2020年12月20日 (日)

モヤモヤーとして臭い

落語は、もともと正式な題名がないものもあったようで、だんだんと自然発生的についていったのでしょう。ですから複数の題名がついているものもあります。ネタバレになるものもあって、たとえば「肝つぶし」などは別の題名にしたほうがよさそうです。吉松という男が恋患い、友達がどこの娘だと聞くと、先日、呉服屋に買い物に行ったところ、番頭に邪険な客扱いをされた。店の娘が番頭を叱りつけ、買った物のほかに、反物を仕立てて長屋まで持って来てくれる。その夜、呉服屋の娘がやってきて、番頭のたくらみで、今晩仮祝言を挙げさせられると言う。娘の父親が死んでいるのをいいことに、娘を他家へ嫁がせ、店を乗っ取ろうとしている、今夜はここでかくまってくれと言うのだが、そこへ若い者を連れてやって来た番頭が、娘を引っ張って行ってしまう。手出しもできないまま、娘を奪われたくやしさに涙がこぼれる。そのとき、チーン、チーンという音で目が覚めたら二時やった、ということで、なんと全部夢の話。吉松が医者に聞くと、唐土の古い本に、夢の中の女に惚れて命が危うくなったときに、辰年の辰の月、辰の日、辰の刻のように年月揃って生まれた女の生き肝を煎じて飲ましたら、スッと治ったという話が書いてあると言う。両親を早くなくした友達は、吉松の親父からは息子同様に育てられた恩義があり、なんとか助けてやりたい。家へ戻って飯を食う気にもなれず酒を飲みだすのだが、妹のお花が年月揃った女であることに気づいてしまう。先に寝たお花の顔を見ながら、台所から持ってきた包丁を振り上げるが、妹のあわれさに涙をこぼすと、お花の顔に。目覚めた妹に、「仲間内で芝居をすることになって、寝てる女を出刃で殺す役が当たって稽古をしようと思うたんや」と言い訳をすると、お花は「ああ、びっくりした、肝が潰れた」「肝が潰れた? 薬にならんがな」という下げです。

下げの部分で聞き手はカタルシスを感じるので、前もってわかっているのはよくありません。もちろん、マニアになると、題名も下げも全部わかったうえで、話芸を楽しんでいるのでしょうが…。同じ落語で「死ぬなら今」というのは、その点、実に秀逸なタイトルです。演者は、なぜこの題名なのかは、しまいまで聴いたらわかるという仕組みになっていると強調してから始めることになっています。人を泣かせる阿漕な商いで身代を築いた船場の大店の赤螺屋ケチ兵衛さん、病となり、死を覚悟する。地獄行きは免れないとわかっているので、せがれに「三途の川の渡し賃を入れる頭陀袋に六文銭のほか百両入れてくれ」と頼みます。百両を閻魔大王への賄賂に使って、地獄から極楽に行かせてもらおうという魂胆です。ところが、葬式の時に親戚の叔父さんに見つかり、天下のお宝を土に埋めたらあかんと言われます。そこで芝居で使う小判を手に入れて、頭陀袋に入れます。ケチ兵衛さんは、閻魔大王に地獄行きを宣告されますが、例の百両を閻魔さんの袖の下に。閻魔さんの態度は一変して、「一代でこれほどの身代をなしたのはあっぱれ」と、極楽行きにしてしまいます。ところが、赤鬼や青鬼らも分け前をくれと騒ぎ出し、弱みを握られた閻魔さんは、赤鬼、青鬼らを引き連れて、冥土のキタとミナミで小判を使って遊び回ります。そのうち、その小判が極楽へと回ってきて偽小判とわかり、奉行所へ訴えられます。奉行はただちに特別機動隊を地獄へ派遣します。キタのバー「血の池」で盛り上がっていた閻魔さんたちは全員逮捕され、監獄行きとなりました。というわけで、地獄はいま閉店休業、「死ぬなら今」。下げをあらかじめ言っているのに、最後まで予想がつかない。最後の最後でタイトルが下げになるという鮮やかさ。米朝さんもやっていましたが、先代の文我でも聞いた覚えがあります。

「下げでカタルシス」と言いましたが、「延陽伯」の下げはいまでは通用しなくなって、カタルシスどころかきょとんとしてしまう人もいるかもしれません。東京では「たらちね」という題で演じられる話ですが、長屋に住む独り者のところに縁談がもちこまれます。京都のお公家さんのところへ奉公していたということで、ことばが丁寧すぎるという女の人。「わらわこんちょう、たかつがやしろにさんけいなし、まえなるはくしゅばいさてんにやすろう。はるかさいほうをながむれば、むつのかぶとのいただきより、どふうはげしゅうしてしょうしゃがんにゅうす」という具合。そのあと男は銭湯に行くのですが、このあたりの描写は枝雀がやはり面白い。夜に女がやってきて、名前を聞くと、「なになに、わらわの姓名なるや?」「あんた、わらやの清兵衛はんちゅうんですか? 男みたいな名前でんなぁ」「これは異なことをのたもう。わらわ父は元京都の産にして、姓は安藤、名は慶三、あざなを五光と申せしが、我が母、三十三歳の折、ある夜丹頂を夢見て、わらわを孕みしが故に、たらちねの胎内をいでし頃は鶴女、鶴女と申せしが、これは幼名、成長ののちこれを改め延陽伯と申すなり」というやりとりも面白い。翌朝、枕元に手をついて、「あ~ら我が君、もはや日も東天に輝きませば、お起きあって、うがい手水に身を清め、神前仏前に御あかしをあげられ、朝餉の膳につき給うべし。恐惶謹言」「飯を食うことが恐惶謹言か。そしたら、酒飲んだら酔ってくだんの如しやな」という下げ。いまどき、「恐惶謹言」も通じないし、「よってくだんのごとし」も意味不明でしょう。もともと関西弁にもなっていません。かといって「酔うて」とすると、ますます意味がわかりにくくなります。下げが通じにくくなった話は演者によって、いろいろ変更を加えられています。

「頭山」の下げはシュールで今でも通用する魅力的なものです。ケチな男が、もったいないとさくらんぼの種まで食べたところ、そのさくらんぼの種は腹の中で根をはり、やがて頭の上に芽を出して大きく育っていきます。春になると花が咲いたので、大勢人が集まり、頭の上で花見を始めました。ドンチャン騒ぎに怒った男は桜の木を引っこ抜いてしまいます。すると頭の真ん中に大きな窪みができてしまい、表で夕立にあったとき、穴に水が溜まって池になりますが、ケチな男はその水を捨てようとしません。やがて、その水にボウフラが湧き、それを餌にして鮒やら鯉やら湧いてきました。それを聞きつけて大勢釣りにやってきます。朝から晩まで大騒ぎ、ケチな男はこんなにうるさくてはたまらんと、その池にドッボーン。上方では、「さくらんぼ」という題で枝雀がやっていましたが、「おい、芳、いてるか」というセリフで始まる細かい場面を積み重ねるという凝った作りで、結構長い話にしていました。下げも夫婦で飛び込む形になっています。これは枝雀の理論「緊張の緩和で下げになる」があてはまりません。むしろモヤモヤ感が残ります。

2020年12月 9日 (水)

意味不明

「ギャグ」ということばも本来の意味とはちがう使い方をしていますね。「面白いフレーズ」ぐらいの意味で使っています。中には「インガスンガスン」のような意味不明のことばもありますが…。吉本の漫才などの芸人は全国区になっている人が多いのに、新喜劇の知名度が低く、東京に進出できないのは、吉本新喜劇の面白さが東京人にはわからないからだ、と言う人もいます。いやいや、実は面白くないことが多いのですよ、新喜劇は。「反復の面白さ」「マンネリゆえの面白さ」で、これはたしかに関西人は好きです。しつこく繰り返すのをよしとするのですね。では、なぜ繰り返すとおもしろいのか? 逆説的ですが、「また出た」というのは「意外」につながるからかもしれません。同じことが二度続くのはないわけではないのですが、三度となるとめずらしい。忘れたころにまた出てくると、意表をつかれて「また出た」と思って笑ってしまう、というのが元々あったのでしょう。そして、それが一つのパターンになると、吉本の場合は「ほら、また出た」となって、熟達した観客は「ここ笑うとこよ」というシグナルを感受するのでしょう。

「意外」というのは笑いにつながります。きどった女性がバナナの皮をふんでスッテンコロリンと転ぶのは「意外」です。「そっくりさん」も意外さなのでしょう。ちがう人なのに共通点が多いことに気づいて笑うのです。これは「だじゃれ」も同じです。ちがうはずのことばなのに、音がよく似ていて結びつきが生まれるという意外さです。笑福亭たまの小咄で「B29」というタイトルのものがあります。「この鉛筆濃いなあ」これだけです。このフレーズそのものはべつに面白いわけではありません。タイトルと組み合わさると面白くなるのですね。意外な組み合わせなのに結びついてしまうから笑いが起こります。

タイトルとセットになってはじめて面白くなるものとして、写真で出された「お題」に対して「ボケ」を投稿するサイトがありました。たとえばミレーの『落ち穂拾い』の絵に、「集団ぎっくり腰」とか「ポップコーン開けるの下手すぎやろ」とかつけるようなものです。的確であるから笑うのですが、同時に「そう来るか」という意外性ですね。意外な切り口というのは、オッと思って楽しくなり、笑いにつながります。突飛さは笑いを生みます。予想もしなかったときの驚きや楽しさが笑いなのだ、と言ってもよいかもしれません。「屁をひって面白くもなしひとりもの」という川柳がありますが、自分のおならは自分で予想できますから面白くもなんともありません。シーンとしているときにだれがプーとやると笑いが起こります。特にテスト中という「緊張感」とまぬけな音の組み合わせはまさに笑いのタイミングになります。

ブラックユーモアと呼ばれるものは、意外さを生み出すものがやや不健康なものなので大笑いになりませんが、ジワッと笑えます。もう三年ぐらい前になりますか、面白いなと思って、いまだに覚えている四コマ漫画があります。朝日新聞の『ののちゃん』です。「幽霊屋敷」から出てきたののちゃんたちが「つまんなかったねー」「ぼろくて床が揺れてた」「カネかえせ。どこが幽霊やねん」と言っているのですが、最後のコマで「幽霊屋敷」と書かれた看板の横の屋敷が、かすかに地面から浮きあがっていることがわかります。つまり「幽霊の出る屋敷」ではなく、屋敷そのものが「幽霊」だったのですね。これはダブルミーニングのおもしろさでもあります。『おさるの日記』のように秀逸なものは少ないのですが、ダブルミーニングのことばはたしかに面白い。「よくきえる消しゴム」なんてね。「帰ってきた兵隊やくざ」も「日本に帰ってきた」と「復活した」の二つの意味になります。

題名だけで心ひかれるものってありますよね。エドガー・アラン・ポオの『ナイト・ウォーク』を直訳しただけの『夜歩く』は秀逸なタイトルです。インパクトがすごい。『緋文字』なんて魅力的なタイトルです。題名だけで勝手に中身を想像していて、実は全然ちがうということもあります。新感覚派の巨匠、横光利一の『日輪』なんて、だれが卑弥呼の話と思うでしょうか。『細雪』も魅力的なタイトルですが、もともとあったことばなのか作者の造語なのか。

古典作品には安易なネーミングのものもあります。「枕草子」は「枕元に置いて読む本」という意味のようですし、「今昔物語」や「徒然草」は冒頭のことばがそのまま題名になっています。作者がつけたものではなく、後の時代の人が「つれづれ」ということばで始まる本、ということで勝手に「つれづれ草」と呼んだのかもしれません。もちろん「行く河の…」で始まっても「方丈記」というのもあります。「方丈」というのは「一丈四方」つまり小さな掘っ立て小屋のことで、元祖プレハブ住宅のようなもので仮住まいをしていて書いたのでつけられたのでしょう。「祇園精舎の…」で始まっても、平家一門の興亡を描いているから「平家物語」という王道タイトルもあります。でも、明治以降だって、漱石の「猫」は冒頭の一文がそのままタイトルになっています。漱石はわりと安易にタイトルをつけていたようで、「先生、次の作品はいつごろできますか」と問われて「そうさなあ、彼岸過ぎまでには…」と言ってそのまま題名にしたものもあります。

映画の題名も、昔は邦題として「哀愁」のようなことばをひねり出して、無味乾燥な原題より、ずっと魅力的にしていました。題名がちがえばヒットしなかった作品もいっぱいありそうです。「俺たちに明日はない」や「明日に向かって撃て」は二人の登場人物の名前を並べただけの原題では見に行く気がしなかったかもしれません。原題は『一番長い日』という意味なのに「史上最大の作戦』にしたのは水野晴郎でした。「華麗なる…」や「怒りの…」などはヒットした作品にあやかってつけるのですが、たいていつまらないものになっています。「ロシアより愛をこめて」や「風と共に去りぬ」は直訳なのにオシャレです。最近では原題を単にカタカナにしているだけで意味不明のものが結構あります。「エイリアン」「マトリックス」「ターミネーター」などもはじめは意味不明でした。中には原題とはちがうカタカナのことばもあるらしい。しかも意味不明。意味不明はだめでしょ。もっとも音楽でも、バッハの「主よ人の望みの喜びよ」のような意味不明のタイトルのものもありますが…。

2020年11月29日 (日)

キメハラ

元祖教育ママと言えば孟母ですね。三遷の教えで有名です。孟子は性善説、荀子は性悪説、とよく言われますが、中国も物事を単純に二つにわける西洋式に近いようですね。日本は単純に分けるのを好みません。むしろ「玉虫色」をよしとします。「明日は雨が降るような天気ではない」とか「父は死んでいない」が二通りの解釈ができる、というような話をすると、子どもたちはずいぶんおもしろがります。「すごい」のような単純なことばでも、「すばらしい」場合にも「ひどい」場合にも使えます。「あいつの成績、すごいな」は、どっちの意味で言っているのでしょうか。これは「あいつ」がだれなのかによって変わってくるのです。

「号泣」や「爆笑」などは、元の意味とはちがう使われ方をします。本屋に行くと、書店員の書いたポップがついていることがあります。「号泣」と書いてあったら、「本を読んでガオーッと泣くやつがおるかい」とつっこみたくなりますし、「爆笑」とあれば「おまえは何人おるんや、大勢が笑うことを『爆笑』と言うんや」とぼやきたくなりますが、「ことばは時代によって変化するもの、ゆるしてやったらどーや」と吉本新喜劇風に自らを戒めます。それでも「あまりの衝撃に三日間寝込んだ」と書かれていれば、「嘘はアカンやろ」と思います。

新聞の記事のように見えて、実は全面広告という、嘘すれすれのものを、たまに夕刊で見ることがあります。生姜シロップか何かの広告の小見出しで「思わずとりはだが立ちました」とありました。つっこみどころが二つ。「とりはだが立つ」を恐怖や気味悪さでなく、プラスの感動表現で使ってるのは、もはや「ゆるしてやったらどーや」ですが、「思わず」は無意識のうちに行動する様子を表すことばなので、「とりはだが立つ」のような生理現象に使うのはなんとなく違和感があります。新聞の言葉で思い出しました。かなり昔、阪神の金本が現役のころです。決勝の3ランで逆転したのですが、そのときの朝日新聞の見出しに、「味方のミスを帳消し」とありました。「帳消し」はプラスのものを台無しにしてしまうイメージがあったので、ちよっとひっかかったのです。「消し」のニュアンスから、相殺されて価値や意味が「なくなる」意味だと思い込んでいたのですが、マイナスのものを「消す」ときにも使うようです。「この親にしてこの子あり」はプラスかマイナスのどちらで使うのでしょう。本来は立派な親子の場合に使うはずですが、たしかに、だめな親子の場合にも使えそうな気もします。

これは、と思ったのはテレビのニュース番組で「トランプ大統領、内政問題で火の車、外交で活路を見いだせるか」というナレーション、スーパーにも出ていました。「火の車」は経済状態が苦しいことなので、内政問題が火の車、とは何が言いたいのやら。集中砲火をうけているのなら「火だるま」ですが単に内政がうまくいっていないという意味なのか。洋服の青山のCMで毎春「いまご来店の方には素敵な粗品をさしあげます」と言っているのはわかっていてやってるのか。…頑固じじいの悪口のような「国語批判」は、じつは的外れなのかもしれません。ことばはどんどん変化していくものです。そのときは「まちがい」であっても、時間がたって、みんなが使うようになれば「正しい」ことばになっていきます。

最近気がついたこととしては、熟語の副詞的用法がやや多くなってきているような。たとえば「…なのは勿論だ」から「勿論…だ」のように、熟語を単独で修飾語としてそのまま使うことです。昔からあったわけですが、「結果」「基本」「原則」などは比較的最近使われだしたものではないでしょうか。略語も昔からよく使われますが、新しいものがどんどんつくられます。「たなぼた」や「やぶへび」のようなことわざ系では「ちりつも」「みみたこ」「るいとも」などを使う人がいます。「あけおめ」や「なるはや」などはさすがに目上の人には使わないでしょうが…。でも、「国体」や「テレビ」だって略語のはずです。使い慣れてきたら、なんら抵抗がなくなるのでしょう。とくに外来語で長くなるのは略したいわけで、「セクハラ」とか「コスプレ」とかはふつうに使います。「キムタク」「クドカン」「セカオワ」は仲間意識をそれとなく示すものだったでしょうし、「バンセン」などは専門用語です。「キモオタ」とか「ヒトカラ」は何なのでしょうね。「一人カラオケ」は略せるけど「一人焼き肉」は略しにくいし。「キメハラ」なんて、新しいことばも生まれています。「『鬼滅の刃』ハラスメント」の略ということで、「鬼滅、見てないの」とか「鬼滅が嫌いって、アホちゃう」とか言って、同調圧力をふりかざすことらしい。

何年か前、書き言葉、話し言葉に対して、打ち言葉が生まれつつあると文化庁が発表しました。SNSやメールで使う、くだけた感じの表現で、絵文字などを多用するような書き方のことのようですが、「おk」とか「うp」とか、文末の「ww」とかも含まれるそうな。たしかにそうかもしれません。ことばはどんどん変化します。古語の中には、元の意味では使われなくなったのに、新しく生まれた意味が生き残って、いまだに使われているものもあります。「しがらみ」などはそうですね。「かぶりをふる」ということばも、「かむり」つまり「かんむり」と関係があるなんて、言われないと気がつきません。

だれの文章だったか、八丈島かどこかへ行って、「めならべ」という意味不明のことばを聞いて、しばらく考えるうちに「女の子」のことだとわかった、というのがありました。「女童(めわらべ)」のなまったものだったのですね。平安時代に使われていたようなことばが多少変化してもいまだたに使われているわけです。それに比べるとやはり新語の寿命は短いことが多いようです。「ナウい」はすぐ消えるだろうと思われたのに使われつづけ、どうやら定着しそうだと思われたころに消えてしまいました。こういうことばは辞書に入れるかどうか悩むそうですね。流行語にすぎないと見なせるものは、やはり載せないでしょう。「チョベリバ」や「激おこプンプン丸」のような、わざとらしすぎて実は流行っていなかったことばなんて載るわけがない。吉本の「ギャグ」も辞書には載りません。

2020年11月15日 (日)

劣等生仲間

最近のテレビのエンドロールは異様に速すぎることがあって、動体視力の弱い人間には追いつけません。あの俳優、誰だっけと思って確認しようとしても、アララーと言ううちに消え去っていきます。脇役でよく見るのに名前を知らない人がいて、たまに誰だろうと思うことがあるのに…。たとえばそういう人のひとり、『ラストサムライ』にも出ていた「先生」はちょっと有名になりました。時代劇の斬られ役専門の人で、福本清三という人です。悪徳商人とか「や○ざ」の親分の用心棒の役などがぴったりの人で、「先生、お願いします」と言われて出てくるのですが、二枚目の主人公にすぐに斬られて死んでしまいます。『探偵ナイトスクープ』で、「先生」の正体が知りたいという依頼が来て、桂小枝探偵が「センセー、センセー」と呼びかけたことがあり、通称としてすっかり定着してしまいました。

最近は脇役が注目を浴びることが多くなってきました。脇役と言うとしょぼい感じですが、バイプレイヤーと言うと、何かかっこいい。遠藤憲一、松重豊、滝藤賢一、甲本雅裕、六角精児…。昔も吉田義夫、遠藤太津朗、進藤英太郎、成田三樹夫とか、ピラニア軍団というのもいました。しかし今は昔以上に「活躍」して、主役なみの人気をもつようになってきています。こういう「脇役」をズラリとそろえると「豪華な配役」という感じさえします。配役を見ただけでは正体がわからないことも多い。悪役だけでなく、善玉を演じることも多くなってきて、たまに悪役を演じると新鮮に感じる、なんて妙な現象も起きます。善悪両方いける人が多くなってきたのでしょうか。高橋英樹でさえ悪役をやったりします。昔だったら考えられないことですね。高倉健さんは悪役は無理かなあ。若いころに佐々木小次郎をやったことがありますが、悪役ではないし、「や○ざ」の役が多いので純粋な善とは言えないけれど、悪役とは言えません。たまに主役級二人をそろえて「コラボ」と言うことがありますが、この使い方はどうなのでしょう。「コラボ」って、なんだか「異種」という条件が必要な感じがします。ソロの歌手二人なら「コラボ」と言えそうですが…。演劇の場合は、一人芝居もないわけではないものの、大勢の人で演じるのが原則なので「コラボ」って言うと違和感があります。

小説家二人で一つの作品を書くのは「コラボ」でしょうか。エラリー・クイーンは有名だし、岡嶋二人などは自らそう名乗っています。木皿泉は夫婦ですね。島崎藤村はちがいます。「しまざき」と「ふじむら」の漫才コンビのようでもありますが…。小説家ではないけれど、藤子不二雄もそうですね。単独で描くときにはFとかAとかを入れて区別していました。あるドラマに別のドラマの要素がチラッとはいってくることがあります。作り手のお遊びと言うか、ファンサービスみたいなものでしょう。『99.9 刑事専門弁護士』というドラマのラストで、岸部一徳演じる弁護士が「私、辞職しないので」と言ったのは、自分が出ている別のドラマのもじりでした。こういうのは「コラボ」とは言わないのですね。このドラマはなかなかおもしろかったのですが、設定に無理のある回もありました。トリックを重視すると、どうしてもストーリーや人物設定に無理が出てしまうのですね。ただし、そんなアホな、という動機で起こす事件や間抜けな展開になる事件も世の中にはよくあります。まさに「事実は小説よりも奇なり」ですが、これは、だれのことばなのでしょう。出所不明なのでしょうか。「天災は忘れたころにやってくる」は寺田寅彦のことばとされています。ところが、少なくとも弟子の中谷宇吉郎の証言によれば、書いたものの中には登場してこないようです。

寺田寅彦といえば、『帝都物語』に登場していました。荒俣宏のこの小説は将門伝説をふまえています。魔人加藤保憲が平将門の怨霊を使って帝都破壊をもくろむという話です。将門は日本最大の怨霊の一つです。首塚も東京の真ん中に今なお残っています。京都の三条川原でさらされた将門の首級がなかなか腐らず、夜な夜な「俺の体はどこだ。首をつないでもう一度戦おう」と叫び続けたとか。やがて、残された胴体を求めて板東の地まで飛んでいったことになっています。都市再開発で、これを取り壊して建物をつくろうとしたとき、不穏な事故が相次いだ、ということで、いまだに祟りが残っているわけです。神田明神は将門を祀っています。神田祭も将門ゆかりのものなのですね。

またまた大河ドラマの話ですが、将門は加藤剛が演じていました。『風と雲と虹と』という作品で、原作は海音寺潮五郎です。藤原純友を緒形拳、今はすっかりしぶい俳優になった草刈正雄も出ていました。ヒロインはなんと吉永小百合。今考えても、なかなか豪華な出演者だったし、ドラマのつくりも荘重なものでした。ドラマの中でもあつかわれていたと思いますが、菅原道真と将門は実はちょっとしたつながりがあるのですね。この二人に崇徳院を入れて日本三大怨霊ですが、怨霊つながりというだけでなく、道真が死んだ年に将門が生まれており、将門は道真の生まれ変わりだと言われていたらしい。道真の霊験によって、将門は「新皇」の位記を授けられます。道真の霊が宿った巫女が「八幡大菩薩が汝に天皇の位を授ける」と託宣したのだとか。道真の息子は将門の弟の学問の師匠だったという話もあります。怨霊になってもおかしくないような最期を遂げたことから両者のイメージが重なり、生まれ変わり説などが生まれたのかもしれません。

こういうオカルト系の話は昔から根強いファンがおり、最近平田篤胤もちょっと注目されています。天狗考とか神隠しとか。前にも触れたような気がしますが、平田派の国学者の息子の島崎藤村の『夜明け前』にもUFOらしきものを目撃した話が出てきます。この小説は維新前を「夜明け前」にたとえたわけですが、それから約150年、まさに「明治は遠くなりにけり」です。でも、明治45年は1913年ですから、たかだか100年前です。安岡章太郎は、龍馬ともかかわりがあった先祖の話を書いています。吉田東洋暗殺にかかわった人物ですが、自分の身内のことを語っている感じです。調べてみたら、安岡章太郎は、1920年生まれなので、そう遠い過去のことではないのですね。安岡章太郎は、『宿題』という作品が昔よく入試に出ていました。母親が今で言う教育ママみたいな人だったようです。でも、ずっと劣等生だった、と自ら語っています。灘中で劣等生だったという遠藤周作と仲が良かったのも、そのせいかなあ。

2020年10月18日 (日)

明るくなるまで待って

「天勾践を空しうするなかれ時に范蠡なきにしもあらず」の范蠡は越王勾践の謀臣でした。范蠡は呉を滅ぼしたあと、用済みになった自分が勾践に疎んじられることを予見して職を辞します。「狡兎死して走狗烹らる」ということばはこのときのものです。その後、商人として大成功したとも言われます。ところが、日本へ逃げてきたという「トンデモ説」もあります。中国では、倭人は呉の太伯の子孫だと言っていました。長江のほとりにあった呉や越の人が日本にやってきた可能性は十分あります。稲作を伝えたのもそういう人たちかもしれません。范蠡たちがやってきた証拠に「呉」も「越」も日本の地名となって残っているではないかというバカバカしい説です。なるほど広島には「呉」があり、新潟・富山・福井のあたりは「越」です。

ただ、たしかに「呉」は「くれ」と読んで、大陸からやってきた人の祖国とされたことはあるようです。「呉服」という名字の人がたまにいますが、これは「くれは」と読むことがあります。「服部」は衣服をつくる朝廷の部民で「はたおりべ」と言いました。「はたおり」がなまって「はとり」「はっとり」となるわけで、「呉服」は「くれ+は(っとり)」ということでしょう。「くれのはたおりべ」ですね。「くれない」ということばも「呉の藍」がつまったものです。これらの「呉」は「中国」の代名詞として使われているようです。中国を代表する国としては他に「秦」があり、これが「支那」や「チャイナ」の語源になります。また、「漢字」とか「漢方薬」というように、「漢」も中国を意味します。「唐」という大帝国も当然、中国の代名詞ですね。「唐土」と書いて「もろこし」と読むのはちょっと変ですが。それらの国に比べると呉はローカルなのに、中国を代表する国のようになっているのは妙といえば妙です。

秦氏は秦の国と関係があるのかどうかはわかりませんが、渡来系であることはたしかなようです。室町時代の大名である大内氏が半島系であることははっきりしていますが、なんと長宗我部氏は秦氏ですね。講談の難波戦記でも大坂城にこもった武将の名を列挙するところで、長宗我部宮内少輔秦盛親と言っています。名字だけ見れば、蘇我氏の部民のような感じもしますが。朝廷だけでなく豪族の部民も存在しましたから。香宗我部氏というのもいます。長岡のあたりにいたのが長宗我部、香美のあたりにいたのが香宗我部です。土佐には七つの有力国人がいましたが、元親が幼いころには長宗我部は最弱だったようです。

長宗我部氏は四国を統一したあと、信長とトラブルがあったようで、本能寺の変の遠因にもなっているという説があります。元親は光秀の家老、齋藤利三と縁戚関係があり、光秀が信長との間で身動きがとれなくなったという説です。結局はその後、長宗我部氏は秀吉に屈して土佐一国の領土にもどります。さらに関ヶ原で敗れて、家はつぶれ、盛親は京都で寺子屋の師匠をしていました。お家再興を目ざしたのですが、結局かなわず、土佐国は山内一豊の領国になります。しかし、土佐には長宗我部の遺臣が多く、山内家は強引に滅ぼしたり、臣下に組み込んだりします。山内家の本来の家臣とは、上士・下士として差別されます。長宗我部系は下士・郷士になるわけで、坂本竜馬は郷士出身ですね。安岡章太郎の家もそうです。長宗我部の家臣に福留姓の者がいますが、福留功男も土佐出身なので郷士の出かもしれません。

大江健三郎の『万延元年のフットボール』に「チョーソカベ」ということばが出てきます。自分たちを守る「森」に襲ってくる者、という位置づけですが、カタカナ表記をすることで、異世界の妖怪のような雰囲気を漂わせています。大江健三郎は愛媛なので四国統一を目ざす長宗我部元親の軍勢を恐れた人々の記憶に「チョーソカベ」という名前が強く残されたのかもしれません。元寇の際、「蒙古高句麗がやってきた」といって怖れたことから、博多あたりでは、子供が泣き止まないときに「むくりこくりが来るぞ」と脅すようになったと言いますが、それと同じようなものでしょう。

大江健三郎は高橋和巳や倉橋由美子とともに、読んでいないとバカにされる、ということで一昔前の大学生はよく読んでいましたが、なんだかよくわからない文章で閉口しました。ただ、題名のセンスのよさだけは、山本夏彦だったかだれかがほめちぎっていたと思います。『芋むしり仔撃ち』とか『空の怪物アグイー』のように、わけのわからないものもあり、『死者の奢り』や『ピンチランナー調書』『同時代ゲーム』のような、ちょっとかっこよさげなものやら、『洪水は我が魂に及び』や『新しい人よ目覚めよ』のような、それはちょっと気取りすぎやろ、とつっこみたくなるものやら。『新しい人よ目覚めよ』はブレイクの詩を読み続けている「僕」を主人公とする短編連作集です。タイトルもブレイクの詩の引用です。大江健三郎はT・S・エリオットの詩を引用した作品も書いています。エリオットは『キャッツ』の原作者ですね。

「エピグラフ」というものがあります。「エビピラフ」ではありません。書物の巻頭に引用されている短い文ですね。「黙示録より」とか「シェークスピア」とか書いてあります。執筆者の意図の反映、内容の暗示でしょうが、エピグラフはこけおどしであることが多いようで、なくもがなです。あとで読み直しても、無理に書いておく必要もないのになあと思うことがしばしばです。本の最後にときどきある献辞・謝辞も無用ですね。作者にとっては特別の思いがあるのかもしれませんが、そこに書かれている人たちは読者にとっては全く無縁の人であり、作者のひとりよがりにすぎません。映画のエンドロールも、その点近いものがあります。情報としてあってもよいものは出演者の名前ぐらいで、あとはせいぜい監督の名前です。カメラマンとかスタイリストの名前、協賛した団体の名称など、一般の観客にとってはまったく必要ありません。こういうのも入れるべきだというのは西洋の考え方でしょうかね。エンドロールが流れた瞬間、明るくなっていないのに席を立つ人が多いのも当然でしょう。卑怯なのはエンドロール終了後におまけ映像が流れる場合があることです。しかも、それが劇中のあることがらの種明かしとか本当のオチになったりしていて、油断もすきもあったものじゃない。

2020年10月 4日 (日)

呉越同舟

昔はどこの学校にもあった二宮金次郎像はさすがになくなったようです。いかにもこれは時代にそぐわない。今だったら、歩きスマホを奨励するようなものです。戦前には必ずあった遙拝殿は当然なくなりました。御真影、天皇の写真を飾ってあるところですね。さすがに、これはダメでしょう。教育勅語を子供に言わせるところもあって、おおいに騒がれました。明治の頃なら、なんの問題もない内容だったのでしょうが…。これは井上毅の作ったものです。この人は大日本帝国憲法も起草しており、明治日本をつくりあげた一人として、なかなかの人物のようですが、なぜか評価が低いようです。軍人勅諭の作成にも関わっています。東条英機の戦陣訓というのも、その頃はあたりまえのものとして受け入れられたのでしょうか。「生きて虜囚のはずかしめを受けず」は日本人独特の観念のように言われますが、戦国時代の武士は平気で主君を変えていますし、もともと日本人の個性ではなかったような気もします。吉田松陰あたりの「死してのちやむ」のような過激な思想以降のことかもしれません。松陰の考えが昭和の軍人にもつながっていくのですね。

戦時中の「うちてしやまん」なんてことばは、当時の子供たちには理解できたのでしょうか。文語が今より身近な時代ではあったでしょうが。「やんぬるかな」みたいなことばも、文語の知識がなくても、見聞きすることが多いとだんだんわかってくるのでしょう。ちょっと前の子供だったら「ヤンバルクイナ?」と思うかもしれませんが、今の子供はそれも「?」かな。「万事休す」は今でも耳にすることがありそうですが、どうでしょうか。「神のみぞ知る」は「かにの味噌汁」と思ってしまう? そんな寒いだじゃれさえ思いつかない? 皇太子生誕を祝う「ひつぎのみこは生れましぬ」は理解できなかったようです。「あれましぬ」は「あれ、まあ、死ぬ」と思った、というのも「むべなるかな」です。「神ならぬ身の知るよしもなかった」のレベルならなんとかなりそうですね。

「てんこうせんをむなしうするなかれ」は唱歌にも出てくるので、意外に理解できていたかもしれません。児島高徳が実在したかどうかはあやしいそうですが、もとになった越王勾践は実在したでしょう。呉王闔閭を倒したあと、「臥薪」した息子の夫差に会稽において敗れます。そのあと家臣の范蠡の策をいれて二十年間「嘗胆」し、夫差を破ります。後醍醐天皇が島流しにあったときに行在所に忍び込んだ児島高徳が木に彫りつけたのが「てんこうせんを…」で、「ときにはんれいなきにしもあらず」と続きます。後醍醐は「味方する者がいるので安心してください」という意味だと悟ります。勾践がヒーローのように扱われるので、夫差やその父親の闔閭は悪役のイメージがありますが、闔閭はたしかにあくのつよい人物だったようです。なにしろ王位に就くために、従兄弟である先王を暗殺していますから。ただ良い家来を集めることには熱心だったようで、孫武を見いだしたのは闔閭です。いわゆる孫子ですね。呉の孫子と呼ばれた人はもう一人いたようで、孫臏と言います。武の子孫で、後の三国志の呉の孫家の祖です。闔閭のもとには、もう一人、伍子胥という人物もいます。孫武を推挙したのが、この伍子胥です。

伍子胥はもと楚の人です。父と兄と平王に殺されて出奔し、呉に身を寄せます。伍子胥と孫武を得て国力をのばした呉は、楚に侵攻し、都をおとします。そのとき伍子胥は、すでに死んでいた平王の墓をあばき、しかばねを鞭打って父と兄の仇をうちます。「死者にむち打つ」はここから出たことばです。ただ、その仕打ちを親友に非難されます。そのときに言ったことばが「日暮れて道遠し」です。「自分は年を取っているので時間はないのに、やるべきことはたくさんある。焦って非常識な振る舞いをすることもあるし、やり方など気にしておられない」ということでしょう。さて、伍子胥と同じように一族を讒言によって殺された男が、楚から呉に亡命してきます。伍子胥がこの男を推挙するときに、呉王闔閭に「信用できる男か」と問われます。伍子胥は、「同じ病を持つ者は、お互いに憐れみ合います。彼も私同様、楚に恨みを持つ者です。信頼できないわけがありません」と答えました。「同病相憐れむ」の由来ですね。

その後、闔閭の後を継いだ夫差の様子を見て、伍子胥はいつか呉は越に滅ぼされるだろうと思います。自分の子供は他国に逃がしたものの、先代の王から恩を受けた自分は呉を見捨てるわけにはいかないと思って戻ってきます。ところが、「同病相憐れむ」で推挙してやった男が夫差に讒言したために、伍子胥は夫差から剣を渡されます。つまり、自害しろということですね。伍子胥は「自分の墓の上に梓の木を植えよ、夫差の棺桶を作るために。自分の目をくりぬいて城門の上に置け、越が呉を滅ぼすのを見るために」と言い残して自ら首をはねます。夫差は怒って墓を作らせるどころか、遺体を革袋に入れて川に流します。その後、伍子胥が見切った通りに呉は越に滅ぼされました。夫差は「伍子胥の言葉を取り上げなかったために、こんな羽目になった。伍子胥に合わせる顔がない」と顔を布で覆って自決しました。このあたりも中学部の授業で取り上げていました。生徒たちは結構おもしろがってくれたものです。

越王勾践が夫差を油断させようとして送り届けた美女がいます。西施ですね。四大美人の一人ですが、みんな一つだけ欠点があったとも言われています。西施はどうも大根足だったらしく、いつも裾の長い着物を来ていたそうな。それがまた妙なことに、じつは足が美しかったのではないかという説も出てきます。西施の絵は足を出して川で洗濯をする姿がえがかれます。その姿に見とれて魚たちは泳ぐのを忘れてしまったとか。「沈魚落雁」と言います。「落雁」のほうはやはり四大美人の王昭君です。残りの貂蝉は月が恥じて雲に隠れ、楊貴妃はその美しさに花が気おされてしぼんでしまったので「閉月羞花」と言います。さて、西施には持病があり、胸元を押さえ、眉をひそめた姿はなんとも美しく、人々は大騒ぎをします。それを見たある醜い女が西施のまねをして、顔をしかめると、人々はすぐに戸を閉め、中には妻や子を連れて遠くに逃げた者もあったとか。これが「ひそみにならう」の元になった話です。呉と越にはいろいろなエピソードがあり、故事成語もたくさんあるわけですが、最も有名なのが、仲の悪い国同士というところから生まれた「呉越同舟」ということばですね。

2020年9月20日 (日)

半面半身

ふぐは海の魚なのになぜ「河豚」なのか。揚子江などの河口にいたからでしょうね。「海豚」は「いるか」にとられてしまったから、という答えは記述問題では×になるでしょう。では、イルカとクジラのちがいは何でしょう。単に大きさだけで、種としては同じものなのでしょうか。クジラとゴリラは全くちがいますが、この二つをミックスした名前が「ゴジラ」です。この映画をアメリカで作ったとき、「GODZILLA」と表記されました。「GOD」つまり「神」が含まれ、怪獣の中の怪獣にふさわしいネーミングであることが再確認されたわけです。エビラやガメラやギララなど、ゴジラにあやかって怪獣の名に「ラ」を入れるのは定番になりました。「モスラ」は蛾の「モス」に「ラ」をくっつけたものだし、「エビラ」や「ガメラ」はそのままです。「ガメラ」なんて、後肢が、中に人間がはいっていることがまるわかりの形になっていました。「キングギドラ」の「ギド」は何だったのでしょうか。

『怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか』という本もありました。「ラ」と濁音の組み合わせが多いのは確かです。だいたいラ行や濁音で始まることばは和語にはなかったので、これらの音は異形のものを表すのにふさわしいのでしょう。力強さもあって、怪獣にはぴったりです。「ピザーラ」は「ピザ」に「ラ」がついていますが、ゴジラのイメージと重ねているようです。「ン」で終わるのも多いのですが、これは恐竜のイメージでしょうか。「プテラノドン」にならって「ラドン」とつけたのかもしれません。

「ン」で終わると言えば、薬の名前もそうですね。「アリナミン」とか「パンシロン」とか「バファリン」とか。これはもともとの成分が「ン」で終わることが多いからかもしれません。アセトアミノフェンとかグリチルリチンとか。これらはなじみのないことばですが、全体的に「ン」で終わると、なんとなく親しみやすい感じもします。「ポケモン」は言うにおよばず、「くまもん」とか「ひこにゃん」とか。そのせいか、薬の名付けにもだじゃれ系が多いようです。けろりと治るから「ケロリン」、サラリと出るから「サラリン」、じきに治るから「ジキニン」はわかりやすい。「ノーシン」は「脳を鎮める」、「サリドン」は「鈍痛を去る」から来ているそうですが、このへんになったらクイズみたいなものです。前もって飲んでおけば「後が楽」になるからコーラック、とは気づきませんでした。風邪が「スーッと治る」からストナ、って言われなければわからない。

「ン」がつく理由として、もともとの薬の名前が「散」とか「丸」とか「ん」で終わるものが多かったからだという説もあります。「龍角散」とか「正露丸」とか「樋屋奇応丸」とか。「救心」とか「改源」というのもありますが、「丸」「丹」「散」で終わるものはすぐに薬だとわかります。漢方薬の中でも、粉薬になったものが「散」で、それを練って固めたものが「丸」または「丹」ですね。「丸」は「願」とも通じるので、縁起を担ぐ意味合いもありそうです。森鴎外らの意見で日露戦争に赴く兵士に飲ませたというところから「征露丸」と名付けたのが始まりで、戦争が終わってからは「征」はまずかろうということで、「正」に改めたそうな。たしか登録商標をめぐって裁判になり、結局「正露丸」は固有名詞ではなく、普通名詞であるという結果になったと思います。

「ん」の字と言えば、またまた強引に落語に結びつけますが、「ん廻し」という、ばかばかしい話があります。「寄り合い酒」という話の続きで、この「寄り合い酒」は祝賀会の劇のネタとして使ったことがあります。町内の若い者が、肴をめいめい持ち寄って飲むことになりました。ふだん料理をしたことなどないものだから、乾物屋の子供をだましてまきあげた鰹節でダシをとろうとして、二十本もいっぺんにかいてしまって、大釜でグラグラ。「うどん屋をやるんやないで」と、ぼやいていると、だしがらをざるに大盛りにして持ってきます。「これはダシやない。汁がダシや。汁はどうした」と聞くと、もったいないから痔の悪いやつが尻をつけて温めて、その後、残り湯にふんどしをつけてある、しぼって持って来ようか…。

鯛を持ってきたやつもいます。魚屋の荷から鯛をくわえて走って行く犬を追いかけ、棒で叩いて鯛を放したすきに拾ってきたという、ひどいやつです。料理しているところに犬がきて、座って動かないので、「頭を一発食らわして追っ払え」と言われて頭を食べさせ、「胴体を食らわせ」と言うから胴体をやってしまい、まだ動かないので尻尾まで食らわせて、とうとう全部犬にやってしまいます。大騒ぎしているところへ豆腐屋が焼き上がった田楽を持ってきました。

ここからが「田楽食い」または「ん廻し」という話になります。皆で田楽を食うことになったのですが、田楽は「味噌をつける」ので縁起が悪い、逆に運がつくように「ん」廻しにしよう、「ん」を一つ言うたびに一本取って食べよう、ということになります。「れんこん」「にんじん」「だいこん」と続いていくのですが、なかなか思いつかないやつがいます。野菜を言えばよいと思って、「きゅうりん」「なすびん」「トマトン」「レタスン」「キャベツン」「パセリン」「きくなん」「みぶなん」「たかなん」「こいもん」「さといもん」と、無理矢理「ん」をつけます。最後に「かぼちゃん」と言うのですが、「別の言い方があるやろ」とヒントを出されます。でも、なかなか出てこない。「ふだん言い慣れてるやつあるやろ」と言われて、「ああ」とうなずく。当然、観客は「なんきん」と答えると思いますが、そこをわざと外して、桂雀々は「パンプキン」とやって笑いをとっていました。そのうちに「てんてん天満の天神さん」のように長いものになり、とうとう「先年神泉苑の門前薬店、玄関番人間半面半身、金看板銀看板、金看板根本万金丹、銀看板根元反魂丹、瓢箪看板、灸点」と言って四十三本よこせと言います。聞き直されて、もう一度言ってさらに倍くれと言うところがおもしろい。この「玄関番人間半面半身」は「半分体を断ち切って内臓やなんかを見せた人形」と説明されています。学校の理科室にある人体模型みたいなものでしょうか。あれは個人で持っている人っているのかなあ。骨格標本も理科室によくあります。あれは模型でしょうが、実は本物だったというニュースもありました。ちょっとしたホラーですね。

2020年9月 6日 (日)

死に土産

紛らわしい名前としては、「関西大学」と「関西学院大学」があります。前者は「かんさい」、後者は「かんせい」です。アメフトで日大の監督がまちがって「かんさいがくいん」と読んでしまったのも無理ないでしょう。昔、「東京」を「とうけい」と呼んだのと同じく、ちょっと気どった言い方なのでしょうか。「西」を「サイ」「セイ」と読むのは呉音・漢音というやつです。呉音というのは4世紀ぐらいまでの大和朝廷のころに中国から伝わった読み方、漢音というのは7、8世紀ごろ、遣唐使などが持って帰ってきた読み方です。その後、遣唐使を廃止して中国からの影響がなくなりますが、再び、12、3世紀ごろ平清盛によって貿易が復活し、僧侶も大陸へ渡って新しい仏教、禅宗を持って帰ります。そのときに伝わったのが唐音です。「西瓜」を「すいか」と読みますが、「スイ」が唐音ですね。今の中国では「シー」で、昔の長安、今の西安は「シーアン」です。麻雀界では「シャー」ですな。東南西北は「トン・ナン・シャー・ペー」です。なぜ「シャー」なのか、よくわかりません。「サイ」と「セイ」では、「サイ」のほうが古いので、「西方浄土」など仏教関連では「サイ」と読んだほうが荘重な感じがするのかもしれませんね。

「関西」は、中国では函谷関より西を意味しました。日本では鈴鹿、不破、愛発(あらち)の三関がありますが、いちおう不破の関があった関ヶ原より西でしょう。「関東」という言い方がまず生まれ、都びとは、自分たちは「中心」であって「西」だと考えていなかったはずなので、「関西」という言い方はそんなに古くはないような気もします。越前の愛発の関は早くに廃止され、近江に逢坂の関が置かれます。ちなみに奥羽三関というのもあって、白河・勿来・念珠の三つです。関西大学は五代友厚の作った商科大学がもとになっていますね。五代友厚といえば、ディーン・フジオカが演じて有名になりました。ブームが過ぎると忘れ去られるのが世の習い。

ところで、この「ディーン」というのは姓か名か。「フジオカ」が姓なら、「ディーン」は名前だと思いますが、ジェームズ・ディーンという人もいました。これは名字です。ジェームズ・ディーンは『エデンの東』という映画でスターとなり、あっという間にこの世を去ったことで、永遠の青春のシンボルのようになっています。だからこそ、永ちゃんの名曲『サブウェイ特急』で「ジェームズ・ディーンは、そう、立ちふさがる白い壁にただ一人…」と歌ったのです。ところがこの歌の二番の歌詞では同じところを、ジェームズつながりで「ジェームズ・ボンドは、そう、髪の毛がはげるまで…」と歌っています。演じたショーン・コネリーの髪の毛が薄くなって話題になっていたことを踏まえたものでしょう。ただコミックソングでもないのに「はげ」ってことばが出てきて、なんだか笑ってしまいました。同じ歌に「畳じゃ死なねえぞ」というフレーズがあるのも、今どきのことばではないよなあと思いました。作詞は矢沢ではなかったのですが…。

それまでの歌詞になかったことばとしては、長渕剛の『とんぼ』の中に「ケツのすわりの悪い」という強烈なフレーズが出てきましたが、この歌なら許されるのですね。和歌の時代から、歌に使うことばは「雅語」でなければならないようなイメージがありました。「つる」ではなく「たづ」であり、「あわ」ではなく「うたかた」とした瞬間に歌の格調がぐっと上がります。「永遠」を「とこしえ」と言えば上品だし、「とこしなえ」と言えばさらに優雅になってグレードアップします。加山雄三の『君といつまでも』の中では「しとね」ということばが出てきて意味不明でした。ひらたく言えば「布団」ですね。この歌では他にも「今夜」「今晩」ではなく「今宵も日がくれて」と歌います。岩谷時子さんの頭の中では、「君といつまでも」の「君」は「君が代」の「君」だったのかも…。

谷村新司の『すばる』でも、文語というか古語を使っていますが、あれは不完全です。特に「なり」の使い方に無理矢理感がただようなり。松田聖子の『風立ちぬ』は堀辰雄をふまえているのでしょうか。一部だけ古語を使ってみました、という感じです。井上順の『お世話になりました』では「何もかも忘られないよ」と歌っていますが、「忘れられない」なら問題ありません。「忘れる」ではなく「忘る」なのでここは古語です。そうすると次の「れ」は「る」の活用したものかなと思ったら、あとに「ない」という東国方言が続く、という意味不明の構成…。と、文句をつけてみましたが、単に口調でそうなったのでしょうね。じつは古語の「忘る」はやっかいなことばで、現代語の「忘れる」につながるのは、下二段活用の「忘る」で、「れ・れ・る・るる・るれ・れよ」と活用します。ところが、四段活用の「忘る」もあるのですね。「ら・り・る・る・れ・れ」となるのですが、どうもかなり古い形のようです。「忘れたり」は自然ですが、「忘りたり」は変です。「忘られず」という形がたまに見られるのはこの古い古いことばが現代人にも「忘られない」のでしょうか。現代語に古語がまぎれこんでもそれと気づかず使っていることもあるでしょうね。桑田佳祐が『希望の轍』の中で使っているのは「忘られぬ」の形なので、まあ許せるか。

吉田拓郎は『イメージの詩』の冒頭で「これこそはと信じれるものがこの世にあるだろうか」と、いわゆる「ら抜きことば」を使っていました。昭和四十年代でしたが、もうみんな平気で使っていたのでしょう。昔の人でもまちがって変な言い方をしていることがあります。「ふぐはくいたし命はおしし」は「惜し」で十分なのですが、七音にしないとリズムがくずれるので「おしし」になってしまったのでしょう。この句を作ったのはどの地方のことでしょうか。なんとなく江戸のような気もしますが、ふぐ文化は北九州あたりの発祥でしょう。大阪人もふぐ好きです。「づぼらや」の看板でも有名でした。下関もふぐの本場で、有名な「春帆楼」も大阪に出店がいくつかあります。道頓堀の春帆楼で食べているときにとなりの部屋でおっさんたちが「死に土産、死に土産」と言いながら食っていましたが、あれはどういう意味だったのかなあ。さすがに春帆楼のふぐはそうそう食べられないから、死ぬ前に一度味わっておこう、ということか。こんなうまいものを食ったら、あたって死んでも本望だ、ということか。ふぐ食は秀吉が禁じて、伊藤博文が解禁したという話があります。春帆楼は日清戦争の講和条約の舞台になったところですから、李鴻章も食べたのかしらん。

2020年7月18日 (土)

堀口大学という学校はない

「佃祭り」の話で女が身投げをしようとしたのは吾妻橋、崩落した永代橋とともに隅田川の橋ですが、同じく隅田川にかかる言問橋という橋の名前は業平の歌がもとになっています。「伊勢物語」にある「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」ですね。優雅なものです。ただ、江戸時代か明治のころ、隅田川近くの団子屋が「言問団子」と名づけたことが元になってつけられた名前だという説もあります。

江戸で和歌といえば、太田道灌ですね。これも「道灌」という落語があります。道灌が、突然の雨に出会って、貧しい家に立ち寄り雨具を借りようとします。若い娘が出てきて山吹の枝を差し出すので、怒って帰ってしまうのですが、これは「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」の古歌をふまえたもので、「実の」と「蓑」をかけて、「お貸ししたいのですが、蓑の一つもございません」と断ったのだ、という話を聞いた八五郎。いつも傘を借りにくる友達を、この歌で追い返してやろうと、待ち構えているとちょうど雨が降ってきます。案の定友達がやってくるのですが、今日は傘は持っており、暗くなってきたので提灯を借りにきたと言います。八五郎は、雨具を貸してくれと頼めば提灯を貸すからと、無理やり雨具を借りさせようとします。それじゃあ、ということで応じた友達に、歌を書いてもらった紙を差し出すと、なんだこりゃ、といわれます。「お前は歌道に暗いな」「角が暗いから提灯を借りに来た」というイマイチな落ちです。

道灌については知名度のわりにどういう人物だったかは意外に知られていないようです。関東管領といえば上杉氏で、謙信は山内上杉家の家督を譲られたのですが、道灌は扇谷上杉家の家臣です。今川家の家督争いのときに、義元の父親、龍王丸が幼かったため、その叔父の伊勢新九郎と名乗る人物が調停案を提示し、駐留していた道灌が了承したという話があります。伊勢新九郎とは北条早雲の若い頃の名前ですね。七重八重の歌の話が載っているのは江戸時代の『常山紀談』ですが、後日談があります。 「山吹の花」の失敗に懲りて歌を熱心に学ぶようになった道灌が主君の上杉定正と戦に出て、海沿いの道を通っているときのことです。折から夜中で、あたりは真っ暗です。山が迫った道なのですが、山に近づきすぎると山上から弓を射られるかもしれず、海に近づきすぎると、もし潮が満ちていたら流されてしまいます。様子を見てきた道灌が「潮は干いている」と報告します。「遠くなり近くなるみの浜千鳥鳴く音に潮の満干をぞ知る」という歌を引いて、「千鳥の声が遠く聞こえました」と言うのですね。また、別の日のこと、やはり夜のことで、利根川を渡りたいのですが、真っ暗で浅瀬がわかりません。すると、道灌は「波音のする所を渡れ」と言います。「そこひなき淵やはさわぐ山川の浅き瀬にこそあだ波は立て」という歌を根拠として示します。このあたり、むかし授業で毎年やっていました。

道灌もそうですが、東国の人は歌がうまいというイメージは相当古くからあったようです。万葉集にも「あずま歌」と呼ばれる作品群がありますし、安倍貞任・宗任や源義家は歌の世界でも有名です。六歌仙の一人、小野小町も出羽の出身です。そのせいか「秋田美人」ということばも生まれています。日本海側の県は一つおきに「美人の産地」だという説があるそうですね。秋田がふくまれるなら、あてはまらない県も自動的にわかるわけで失礼な話です。昔は日本海側を「裏日本」と言いました。太平洋側が「表日本」ですね。これも失礼ということで今は使われなくなったようです。ただ山陰という呼び方は残っています。明るい山陽に対して山陰は暗いイメージになってしまいます。新しい呼び方を募集したことがあって、「北陽」などの案も出たそうですが、結局変わらないままです。中国では山の北側を「陰」、南側を「陽」と言うので、この呼び方も仕方のないことかもしれません。これが川なら、北が「陽」、南が「陰」になります。洛陽は洛水、濮陽は濮水の北側にあるわけです。韓信は「淮陰侯」と呼ばれますが、淮水の南を領地とした、ということですね。

「陰」のイメージはよくないのに、なぜか学校の名前には、くさかんむりがついただけでほぼ同意の「蔭」の字が使われることがあります。「松蔭」「樟蔭」「桐蔭」「桜蔭」のように、なぜか「木のかげ」です。安倍さんの母校である成蹊大学も、「桃李もの言わざれども、下おのずから蹊を成す」から来ている名前なので木のイメージですね。これに対して「甲陽」や「北陽」のように「陽」のつく学校名もあります。「甲陽」の「甲」は本来は「甲斐国」で、「甲陽軍艦」とか「甲陽鎮撫隊」というように使われます。「甲山の南」の意味の「甲陽」という地名はそれほど古くはなさそうです。こう見ると、女子校は「陰」、男子校は「陽」となって、「男は陽、女は陰」と考える陰陽二元論につながっておもしろい、と書きかけて、堺の「泉陽高校」を思い出しました。この「陽」は洛陽にあやかったものでしょう。泉州一の町という意味で堺の別名にしたわけで、北や南とは関係がないわけですが、もともと女学校ですから、女子校は「陰」という説にあてはまりません。与謝野晶子や橋田壽賀子、西加奈子、沢口靖子、と錚々たる有名女性を輩出している名門です。

学校名で言うと、学園と学院のちがいは何でしょうね。学園のほうが自由なイメージ、学院は規律あるイメージですかね。学園天国とは言いますが学院天国はなく、学園祭はあるが学院祭はない、という勝手なイメージ…。ちなみに私が思いつく「学園天国」というのは小泉今日子ではなく、もちろんフィンガー5です。これはフィンガーズなのかなあ、単数複数の区別は不要? 大学院は「大・学院」か「大学・院」か、というのも難問。学園はおそらくプラトンのアカデミアの訳で庭園のイメージでしょうが、「学苑」と書くと、服飾学園っぽくなってしまいます。「院」は建物、というより「寺院」のような気がします。日本最初の学校は「綜芸種智院」ですし。寺子屋ということからも学校と寺は結びついています。学校に行くことを「登校」、帰ることを「下校」というのは寺が山の上にあったからですね。ということは、宗教系は「学院」でしょうか。でも、星光学院はあてはまっても、東大寺学園はあてはまりません。帝塚山は「学園」と「学院」の両方があります。「学園」でも「学院」でもない東京女学館というのはおしゃれですね。二松学舎となると、これは反則技でしょうか? 

2020年7月 3日 (金)

ありの実と歯痛

伝説の世界の小栗判官となると、いったんあの世にまで行ってしまいます。「流離」にも、ほどがあります。梅原猛が猿之助劇団のために書いたスーパー歌舞伎『オグリ』はなかなかおもしろかった。歌舞伎は「古くさい」と敬遠されがちですが、『ワンピース』まで取り上げています。奇をてらいすぎ、という観もありますが、もともと「傾き」ですから、何でもあり、だったのでしょう。その意味では原点にもどったとも言えます。わが希劇団も数年前の祝賀会で「サンピース」という劇を上演しました。「海賊王」ではなく「山賊王」になる、という設定なので「サンピース」としたのですが、「サン」が「スリー」であるなら「スリーピーシーズ」なのかなあ。「ワンピース」に対して「ツーピース」と言いますが、「ピース」は複数形なのでしょうか。二人で教える個別、「マントウマン」ではなく「トゥーマン」というのを祝賀会の劇でやったのですが、文法的に言うと「トゥーメン」が正しい。

単数・複数の区別がないので楽かと思いきや、日本語には助数詞というものがあって、これがまた厄介でした。どっちがいいというものではないようです。英語では左から右に書くのに、昔の日本語の横書きは右から左で逆でした。これは横書きではないという人がいます。つまりあれは一字だけの行を縦書きしているのだ、だから右から左なのだ、という考え方で、たしかにそうですね。もちろん、西洋と東洋で逆になるものはほかにもたくさんあります。マッチを擦るとき、日本人は下へ向かって擦るのに対して西洋では手前にひくとか、人を呼ぶとき、日本人はてのひらを下に向けて動かすが、西洋ではてのひらを上に向けて動かすとか。日本人はこういう対比が好きで、西洋人はそうではない、としたらこれまた対比です。

東京VS大阪というバトルも盛り上がります。ただ東京人はこれを話題にすることもそれほど多くないようで、むしろ大阪人のコンプレックスの表れだ、と言う人もいます。ものを買った値段の自慢も、東京が高いもの自慢であるのに対して、大阪人は安く勝ったことを自慢する、というようなのは、もはや「自虐ネタ」に近いかもしれません。大阪は京都VS大阪のバトルでも負けることがよくあります。最近では神戸VS大阪が取り上げられることもあり、やはり大阪はよく負けています。大東京にに対して「大大阪」と言っていた時代もあったのですが。なにしろ東京よりも人口が多かったのですから、東洋一どころか世界一だったのかもしれません。ただ、これも人口の多さが自慢になるか、という意見もありそうです。

ケンミンショーでもやっているように、どこがすぐれているというのではなく、多様性が大事なのでしょうね。あの番組でおもしろいのは、自分たちの文化が全国的だと思っている人が意外に多いということです。下世話なものほど、比較することが少ないので、そう思ってしまうのもやむをえないでしょう。子供の遊びなど、土地ごとに細かいルールがちがいますし、名称も変わります。「ケイドロ」と言う地方もあれば、「ドロケー」と呼ぶところもあり、私のところでは「探偵ごっこ」と呼んでいました。「探偵」と言っても私立探偵ではなく、警察の業務はまさに「探偵」なので、この場合は警察を意味しています。その探偵を決めるのに「イロハ」を使うのですね。「イロハニホヘトチリヌ」と順に指していって、「ヌ」に当たった者が「ぬすっと」、「ルヲワカヨタ」で「タ」に当たった者が「探偵」なので、「探偵ごっこ」という呼び名は妥当です。

昔の子供の遊びって「かごめ」や「通りゃんせ」「花いちもんめ」など、童謡を歌うような、のどかなものがよくありました。ただ、歌詞をよく見ると「のどか」というより「無気味」なものが結構多いようです。「花いちもんめ」など「子とり」です。マザーグースも同様で、洋の東西を問わず、子供は無気味なもの、残酷なものが好きなのでしょう。グリム童話などにも残酷なものが多いようです。「ロンドン橋落ちた」という歌も、橋が落ちたことを歌にしなくてもよいでしょうに。日本でも永代橋が落ちましたが、これは歌にはなっていないようです。落語にはなっていますが、ストーリーは「粗忽長屋」のバリエーションです。船がひっくり返った事件も「佃祭り」という噺に出てきます。志ん生や前の三遊亭金馬もやっていましたが、私は春風亭柳朝の淡々とした語りが好きです。

小間物問屋の次郎兵衛という人が「暮六つの最終の渡し船に乗って帰る」と言って、佃島で開かれる祭りに出かけます。祭りもすんで船に乗ろうとすると、見知らぬ女に袖を引かれ、揉めているうちに船は出発してしまいます。女が言うには、「三年前、奉公先の金をなくして橋から身を投げようとしていたところ、見知らぬ旦那から五両のお金を恵まれて命が助かった。」それが次郎兵衛さんだったのですね。お礼をしたいと家に招かれます。料理をご馳走になっていると、急に外が騒がしくなります。聞けば、先ほどの船が客の乗せすぎで沈んでしまい、全員溺れ死んだとのこと。三年前に女を助けていなければ、そのまま船に乗って死んでいたわけです。無事に帰宅した次郎兵衛さん、みんなが喜んでいる中、与太郎は「身投げをしようとしている女にお金をあげればよいことが起こる」と思って、家財道具を売り払って工面したお金をもって、毎日橋のあたりをうろうろしています。とうとう、袂に重そうなものをつめた女が川に向かって手を合わせているのに出くわします。与太郎は大喜びで女をつかまえ、「お金をやるから身投げはよしなさい」と言うと、女は、身投げではなく、歯が痛いので神様にお願いしていたと言います。「袂に石がはいっているじゃないか」「これは、お供え物の梨だよ」

この落ちがわかりにくい。江戸時代、歯医者さんらしき人はいたようですが、治療費が高くて、なかなか通うことができなかったようです。そこで、やはり神様だのみになります。九頭龍大神をまつっている戸隠神社で、歯を患った者が三年間、梨を絶って参拝したら治った、という言い伝えがありました。江戸の人々は信州の戸隠神社に行くことができないので、梨の実に自分の名前を書いて、神社のある戸隠山の方を向いて祈り、梨の実を川へ流したのだそうな。ふつうはこういう説明を話のまくらとしてしゃべってくれるので、落ちもなるほど、と思えるのですね。

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