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2013年3月の5件の記事

2013年3月29日 (金)

いろいろ

灘コースの国語を担当していますが、実は低学年が好きです。今年は小4の授業を担当させてもらっています。毎週楽しみです。

小4なんて人間の仲間入りをして年数が浅いですから、子どもによっては相当アニマルです。当然のことながら休み時間と授業時間のけじめがなかなかつけられないような子もいます。先日、さあ、新年度が始まってだいぶたったことだし、ここらへんでそろそろひとつびしっと言うてやらねばなるまいと思い、キリッとした顔つきで注意してみました。

「◎◎くん、チャイム鳴ったやろ、もう授業開始やで。わかってるか?」

「はい、わかってマスタード」

「いや、ほんまにわかってるか?」

「わかってマスタード」

「わかってないと思う」

「わかってマスタード!」

なんだか頭がくらくらしてしまいました。

う~ん、小4。

たまらないぜ。

 ◇

◆◇◆

  ◇

先日、希学園21期生の合格祝賀会があり、例によって講師劇を上演しました。

21期生のみなさんが格調高いピアノ演奏を聴いていらっしゃるころ、舞台裏で、舞台衣装に着替え、セリフや動きのチェックをしている我々なのでありました。

では、私が携帯で撮った写真を。まずは主役の学園長。(携帯が古いうえに腕が悪いのでかなり画像が粗いです。)

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つづいて、何の役だか私も知りませんがなぜかにこやかな平野tr。幸せそうな笑顔ですね。平野trはここ2、3年幸せつづきでね。いつまで続くかな~。

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次は帽子が似合う男大澤健trと、いつも浮かれポンチなY田M平trです。

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そして、ラスト。ラストを飾るのは、国語科でもっとも真面目そうに見える矢原trであります。そう、「見える」だけであります。

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僕はこれといった衣装もメイクも必要なくて、いまひとつ盛り上がりませんでした。

来年はぜひ!

2013年3月22日 (金)

彼は死んだこと

忠臣蔵は何度も映画化されていますが、東映の忠臣蔵の映画で浅野内匠頭を介錯した武士を演じた人のお子さんが、その昔塾生で来られていました。お子さんをお迎えにくるときのお父さんはさすがに芸能人らしく「カッコイイ」印象でしたが、お話しさせていただくと、実に謙虚な感じで、すばらしいお父さんでした。某野球監督のお子さんも塾生として来られていましたが、本人は実は野球よりサッカーが好きとか言うとりましたな。有名人の子供だけではなく、来ていた本人が将来有名人になるということは十分にありえます。各方面で活躍してくれることを期待していますが、東大に行った教え子の某くん、数学者になって本を出したそうです。『4次元以上の空間がなんちゃらかんちゃら』というトポロジーを扱ったものを私のところに送ってきよりました。そんな意味不明の本を送られて、私はどうしたらよいのでしょう。困ったものです。古本市場に持って行ってたたき売ろうとしたら、表紙の裏に「山下先生へ」という献辞があって売ることができませんでした。残念です。

有名小説家の子供や孫で芸能界で活躍するケースもありますね。芥川比呂志は芥川龍之介の友人菊池寛から名前をもらっています。緒形拳が弁慶をやった大河『源義経』では頼朝をやっていました。『春の坂道』の柳生石舟斎はきっと本人はこんなんやったやろなという感じで、印象に残っています。弟の也寸志は作曲家ですね。森雅之は有島武郎の息子で、黒澤明の映画によく出ていました。坪内ミキ子は坪内逍遙の孫だとか。国木田独歩の孫で国木田アコという人もいました。檀ふみと阿川佐和子はそれぞれ檀一雄、阿川弘之の娘で、いっしょにCMに出たりしていましたな。高見恭子は高見順の娘です。吉行和子は吉行エイスケの娘で、兄が吉行淳之介、妹が吉行理恵、母親のあぐりさんをモデルにしたNHK朝ドラもありました。飯星景子は『仁義なき戦い』の飯干晃一、桐島かれんは桐島洋子の娘だし、山村紅葉が山村美紗の娘であることはあまりにも有名。石原良純は作家の息子と言うべきか、政治家の息子と言うべきか。後者なら小泉孝太郎やDAIGOと同じ範疇になってしまいます。夏目房之介はよくテレビにも出ていましたが、芸能人ではないですね。

こういうのは遺伝なのか、家庭環境なのか。作家は自分の思いを書きことばで表現するわけで、孤独な作業です。一方、俳優は他者になりきって、人前で演じ、他の役者と協力して作り上げていく作業なので、両者はちがうといえばちがいます。でも、なんらかのパフォーマンスという点では同じです。ひょっとしたら、作家は才能さえあれば人前で演じたいという気持ちが心の底にあるのかもしれません。むかしは文士劇というのもありましたし。三島由紀夫でさえ映画に出ています。司馬遼太郎原作で岡田以蔵を勝新太郎が演じたものですが、薩摩の田中新兵衛の役で腹を切り、次の年じっさいに割腹自殺を遂げました。作家の中にも俳優の中にもナルシズムのようなものがあって共通しているのかもしれません。そうであるなら、遺伝子の影響もありそうですが、親の作品が映画化されたりして、芸能界とのつながりがあると、小さいころから、そういう世界に対する関心が生まれる可能性もあります。もしそうなら、環境のせいでしょう。両方の要素が結びついているとも考えられます。

国語ができるかどうかは遺伝子もあるかもしれませんが、家庭環境が大きいような気がします。親が国語的なことに関心があれば、自然に子どもも関心を持つようになりそうです。たとえば、ことば数とか常識に関しては親の影響が強いであろうことは容易に想像できます。ことばのもつ微妙なニュアンスを親が使い分けていれば、子どももだんだん気づいてくるでしょう。「興味」と「関心」はどうちがうか、と言われても説明はなかなかできません。「私は国語に関心がある」と「私は国語に興味がある」は同意でしょう。でも、母親が子どもの成績表を見てカリカリきているのに、父親がのんきにテレビで阪神戦を見ていたら、「あんた、子どものことに関心ないの?」と言うはずです。ここでは「興味」はなんか変です。「興」に「おもしろがる」というニュアンスがあるからでしょう。

最近読んだ小説で、妙に落ち着かない感じのものがありました。話の運びが唐突すぎることもあったのですが、たとえば「大学四年の頃に卒業旅行と称して、五島列島を訪ねたときの話をしてくれた」なんて表現が随所に出てくるんですね。「称して」とわざわざ言っているのだから、ほんとうは卒業旅行ではなかったんだな、と思ってその先を読み進んでも、どう見てもふつうの卒業旅行のようです。「称する」というのは、明らかにうその場合にも使います。「病気と称して休む」のように。うそでない場合は、公然と呼ぶとか名付けて呼ぶというニュアンスです。「元服して義経と称する」のような感じです。だから、わざわざ「卒業旅行と称して」と表現したからには、なにか裏があると思わざるをえない。にもかかわらず、そうではないから肩すかしを食ってしまい、読むリズムがこわされるのでしょう。

プロの作家でもそういうことがあるのですから、ふつうの人が「心配」と「不安」の区別がつかなくても、「しかし」と「ところが」のちがいが説明できなくてもしかたがありません。でも、国語の問題で「彼は死んだこと」という形で答えたら、なんか変だなと思う感覚はあるでしょう。「彼が死んだこと」か「彼は死んだということ」ならよいのですね。「彼が言ったこと」と「彼が言ったということ」とでは微妙なちがいがあることに気づけるかどうかです。「こと」を「事実」と解釈すれば、どちらも同意ですが、「こと」を「内容」と解釈することもできることに思いが及べば、書き分けようとするはずです。「説得すること」と「説得させること」では主体が明らかに変わるのに、そういうことをまったく気にしないで書く子どもがいます。その言い方はおかしいよ、と言ってくれる人がいるかどうか、というのは国語の力にかなり大きな影響を与えているような気がします。ことばだけでなく、人は悲しいから泣くとは限らないというような、数学的な論理とはちがう論理が人間にはあるといったようなことも家庭で身につけていく要素が大きいでしょう。もちろん子ども本人が、好奇心とかおもしろがる心を持てるかどうかにもかかわってきますが。

2013年3月15日 (金)

山で聴く音楽

学生のころは、映画や本(マンガふくむ)や音楽の話を友人とよくしたものですが、最近はそういうこともめっきりなくなりました。

だいたい話が合わないですね。

特に音楽はもうほとんど無理ですね。さがせば話の合う人が希学園内にもひょっとするといるのかもしれませんが、可能性は低そうです。仕方がないので、こんなところに八つ当たりのように書いてみる僕なのであった。人の好きな音楽の話なんて、聞いたっておもしろくもなんともないもので、その点夢の話と似ていますよね。それはわかってるんですが、まあ、それはそれとして、たまにはというか、どうせいつもたいした話は書いてないわけだし、べつにいいか、みたいな。

小学生のときには家にクラシック中心のレコード全集があって、今考えてもけっこう節操のない感じのアンソロジーでしたが、それをちょいちょい聴いてました。当時好きだったのはブラームスの『ハンガリー舞曲第五番』。小学生にしてはなかなか良い趣味していますね。ブラームスは今じゃ『ドイツ・レクイエム』が好きですね。荘厳でかっこいいです。映画音楽全集みたいなのもあって、『ある愛の詩』とか『禁じられた遊び』とか聴いてじぃんとしていました。映画は観たことありませんでしたが。好きな音楽を自分で見つけてくる才覚とか強い好奇心はまだなかったので、適当に家にある音楽を聴いていただけですが、今考えてもおかしいのは、なぜかよく『うちの女房にゃ髭がある』という曲を聴いてたことですね。聴くだけでなく歌ってました。「ぱぴぷぺぱぴぷぺぱぴぷぺぽーうちの女房にゃ髭があるぅ」なんて歌いながら歩いていました。変な小学生ですね。

音楽を自覚的に聴き始める、というと大げさですが、いろいろ興味をもって音楽を渉猟しはじめたのは高校生のときです。YMOブームが去ったあとで、なぜかYMOを聴きはじめ、そうすると、いろいろつながっていくんですね。クラフトワーク聴いたり、RCサクセションとかムーンライダーズとか。矢野顕子とか。

阪急茨木駅前に「親指ピアノ」という熱いレンタルレコード店があって、コムデギャルソンみたいな黒ずくめのニューウェイブ系のおねえさんがよく店番をしていましたが、はやっている音楽とか売れているレコードとか関係なく、店員のお気に入りをひたすらプッシュしてました。当然、洋楽、それもパンク・ニューウェイブ系が主で、そこでエルビス・コステロとかシスターズオブマーシーとか、クリスチャン・デスとか、日本のバンドだとローザ・ルクセンブルグとか借りて聴いたんじゃなかったかなと思います。もはや誰も知らないバンドオブアウトサイダーとか、スーイサイドツインズとか。フラ・リッポ・リッピはまだ知っている人もいるかもしれませんね。数少ないこのブログの読者のなかにいらっしゃるとは到底思えませんが。

研究室の先輩に洋物のポップス大好きな人がいて、この人の情報も貴重でした。スラップハッピー、レッドボックス、ジョン・レンボーン・グループ、プレファブ・スプラウトといったあたりはこの先輩に教えてもらって聴きはじめました。

寮の友人からの情報も有益でした。ひたすらプログレが大好きなやつ、クラシック専門のやつ(と言いつつ、なぜかおニャン子クラブだけは聴く)、中島みゆきラブな人とかいました。中島みゆきは最近のものは全然聴いていませんが、昔の『キツネ狩りの歌』とか『蕎麦屋』とか『傾斜』とか、歌詞が凄かったですね。『傾斜』というのは腰の曲がったおばあさんのことを歌ったものですが、「息子が彼女に邪険にするのは、きっと彼女が女房に似ているのだろう」っていう部分に、「そんな歌詞ありか!」とひっくり返るぐらいびっくりしました。他に歌詞が良かったのはムーンライダーズとかRCですかね。こういうのも歌詞になるし、こういうのも歌えるよって、歌詞の世界を広げてくれました。「検死官と市役所は君が死んだなんて言うのさ」(『ヒッピーに捧ぐ』)なんて今聴いても感涙ものです。ムーンライダーズの歌詞はじつに多彩で、わりと最近(と言ってもかなり前ですが)メンバーの一人がハイジャックに遭ったときのことを歌詞にしていて、そのなかの「年老いたハイジャッカー、今日こそ輝いていたいんだろう」という一節を聴いたときは、面目躍如というか、さすがだなと思いました。いまどきのJポップスの歌詞なんて聴くに堪えませんよ。似たようなフレーズの切り貼りだらけです。え、言い過ぎですか。そうですね。なかには良いものもあったような気もします。でも、ある限定された層(たとえば二十代前後の女性とか)の共感が得られるだけの、その層に特有のある種の気分をすくい取っただけの歌詞は物足りないと思っちゃうんです。そういうのが無意味ということではなくて、それだけで終わっちゃったらつまんないという感じです。でも、そんなのばっかりでしょ? え、やっぱり言い過ぎですか。そうですね。そんなのばっかりじゃありません!

もうひとつ、あまり聴かないというか、ダメなのはジャズです。それでも大学時代は少しは聴きました。ありがちですが、コルトレーンとかソニー・ロリンズとか。でもなんだかダメになっちゃいました。ずっと前にも書いたような気がしますが、ガトー・バルビエリぐらいですかね。日本だと清水靖晃。

ああ、なんだかもう、だれも読んでくれていない気がする・・・。

クラシックも少しは聴きます。宗教曲が多いです、クリスチャンというわけではありませんが。これも前に少し書いた記憶がありますね。好きな宗教曲ばかり集めてプレイリストをつくり、うだるような猛暑の炎天下、マタイ受難曲やらレクイエムやら聴きながら歩いていると、あやしうこそものぐるほしけれというかなんというか頭がくらくらしてきて素敵です。

先日、京都の鳥辺野あたりをグレゴリオ聖歌聴きながらぶらぶらしてみましたが、もうほんとうに頭がぽーっとなってすごく良かったです。異界にトリップしかかっているような変な感じでした。次はパレストリーナ聴きながら蓮台野周辺を歩いてみよう。京都の方以外にはよくわからない地名だったかもしれませんね。鳥辺野(鳥部野、鳥戸野)も蓮台野も、簡単にいうと、昔の風葬場、ありていにいえば、死体が遺棄されていた場所です。京都はおもしろいです、ほんと。

音楽の話にもどります。もっとも好きなのは、にぎやかなアップテンポの曲であれ、静かな曲であれ、やっぱりドライブ感といいますか、どこかに連れて行かれるような感じのする曲です。僕が永遠に宇宙一好きなシベリアン・ニュースペーパーも、聴いてると、とんでもなく遠いところに連れて行ってくれる感じがあります。まさに彼らの曲のタイトルにあるとおり『世界の果てに連れ去られ』ですね。単調な曲のようでも、実はそういう感覚をあたえてくれるという曲はたくさんあります。スティーブ・ライヒの『18人の音楽家のための音楽』やグレツキの『シンフォニー№3』なんて特にそうですね。

まあ、音楽の趣味なんて人それぞれですし、音楽との出会い方も人それぞれなわけですが、どうもよくわからないのは、今売れているものを聴くっていう聴き方ですよね。CD屋さんに売れ筋情報が必ずありますけど、あれは、それをもとにして買う人がたくさんいるから出してるんですよね。不思議。ジャケ買いはよくしましたが、売れ筋情報を参考にしたことはまったくないなあ。僕の好きなシオランが(この人は音楽家ではありません、文筆家です)、自分の好きな音楽について知られることは自分のもっとも深い内面を知られるのに等しい感じがする、といったようなことを書いていたけれど(例によってあやふや)、音楽に対するそういう感受性って今も生きてるんでしょうか。売れ筋情報をもとにCDを買い音楽を聴く人とは無縁の感受性だって気がします。コマーシャルでCDの宣伝をしているのを見たときは、ものすごくびっくりしましたが、びっくりする僕の頭がかたいんでしょうね、きっと。でもやっぱり気持ち悪いなあ。ふと耳にした曲が心に残っていて・・・というのとは少しちがう気がします。ただ、ショップの視聴コーナーで出会った音楽も少しはありますね。パンク・ニューウェイブとボサノバの美しき融合、アート・リンゼイがそうでした。

いずれにせよ、最近はあたらしい音楽にふれることが少なくなりました。好きな音楽を貪欲にさがすということがめっきりなくなりました。数年に一度突然火がついてしまうことはありますけど。シベリアン・ニュースペーパー以外のCDを買ったのって、もう2年前だったような。穂高岳山荘のテント場で雨にふられ一日中寝袋の中でごろごろしていたときに、ラジオで聴いたヒリヤードアンサンブルの合唱があまりにも山の雰囲気にぴったりで、下界にもどってからさっそく買いに行きました。昨年、剱に登って、おりて、五色ヶ原まで歩いたときにはこれとシベリアン・ニュースペーパーをずっと聴きながら歩いていました(そしてツキノワグマにばったり出会ってしまい、絶叫しながら遁走するのであった)。

なんだかまとまりがなくってすみません。どう終わったらいいのかわかんなくなったので、とりあえず一言叫んでしめくくることにします。

音楽ばんざい!

2013年3月 8日 (金)

AKO47

清水次郎長という名前が出てきましたが、この人が死んだのは明治の中頃で、晩年はベッドで寝てたとか。徳川慶喜だって、死んだのは大正の初めですから、江戸時代というのは遠い昔ではありません。一時期、次郎長の養子になっていたのが天田愚庵という人で、正岡子規にも影響を与えた歌人です。次郎長一家には二十八人衆という子分がいたそうで、大政・小政・大瀬の半五郎・法印の大五郎・増川仙右衛門・桶屋の鬼吉・追分の三五郎、この辺までは名前が出てきます。というと、広沢虎造(知らんやろな)に怒られます。忘れちゃいませんか、森の石松がいました。その他は、と聞くと虎造みずから、「あとは一山いくらのがりがり亡者だい」と言っています。しかし吉良の仁吉という人がいて、これも二十八人衆の一人です。この仁吉の血をひくという設定の吉良常という男が出てくるのが、尾崎士郎の『人生劇場』ですが、もうその辺の本屋には置いてないのかなあ。高校生のときに、絵も何もかいてない黄色い表紙の新潮文庫で読みました。なになに篇とか名前がついて十冊ぐらいに分かれていましたが、五木寛之の『青春の門』はこのパロディかなと思っていました。同じ早稲田の後輩だし、「やっちゃん」の出てくる青春小説という点では同じでしたね。

四十七士となるとさすがに覚える気もなく、大石内蔵助・大石主税、堀部安兵衛、以下省略。とはいうものの、よく考えたら何人かはパラパラと出てきます。たとえば大高源五。俳諧をやっていて、宝井其角とも交流がありました。其角は芭蕉の弟子としてはトップで、芭蕉がライバルと目していた井原西鶴とも付き合いのあった大物です。討ち入り前夜、両国橋のたもとで出会ったときに、「西国へ仕官することになった」と言う源五に、「年の瀬や水の流れと人の身は」と其角が詠みかけると、「あした待たるるその宝船」と付けて、仇討ち決行の真意を知るという有名な話があります。

四十七の上を行くAKB48は何人いるのでしょう。48人ではなく、はじめは半分ぐらいだったそうですが、今はどれだけ? 「AKO47」という新作落語を月亭八方がやっていました。47対1で討ち入りをするのは卑怯なのでセンターを決める選挙を行うという、ばかばかしい設定で、あまりの安易さに結構笑えます。でも、いまの子は当然、赤穂浪士を知らないんですね。私も歌舞伎の大序、鶴ヶ岡社前の場をはじめて見たときに、なるほどねと思いました。口上人形が出てきて配役を紹介するところから、「とーざいー」「とーざいー」という声が聞こえて、柝の音がはいるにつれて幕がしだいに開いても、ずらりと並んだ役者たちはみんな顔を伏せており、役の名を呼ばれてはじめて少しずつ顔を上げていくのですね。人形に魂がはいった、という設定で人形浄瑠璃の名残です。
『仮名手本忠臣蔵』のネーミングもなかなか凝っていて、四十七士をいろは四十七字にかけて「仮名手本」、当然「手本」というのにも、いろはの書き方を習う手本と武士の手本がかけられています。で、さらに「忠臣大石内蔵助」を縮めて「忠臣蔵」、金持ちの蔵はいくつもあるので、いろはの番号をふっていたことをふまえると、前半の「仮名手本」ともつながります。蔵いっぱいにもなるほど多くの忠臣が出てくるというニュアンスもあるでしょう。強引な説としては、塩谷判官が高師直に斬りかかったとき、後ろから抱き止めたのが加古川本蔵という人、この人こそが本当の忠臣だということを、「本蔵」の間に「忠臣」をはさんで暗示したという説さえあります。

実際に斬りかかったのは浅野内匠頭長矩ですが、芝居では塩冶判官高貞になります。塩冶高貞は実在の人物で、『太平記』には、足利尊氏の執事の高師直が塩冶高貞の奥さんに一目惚れをして、恋文を書こうとしたというエピソードが載っています。レベルの高いラブレターを書きたかったのでしょう、都で最もすぐれた名文家をさがせと命じて、連れて来られたのがなんと吉田兼好。ところが、兼好の書いたものを読みもせず、奥さんは手紙を捨ててしまいます。逆上した高師直の讒言によって塩冶高貞は謀反の疑いをかけられて自害に追い込まれた、ということになっています。芝居では、この話と強引に結びつけて、浅野内匠頭を塩冶高貞にするのですが、「塩冶」は赤穂藩の名産「赤穂の塩」にひっかけていますし、相手側の吉良上野介が高師直になるのは、吉良家が幕府では礼儀作法を教える役目をしており、そういう家を「高家」と呼んでいることとも結びつきます。

実際に起こった事件をそのまま描くと幕政批判と見られかねないので、鎌倉時代などに仮託して描いて、実名を避けたのですね。そのために大石内蔵助も大星由良之助という名前になっています。すぐわかるのですが、一応言い訳にはなります。「織田信長って言うたやろ」と責められたときに、いいえ「小田春永」です。羽柴秀吉か、いいえ真柴久吉です。明智光秀やろ、いいえ武智光秀です。…ばればれです。むかしのインチキ興行で「美空ひばり来る」と看板にあるので見に行ったら「美空いばり」やった、とか「五木ひろし」と思うたら「玉木ひろし」やったとか、「エノケン」と思うたら「エノケソ」やったとかいうのと同じです。榎本健一を略して「エノケン」なのに、「エノケソ」は何の略でしょう。「えのもとけそいち」?

ほかにも加藤清正が佐藤正清になるような、みえみえパターンもありますが、ちょっとわかりにくいのもあります。徳川家康は北条時政になりますし、真田昌幸は佐々木高綱になります。伊達騒動という、仙台藩伊達家で起こったお家騒動があります。悪役とされる原田甲斐を新たな角度から見直したのが山本周五郎の『樅の木は残った』です。読みやすい周五郎作品の中では『ながい坂』と並んで、すらすら読めない作品でした。この原田甲斐が芝居の『伽羅先代萩』では「仁木弾正」となって妖術使いという設定です。仁木氏は高師直が死んだあと、足利家の執事になります。執事はのちの管領につながる役職なので相当の権力を持っています。ところが、大老の酒井雅楽頭は山名宗全、老中の板倉内膳正は細川勝元という名になっています。つまり応仁の乱のころの設定ですが、そのころの仁木氏は見る影もない、しょぼい一族になっているので、仁木弾正というのは架空の人物でしょうね。松永弾正のイメージか、「弾正」という名は悪人っぽいなあ。

2013年3月 1日 (金)

勉強の敵、マンガについて②

※四条烏丸教室Mさんのお母さん、励ましのお言葉ありがとうございます! 「もうやめろ」と生卵を投げつけられないかぎり、ブログ続けます!!

◇◆◇

さて。

前回少年マンガについて熱く語っているうちに私のハートに火が点いてしまいました。

今回は、少女マンガについて熱く語ってもいいでしょうか! いや、ぜひ語らせていただきたい!

ということで、本日は、かつて少女だったすべての方にお送りしたいと思います。趣味が合うかどうかは別にして。

森脇真末味さんというとても絵の上手い少女マンガ家がいらっしゃって、僕の姉がアシスタントをしていたことがあるんです。で、僕が高校生のときに、姉から、自分も手伝った作品が今度『プチフラワー』(だったかな?)に掲載されるから読むように、というお達しがあって、それがたぶん少女マンガの読み始めだったと思います。

少女マンガ全盛といいますか、黄金時代でした。『プチフラワー』とか『ぶ~け』とか。『LaLa』とか『花とゆめ』なんてのもありましたね。『別マ』とかね。今もあるんですか? よく知らないのですが。

森脇さんはほんとうに絵が上手でした。人物のかき分けがすごいんです。タイプのまったく異なるかっこいい(必ずしも美形ではない、美形ではないが男くさくてかっこいい、なんてのもいる)男が何種類も何種類も描けるんですよ。そんな少女マンガ家いないと思うんですけど。顔も、体格も、服装の趣味もかき分けます。そして、そのすべてが登場人物の性格や生い立ちをきちんと反映しています。『ブルームーン』というシリーズでは、顔はそっくりだが性格がまったくちがうイケメンの双子を描き分けていました。表情で描き分けるんです。すごかったなあ。インターネットで森脇ファンの方が、「背の高い男」の体格を、がっちり系、ほっそり系、着やせするけど意外とたくましい系など何種類にもかき分けていた、と激賞されていましたが、まったくそのとおり。とにかくかっこいい男のキャラクターを造型させたら右に出る者がいなかった、もう長くマンガを描いていらっしゃいませんが、少なくともこの点ではいまだに彼女を超える人はいないんじゃないかと思います。話としては結構痛ましいものが多かったですけれど。

実は、姉のツテで、ファンレターを送ったことがあるんです。年賀状をお返事にいただいて感激しました~。キラー・カン※の色紙とならぶ僕の宝物です。

※キラー・カンは辮髪の悪役プロレスラー。得意技はモンゴリアン・チョップ(モンゴル人は辮髪ではなかった気がするが)。ニードロップでアンドレ・ザ・ジャイアントの足を折ったということで有名になった(事実はちょっとちがうらしい)。先輩に、キラー・カンが経営する「スナックカンちゃん」へ連れて行ってもらったことがあり、そこで色紙をもらいました。キラー・カンとならんで写真にうつっているのが自慢。

さて、絵がすごいということでいうと、森脇さんとは全然雰囲気がちがいますが、内田善美さん。主人公の大学生が、生命の宿った日本人形の女の子と暮らす『草迷宮・草空間』、夢のなかで幽霊になる男の話『星の時計のLiddell』である種の頂点をきわめた観がありました。なかなか単行本が出ない! 凝る人だから絵を描きなおしてるんだろうなあ、はやく出ないかなあ、と友だちと話していた覚えがあります。僕は『空の色ににている』という話が好きでした。これは、ぶ~け全盛期のぶ~けコミックスのなかでも白眉だったと思います。観念とか思いとかいったものと物理的な存在とのあいだの、あるいは、ただの物と生命とのあいだのゆらぎを絵とストーリーで表現していくところに、スリリングなおもしろさがあったように思います。

内田つながりで、内田美奈子さん(内田春菊にいくと思われた方もいるかもしれませんが、ちがうんです)。『赤々丸』がおもしろかった! まじめな優等生の生徒会長白井くんが、未来にタイムスリップしてしまう話です。しかし、タイムスリップした白井くんは記憶を失っており、しかもなぜか二人に分裂してしまっています。ひとりは、まじめな白井くんをさらにガチガチにした「白々丸」、もう一人は、うんとワルくなった「赤々丸」です。未来の世界では、宇宙からやって来た、ネコにそっくりの宇宙人であるネコ族の人々が、地球人の差別に耐えかねて反乱を起こします。そのネコ族対地球人の対立に二人がからんでいくという話です。白々丸や赤々丸にからんでくるネコ族のキャラがおもしろくて。昔よくテキストの例文などで「ねこ丸」という名前を使いましたが、実はこの『赤々丸』に、「猫 猫丸」という名前の子が出てくるんですね。そこからとったんです。

もう昔のことなので例によって記憶があいまいですが、高校生から大学の教養課程にかけて他によく読んでたのは、まず小椋冬美さん、それから岩館真理子さん。おお、こんなデリケートな感性の世界があったのか! と粗雑な人間性が売りだった僕はとてもびっくりし、かつ、うっとりしました。男の子でもとっつきやすかったのは、川原泉さんとか松苗あけみさんじゃないですかね。川原泉さんはなかなか異彩をはなっていました。『ゲートボール殺人事件』とか『甲子園の空に笑え!』とか、他の少女マンガとはちがう雰囲気でおもしろかったです。松苗さんは、生き生きとしたキャラがたくさん出てきて、ドタバタしていて、テンポがよくて、ちょっと高橋留美子さんに似ているような気がします。『純情クレイジーフルーツ』とか読んで、女の子ってこんなふうに思うんだね~、わしらとは全然ちがうのう、なんて勉強していました。

少年マンガのテーマが『たたかい』だとしたら、少女マンガの主要テーマはやはり『恋愛』でしょうか。それこそ、川原泉さんなんてあまりそういう要素が強くなかったし、いちがいにそうとは言いきれないものの、ポップスの世界と同じで、やはり定番は『恋愛』ですよね。恋愛マンガの王道だと僕が思っていたのは、なんといっても、くらもちふさこさんであります。とにかくストーリー作りがうまいです。『たたかい』は、どう勝つかが見せ所になりますが、『恋愛』もやはりどう障害を乗りこえるかが見せ所で、もっと言うと、どんな障害を設定するかによっておもしろさが変わります。ロミオとジュリエットであれば、家同士の対立というのが障害でした。

しかし、そんな古風な障害では、現代の若者にはリアリティーがない。多いのは、自分の相手に対する評価(あるいは相手の自分に対する評価)が最も大きな障害になっているというパターンですね。その障害が乗りこえられる、というか、障害でなくなっていく過程がおもしろいです。簡単にいうと、いやなやつだと思っていたら、意外といいところを発見してしまい・・・・・・的なパターンですね。その「発見」をどう見せるか、そこが勝負です。雨の降る公園で捨て猫を抱き上げているのを目撃、なんてのではダメだちゅうことです。

いろいろ変わった障害を設定してくれたのは川原泉さんですね。恋愛というところまでいかないんですが、でもはじめに障害ありきです。たとえば、笑ったり泣いたりするとどこからともなく花が出現してしまう女の子、というのがありました。この突拍子もない設定自体が少女マンガに対するパロディーになっているわけですが(少女マンガの背景って意味もなく花が咲き乱れていることが多かったですからね)、それが物語においてひとつの障害として機能しています。具体的にいうと、その女の子は気味悪がられるのが怖いので、親しい人の前以外笑わないようにしているわけです。それで、彼女の家庭教師をしている大学生の男の子は、自分はきらわれているのではないだろうかと悩み、必死で彼女の前でギャグを連発します。しかし、彼女は決して笑わずむすっとしているわけです。これが障害です。なかなかおもしろそうでしょ?

しかし、少女マンガにおける恋愛モノで僕が個人的にいちばん好きだったのは、王道中の王道でありますが、やはりくらもちふさこさんです。そのなかでも私は『Kiss+πr²』を強く推したい!

どうなんでしょう? やはりくらもちふさこ作品で有名なのは、『いつもポケットにショパン』とか『アンコールが3回』とか『天然コケッコー』とかなんでしょうか。うんうん、たしかにどれもおもしろいね。

しかし、やはり『Kiss+πr²』が僕にとってはいちばんですね。たぶん、僕が男だからでしょうね。というのも、この作品は、主人公が高校生の男の子で、しかも男同士の友情が、少女マンガにはありえないほど上手く描かれているんです。

さあ、あてにならない記憶を頼りにどんな話だったか復元してみましょう。

主人公の男の子は、幼いころに母が家出をしたという過去を持っており、現在はアルバイトをしながらひとりで暮らしています。将来はロックミュージック系のライターになりたいという夢がありますが、クラスのなかでもわりと目立たない、大人しい男子です。自分は基本的に運の悪い人間だと思っていますが、かといってそれを不満に思うのでもなく、ただ淡々と毎日を送っているような、今でいう草食系の男子です。それがひとつ年上の「葵さん」という女の子に好かれたことから運命が変わっていきます。主人公にとって「葵さん」は幸運の女神だったわけですが、その「葵さん」に対する主人公の見方の変わっていくところが、すごく良かった。単に幸運をくれるからというだけではなく惹かれていく、その感じがとてもよく描けていたように思います。

たとえば、「葵さん」の家におよばれしたときに、「葵さん」の家族がみんな主人公にぶしつけなくらい興味しんしんの態度をとりますが、主人公は、戸惑いながらも「葵さんがふだん自分のことをどんなふうに家族に語ってくれているのかわかる」と感じます。また、お好み焼きか何かごちそうになるんですが、「葵さん」のお母さんがこれをつけるとおいしいよと言って出してくれたマヨネーズについても、マヨネーズなんて自分も持っているけどと思いつつ、言われたとおりにマヨネーズをつけて(あれ? ほんとうにすごくおいしくなる)と感じます。そして、「これをつけるとおいしいよ」という、その言葉こそが大きかったんだと気づきます。

人を好きになる過程をこんなにもさりげなくというか遠回しにというかいろんなクッションを利用してつつましく描いているのがすごいなあと。

そして男の友人。ひとりは古くからの友人の「青沼」。高校生なのに、すでに体型は中年で、黒縁の眼鏡をしていて、ゲームが好きなオタクっぽい子です。もう完全にもてない系ですね。もうひとり、新しく友だちになる「ポパイ」。「青沼」とは対照的にわりと美形です。ヘアスタイルもソバージュみたいにしていておしゃれです。ただし、やはりこの人もオタク系です。「怪談オタク」で、すぐに百物語をしたがる子です。男同士の友情にもきちんと嫉妬がうまれることなど、よくわかっていてリアルに描けていたと思います。

卒塾生で興味のある方はぜひ一読してみてください。いま書店で入手できるのかどうかは知りませんが。もし、入手できないがどうしても読みたいという方がいらっしゃればお貸ししますぜ。・・・・・・家捜しすれば見つかるはずなので。

少女マンガについて語ると言いつつ、きわめて偏った話しかしていませんが、どうしても一度『Kiss+πr²』について語りたかったという、実はそれだけだったのです。しかし、いざ語りはじめてみると、意外と細かいところをおぼえておらず・・・・・・うう。

失礼しました。

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気をとりなおして告知します!

入試分析会、やります!!

3月5日~3月8日の4日間連続です!

ぜひぜひお誘い合わせのうえお越しください!

今年もまた、どこの塾にも負けない分析をご用意してお待ちしております!

準備は万端ととのいつつあります!

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