下手ということですね。

これは大学時代にシュラフで寝ていたせいかもしれません。ご存じのとおり寝袋は狭いですからいつも窮屈な姿勢で、ツタンカーメンみたいな感じで眠っていました。そのせいで最小限しか寝返りをうたない癖が身についてしまったんじゃないかなあと。

で、必然的な成り行きとして、夢見があまり良くありません。

人それぞれによく見る悪夢ってありますよね。

中学から大学ぐらいまでは、戦争の夢でした。戦争の恐怖は10代の僕にとって切実な問題でした。中学生のときには、僕の住んでいた団地にソ連が攻めてきて、後ろから機関銃で撃たれるという夢をみました。大学生のときには、特攻隊のメンバーに選ばれて絶望する夢をみました。

その後、劇団に所属してからは、やはり定番の「セリフが出てこない!」夢をよくみました。これは、その世界から足を洗って相当たつ最近でもまだみます。合格祝賀会で劇をやっているからかもしれません。

車の免許をとってからちょくちょくみるのは、運転が思い通りにいかないというタイプの夢ですね。ブレーキを踏んでも踏んでも止まらない。猛スピードで走っているのではなく、ずるずるっずるずるっと車が動いていきます。

塾講師になってからよくみる悪夢は2つあります。

ひとつは、遅刻する夢です。ああ、もう授業が始まる時刻なのに俺はなぜこんなところで山登りをしているのだ、みたいな夢ですね。

もうひとつは、授業中に学級崩壊してしまう夢です。いくら怒鳴っても叫んでも子どもたちが静かにならない夢で、とても疲れます。

夢の時間は現実の時間より遅れていますよね。夢のなかではまだ大学生だったり、場合によっては大学受験をしている高校生だったりします。僕の無意識はまだ僕の現実に全然追いついていないんだなあと思います。

メラニー・クライン(精神分析家です、児童分析で有名です)の本なんかを読んでいると、人間の成長というのは、赤ん坊から幼児、少年、青年・・・・・・というふうにべつのものへと変容していくのではなくて、服を着るように、赤ん坊の自分の外側に幼児の自分を新しく着込み、少年の自分をその上に重ね着し、大人の自分をその上に羽織り・・・・・・というふうになっているんじゃないか、服の下には赤ん坊の自分がそのまま残っているんじゃないかと感じます。三つ子の魂百までと言いますが、「赤ん坊の自分」「幼児の自分」は消失も変質もせず、そのまま自分の核にあり続けるにちがいない、そういう実感があります。

それはともかく、何とかして熟睡したいものです。私の希望としては、毎日9時間眠りたい! かつて実際にそうしていた頃は体の調子が良かった!

そういえば、アメリカの統計で、一日の平均睡眠時間が9時間の人と7時間の人では、7時間の人の方が長生きだった、という結果が新聞に載っていました。かなり前の話です。でも、それって「睡眠時間が7時間だったから、長生きした」とは言えないよなと思います。そもそも健康な人だったから、7時間睡眠で活動しまくってたんじゃないのかなあ。

2011年11月23日 (水)

低体温について

小学生の頃から低体温で、だいたい5度6分~8分が平熱です。

小学生の時分、学校に行くのがイヤというわけではないけれど、病欠というものに憧れて、しばしば体温計で熱を計りましたが、いつも5度台なのでがっかりしました。病気になってベッドに横になり、優しい言葉のひとつもかけてもらって、おかゆを食べさせていただきたいと、いつも思っていましたが、運動神経が鈍いわりには健康で、なかなか病気になれませんでした。

というわけで、実は「はしか」も「おたふく」も「水疱瘡」もやっていません。担当しているクラスの子が休んでいて、「どうもおたふくらしいよ」とか「水疱瘡だって」などと聞くたびに、そういえばあいつこの前やたらと俺に近づいていたな、うつったんじゃなかろうか? うーん、などと戦々恐々としています。

若い頃は低体温だってべつにどうってことありませんでしたが、この歳になって、いろいろとある僕の身体的な問題点の多くは、低体温に由来しているのではあるまいか、という疑念がわきおこってきました。なんだかそういう本もはやりましたよね。

たとえば、山登りをしているときに、僕はほとんど休憩をとりません。山登りの本を読んでいるとちゃんと休憩しないとだめみたいなことが書いてあるんですが、休憩すると体がすぐにがちがちにかたくなり、歩き出すのがしんどくなってしまうので、できるだけ休みたくないんです。ちょっと立ち止まって、呼吸をととのえるだけでいいやって感じです。よく一緒に山に行くY田M平先生なんぞすぐに座り込んでますが、あんなにどっぷり休憩したら僕はだめです。そこでいつもY田先生をおいて先に行くことになります。

この、休憩するとすぐに体ががちがちになるのは、ひょっとしたら低体温のせいじゃないかなあなどと思ってしまうんですね。

それだけではありません。僕は体がものすごくかたいんですが、そもそもこれだけ柔軟性がないのも、低体温と無関係ではないのではなかろうか?

いやいや、待てよ、そういえば足がすごく痺れやすいのも柔軟性の欠如、ひいては低体温が原因ではあるまいか?

情けない話ですが、おそろしく足が痺れやすいために、正座がまともにできません。あぐらをかいてさえも痺れてしまうんです。ていうか、立ってて痺れたことさえあります。

祖父の葬式では2回転びました。焼香するために立ちあがった瞬間どたっ、歩いていく途中にどたっ、カッコ悪かったです。

そこで、今年の私の個人的な目標は、「体温を上げる」でした。でも、どうしたらいいのかよくわからないので、とりあえず筋肉でもつけてみようかと、腕立て伏せをしたり腹筋をしたりしてみましたが、さて、どんなもんでしょう。年末にコンディションをととのえて体温をはかってみたいと思っています。

2011年11月 7日 (月)

太郎の気持ちはわからない

だじゃれではないのですが、同じことばでありながら二通りの解釈ができるものがあります。たとえば、「ないものはない」ということばはしゃべる人の態度や様子で意味が変わってきます。ドン○ホーテのような店がえらそうに「ないものはない」と言えば、「何でもある」の意味になりますが、「どうしてないんですか」と問い詰められたときに「ないものはない」と言えば、「ないのだからしかたがない」の意味になります。どちらの意味なのかは、それまでの文脈やそれを言うときの態度で判断するしかありません。

「雪にかわりがないじゃなし」というフレーズのある有名な歌がありました。「ないではないか」と解釈すれば問題はないのですが、「ないわけではない」と解釈すると「ある」ということになってしまいます。だいたい打ち消しというのはむずかしいですね。「…しようか」と言っても「…しようではないか」と言っても同じだし、「…する?」と「…しない?」とたずねても同じになるというのはなんか変です。打ち消し表現を重ねると、瞬間的にどっちかわからない場合がありますね。「あり得なくない?」とか言われても「あり得る」のか「あり得ない」のか、わかりません。「そうじゃないこともないわけじゃないですか」とか言われたら、「おまえは何を言っとるのだ、バカモーン」と言うしかありません。

世の中には格調高く見せかけて、実は何も言っとらんという、ふざけた表現もあります。政治家や役人の言う「可及的速やかに善処します」は「何もしません」という意味らしい。「くわしい話は聞いていない。それが事実なら大変だ、まことに遺憾に存じます」というのは、「別にどうだっていいじゃないの」という意味だそうです。「オトナ語」の中にもこういうのはよくあります。「今度またいっしょにメシでも」や「うちにも一度いらしてください」というのも、単なる「さよなら」の意味しか表していません。「京の茶漬け」ですな。ことばというのは、実にいいかげんなものであります。

では数字は正確か、と言うとそうでもない。1÷3×3の答えが1と0.9999……の二通り出てくるのは、どこかにごまかしがあるのにちがいありません。100㎏と0.1tは同じはずなのに、体重100㎏と聞いたら、そういう人も多いよなと思うのに、体重0.1tと聞くと、おまえはトラックかと言いたくなります。平均点というのも考えると変です。62.3点が平均点だとすると、その点数が最も普通の点数だということになりそうですが、62.3点という中途半端な点をとった者はだれ一人としていないのですね。統計のうそというのもよく言われますが、たしかにまやかしが多いようです。

統計の解釈のしかたでは、相関関係と因果関係というのも、区別しにくいことがあります。成績のよい子は朝ご飯をちゃんと食べていることが多い、というデータがあったとしても、朝ご飯を食べることがよい成績をとる原因になるわけではない。でも、そういうデータを示しながら、あたかも自明の事実であるかのように因果関係を言われるとうっかり信じてしまいます。まあ、多くの人の「論理」もじつはその程度なのですがね。第一厳密すぎると日常生活がスムーズにいきませんし。「その部屋にはいったら、だれもいなかった」に対して、「おまえがいるじゃないか」とつっこまれることをおそれて、「私をのぞいてだれもいなかった」というのも変です。アバウトでよいのでしょう。「あんたかてあほやろ、うちかてあほや、ほなさいなら」のレベルです。三段論法のように見えて、論理的でもなんでもない。「山下くんはめがねをかけている」「山下くんは人間である」「人間はめがねをかけている」の結論は明らかに変なのですが、なぜ変なのか、すぐには反論できません。こういう「へ理屈」を大群でおっかぶされたら、いつのまにか説得されてしまいそうです。「AならばB」に対して「BならばA」が言えないのはなんとなくわかりますが、「BでないならAでない」が成り立つと言われても、打ち消し表現が重なるので、なんだかわからなくなります。

落語の「壺算」はみんな聞いていてげらげら笑っていますが、瞬間的に理解できているのでしょうか。つぼを2円で買った男が、「倍の大きさのつぼにしてくれ」。店のほうは「それなら4円です」と言う。男が「さっき買ったつぼはいらないので、2円で引き取ってくれ」と言うと店は了承する。そこで男は、「さっき払った2円と、下取り代の2円で合計4円やな」と言って、つぼを持って帰るという話ですが、店には2円のお金しか残っていない。変は変なのですが、ではなぜ変なのと言われると、ややこしくて説明できないような気がします。

「八百屋にキャベツを買いにきて、『五百円』と言われた外国人が一万円札を出してきた。ところが、八百屋は細かいお金がたまたまなかったので、となりの魚屋へその一万円札を持って行って両替してもらい、お客に『九千五百円』のおつりとキャベツをわたした。ところが、しばらくすると、魚屋のおばちゃんが『さっきの一万円、にせ札やないの』と言ってきたので、八百屋は自分のところの金庫から一万円を出して魚屋に返しました。さて、八百屋はいくら損をしたでしょう」という問題にさっと答えられる人が世の中に何人いるのでしょうか。

算数の問題にはこういう「まぬけ」なやつがよく登場します。しないでもよい、よけいなことをするやつですね。「太郎君は学校まで毎分80メートルで歩いて行きますが、今日は歩き出して3分後に毎分160メートルで歩いたために、いつもより5分はやく学校に着きました。さて、……」なんて問題がよくあります。子どものころの国語科の講師は「太郎、おまえはなんでそんなよけいなことをするねん、いつも通り歩けばええやないか。しかも毎分160メートルって倍の速さやないか、常人の速さやないで、それ走ってるがな、朝なにがあってん、おかあちゃんに叱られたんか」などと太郎君の心情にまで立ち入って考えてしまい、結局正解できなかった人たちです。

2011年10月27日 (木)

終電車の風景

ご存じの方はあまりいらっしゃらないと思いますが、『終電車の風景』という詩があります。作者は鈴木志郎康さん、結構有名な作品なんですが、現代詩の読者は少ないので、たぶんみなさんご存じなかろうと思います。

この詩がいつかどこかの中学校(灘中学校とか、灘中学校とか、灘中学校とか)の入試で出題されるんじゃないかとにらんでいるんですがなかなか出題されません。

そういう、「いつか出題されるんじゃないか」という詩のリストがあって、もちろん志別その他の教材にどんどん入れているわけですが、今日はその話ではありません。

なんせこのブログは、「どうでもいいことを書く」、というのが身上ですからね!

今日は、西川が見た「終電車の風景」、その思い出について語ります。

残念ながら、今は阪急の京都線に乗っていることが多いので、あまりおもしろい風景には出会えません(阪急電車は総じて品が良い)。

かなり前ですが、若いお母さんに抱っこされた赤ちゃんが、となりに座っていた革ジャン革ズボン金髪ツンツン鼻ピアスのあんちゃんに激しく興味を示し、いっしょうけんめい手を伸ばしているのを目撃しました。お母さんは疲れているのか、うとうとしていて気づきません。鼻ピアスのあんちゃんもヘッドホンして、「くそったれな世の中には拳を上げてファックオフさ!」みたいなとんがった目つきでいたので、赤ちゃんの動きにはなかなか気づかなかったのですが、赤ちゃんの手がついに彼の鼻ピアスにとどきそうになるにおよんで、鋭く赤ちゃんの方に目を向けました。視線がかち合う鼻ピアスと赤ちゃん! 危うし! ・・・・・・しかし、次の瞬間、鼻ピアスは「にかっ」と笑顔になるのでありました。お母さんが気づいて赤ちゃんを抱っこし直しましたけれど、そのときには、鼻ピアスの顔はとても穏やかな、あえていえば幸福そうな表情になっていたのです。まったく赤ちゃんおそるべしですな。

こんなささやかな風景を覚えているぐらいだから、阪急ではあまりインパクトのある風景に出会ってないんですね。革ジャンといえば、これも相当昔ですが、十三駅のホームで革ジャン革ズボンにチェーンじゃらじゃらの男とゴスロリ女性のカップルを見かけたことがあります。それだけならべつに珍しくもなんともないんですが、どちらも年齢が40~45歳、男性は黒縁のサラリーマンふう眼鏡をして頭髪が薄く、女性は林家パー子さんに似ておいででした。相当なインパクトでした。一緒にいた友だちが早速ケータイで写真を撮ろうとしましたが、一応止めました。

JRはそんなに乗る機会ないんですが、なかなか愉快なことがあります。

大阪駅で、ふらふらした足取りでもつれ合うようにして乗り込んできた二人組のサラリーマン。50代半ばの、いかにもサラリーマンのおじさんって感じの酔っぱらった二人組です。酔っぱらってるんで声がでかい。肩を組んだまま二人がけの座席に倒れ込むように座ると、

「部長、しかし、僕は部長の顔にどろを」

「言うな」

「しかし」

と車内に響き渡る大声で会話が始まりました。酔っているので、同じことのくり返しです。

「部長、僕は部長の顔にどろを」

「それを言うな」

と何度くり返したか。しかし何回目かのときに、新たな展開が。

「部長、僕は部長の顔にどろを」

「言うな、すべて俺の責任だ」

「・・・・・・へ? 部長の責任なんれすか?」

「あ、うん、まあ・・・・・・」

いや、これだけなんですけど、爆笑でした。

JRってよく遅れますよね。これは終電車の風景ではありませんが、運休が出たために、普通電車に乗り込んだ人々の数がいつもの数倍にふくれあがり、ぱんぱんに混んでしまったときのこと。駅にとまるたびに当然のことながらホームにあふれんばかりになっていた人々が無理にでも電車に乗り込もうとします。車掌が放送で「無理なご乗車はおやめください」とくり返し言うのですが、もちろん効き目はありません。体が半分出てしまっているのに「いや乗車してますけど」みたいな顔をしているおじさんや、片足をつっこんでぐいぐい食い込ませ何とか乗り込もうとしているOLなどでいっぱいです。

車掌がしだいにてんぱってきて、大阪弁丸出しになっていきます。

「無理なご乗車はおやめください、無理なご乗車は、あかん、あきませんて、すぐに次の電車が来ますよってに、危ないですって、かばんがはみ出てますやん、もうあきませんって・・・・・・」

このときは、ひどい混雑ぶりに殺伐としていた車内が一気になごみましたねえ。もしかしてそれが狙いだったのかもしれません。車掌もおそるべしですな。

さて、終電といえば京阪電車。京阪電車の終電に乗ることが多かった頃はなかなか衝撃的なことがありました。

とりあえず、酔っぱらってゲーゲー吐いている人はしょっちゅう見ましたね。でも電車の中は勘弁してほしいなあ。ドアのそばで手すりにつかまって苦しそうにしゃがんでるなあと思っていたら、突然「おえええ」という声がするんです。臭いってば。

しかし、そんなのはまあ言ってみれば普通のことです。

京阪電車で個人的にもっとも印象に残っているのは、何か忘れてしまったけれどとにかくすごくいやなことがあって僕が深く疲れ切っていたある夜のこと。

僕は二度と立ちたくない気分でだらしなく座席に腰掛け、宙をにらんでおりました。反対側の座席の、僕の正面のあたりには、いわゆる「労務者」風の身なりをしたおじいさん。

あれは八幡市だったか。とにかく京阪の最終電車なので乗客は少なく、駅のホームもひどく寂しげでした。

電車がホームにすべりこみ、ドアが開く直前、向かいに座っていたおじいさんが立ち上がり、何気なく僕の方に近づいてきました。疲れていたので目だけ動かしてじろっとおじいさんを見ると、おじいさんが手を差し出してきます。僕はさすがにとまどってどうしたらいいかわからずにいました。おじいさんは僕の手をぐっと握ると、励ますように肩をたたいてくれ、そのまま降りていきました。

なんだか衝撃でした。ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』を思い出しましたね。ご存じでしょうか。傷ついたり悩んだりしている人間に、(人間からは姿は見えないけれど)そっと寄り添い、ほんの少し元気を分けてあげる、そういうことをしている天使がいっぱいいる・・・・・・という設定の映画です。まあ、僕は気楽な人間なのでそんなに深く悩んでいたわけじゃありませんが、変に心に残るできごとでした。

ちなみに『ベルリン・天使の詩』ですが、どんなふうに話が進むかというと、そんな天使の中のひとりが人間の娘に恋をして、人間になってしまうんです。主役は、名優ブルーノ・ガンツ。しかも、似たような境遇を持つ「元・天使」の役で、あのコロンボ警部で有名なピーター・フォークが「俳優ピーター・フォーク」として出ていました。つまり、「あの有名な俳優のピーター・フォークは、実は元・天使なのだ」というひねった設定だったんですが、おもしろかったですねえ。主人公の元・天使が、『コロンボ警部』を撮影中のピーター・フォークに会って、アドバイスを受ける場面なんてどきどきしました。

それにしても、ブルーノ・ガンツ! もうびっくりしますねえ。映画に出るたびに、完全に別人です。ロバート・デ・ニーロは体型から声からまるっきり変えてしまうので有名ですが、ブルーノ・ガンツはべつにそんなことをするわけではないのに、完全な別人になってしまうんです。あの人はまさに名優中の名優だと思います。

僕もそれほど見たことがあるわけではありませんが、

『アメリカの友人』

『白い町で』

『ベルリン・天使の詩』

『永遠と一日』

『ヒトラー最後の14日間』

ほんとにびっくりしますよ。雰囲気ががらっと変わるんです。『アメリカの友人』なんて、ブルーノ・ガンツが出ていると聞いて見たのに、どれがブルーノ・ガンツかわからなかった・・・・・・!

僕の目は確かに節穴ですが、それにしても変わり過ぎやろ、と思います。

2011年10月20日 (木)

最後まであざとく

だじゃれは「駄」なのだから、おもしろくないものと相場が決まっているのですが、それでもたまにクスッとしてしまうことがあります。「一点の差ですって? なに言ってんのさ」は、書かれているのを見ても気がつきません。聞いた瞬間もすぐにはわからないのですが、気がつくとなんかおかしいですね。「ふとんがふっとんだ」「コーディネートはこうでねえと」と、どこがちがうのでしょうか。音が似ているだけで全く別のものを結びつけるところがポイントになるので、当然意外性がなければなりません。かといって、ナチュラルでないと、あざとさが前面に出てきてしまうのでしょう。「あなたはキリストですか」「イエース」、「百円玉食うてみい」「ヒャー、食えん」はやはりナチュラルです。

「あざといですよ」ということを強調すれば逆にまたおもしろくなってくるのも不思議です。「エッグは『なにご』や」「英語やろ」「たまごや」「……」「ストロベリーはなにごや」「いちご?」「英語や」「……」「コーヒーはなにごや」「英語? ひょっとしてアラビア語?」「コーヒーはしょくごや」。ここまで重ねれば笑えますが、これはだじゃれそのものではなく、「繰り返しによる笑い」「裏をかくことによる笑い」の可能性があります。いずれにせよ、音のぶつかりあいが、だじゃれであり、私たちは意味の病にかかっているために、ときとして、だじゃれによって、新鮮な発見をすることがあるのかもしれません。まさに「かっぱかっぱらった」の詩ですね。

「汚職事件」が「お食事券」に聞こえるのに気づくと、なぜか感心してしまいます。だじゃれのつもりでなくても、そう聞こえるようなことがあるのですね。「北海道といえば、おなじみ大泉…」と書かれていれば、「ああ大泉洋ね」と思うのですが、ラジオなどで耳で聞いているだけだと「ああ、アンビシャスね」と思ってしまうのは「ナチュラル」ですよね。「『おーい、お茶』って、反対は『少ないお茶』か」と思ってしまうのも同様です。「教皇選挙」の「コンクラーヴェ」は、ほとんどすべての人が「根くらべ」を連想したはずです。

糸井重里がやっている「言いまつがい」も、そんな風に言い間違える「フロイト的」理由があるのでしょうが、けっこう笑えます。「スパゲティカルボナーラ」を「スパゲティボラギノール」と言ってしまうのは、「カルボナーラ」はなんだかよくわからないことばなので、言うことに自信がないのでしょう。無意識のうちに、音が似ていて、しかも知っていることば(しかし意味はやはりよくわからない)「ボラギノール」と言ってしまうのだろうと推測するのですが、如何。「赤ワインには、ボラギノールがはいってて、体にええらしいで」というのは、知ったかぶりをしたいのですが、如何せん知識が伴わない。ポリフェノールとボラギノールは音としてもかなり似ているので、この「言いまつがい」は納得できます。「うちの孫、アメリカにホームレスしてまんねん」というお婆さんは、「ホームステイ」より「ホームレス」のほうが身近なことばなのでしょう。遊んでいる子供たちにお母ちゃんが「おまえたちはいいね、毎日がエブリデイで」と言うのは、なにの「言いまつがい」なのでしょうか。でも、言いたいことはなんとなくわかるのが不思議です。

二つの連続する単語や文節で、音が交換されることもありますね。「てっこんキンクリート」や「あつはなついなあ」と言ってしまうやつです。「おかあちゃん、風呂はいるからパツとシャンツ用意しといて」「はいこれ、パツとシャンツ」二人とも気がついていないことがあります。国会の答弁で「補正予算」が「よせいほさん」となってても、だれも気づきません。「クロネコヤマト」を「ヤマネコトマト」と言ってしまうのは、後半の「ヤマ」を前に持ってきたために消えてしまった分を、なんとか帳尻を合わせようという心理が働いて、後半にも実際に存在することばを続けてしまうのでしょうかね。

書き間違いというか、パソコンの変換ミスもよくあります。「汚職事件」が「お食事券」に勝手に変換されてしまっても、夢中になってキーをたたいていると気づきません。さすがに最近はパソコンもかしこくなって、「茹で卵」が「茹でた孫」になったり、「フランス料理」が「腐乱す料理」になったり、「取引先」が「鳥引き裂き」になったりするような、むちゃくちゃな変換はしなくなっているようですが。消去したり書き足したりしながら編集していくために、意外に脱字も多いようです。「学園長杯争奪テスト大会」だからよいのであって、「学園長争奪テスト大会」ではだめでしょ。そんなもの争奪したくありません。ところが不思議なことに申込用紙にそういう風に書いてあっても気づかない人が多いことも事実です。逆に脱字どころか、余分な字があっても気づきません。申込用紙の下の方に点線があって、そこに「キリトリマセン」と書かれていると思わず切り取ってしまいます。一行の最後の方に「そんなことはありま」とあれば、次の行に「ん。」と書いてあっても「そんなことはありません」と読んでしまっています。つまり、書いてあるものが見えず、書いていないものか見えるのですね。

脳というのは、いいかげんでもあり、すごいとも言えます。ないものをあると見なしたり、あるものを見ないふりができたり、場合によっては自分自身で信じ込んでしまうというのは、機械にはできないことです。それを利用したトリックアートなどもよく見ます。ということは、脳はだまされやすいということでもあるわけで、こんなふうに、人間というものは「思い込み」で勝手に決めつけていることが多いのです。ですから読解の文章や設問を読むときも思い込みは禁物ですね……と、強引に「国語」に結びつける落ちは、どういうものでしょうか。「あざとさ」が過ぎますね。しかし、この文章の最後の段落を読みかけた瞬間、こういう結びになりそうだと予感した人はいなかったでしょうか。そういう人も「思い込み」をしていたのかも……。

2011年10月 9日 (日)

栄光の文化ゼミナール~光年のかなた⑦~

どうもこのところ更新が滞りがちですね。僕の書くペースが落ちているのが最大の原因です。
楽しみにしてくださっている方は、べつにいらっしゃらないかもしれませんが、なんとなく、誰にともなく申し訳ない気分です。

さて、最近僕はこのブログの記事を主として電車の中で書いています。実はそのために「ポメラ」を買ったんです。これは今年僕が購入した品物のうちで最大のヒットでした。ご存じですか、ポメラ。完全にワープロ機能だけに特化した、なんていうんですか、電子メモ帳とでもいうんでしょうか、そういうやつです。

開くとちゃんとした五十音のキーボードがスライドして出てくるんですが、コンパクトなので、立ったままでも片手で支えて片手で打ち込むことができます。なんといっても起動が速い。電源を入れたら即使用可能になります。阪急京都線で、サイゼリヤで、十三のあやしい中華料理屋『隆福』で、小さなキーボードに向かってちまちまカタカタと文章を打つ私です。

思えば、僕のワープロ歴は結構長く、大学2年のときに衝動的に買ったのが初めてでした。ディスプレイの幅が1行分のみでたった12文字しか表示されないというおそろしく使いづらいものでしたが、まわりにワープロ持っているやつなんてほとんどいませんでしたから、なんだか得意気に意味もなく日記を書いたりしていました。しかし、毎日これといって何もしていなかったので書くことがなくて困りました。せいぜい「今日も腹が減った」とか「腹が減ったのでデパ地下の試食コーナーを徘徊した」とかその程度しか特筆すべきことがない青春だったのだった・・・・・・。

ちょうどその頃サークルに入りました。「文化ゼミナール」というあやしげな名前の、まあ簡単にいうと読書をするサークルですね。本来であればいろいろな分科会があって、それぞれに興味深い書物を取り上げて・・・・・・という形態になるんでしょうが、人手不足のため、分科会はただ一つ経済学分科会だけ、それも時代遅れの『資本論』第1巻を1年かけて読むという、えもいわれず地味な活動をしていました。結局3年間参加したと思いますが、その間、メンバーは4名~6名、ひどいときにはたった2人でぶつぶつ議論しながら読んでいました。

読書会ってどんなふうにするかといいますと、担当者がレジメをきってくるんです。たとえば、来週は第三章の第一節だということになると、それを段落分けして、内容を簡潔にまとめたものを作ってくるんですね。で、それをもとに担当者が進行役を務め、一段落ずつじんわりと読んでいくわけです。

このレジメをきるのに、件のワープロが活躍しました。ワープロで打ってあると、内容がダメでもなんだか少しましに見えるんですよね。「これだ!」って感じでした。

それにしても『資本論』! あれは国語の勉強になりました。Yさんという経済学部の院生が中心になって、とにかく精確に内容を理解することに主眼を置いてやっていたので、派手な議論が飛び交うわけでもなく、若者らしい青臭い思想や世界観を開陳し合うでもなく、「読点の位置からみて、この主語はここにかかっていくんだから、こう読むのが正しいはずだ」「訳が悪いかもしれんから原典にあたってみよう」(もちろん原典にあたるのはYさん)などといいながら、ひたすらねちねち読んでいました。正直言って、あの3年間がなかったから、僕は国語の講師になっていなかったかもしれない、いやなっていたかもしれないけれど、だいぶちがう感じの講師になっていたんじゃないかなと思います。

1年目はちんぷんかんなので、先輩の説明をふむふむ聞いていることが多かったわけですが、2年目になって後輩が入ってくると、たまには僕が教えるなんて場面も出てきます。あやふやなことをいうとすぐに首をひねられてしまうので、冷や汗かきつつしどろもどろになりながらやっていました。あれが勉強になりました。とにかくできるだけすっきりと、筋道立てて説明をする訓練になったと思います。

読書会は週に1回、6時から9時過ぎまででした。9時になるとサークル室の照明が強制的に消されてしまうのですが、ろうそくに火をともして暗い中でいつまでも話をしていることもありました。

コーヒーを飲むようになったのも文ゼミにいたときです。Yさんがコーヒー好きだったので、一息入れようというときにはお湯を沸かしてコーヒーを飲んでいました。そのうち、よりおいしいコーヒーが飲みたいということで、ベートーベンという豆屋さんでその日飲む分の豆を買ってきて、淹れるときに必要な分だけガリガリとひいて飲むようになりました。

文ゼミに入ったころは、まだ寮生でした。9時過ぎてサークル室を出るといつのまにか雪が降り積もっているなんてこともあり、寮まで帰るのが大変でした。自転車で三十分ぐらいかかるんですが、寒さのせいで背筋がびんと張って、痛くなるんです。雪だと自転車もつるつる滑りますしね。仙台平野をふきすさぶ風に綿入れをなびかせて帰ったものです。綿入れは基本的に部屋着なので、外では寒いっす。

文ゼミはほんとうにとても勉強になる、いいサークルでした。当時のメンバーを思いうかべると、なんだかみんな頭良かった気がします。僕がいちばんぱっとしませんでした。ぱっとしない割に態度だけはでかくて申し訳なかったなあと思います。

しかしながら、そんないいサークルなのに、なぜか人が集まらない。新歓の時期にはなんとかして人を集めようとみんなで知恵を絞りました。

これは僕が入る前の話ですが、

「女の子を呼ぶにはテニスだ!」

と先輩のひとりが言い出し、「キャピタル・テニスクラブ」というニセのサークル名でビラを配布したこともありました。『資本論』の原題が「ダス・キャピタル」というのです。「テニスをするための基礎体力作りに『資本論』を読んでいます」という打ち出しだったのですが、残念ながら、あまりのインチキぶりに、当たり前ではありますが、だれも来ませんでした。その後懲りずに「キャピタル・サーファークラブ」というサークル名のビラも配布したということですが、もちろんどうにもなりませんでした。

大きな立て看板をつくったこともありました。認知度を高めるのがねらいです。なにかインパクトのあることを書こうということで、「少年老いやすく老人死に易し」という何が言いたいのかまったくわからない言葉を書いてみました(これはYさんがサークル室の黒板に書き付けていた警句です)が、やはりだれも来ませんでした。

僕の青春の日々はそうやって楽しいような空しいような感じで過ぎていくのでありました。

2011年9月28日 (水)

鯛獲るマッチ

デジャブと思えるものが多いと書きながら、これ前にも書いたぞと思うのはデジャブではないだろうか、と書きながら、このフレーズも前に書いたのでは……という、「雑誌の表紙がその雑誌を持っている人で、その人が持っている雑誌の表紙にもその雑誌がうつっていて」状態になってしまうのは頭が弱くなっているからでしょう。

死んだはずの人間が帰ってくる、というパターンも最近多いですね。たぶん私が最初に接したのは『天国から来たチャンピオン』という映画だったと思います。ウォーレン・ビューティー主演のやつですが、今は「ビーティ」だか「ベイティ」だかと書くようになっています。アメリカ大統領だったレーガンも映画俳優時代にはリーガンでした。最初この映画の主演に予定されていたボクサーのモハメド・アリはカシアス・クレイを改名したので、これは発音上の問題ではありません。アリに断られて制作のウォーレン・ビューティーが自ら主演したのですが、これもじつは相当古い作品のリメイクらしい。さらに、『天国から来たチャンピオン』をリメイクした作品もあったはずです。

それだけ魅力ある設定なのでしょう。幽霊大好き作家の浅田次郎なんか、このパターンは好きそうだなと思ったら、すでに「椿山課長」でやっていましたね。宮部みゆきでさえ『蒲生邸事件』でタイムスリップものをやっていますし、江戸時代の妖怪ものは『しゃばけ』以来大はやりで、ひどいものもたくさん出ています。どれもこれも設定が少しちがうだけで、あまり区別がつきません。いずれにせよ、いちばんはじめがあったはずで、最初に思いついたやつがえらかったのですね。とはいうものの、なにが元かは今となっては不明なのでしょう。聖書に出てくるノアの洪水の話でも、メソポタミアのギルガメシュ叙事詩に出ているとか…。

落語に「てれすこ」という話があります。妙な魚がとれたが名前がわからなかったので、奉行所が名前を知っている者にはほうびを与えると立て札を立てたところ、一人の男が「『てれすこ』という魚です」と言ってきた。ところが、その真偽を証明できる者はだれもいないので、ほうびを与えるしかありません。奉行はその魚を干しておいて、しばらくしてからまた同じような立て札を立てると、案の定その男が現れて、「『すてれんきょう』といいます」と言ったので、「同じ魚を干しただけなのに、ちがう名前を言うとは、お上をたばかる不届き者め」と処刑されることになりました。最後の望み、ということで家族を呼んでもらった男は家族に言います。「『てれすこ』を干したものを『すてれんきょう』と言ったばかりにわしは処刑されることになった。おまえたちに言っておく。今後、どんなことがあっても、『いか』の干したのを『するめ』と言うなよ」それを聞いて、奉行は男をおゆるしになりました……という話ですが、この話の原型は鎌倉時代の説話集『沙石集』に出ています。でも、さらにその元になった話があったかもしれません。

古代エジプトの象形文字や楔形文字を解読してみたら「近頃の若い者はなっとらん」と書かれていたという笑い話からもわかるように、しょせん人間の考えることは似たり寄ったりなのでしょう。テーマは安易でも、どう見せるかという切り口で傑作になるのです。死んじゃいましたが、小松左京の作品なんて、発想がそのまま作品のテーマで、「もし…」という設定だけで大長編にしていました。「日本列島が沈没したら」というテーマは、ほかにも考えつく人がいるかもしれませんが、そこからいろいろな方向に話を広げて、まとめあげる腕が必要なのでしょう。筒井康隆なんて、そのパロディで、『日本以外全部沈没』を書いています。これは筒井康隆のような天才レベルでないと思いつかないテーマです。

ただ、設定がいくらおもしろくても、どう結末をつけるかがポイントですね。「で、オチは」と聞かれるようではだめです。とくに、大阪人はどんなことにもその要求をします。気の毒な出来事を涙ながらに聞いていて「かわいそうになー」と言いながら、最後に「ほんで、オチは?」と聞くのが大阪人です。きれいに決まらないと怒られます。話を広げるだけ広げて、まとまりがつかなくなったときの逃げ方として「続きはWebで!」というのがありますが、一回は許されても二回目は許されません。ましてや、「がちょーん」とか「だっふんだ!」の擬声語オチは昭和で終わりました。夢オチは禁じ手ですし。『ドラえもん』が夢オチであったという都市伝説もありますが…。有名なところでは、「邯鄲の夢」がきれいに決まった夢オチですが、古典なので許されるでしょう。これが夢オチのいちばんはじめというわけではないでしょうが。『不思議の国のアリス』も夢オチですが、ファンタジーなのでOKのようです。せっかく話を積み上げ、大風呂敷を広げてきて、さあこの結末をどうつけてくれるんだろうと期待していたのに、じつは夢でした、と言われたら「金返せ-」となるに決まっています。だから安易な夢オチは禁じ手なのでしょうが、中にはわかっていないアホタンもいるようです。立川談志の「鼠穴」という落語に「まさかの夢オチ!」と言って、談志を批判している「落語を知らないバカ」もいました。たしかに、これは典型的な夢オチですが、古典落語です。夢オチが禁じ手だという人がいなかったころの作品なのでしょう。それを批判するのは、古典落語がどういうものかわかっていないのだろうし、語り手の談志を「才能なーい」とたわけたことをぬかすのは、談志の作ったネタだと思っているのでしょう。自分でネタを作る若手の漫才と区別が付いていないアホタンで、ところがこういう若い人たちが「夢オチ即ダメ」と「知ったかぶり」をするのですね。納得して笑えるなら、夢オチもありでしょう。

いずれにせよ、単純な笑いが楽しいようです。ことわざの授業で「海老で鯛を釣る」が出てきたときに、「ほんとは鯛を手に入れるためにはもっと安上がりなえさがあるけど、何かわかるか」「わかりません」「マッチや、マッチ」「えー、なんでですか」「タイトルマッチいうやろ」「……」最近の若いやつら、単純な笑いもわかりません。

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