2021年4月 4日 (日)

梅安は緒形拳

弓の名手といえば那須与一。源氏と平家の「屋島の戦い」で、平家が立てた扇の的を見事射落としたことで有名ですが、それ以外のことについては詳しい記録がなく、ほとんど謎の人物です。さらに、このエピソードのあと、どういうことが起こったかもあまり知られていないのではないでしょうか。那須与一の腕前に感激したのでしょうか、舟の中から、50歳くらいの男が出てきて、扇の立ててあったところで踊りはじめます。伊勢三郎義盛に命ぜられた与一は男を射抜き、男はまっさかさまに落ちたとか。源氏方は、大いに盛り上がりますが、平家方は静まり返った、という、なんだか後味の悪い話です。

中国にも当然、弓の名人がいます。最も有名なのは李広でしょう。前漢の将軍で、三代の帝に仕えた名将です。匈奴と戦うこと、七十回以上と言います。匈奴からは漢の飛将軍と恐れられました。ただ出世にはめぐまれなかったようで、老骨にむち打って出陣しても後方に回され、道案内がいないせいで戦いに遅れて、大将軍に責められ自害してしまいます。この李広が若いとき、母を虎に食われ、必死になって虎を探し求め、弓で射たところ、実はそれは虎に似た石でした。「石に立つ矢」「一念岩をも通す」の語源ですね。三国志の名将、太史慈も弓の名人でした。孫策の配下として山賊の討伐をしていたとき、はるか遠くの砦で、山賊の一人が木を持って、孫策と太史慈を罵倒していました。太史慈は弓を引き絞って放つと、矢は賊の持っていた木に突き刺さり、さらに手の甲まで貫通していたそうですが、こちらの話はいかにもありそうです。

中島敦『名人伝』は、紀昌という男の話です。天下一の弓の名人になろうと志を立て、飛衛という人に弟子入りします。まず、瞬きをするなと教えられた紀昌は機織の台の下にもぐって、目の上すれすれのところで機が織られる様子を見つめつづけました。やがて、火の粉が入っても目をつぶらず、目を見開いたまま熟睡できるようになりました。ついには蜘蛛がまつ毛の間に巣を作ったとか。次に、視ることを学べと言われた紀昌はシラミを髪の毛でつなぎ、じっと睨みつづけます。シラミが馬のように見えるようになったとき、矢を放つと、シラミの心臓を貫きました。ほんまかいな。次は矢の速うちです。第一の矢が的にささると、続く矢が次々と前の矢の尻に命中し、百本の矢が一本に連なりました。しかし、紀昌は、飛衛がいるかぎり、天下第一の名手にはなれないと考えます。ついに飛衛を襲ってしまうのですが、飛衛も矢を放ちます。二人の矢は、お互いの真ん中で命中し合い、地に落ち、決着がつきません。マンガです。

飛衛は、紀昌の気持ちを新たな目標へ向けさせるため、ある老師を尋ねよと告げます。紀昌は、その老人に「不射之射」を教えられます。足元の石がぐらつく絶壁の上に立った老師は、見えない矢を、見えない弓につがえ、ひょうと放ちます。すると、トンビが一直線に落ちてきました。何年かのち、山からおりてきた紀昌の顔は無表情で、以前のような負けず嫌いの精悍な面構えはなくなっていました。天下一の弓の名人となって戻ってきた紀昌は「至射は射ることなし」と言って、弓を手にすることはありませんでした。死ぬ少し前のある日、紀昌が知人の家に行くと、ひとつの器具がありましたが、どうしても名前も用途も思い出せません。家の主人に尋ねると、主人は「古今無双の射術の名人が、弓を忘れ果てたのか」と驚きます。その後しばらく都では、画家は絵筆を隠し、楽人は弦を断ち、工匠は定規を手にすることを恥じたといいます。

弓矢にかかわる日本のエピソードとしては『大鏡』にある話が面白い。藤原道長が若い頃、めずらしく兄道隆の家に遊びに来ます。息子の伊周が弓の練習をしているところで、いっしょにやらないかと勧められた道長が応じたところ、伊周の射抜いた矢の数が道長に二本及びませんでした。道隆も周りの者も「あと二回、延長だ」と言うので、道長はこれにも応じるのですが、内心ムッとしたのでしょう、「道長の家から帝が生まれるものならこの矢当たれ」と言って射ると見事に命中します。そのあと伊周はびびってしまい、大きく的をはずしてしまいます。道隆家と道長家がどうなったか、その後の結果を知っているだけに、作り話だとしてもこのエピソードは興味深いものがあります。

道長には従兄弟にあたる公任は三船の才で知られる有名人です。いろいろな面で優れており、器用だったのでしょう。道長の父兼家が、おまえたち兄弟は公任の足下にも及ばないと嘆いたとき、みんなうなだれたのに、道長は「俺は公任の顔をふんでやる」と言いました。公任は中納言どまりでしたから、まさしく道長は公任の上に立ち、頭をふんだことになります。でも、兄貴たちだって同様に出世しているのですね。ただ道長のようなセリフが吐けなかっただけ。こういう有名人のエピソードはのちに大物になったからなるほどと思うのですが、出世しそこなった奴でも、同じセリフを吐いていたかもしれません。高校時代の同級生が、「芭蕉が見たのは美しい景色だけか。芭蕉だって旅の途中でドブ川を見たにちがいない。」と言いましたが、芥川の警句のようで、なかなか鋭い。彼が大物になっていたらこのことばも後世に残るのになあ。残念です。

父親が大事にしている桜の木を切って正直に謝ったワシントンのエピソードだって、よく考えればだれにでもありそうな、しょうもない話です。ワシントンが初代大統領になったから、このエピソードが有名になっただけでしょう。希学園でも数々の武勇伝を残している者がいますが、のちに有名人になったときにはエピソードとして語られるのかもしれません。こういうエピソードの使い方がうまかったのは司馬遼太郎です。本当かどうかわからない話でも、タイミングよく語られると、なるほどと思ってしまいます。秋山好古(テレビでは阿部寛)の「騎兵とは何か」を説明するときのエピソードを「余談ながら」とやられると、オオッと思います。語り口のうまさでしょうが、こういうのは池波正太郎もやはりうまい。真田太平記や中村半次郎のような歴史小説だけでなく、この人は仕掛人のシリーズや犯科帳などの時代物もうまかった。仕掛人の藤枝梅安が酒のあてにちょっとした料理をつくるのですが、これがまたおいしそうで食べたくなります。

2021年3月22日 (月)

日本の呂布

名前の印象と実態が乖離しているのはよくあることですが、改名するだけでイメージが変わることもあります。昔、「山岳部」というクラブの部長をしていたことがあったのですが、部長権限で名称変更を申請して見事に認められました。その名も「ハイキング部」。女子部員が全くいなかったのが、改名した途端、入部希望者が続出しました。それまではリュックサックに石をつめこんでガニ股で運動場を歩くような野暮の極致のようなトレーニングをしていたのですが、それもなしにして、パラダイスのようなクラブ活動でした。

「皿洗い」を「ディッシュ・ウォッシャー」と言うと高度な技術を要する仕事のように思えますが、これは名前を変えても実質いっしょ、というパターンですね。「オレオレ詐欺」が「振り込み詐欺」に変わり、さらに「振り込め詐欺」に変わりましたが、これも実質いっしょです。しかも「振り込め」は言いにくい。変える必要があったのかなあ。ことば狩りによって変えさせられるのはもっといやですね。一部の意見にすぎないのに、一見正論で反駁しにくいのがむかつきます。弱者の味方のようなふりをして、実は傲慢な押しつけをしているからむかつくのでしょう。

「~屋」というのも差別だと言って、ことば狩りされているようです。たしかに「床屋」とは最近言わなくなりましたが、こういうことばが消えると『浮世床』の意味もわかりにくくなります。落語のネタにもなっており、私は小学生のころ、「姉川の合戦」をこの話で知りました。浅井長政の裏切りにあった信長が家康とともに浅井・朝倉連合軍と戦う、という有名な合戦であるということも知らずに名前だけをおぼえたのですね。落語って偉大だなあ。真柄十郎左衛門直隆という武将が登場するのですが、昔はこういうマイナーな武将でも知名度は高かったのでしょうね。講談や軍記物にしばしば登場する朝倉家の家来ですが、映画の『クレヨンしんちゃん』にも、真柄直隆がモデルとなった人物が登場していました。

浅井家は大河ドラマでもいつのまにか「アザイ」と発音されるようになりました。「尼子」も昔は「アマコ十勇士」と言っていたのですが、今は「アマゴ」に統一されたようですね。十人とも名前が「~介」になります。最も有名なのが山中鹿之助、「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った人です。その子が伊丹で商売を始めたのが鴻池家の始まりだとか。尼子氏が毛利に滅ぼされて落ち武者となってたどり着いた先の村がのちに「八つ墓村」と呼ばれるようになった、というのは横溝正史の小説です。

尼子氏に滅ぼされた塩冶という一族がいます。塩冶氏の家来赤穴宗右衛門という武士が旅先の加古川で病に倒れ、丈部左門という学者に看病してもらいます。病が治ったあと、主家が滅んだという噂を聞いて確かめに行きたい、と言われて左門はもしそうであるならそんなところに残ってもしょうがない、是非とも帰ってこいと言います。赤穴宗右衛門は九月九日、菊の節句に帰ってくると約束して旅立つのですが、尼子方にとらえられて牢獄へ。友との約束を果たすためには生身の体では無理なので、魂魄となって帰ってきた、という話が上田秋成『雨月物語』の中の「菊花の約」です。高校生のときにこれを読んだ私は古典の教師に、この二人は「そういう」仲かと尋ねたら「するどいな」と言われました。そういう視点でこの物語を読めば純愛小説ですね。

『雨月物語』の文章は平安時代の物語を模したもので擬古文と呼ばれるものですが、江戸時代のものであるせいか、それほど難解ではなく、非常に読みやすい名文です。同じ江戸時代のものでも、西鶴の文章はくせが強く、読みにくい。文語体をベースにしながらも口語体を取り入れた雅俗折衷文体と言われるものです。西欧風のものを目指した明治初期の文学界の風潮に対し、明治もなかごろになると国家意識の高まりとともに復古主義的な傾向が強くなり、西鶴が再評価されます。その代表が尾崎紅葉ですが、『火垂るの墓』で有名な野坂昭如の文章も西鶴に似ているような気がします。

馬琴の『八犬伝』はその点かなり読みやすいものの、いかんせん登場人物が多すぎます。源為朝が琉球へ逃れ、その子が初代琉球王舜天になったという『椿説弓張月』は原文を通して読んだことがないのですが、題名がいい。馬琴の題名センスはさすがです。弓の名人為朝が主人公なので,半月を表す「弓張月」にかけています。為朝は生まれつき乱暴者で、父為義に九州に追放されますが、なんと九州一円を制覇して鎮西八郎と名乗ります。「椿説」は「珍説」つまりめずらしい話というだけでなく「チンゼイ」と読めば「鎮西」に通じます。

為朝の弓は五人張りと言います。「五人がかりで張る弓」ということで、四人で弓を曲げ、残る一人が弦をかけて作るらしい。「三人張り」でも六十キロの腕力が必要だと言われるので、「五人張り」は百キロぐらいの腕力が必要になってくるのでしょうか。義経は小柄だったらしく、使っている弓もヘロヘロだったそうです。それが敵にバレると笑い者になるので、海に弓を落としたとき、泳いでわざわざ取りにいったそうな。それにひきかえ為朝は、4歳のときに牛車をひっくり返したというから、ただ者ではありません。保元の乱のときは17歳、もちろん数え年ですが、そのときすでに身長は2メートル超え、強弓を持ち続けたせいか、左腕が右腕よりも10センチ以上長かったといいます。持っている太刀は三尺五寸、ふつうの太刀より一尺長く、さらに例の五人張りの弓を持っていました。放った矢は敵の鎧を貫き通し、さらにもう一人をしとめ、矢1本で二人串刺しにしたといいます。武勇に優れていただけでなく、頭も悪くないようで、兄義朝に「兄に弓を引くか」と言われても、「おまえは父親に弓引いているではないか」と言い返したそうです。結局は戦いに敗れ、二度と弓が引けぬように腕の腱を切られて伊豆大島へと流罪となります。腕の傷が治ると、なんと三人張りの弓が引けるまでに回復して再び暴れ回り、この強弓を使って、300人が乗った軍船に射かけた矢は見事に命中、船はたちまち沈んでしまいましたとさ。まさに日本の呂布という感じですな。

2021年2月23日 (火)

田吾作おじさん

時代劇で刀をぬく仕草も、さまにならないことがよくありますが、繁昌亭で見た桂吉坊の仕草がオッと思わせるものでした。もちろん落語の中なので座ったままですが、武士の威厳を感じさせる仕草で、こういうのはやはり代々伝わっていくのでしょうか。歌舞伎の世界ではさすがと思わせるものがあります。なにかの番組で改名する前の市川春猿がおやまの肩をすぼめる仕草をして見せていましたが、一瞬で女性の雰囲気が出て、なるほどという感じでした。時代物はそれらしくないと、やはり違和感がありますが、見ているほうも知識がないので、本当は正しいかどうかわかりません。実際はナンバ歩きをしていたからといって、芝居やテレビでそこまでやる必要もないでしょう。

いまや昭和の風俗さえわからなくなりつつあるようで、「しもしもー」なんて、ほんとにやってたのかなーと思います。平野のらは結構忠実にネタを発掘しているらしいのですが。「平野のら」という名前はときどきでくわすパターンですね。サンケイ新聞に「阿比留瑠比」という人がいますが、これは本名かなあ。「三又又三」というのは、…ちょっとちがいますね。昔「木の葉のこ」という人もいました。上から読んでも下から読んでも、というやつですね。回文としては「宇津井健氏の神経痛」とか「お菓子が好き好きスガシカオ」とかいうのもありますな。「スガシカオ」というのもカタカナで書いているだけに、どこで切るのやら。五字で一つの名前なのか。「スガ」が名字で「シカオ」が名前なのか。読むときのアクセントの置き方にも困ります。「米津玄師」もどう読むのか、わかりませんでした。「コメツ」か「ヨネツ」か、「ツ」は濁るのか、「ゲンシ」でよいのか、まさか「ゲンスイ」? それなら「帥」で、字がちがうし…。「one OK rock」も「卑怯」な読み方です。

ちょっと話題になった「AAA」なんて、卑怯です。「トリプル・エー」とは思いませんでした。昔ならこれはタバコの名前で「スリー・エー」と読みました。昔のタバコは「キャメル」とか「ゴールデン・バット」とか、食指をそそらない名前のものがありました。「金鵄」は「ゴールデン・バット」という外国語が使えなくなったために変えられたものだとか。神武天皇が長髄彦との戦いで持っていた弓に止まったと言われる金色のトビですね。どちらの名前にしても「今どき」ではないようですが、場合によっては古くさいものがおしゃれになることもあります。

江戸川乱歩は古くさいのに古びないのが不思議です。永遠の乱歩です。「D坂」なんて、タイトルからしておしゃれです。実名の「団子坂」ではだめだったかもしれません。乱歩のシリーズは春陽堂のリニューアルする前の春陽文庫で読むのがおしゃれです。春陽文庫では山手樹一郎や江崎俊平などの時代小説だけでなく、源氏鶏太や獅子文六のサラリーマン小説も出ていましたが、この手のものは時代がたつと中途半端に古くさくて、違和感ありまくりでした。そしてさらに時がたつと資料的価値さえ生まれて面白く感じます。映画でも「社長漫遊記」とか植木等演じる「平均(たいらひとし)」と名乗るサラリーマンが出るようなものは「レトロ」そのものです。「オールウェイズ」と言うより「古くさいから面白い」のですね。著名人の葬式でいつも泣きながらコメントをする側だった森繁久弥も死んで久しくなりましたが、この人が社長で、三木のり平が専務とか、よくあるパターンでした。森繁はNHKのアナウンサーから満映のスターになったのですね。満映は満州映画の略で、理事長はなんと甘粕正彦です。川中島の合戦で活躍した甘粕景持の子孫で、憲兵時代にいわゆる「甘粕事件」を起こしたあと、満州で甘粕機関を設立して、なぜか満映の理事長になるのですね。口添えをしたのが岸信介だったと言われています。

五味川純平がみずからの満州時代の体験をもとにした『人間の条件』が書かれたころには、それほど古い時代のことを扱っている感じはしなかったでしょうし、仲代達矢主演で映画化されたころでも、そんなに昔という意識はなかったはずです。最近では柳広司がこの時代を扱っていますが、戦後70年以上たてばもはや歴史ものです。『永遠のゼロ』や『メトロに乗って』も広い意味で歴史ものと言ってよいでしょう。友人が帝銀事件を扱った芝居を書きましたが、下山事件とか帝銀事件とか、もはや遠い時代の彼方です。松本清張が「日本の黒い霧」を書いたころなら、まだ関係者が生きていたでしょうが。なにしろ東京オリンピックが大河ドラマの素材になったのですからね。大河の主人公としては知名度が低かったこともあって失敗作になってしまいました。やはり有名人でないとだめなんですね。日本人が歴史上最も好きな人物を問われれば、どうしても信長・秀吉・龍馬あたりになります。

「小説家では」と問われると現役の作家なら答えが分かれますが、明治~昭和と限定すると、やはり一位は漱石でしょうか。では、その次は? このあたりはアンケートの取り方で変わりそうです。一名のみ答える形式なのか、十名連記なのか。鴎外は漱石と並び称せられるのですが、一名のみのアンケートでは弱そうです。紅露時代と呼ばれたころもあったのですが、いまや尾崎紅葉・幸田露伴ともに忘れられています。金色夜叉なんて橋本治の現代バージョンもあったのですがね。川端康成と横光利一も新感覚派の双璧だったのに、横光はもはやだれも知らない? 昭和は遠くなりにけり、です。

このことばのもとになった「降る雪や明治は遠くなりにけり」は中村草田男の句ですが、「や」「けり」の二つの切れ字が使われています。切れ字のところが感動の中心になるので二つの切れ字を使うと焦点がぼやけて、よくないとされています。ただ、俳句って、一見かかわりのなさそうな二つの題材を結びつけることがよくあるので、二つの切れ字があっても不思議ではありません。俳句のあとにくっつけると、どんな俳句もたちまち短歌に早変わりという七七の有名なことばもあります。「それにつけても金のほしさよ」ですな。「古池やかわず飛び込む水の音それにつけても金のほしさよ」「しずかさや岩にしみいる蝉の声それにつけても金のほしさよ」…オールマイティです。かなり以前、「それにつけてもおやつはカール」というCMがありましたが、これでもよさそうです。CMに出てくるカールおじさんがどう見てもそんなおしゃれな名前ではなく「田吾作おじさん」にしか見えないのが残念でした。

2021年2月 9日 (火)

時代劇のなんだかなあ

「天神山」という話は前半と後半で主人公が変わるという妙な話で、下げ(オチ)なしで終わることがよくあります。ヘンチキの源助という変人の男が、オマル弁当にしびん酒で花見に出かけようとして、「花見に行くのか」と言われます。変人ですから、そう言われると花見には行きたくない、「墓見」に行こうと一心寺に向かいます。「小糸」と書かれた石塔の前で、一人で酒盛りをした帰り際、土の中からしゃれこうべが出ているのを見つけ、根付けか置物にしようと持って帰ります。その夜、しゃれこうべの主である小糸の幽霊が現れ、昼間の手向けの酒が有難かった、ついては押しかけ女房に、と言われます。隣に住んでいるのが、どうらんの安兵衛。源助から幽霊の女房は金かからんぞと言われ、一心寺に出かけますが、そうそうしゃれこうべがあるわけもなく、向かいの天神山にある安居の天神さんへ行って、女房が来ますようにとお願いして帰ろうとします。たまたま狐を捕まえている男に出くわし、捕まった狐を買い取って逃がしてやります。その後、狐は若い女の姿になって、これも押しかけ女房になります。男の子が生まれ、三年たったころ、正体がばれてしまい、狐の女房は「恋しくばたずね来てみよ南なる天神山の森の奥まで」という歌を障子に書き残して去って行くという話です。

下げの部分は、狐の女房が「もうコンコン」と言って姿を消すパターンもありますが、書き残された歌を見て、狂乱して後を追うパターンもあります。これは、浄瑠璃や歌舞伎の「蘆屋道満大内鑑」のパロディ仕立てになります。歌を「曲書き」して障子抜けをして狐が去って行くという形をとることもあります。「曲書き」というのは、左右の手を使ったり、下から上へ逆書きしたり、裏文字にしたりして、最後は口にくわえた筆で文字を書くのですね。人間ではないということを強調しているのでしょう。「下げ」をつける場合は、「芦屋道満」「葛の葉」をもじって、「貸家道楽大裏長屋、ぐずの嬶(かか)の子ほったらかし」としたり、安兵衛の叔父さんが「安兵衛はここには来ん来ん」と言って「あ、おっさんも狐や」としたり、というパターンもあったようです。枝雀は前者の型でやったこともありますが、「お芝居にあります『芦屋道満大内鑑、葛の葉の子別れ』、ある春の日のお話です」と言って終わることが多かったようです。

安居の天神さんは、菅原道真が筑紫に左遷される道中、この神社の境内でしばし安居したところから名付けられたと言います。場所は天王寺で、大阪のど真ん中という感じがしますが、きつねがいたのですね。星光学院のちょっと南、谷九教室からも歩いて行ける距離なのに。たしかに今でも木が鬱蒼としています。ここは真田幸村が死んだところで、骨仏で有名な一心寺の向かいです。ここのシアターで友人が演出した芝居を見に行きましたが、アットホームでなかなかいい劇場です。島之内寄席というのがありますが、はじめは心斎橋の島之内教会の礼拝堂を借りたものでした。畳敷きで、好きなところに座れるようになっていました。交通事故で亡くなった林家小染がトリだったのでしょうか、演じているときに、一升瓶をかかえたおっさんがすぐ前で寝っ転がりながら、「小染ー、一人でしゃべってて、おもろいかー」と茶々を入れてたことを覚えています。やりにくかったやろなー。

尼崎市総合文化センターで米朝一門の勉強会をやっているのを見に行ったことがあります。といっても、アルカイックホールではなく、会議室で机を積んで高座にしていました。今考えるとなかなかのものです。昔、朝日放送のABCホールで公開録画があって、よく見に行きました。実際に放送するのは漫才二組ぐらいで、それだけではお客が来てくれないので、落語やら奇術やら、いろいろな芸人が演じていました。しかも無料。ゼンジー北京とかフラワーショー、横山ホットブラザースをただで見ていたわけですね。その前座みたいな感じで、やすしきよしという新人が一生懸命やっていて、こいつらちょっとオモロイなと小学生だった私は思いましたが、桂米朝というおっさんが一人でしゃべりはじめると「オモンナイ」ということで客席の間を友達と走り回って遊んでいましたなあ。のちに人間国宝になるなんて思いもしません。単なる地味な芸人さんと思っていました。

株主優待券というものをもらって(株主というわけではなく、父親の友人が株主だったのです)なんばの大劇名画座とかアシベ劇場という映画館によく行っていました。大劇はOSKの本拠地だったところです。千日デパートも同じ系列で、ちょうど私がよく行っていたころに例の大火災がありました。名画座は古い映画をやっていて、マカロニウェスタンはここでかなり見ました。クリント・イーストウッド、ジュリアーノ・ジェンマ、フランコ・ネロたちが主演の、全体に茶色っぽい色調の映画でした。映画だけでなく、なぜか実演もあって歌手がステージに立って歌うこともありました。無名の歌手でしたがね。

合格祝賀会は、アルカイックホールでやったこともありますが、新大阪のメルパルクホールがほとんどです。30本近くの台本を書いてきました。その年のはやりものをテーマにすることが多いので古い台本は時代を感じさせます。ナレーションでも、初めのころは題名を言わないことが多かったのですが、『ファイナル・クエストⅦ』というタイトルは口にした記憶があります。これなんか、まさにそのときでないとだめなタイトルです。なかには『原田のおじさん』という、わけのわからないものもあるのですが、これは中島らものパクリでした。時代ものも何回かやっています。でも、衣装やカツラに困ることもあり、最近はやっていません。時代劇はお金がかかる。

それでも最近テレビでは少しずつ時代劇が復活しています。NHKが土曜の6時半ぐらいにやっていたり、民放でも定番の山本周五郎の小説のドラマ化をやったり、水戸黄門が武田鉄矢で復活したのは笑いました。助さん格さんを「このバカチンがー」と叱ったのでしょうか。時代劇では、若い役者の演技、たたずまいで不自然に感じることがありますね。所作や歩き方が時代劇らしくない。若い女性が外股で歩いたりすると、なんだかなあと思います。もちろん実際の江戸時代の人々の様子などわかるはずもないので、あくまでも時代劇という「ワク」の中の話ですが…。

2020年12月20日 (日)

モヤモヤーとして臭い

落語は、もともと正式な題名がないものもあったようで、だんだんと自然発生的についていったのでしょう。ですから複数の題名がついているものもあります。ネタバレになるものもあって、たとえば「肝つぶし」などは別の題名にしたほうがよさそうです。吉松という男が恋患い、友達がどこの娘だと聞くと、先日、呉服屋に買い物に行ったところ、番頭に邪険な客扱いをされた。店の娘が番頭を叱りつけ、買った物のほかに、反物を仕立てて長屋まで持って来てくれる。その夜、呉服屋の娘がやってきて、番頭のたくらみで、今晩仮祝言を挙げさせられると言う。娘の父親が死んでいるのをいいことに、娘を他家へ嫁がせ、店を乗っ取ろうとしている、今夜はここでかくまってくれと言うのだが、そこへ若い者を連れてやって来た番頭が、娘を引っ張って行ってしまう。手出しもできないまま、娘を奪われたくやしさに涙がこぼれる。そのとき、チーン、チーンという音で目が覚めたら二時やった、ということで、なんと全部夢の話。吉松が医者に聞くと、唐土の古い本に、夢の中の女に惚れて命が危うくなったときに、辰年の辰の月、辰の日、辰の刻のように年月揃って生まれた女の生き肝を煎じて飲ましたら、スッと治ったという話が書いてあると言う。両親を早くなくした友達は、吉松の親父からは息子同様に育てられた恩義があり、なんとか助けてやりたい。家へ戻って飯を食う気にもなれず酒を飲みだすのだが、妹のお花が年月揃った女であることに気づいてしまう。先に寝たお花の顔を見ながら、台所から持ってきた包丁を振り上げるが、妹のあわれさに涙をこぼすと、お花の顔に。目覚めた妹に、「仲間内で芝居をすることになって、寝てる女を出刃で殺す役が当たって稽古をしようと思うたんや」と言い訳をすると、お花は「ああ、びっくりした、肝が潰れた」「肝が潰れた? 薬にならんがな」という下げです。

下げの部分で聞き手はカタルシスを感じるので、前もってわかっているのはよくありません。もちろん、マニアになると、題名も下げも全部わかったうえで、話芸を楽しんでいるのでしょうが…。同じ落語で「死ぬなら今」というのは、その点、実に秀逸なタイトルです。演者は、なぜこの題名なのかは、しまいまで聴いたらわかるという仕組みになっていると強調してから始めることになっています。人を泣かせる阿漕な商いで身代を築いた船場の大店の赤螺屋ケチ兵衛さん、病となり、死を覚悟する。地獄行きは免れないとわかっているので、せがれに「三途の川の渡し賃を入れる頭陀袋に六文銭のほか百両入れてくれ」と頼みます。百両を閻魔大王への賄賂に使って、地獄から極楽に行かせてもらおうという魂胆です。ところが、葬式の時に親戚の叔父さんに見つかり、天下のお宝を土に埋めたらあかんと言われます。そこで芝居で使う小判を手に入れて、頭陀袋に入れます。ケチ兵衛さんは、閻魔大王に地獄行きを宣告されますが、例の百両を閻魔さんの袖の下に。閻魔さんの態度は一変して、「一代でこれほどの身代をなしたのはあっぱれ」と、極楽行きにしてしまいます。ところが、赤鬼や青鬼らも分け前をくれと騒ぎ出し、弱みを握られた閻魔さんは、赤鬼、青鬼らを引き連れて、冥土のキタとミナミで小判を使って遊び回ります。そのうち、その小判が極楽へと回ってきて偽小判とわかり、奉行所へ訴えられます。奉行はただちに特別機動隊を地獄へ派遣します。キタのバー「血の池」で盛り上がっていた閻魔さんたちは全員逮捕され、監獄行きとなりました。というわけで、地獄はいま閉店休業、「死ぬなら今」。下げをあらかじめ言っているのに、最後まで予想がつかない。最後の最後でタイトルが下げになるという鮮やかさ。米朝さんもやっていましたが、先代の文我でも聞いた覚えがあります。

「下げでカタルシス」と言いましたが、「延陽伯」の下げはいまでは通用しなくなって、カタルシスどころかきょとんとしてしまう人もいるかもしれません。東京では「たらちね」という題で演じられる話ですが、長屋に住む独り者のところに縁談がもちこまれます。京都のお公家さんのところへ奉公していたということで、ことばが丁寧すぎるという女の人。「わらわこんちょう、たかつがやしろにさんけいなし、まえなるはくしゅばいさてんにやすろう。はるかさいほうをながむれば、むつのかぶとのいただきより、どふうはげしゅうしてしょうしゃがんにゅうす」という具合。そのあと男は銭湯に行くのですが、このあたりの描写は枝雀がやはり面白い。夜に女がやってきて、名前を聞くと、「なになに、わらわの姓名なるや?」「あんた、わらやの清兵衛はんちゅうんですか? 男みたいな名前でんなぁ」「これは異なことをのたもう。わらわ父は元京都の産にして、姓は安藤、名は慶三、あざなを五光と申せしが、我が母、三十三歳の折、ある夜丹頂を夢見て、わらわを孕みしが故に、たらちねの胎内をいでし頃は鶴女、鶴女と申せしが、これは幼名、成長ののちこれを改め延陽伯と申すなり」というやりとりも面白い。翌朝、枕元に手をついて、「あ~ら我が君、もはや日も東天に輝きませば、お起きあって、うがい手水に身を清め、神前仏前に御あかしをあげられ、朝餉の膳につき給うべし。恐惶謹言」「飯を食うことが恐惶謹言か。そしたら、酒飲んだら酔ってくだんの如しやな」という下げ。いまどき、「恐惶謹言」も通じないし、「よってくだんのごとし」も意味不明でしょう。もともと関西弁にもなっていません。かといって「酔うて」とすると、ますます意味がわかりにくくなります。下げが通じにくくなった話は演者によって、いろいろ変更を加えられています。

「頭山」の下げはシュールで今でも通用する魅力的なものです。ケチな男が、もったいないとさくらんぼの種まで食べたところ、そのさくらんぼの種は腹の中で根をはり、やがて頭の上に芽を出して大きく育っていきます。春になると花が咲いたので、大勢人が集まり、頭の上で花見を始めました。ドンチャン騒ぎに怒った男は桜の木を引っこ抜いてしまいます。すると頭の真ん中に大きな窪みができてしまい、表で夕立にあったとき、穴に水が溜まって池になりますが、ケチな男はその水を捨てようとしません。やがて、その水にボウフラが湧き、それを餌にして鮒やら鯉やら湧いてきました。それを聞きつけて大勢釣りにやってきます。朝から晩まで大騒ぎ、ケチな男はこんなにうるさくてはたまらんと、その池にドッボーン。上方では、「さくらんぼ」という題で枝雀がやっていましたが、「おい、芳、いてるか」というセリフで始まる細かい場面を積み重ねるという凝った作りで、結構長い話にしていました。下げも夫婦で飛び込む形になっています。これは枝雀の理論「緊張の緩和で下げになる」があてはまりません。むしろモヤモヤ感が残ります。

2020年12月 9日 (水)

意味不明

「ギャグ」ということばも本来の意味とはちがう使い方をしていますね。「面白いフレーズ」ぐらいの意味で使っています。中には「インガスンガスン」のような意味不明のことばもありますが…。吉本の漫才などの芸人は全国区になっている人が多いのに、新喜劇の知名度が低く、東京に進出できないのは、吉本新喜劇の面白さが東京人にはわからないからだ、と言う人もいます。いやいや、実は面白くないことが多いのですよ、新喜劇は。「反復の面白さ」「マンネリゆえの面白さ」で、これはたしかに関西人は好きです。しつこく繰り返すのをよしとするのですね。では、なぜ繰り返すとおもしろいのか? 逆説的ですが、「また出た」というのは「意外」につながるからかもしれません。同じことが二度続くのはないわけではないのですが、三度となるとめずらしい。忘れたころにまた出てくると、意表をつかれて「また出た」と思って笑ってしまう、というのが元々あったのでしょう。そして、それが一つのパターンになると、吉本の場合は「ほら、また出た」となって、熟達した観客は「ここ笑うとこよ」というシグナルを感受するのでしょう。

「意外」というのは笑いにつながります。きどった女性がバナナの皮をふんでスッテンコロリンと転ぶのは「意外」です。「そっくりさん」も意外さなのでしょう。ちがう人なのに共通点が多いことに気づいて笑うのです。これは「だじゃれ」も同じです。ちがうはずのことばなのに、音がよく似ていて結びつきが生まれるという意外さです。笑福亭たまの小咄で「B29」というタイトルのものがあります。「この鉛筆濃いなあ」これだけです。このフレーズそのものはべつに面白いわけではありません。タイトルと組み合わさると面白くなるのですね。意外な組み合わせなのに結びついてしまうから笑いが起こります。

タイトルとセットになってはじめて面白くなるものとして、写真で出された「お題」に対して「ボケ」を投稿するサイトがありました。たとえばミレーの『落ち穂拾い』の絵に、「集団ぎっくり腰」とか「ポップコーン開けるの下手すぎやろ」とかつけるようなものです。的確であるから笑うのですが、同時に「そう来るか」という意外性ですね。意外な切り口というのは、オッと思って楽しくなり、笑いにつながります。突飛さは笑いを生みます。予想もしなかったときの驚きや楽しさが笑いなのだ、と言ってもよいかもしれません。「屁をひって面白くもなしひとりもの」という川柳がありますが、自分のおならは自分で予想できますから面白くもなんともありません。シーンとしているときにだれがプーとやると笑いが起こります。特にテスト中という「緊張感」とまぬけな音の組み合わせはまさに笑いのタイミングになります。

ブラックユーモアと呼ばれるものは、意外さを生み出すものがやや不健康なものなので大笑いになりませんが、ジワッと笑えます。もう三年ぐらい前になりますか、面白いなと思って、いまだに覚えている四コマ漫画があります。朝日新聞の『ののちゃん』です。「幽霊屋敷」から出てきたののちゃんたちが「つまんなかったねー」「ぼろくて床が揺れてた」「カネかえせ。どこが幽霊やねん」と言っているのですが、最後のコマで「幽霊屋敷」と書かれた看板の横の屋敷が、かすかに地面から浮きあがっていることがわかります。つまり「幽霊の出る屋敷」ではなく、屋敷そのものが「幽霊」だったのですね。これはダブルミーニングのおもしろさでもあります。『おさるの日記』のように秀逸なものは少ないのですが、ダブルミーニングのことばはたしかに面白い。「よくきえる消しゴム」なんてね。「帰ってきた兵隊やくざ」も「日本に帰ってきた」と「復活した」の二つの意味になります。

題名だけで心ひかれるものってありますよね。エドガー・アラン・ポオの『ナイト・ウォーク』を直訳しただけの『夜歩く』は秀逸なタイトルです。インパクトがすごい。『緋文字』なんて魅力的なタイトルです。題名だけで勝手に中身を想像していて、実は全然ちがうということもあります。新感覚派の巨匠、横光利一の『日輪』なんて、だれが卑弥呼の話と思うでしょうか。『細雪』も魅力的なタイトルですが、もともとあったことばなのか作者の造語なのか。

古典作品には安易なネーミングのものもあります。「枕草子」は「枕元に置いて読む本」という意味のようですし、「今昔物語」や「徒然草」は冒頭のことばがそのまま題名になっています。作者がつけたものではなく、後の時代の人が「つれづれ」ということばで始まる本、ということで勝手に「つれづれ草」と呼んだのかもしれません。もちろん「行く河の…」で始まっても「方丈記」というのもあります。「方丈」というのは「一丈四方」つまり小さな掘っ立て小屋のことで、元祖プレハブ住宅のようなもので仮住まいをしていて書いたのでつけられたのでしょう。「祇園精舎の…」で始まっても、平家一門の興亡を描いているから「平家物語」という王道タイトルもあります。でも、明治以降だって、漱石の「猫」は冒頭の一文がそのままタイトルになっています。漱石はわりと安易にタイトルをつけていたようで、「先生、次の作品はいつごろできますか」と問われて「そうさなあ、彼岸過ぎまでには…」と言ってそのまま題名にしたものもあります。

映画の題名も、昔は邦題として「哀愁」のようなことばをひねり出して、無味乾燥な原題より、ずっと魅力的にしていました。題名がちがえばヒットしなかった作品もいっぱいありそうです。「俺たちに明日はない」や「明日に向かって撃て」は二人の登場人物の名前を並べただけの原題では見に行く気がしなかったかもしれません。原題は『一番長い日』という意味なのに「史上最大の作戦』にしたのは水野晴郎でした。「華麗なる…」や「怒りの…」などはヒットした作品にあやかってつけるのですが、たいていつまらないものになっています。「ロシアより愛をこめて」や「風と共に去りぬ」は直訳なのにオシャレです。最近では原題を単にカタカナにしているだけで意味不明のものが結構あります。「エイリアン」「マトリックス」「ターミネーター」などもはじめは意味不明でした。中には原題とはちがうカタカナのことばもあるらしい。しかも意味不明。意味不明はだめでしょ。もっとも音楽でも、バッハの「主よ人の望みの喜びよ」のような意味不明のタイトルのものもありますが…。

2020年11月29日 (日)

キメハラ

元祖教育ママと言えば孟母ですね。三遷の教えで有名です。孟子は性善説、荀子は性悪説、とよく言われますが、中国も物事を単純に二つにわける西洋式に近いようですね。日本は単純に分けるのを好みません。むしろ「玉虫色」をよしとします。「明日は雨が降るような天気ではない」とか「父は死んでいない」が二通りの解釈ができる、というような話をすると、子どもたちはずいぶんおもしろがります。「すごい」のような単純なことばでも、「すばらしい」場合にも「ひどい」場合にも使えます。「あいつの成績、すごいな」は、どっちの意味で言っているのでしょうか。これは「あいつ」がだれなのかによって変わってくるのです。

「号泣」や「爆笑」などは、元の意味とはちがう使われ方をします。本屋に行くと、書店員の書いたポップがついていることがあります。「号泣」と書いてあったら、「本を読んでガオーッと泣くやつがおるかい」とつっこみたくなりますし、「爆笑」とあれば「おまえは何人おるんや、大勢が笑うことを『爆笑』と言うんや」とぼやきたくなりますが、「ことばは時代によって変化するもの、ゆるしてやったらどーや」と吉本新喜劇風に自らを戒めます。それでも「あまりの衝撃に三日間寝込んだ」と書かれていれば、「嘘はアカンやろ」と思います。

新聞の記事のように見えて、実は全面広告という、嘘すれすれのものを、たまに夕刊で見ることがあります。生姜シロップか何かの広告の小見出しで「思わずとりはだが立ちました」とありました。つっこみどころが二つ。「とりはだが立つ」を恐怖や気味悪さでなく、プラスの感動表現で使ってるのは、もはや「ゆるしてやったらどーや」ですが、「思わず」は無意識のうちに行動する様子を表すことばなので、「とりはだが立つ」のような生理現象に使うのはなんとなく違和感があります。新聞の言葉で思い出しました。かなり昔、阪神の金本が現役のころです。決勝の3ランで逆転したのですが、そのときの朝日新聞の見出しに、「味方のミスを帳消し」とありました。「帳消し」はプラスのものを台無しにしてしまうイメージがあったので、ちよっとひっかかったのです。「消し」のニュアンスから、相殺されて価値や意味が「なくなる」意味だと思い込んでいたのですが、マイナスのものを「消す」ときにも使うようです。「この親にしてこの子あり」はプラスかマイナスのどちらで使うのでしょう。本来は立派な親子の場合に使うはずですが、たしかに、だめな親子の場合にも使えそうな気もします。

これは、と思ったのはテレビのニュース番組で「トランプ大統領、内政問題で火の車、外交で活路を見いだせるか」というナレーション、スーパーにも出ていました。「火の車」は経済状態が苦しいことなので、内政問題が火の車、とは何が言いたいのやら。集中砲火をうけているのなら「火だるま」ですが単に内政がうまくいっていないという意味なのか。洋服の青山のCMで毎春「いまご来店の方には素敵な粗品をさしあげます」と言っているのはわかっていてやってるのか。…頑固じじいの悪口のような「国語批判」は、じつは的外れなのかもしれません。ことばはどんどん変化していくものです。そのときは「まちがい」であっても、時間がたって、みんなが使うようになれば「正しい」ことばになっていきます。

最近気がついたこととしては、熟語の副詞的用法がやや多くなってきているような。たとえば「…なのは勿論だ」から「勿論…だ」のように、熟語を単独で修飾語としてそのまま使うことです。昔からあったわけですが、「結果」「基本」「原則」などは比較的最近使われだしたものではないでしょうか。略語も昔からよく使われますが、新しいものがどんどんつくられます。「たなぼた」や「やぶへび」のようなことわざ系では「ちりつも」「みみたこ」「るいとも」などを使う人がいます。「あけおめ」や「なるはや」などはさすがに目上の人には使わないでしょうが…。でも、「国体」や「テレビ」だって略語のはずです。使い慣れてきたら、なんら抵抗がなくなるのでしょう。とくに外来語で長くなるのは略したいわけで、「セクハラ」とか「コスプレ」とかはふつうに使います。「キムタク」「クドカン」「セカオワ」は仲間意識をそれとなく示すものだったでしょうし、「バンセン」などは専門用語です。「キモオタ」とか「ヒトカラ」は何なのでしょうね。「一人カラオケ」は略せるけど「一人焼き肉」は略しにくいし。「キメハラ」なんて、新しいことばも生まれています。「『鬼滅の刃』ハラスメント」の略ということで、「鬼滅、見てないの」とか「鬼滅が嫌いって、アホちゃう」とか言って、同調圧力をふりかざすことらしい。

何年か前、書き言葉、話し言葉に対して、打ち言葉が生まれつつあると文化庁が発表しました。SNSやメールで使う、くだけた感じの表現で、絵文字などを多用するような書き方のことのようですが、「おk」とか「うp」とか、文末の「ww」とかも含まれるそうな。たしかにそうかもしれません。ことばはどんどん変化します。古語の中には、元の意味では使われなくなったのに、新しく生まれた意味が生き残って、いまだに使われているものもあります。「しがらみ」などはそうですね。「かぶりをふる」ということばも、「かむり」つまり「かんむり」と関係があるなんて、言われないと気がつきません。

だれの文章だったか、八丈島かどこかへ行って、「めならべ」という意味不明のことばを聞いて、しばらく考えるうちに「女の子」のことだとわかった、というのがありました。「女童(めわらべ)」のなまったものだったのですね。平安時代に使われていたようなことばが多少変化してもいまだたに使われているわけです。それに比べるとやはり新語の寿命は短いことが多いようです。「ナウい」はすぐ消えるだろうと思われたのに使われつづけ、どうやら定着しそうだと思われたころに消えてしまいました。こういうことばは辞書に入れるかどうか悩むそうですね。流行語にすぎないと見なせるものは、やはり載せないでしょう。「チョベリバ」や「激おこプンプン丸」のような、わざとらしすぎて実は流行っていなかったことばなんて載るわけがない。吉本の「ギャグ」も辞書には載りません。

2020年11月15日 (日)

劣等生仲間

最近のテレビのエンドロールは異様に速すぎることがあって、動体視力の弱い人間には追いつけません。あの俳優、誰だっけと思って確認しようとしても、アララーと言ううちに消え去っていきます。脇役でよく見るのに名前を知らない人がいて、たまに誰だろうと思うことがあるのに…。たとえばそういう人のひとり、『ラストサムライ』にも出ていた「先生」はちょっと有名になりました。時代劇の斬られ役専門の人で、福本清三という人です。悪徳商人とか「や○ざ」の親分の用心棒の役などがぴったりの人で、「先生、お願いします」と言われて出てくるのですが、二枚目の主人公にすぐに斬られて死んでしまいます。『探偵ナイトスクープ』で、「先生」の正体が知りたいという依頼が来て、桂小枝探偵が「センセー、センセー」と呼びかけたことがあり、通称としてすっかり定着してしまいました。

最近は脇役が注目を浴びることが多くなってきました。脇役と言うとしょぼい感じですが、バイプレイヤーと言うと、何かかっこいい。遠藤憲一、松重豊、滝藤賢一、甲本雅裕、六角精児…。昔も吉田義夫、遠藤太津朗、進藤英太郎、成田三樹夫とか、ピラニア軍団というのもいました。しかし今は昔以上に「活躍」して、主役なみの人気をもつようになってきています。こういう「脇役」をズラリとそろえると「豪華な配役」という感じさえします。配役を見ただけでは正体がわからないことも多い。悪役だけでなく、善玉を演じることも多くなってきて、たまに悪役を演じると新鮮に感じる、なんて妙な現象も起きます。善悪両方いける人が多くなってきたのでしょうか。高橋英樹でさえ悪役をやったりします。昔だったら考えられないことですね。高倉健さんは悪役は無理かなあ。若いころに佐々木小次郎をやったことがありますが、悪役ではないし、「や○ざ」の役が多いので純粋な善とは言えないけれど、悪役とは言えません。たまに主役級二人をそろえて「コラボ」と言うことがありますが、この使い方はどうなのでしょう。「コラボ」って、なんだか「異種」という条件が必要な感じがします。ソロの歌手二人なら「コラボ」と言えそうですが…。演劇の場合は、一人芝居もないわけではないものの、大勢の人で演じるのが原則なので「コラボ」って言うと違和感があります。

小説家二人で一つの作品を書くのは「コラボ」でしょうか。エラリー・クイーンは有名だし、岡嶋二人などは自らそう名乗っています。木皿泉は夫婦ですね。島崎藤村はちがいます。「しまざき」と「ふじむら」の漫才コンビのようでもありますが…。小説家ではないけれど、藤子不二雄もそうですね。単独で描くときにはFとかAとかを入れて区別していました。あるドラマに別のドラマの要素がチラッとはいってくることがあります。作り手のお遊びと言うか、ファンサービスみたいなものでしょう。『99.9 刑事専門弁護士』というドラマのラストで、岸部一徳演じる弁護士が「私、辞職しないので」と言ったのは、自分が出ている別のドラマのもじりでした。こういうのは「コラボ」とは言わないのですね。このドラマはなかなかおもしろかったのですが、設定に無理のある回もありました。トリックを重視すると、どうしてもストーリーや人物設定に無理が出てしまうのですね。ただし、そんなアホな、という動機で起こす事件や間抜けな展開になる事件も世の中にはよくあります。まさに「事実は小説よりも奇なり」ですが、これは、だれのことばなのでしょう。出所不明なのでしょうか。「天災は忘れたころにやってくる」は寺田寅彦のことばとされています。ところが、少なくとも弟子の中谷宇吉郎の証言によれば、書いたものの中には登場してこないようです。

寺田寅彦といえば、『帝都物語』に登場していました。荒俣宏のこの小説は将門伝説をふまえています。魔人加藤保憲が平将門の怨霊を使って帝都破壊をもくろむという話です。将門は日本最大の怨霊の一つです。首塚も東京の真ん中に今なお残っています。京都の三条川原でさらされた将門の首級がなかなか腐らず、夜な夜な「俺の体はどこだ。首をつないでもう一度戦おう」と叫び続けたとか。やがて、残された胴体を求めて板東の地まで飛んでいったことになっています。都市再開発で、これを取り壊して建物をつくろうとしたとき、不穏な事故が相次いだ、ということで、いまだに祟りが残っているわけです。神田明神は将門を祀っています。神田祭も将門ゆかりのものなのですね。

またまた大河ドラマの話ですが、将門は加藤剛が演じていました。『風と雲と虹と』という作品で、原作は海音寺潮五郎です。藤原純友を緒形拳、今はすっかりしぶい俳優になった草刈正雄も出ていました。ヒロインはなんと吉永小百合。今考えても、なかなか豪華な出演者だったし、ドラマのつくりも荘重なものでした。ドラマの中でもあつかわれていたと思いますが、菅原道真と将門は実はちょっとしたつながりがあるのですね。この二人に崇徳院を入れて日本三大怨霊ですが、怨霊つながりというだけでなく、道真が死んだ年に将門が生まれており、将門は道真の生まれ変わりだと言われていたらしい。道真の霊験によって、将門は「新皇」の位記を授けられます。道真の霊が宿った巫女が「八幡大菩薩が汝に天皇の位を授ける」と託宣したのだとか。道真の息子は将門の弟の学問の師匠だったという話もあります。怨霊になってもおかしくないような最期を遂げたことから両者のイメージが重なり、生まれ変わり説などが生まれたのかもしれません。

こういうオカルト系の話は昔から根強いファンがおり、最近平田篤胤もちょっと注目されています。天狗考とか神隠しとか。前にも触れたような気がしますが、平田派の国学者の息子の島崎藤村の『夜明け前』にもUFOらしきものを目撃した話が出てきます。この小説は維新前を「夜明け前」にたとえたわけですが、それから約150年、まさに「明治は遠くなりにけり」です。でも、明治45年は1913年ですから、たかだか100年前です。安岡章太郎は、龍馬ともかかわりがあった先祖の話を書いています。吉田東洋暗殺にかかわった人物ですが、自分の身内のことを語っている感じです。調べてみたら、安岡章太郎は、1920年生まれなので、そう遠い過去のことではないのですね。安岡章太郎は、『宿題』という作品が昔よく入試に出ていました。母親が今で言う教育ママみたいな人だったようです。でも、ずっと劣等生だった、と自ら語っています。灘中で劣等生だったという遠藤周作と仲が良かったのも、そのせいかなあ。

2020年10月18日 (日)

明るくなるまで待って

「天勾践を空しうするなかれ時に范蠡なきにしもあらず」の范蠡は越王勾践の謀臣でした。范蠡は呉を滅ぼしたあと、用済みになった自分が勾践に疎んじられることを予見して職を辞します。「狡兎死して走狗烹らる」ということばはこのときのものです。その後、商人として大成功したとも言われます。ところが、日本へ逃げてきたという「トンデモ説」もあります。中国では、倭人は呉の太伯の子孫だと言っていました。長江のほとりにあった呉や越の人が日本にやってきた可能性は十分あります。稲作を伝えたのもそういう人たちかもしれません。范蠡たちがやってきた証拠に「呉」も「越」も日本の地名となって残っているではないかというバカバカしい説です。なるほど広島には「呉」があり、新潟・富山・福井のあたりは「越」です。

ただ、たしかに「呉」は「くれ」と読んで、大陸からやってきた人の祖国とされたことはあるようです。「呉服」という名字の人がたまにいますが、これは「くれは」と読むことがあります。「服部」は衣服をつくる朝廷の部民で「はたおりべ」と言いました。「はたおり」がなまって「はとり」「はっとり」となるわけで、「呉服」は「くれ+は(っとり)」ということでしょう。「くれのはたおりべ」ですね。「くれない」ということばも「呉の藍」がつまったものです。これらの「呉」は「中国」の代名詞として使われているようです。中国を代表する国としては他に「秦」があり、これが「支那」や「チャイナ」の語源になります。また、「漢字」とか「漢方薬」というように、「漢」も中国を意味します。「唐」という大帝国も当然、中国の代名詞ですね。「唐土」と書いて「もろこし」と読むのはちょっと変ですが。それらの国に比べると呉はローカルなのに、中国を代表する国のようになっているのは妙といえば妙です。

秦氏は秦の国と関係があるのかどうかはわかりませんが、渡来系であることはたしかなようです。室町時代の大名である大内氏が半島系であることははっきりしていますが、なんと長宗我部氏は秦氏ですね。講談の難波戦記でも大坂城にこもった武将の名を列挙するところで、長宗我部宮内少輔秦盛親と言っています。名字だけ見れば、蘇我氏の部民のような感じもしますが。朝廷だけでなく豪族の部民も存在しましたから。香宗我部氏というのもいます。長岡のあたりにいたのが長宗我部、香美のあたりにいたのが香宗我部です。土佐には七つの有力国人がいましたが、元親が幼いころには長宗我部は最弱だったようです。

長宗我部氏は四国を統一したあと、信長とトラブルがあったようで、本能寺の変の遠因にもなっているという説があります。元親は光秀の家老、齋藤利三と縁戚関係があり、光秀が信長との間で身動きがとれなくなったという説です。結局はその後、長宗我部氏は秀吉に屈して土佐一国の領土にもどります。さらに関ヶ原で敗れて、家はつぶれ、盛親は京都で寺子屋の師匠をしていました。お家再興を目ざしたのですが、結局かなわず、土佐国は山内一豊の領国になります。しかし、土佐には長宗我部の遺臣が多く、山内家は強引に滅ぼしたり、臣下に組み込んだりします。山内家の本来の家臣とは、上士・下士として差別されます。長宗我部系は下士・郷士になるわけで、坂本竜馬は郷士出身ですね。安岡章太郎の家もそうです。長宗我部の家臣に福留姓の者がいますが、福留功男も土佐出身なので郷士の出かもしれません。

大江健三郎の『万延元年のフットボール』に「チョーソカベ」ということばが出てきます。自分たちを守る「森」に襲ってくる者、という位置づけですが、カタカナ表記をすることで、異世界の妖怪のような雰囲気を漂わせています。大江健三郎は愛媛なので四国統一を目ざす長宗我部元親の軍勢を恐れた人々の記憶に「チョーソカベ」という名前が強く残されたのかもしれません。元寇の際、「蒙古高句麗がやってきた」といって怖れたことから、博多あたりでは、子供が泣き止まないときに「むくりこくりが来るぞ」と脅すようになったと言いますが、それと同じようなものでしょう。

大江健三郎は高橋和巳や倉橋由美子とともに、読んでいないとバカにされる、ということで一昔前の大学生はよく読んでいましたが、なんだかよくわからない文章で閉口しました。ただ、題名のセンスのよさだけは、山本夏彦だったかだれかがほめちぎっていたと思います。『芋むしり仔撃ち』とか『空の怪物アグイー』のように、わけのわからないものもあり、『死者の奢り』や『ピンチランナー調書』『同時代ゲーム』のような、ちょっとかっこよさげなものやら、『洪水は我が魂に及び』や『新しい人よ目覚めよ』のような、それはちょっと気取りすぎやろ、とつっこみたくなるものやら。『新しい人よ目覚めよ』はブレイクの詩を読み続けている「僕」を主人公とする短編連作集です。タイトルもブレイクの詩の引用です。大江健三郎はT・S・エリオットの詩を引用した作品も書いています。エリオットは『キャッツ』の原作者ですね。

「エピグラフ」というものがあります。「エビピラフ」ではありません。書物の巻頭に引用されている短い文ですね。「黙示録より」とか「シェークスピア」とか書いてあります。執筆者の意図の反映、内容の暗示でしょうが、エピグラフはこけおどしであることが多いようで、なくもがなです。あとで読み直しても、無理に書いておく必要もないのになあと思うことがしばしばです。本の最後にときどきある献辞・謝辞も無用ですね。作者にとっては特別の思いがあるのかもしれませんが、そこに書かれている人たちは読者にとっては全く無縁の人であり、作者のひとりよがりにすぎません。映画のエンドロールも、その点近いものがあります。情報としてあってもよいものは出演者の名前ぐらいで、あとはせいぜい監督の名前です。カメラマンとかスタイリストの名前、協賛した団体の名称など、一般の観客にとってはまったく必要ありません。こういうのも入れるべきだというのは西洋の考え方でしょうかね。エンドロールが流れた瞬間、明るくなっていないのに席を立つ人が多いのも当然でしょう。卑怯なのはエンドロール終了後におまけ映像が流れる場合があることです。しかも、それが劇中のあることがらの種明かしとか本当のオチになったりしていて、油断もすきもあったものじゃない。

2020年10月 4日 (日)

呉越同舟

昔はどこの学校にもあった二宮金次郎像はさすがになくなったようです。いかにもこれは時代にそぐわない。今だったら、歩きスマホを奨励するようなものです。戦前には必ずあった遙拝殿は当然なくなりました。御真影、天皇の写真を飾ってあるところですね。さすがに、これはダメでしょう。教育勅語を子供に言わせるところもあって、おおいに騒がれました。明治の頃なら、なんの問題もない内容だったのでしょうが…。これは井上毅の作ったものです。この人は大日本帝国憲法も起草しており、明治日本をつくりあげた一人として、なかなかの人物のようですが、なぜか評価が低いようです。軍人勅諭の作成にも関わっています。東条英機の戦陣訓というのも、その頃はあたりまえのものとして受け入れられたのでしょうか。「生きて虜囚のはずかしめを受けず」は日本人独特の観念のように言われますが、戦国時代の武士は平気で主君を変えていますし、もともと日本人の個性ではなかったような気もします。吉田松陰あたりの「死してのちやむ」のような過激な思想以降のことかもしれません。松陰の考えが昭和の軍人にもつながっていくのですね。

戦時中の「うちてしやまん」なんてことばは、当時の子供たちには理解できたのでしょうか。文語が今より身近な時代ではあったでしょうが。「やんぬるかな」みたいなことばも、文語の知識がなくても、見聞きすることが多いとだんだんわかってくるのでしょう。ちょっと前の子供だったら「ヤンバルクイナ?」と思うかもしれませんが、今の子供はそれも「?」かな。「万事休す」は今でも耳にすることがありそうですが、どうでしょうか。「神のみぞ知る」は「かにの味噌汁」と思ってしまう? そんな寒いだじゃれさえ思いつかない? 皇太子生誕を祝う「ひつぎのみこは生れましぬ」は理解できなかったようです。「あれましぬ」は「あれ、まあ、死ぬ」と思った、というのも「むべなるかな」です。「神ならぬ身の知るよしもなかった」のレベルならなんとかなりそうですね。

「てんこうせんをむなしうするなかれ」は唱歌にも出てくるので、意外に理解できていたかもしれません。児島高徳が実在したかどうかはあやしいそうですが、もとになった越王勾践は実在したでしょう。呉王闔閭を倒したあと、「臥薪」した息子の夫差に会稽において敗れます。そのあと家臣の范蠡の策をいれて二十年間「嘗胆」し、夫差を破ります。後醍醐天皇が島流しにあったときに行在所に忍び込んだ児島高徳が木に彫りつけたのが「てんこうせんを…」で、「ときにはんれいなきにしもあらず」と続きます。後醍醐は「味方する者がいるので安心してください」という意味だと悟ります。勾践がヒーローのように扱われるので、夫差やその父親の闔閭は悪役のイメージがありますが、闔閭はたしかにあくのつよい人物だったようです。なにしろ王位に就くために、従兄弟である先王を暗殺していますから。ただ良い家来を集めることには熱心だったようで、孫武を見いだしたのは闔閭です。いわゆる孫子ですね。呉の孫子と呼ばれた人はもう一人いたようで、孫臏と言います。武の子孫で、後の三国志の呉の孫家の祖です。闔閭のもとには、もう一人、伍子胥という人物もいます。孫武を推挙したのが、この伍子胥です。

伍子胥はもと楚の人です。父と兄と平王に殺されて出奔し、呉に身を寄せます。伍子胥と孫武を得て国力をのばした呉は、楚に侵攻し、都をおとします。そのとき伍子胥は、すでに死んでいた平王の墓をあばき、しかばねを鞭打って父と兄の仇をうちます。「死者にむち打つ」はここから出たことばです。ただ、その仕打ちを親友に非難されます。そのときに言ったことばが「日暮れて道遠し」です。「自分は年を取っているので時間はないのに、やるべきことはたくさんある。焦って非常識な振る舞いをすることもあるし、やり方など気にしておられない」ということでしょう。さて、伍子胥と同じように一族を讒言によって殺された男が、楚から呉に亡命してきます。伍子胥がこの男を推挙するときに、呉王闔閭に「信用できる男か」と問われます。伍子胥は、「同じ病を持つ者は、お互いに憐れみ合います。彼も私同様、楚に恨みを持つ者です。信頼できないわけがありません」と答えました。「同病相憐れむ」の由来ですね。

その後、闔閭の後を継いだ夫差の様子を見て、伍子胥はいつか呉は越に滅ぼされるだろうと思います。自分の子供は他国に逃がしたものの、先代の王から恩を受けた自分は呉を見捨てるわけにはいかないと思って戻ってきます。ところが、「同病相憐れむ」で推挙してやった男が夫差に讒言したために、伍子胥は夫差から剣を渡されます。つまり、自害しろということですね。伍子胥は「自分の墓の上に梓の木を植えよ、夫差の棺桶を作るために。自分の目をくりぬいて城門の上に置け、越が呉を滅ぼすのを見るために」と言い残して自ら首をはねます。夫差は怒って墓を作らせるどころか、遺体を革袋に入れて川に流します。その後、伍子胥が見切った通りに呉は越に滅ぼされました。夫差は「伍子胥の言葉を取り上げなかったために、こんな羽目になった。伍子胥に合わせる顔がない」と顔を布で覆って自決しました。このあたりも中学部の授業で取り上げていました。生徒たちは結構おもしろがってくれたものです。

越王勾践が夫差を油断させようとして送り届けた美女がいます。西施ですね。四大美人の一人ですが、みんな一つだけ欠点があったとも言われています。西施はどうも大根足だったらしく、いつも裾の長い着物を来ていたそうな。それがまた妙なことに、じつは足が美しかったのではないかという説も出てきます。西施の絵は足を出して川で洗濯をする姿がえがかれます。その姿に見とれて魚たちは泳ぐのを忘れてしまったとか。「沈魚落雁」と言います。「落雁」のほうはやはり四大美人の王昭君です。残りの貂蝉は月が恥じて雲に隠れ、楊貴妃はその美しさに花が気おされてしぼんでしまったので「閉月羞花」と言います。さて、西施には持病があり、胸元を押さえ、眉をひそめた姿はなんとも美しく、人々は大騒ぎをします。それを見たある醜い女が西施のまねをして、顔をしかめると、人々はすぐに戸を閉め、中には妻や子を連れて遠くに逃げた者もあったとか。これが「ひそみにならう」の元になった話です。呉と越にはいろいろなエピソードがあり、故事成語もたくさんあるわけですが、最も有名なのが、仲の悪い国同士というところから生まれた「呉越同舟」ということばですね。

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